他国の事例からなぜ安倍首相が憲法改正を急ぐのかを類推する

今回は、なぜ安倍首相の先導する憲法改正がダメなのかということを考える。我々は党派性の中にあり、これを冷静に分析することはできない。個人的には嘘つきの安倍首相が大嫌いなので、どうしても「安倍さんが嫌いだから憲法を改正すべきではない」という結論にしたくなってしまう。そこで、日本とは関係のない二つの国の事例を通じて、なぜ権力者が憲法を改正したがるのかについて考えてみたい。

社会主義が失敗したベネズエラの事例

今、ベネズエラで反政府デモが起きている。朝日新聞の記事によると死者は1100人にのぼるそうである。今回のデモはマドゥロ大統領の憲法改正提案について反対している。マドゥロ大統領は憲法を改正して選挙で勝てなくても政権が維持できるようにしようとしているのだ。すでに、議会は機能不全に陥っており、大統領に権限が集中している。大統領はこれをより確実なものにしようとしているのである。

マドゥロ大統領はもともとバスの運転手を経て労働運動に参加し、チャベス政権の副大統領になった左派政治家で、前任のチャベス大統領の反米左派政権を継承した。チャベス大統領はカリスマ性があり、農地を解放し石油の儲けを国民に還元するなどとの政策を実現し、国民に人気があった。

チャベス大統領は何回か憲法を改正し、最終的には自分が生涯大統領になれるようにした。チャベスの社会主義的な政策は富裕者の反発を招いたが、貧困層のほうが数が多かったために民主的に支持されていた。

チャベス大統領の人気はバラマキによって支えられていた。豊富な石油資源を掌握していたのでそれを国民にばらまくことができたのだ。だが、マドゥロ政権の失敗も原油によるものだ。いわゆるバラマキにより人心を掌握しようとしたのだが、原油安により原資が不足した。そこで、物価を統制しつつ紙幣の増刷を行った。この結果、当然ヤミ市場ができてインフレが起こった。今では食料を調達するのに長い列ができるようになり、薬も不足している。このため政情が不安定化しているのだ。

ベネズエラの民主主義はすでに破綻している。ニューズウィークのこの記事によると、外国から資金調達をするために「炭化水素法」という法律が邪魔になったのだが、何をまちがったのか国会そのものを停止してしまったということである。複雑な意見統合ができなくなってしまっており、政策すらまともに立案できなくなっている。外からみると全く意味不明だが本当にこういうことが起きているらしい。

ハフィントンポストの別の記事によると、もともとベネズエラは石油に依存しすぎていたために他の産業が発展しなかった。なんでも外国から買ってくれば良かったので産業が発展しなかったのだそうだ。バラマキ政治のつけは大きかった。

左派というのは、あるストーリーを作って、そのストーリーに従えばみんなが幸せになれるという思想である。うまくいっているときはいいのだが、これが生産性の向上にはつながらない。そしてバラマキできなくなると、そのストーリーが持続できなくなる。そこでストーリーに合わせてルールを変えようとする。マドゥロ政権の場合には、中央銀行を操作して通貨を発行し、憲法を何回も改正して意思決定ルールを変更しようとし、その結果大混乱に陥ったわけだ。

ストーリーにこだわり何でも中央からコントロールしたくなるというのは安倍政権に似ている。つまりベネズエラの例は安倍政権が辿り得るもっとも悪いシナリオとして使えるそうだ。

政権から滑り落ちる恐怖に支配されたトルコの場合

しかしながら、権力の集中が経済成長につながった事例もある。トルコでも憲法改正議論があった。こちらは政権から陥落することを恐れたエルドアン政権が権力の掌握を狙って憲法改正を画策して選挙の結果承認された。が、様子がかなり違っている。

トルコはイスラム教の影響の強い国だが、軍部がイスラム化を嫌い民主主義を擁護するという時代が長く続いた。もともとオスマン帝国からトルコ民族が独立してできた国だが、民族国家を目指したので、世俗主義・トルコ民族資本というのが国是だった。しかしながら国内がまとまらず、ついにIMFに救済されるまでになった。外貨を稼ぐような重工業がないのだそうだ。この国是を牽引してきたのがケマル・アタチュルク以来続く共和人民党である。

トルコでは議会が大統領を選んでいたが、イスラム主義の大統領が出ることを嫌悪した共和人民党が選挙をボイコットしたために大統領が選べなかった。そこで首相のエルドアンが国民による直接投票で大統領を選ぶように制度を変えてしまう。経緯はNHKの解説に詳しい。こちらも憲法が改正され大統領に強い権力が集中するようになった。だがエルドアンは経済改革に成功し、トルコの経済成長を実現した。さらに、シリアやイラクなどの政情不安を抱えており、強い政権が必要だった。

ベネズエラと違い、エルドアンは社会主義者ではない。だが、公正発展党は面白い成り立ちになっている。もともとは社会主義的な政策をとる政党であり、外国からはイスラム主義政党だとみなされているそうだが、自由主義的な中道右派政党を名乗っている。これが自民党に似ている。自民党も中道右派政党だという自己意識を持っているものだと思うが、実際の政策には、国家主導の社会主義的政策を含んでいる。

トルコでは右派の属性であるとされるナショナリズムも利用された。ニューズウィークの記事によると、国内をまとめるためにクルド人という敵を作ったという。

だが、この「敵と味方」を分ける政策は当然ながら反発をうむ。エルドアン大統領は新聞を接収しテレビ局を停波したりしている。この件は安倍政権がNHKに人事介入したり、高市総務大臣がテレビの停波をほのめかしたのに日本でも少しニュースになった。ニューズウィークが伝えるように言論弾圧もありジャーナリストは厳しい立場に置かれている。公務員などに40000人以上の逮捕者が出た。

また権力を掌握するために非常事態宣言も出された。BBCの記事によると新しい憲法には三権分立の仕組みがなく、大統領独裁の危険性があるということだ。エルドアン大統領は2029年まで大統領に止まる可能性があるという。

このことからわかること

この二国の事例からはいくつかのことがわかる。まず、安倍政権と共通の用語がいくつも出てくる。憲法改正、緊急事態条項、中央銀行への介入、マスコミへの介入と恫喝などである。その裏にあるのは民主主義の否定である。具体的には議会の権限を制限することで、行政府への権力強化が行われている。これも安倍政権が議会を軽視し、行政府と立法府の境目を曖昧にしているのとそっくりである。

だが、その帰結はかなり違っている。ベネズエラは明らかに破綻しているが、トルコは経済成長を実現している。つまり、憲法によって行政に権力を集中させることが必ずしも合理化されないということまでは言えない。だが、トルコの場合でも国内に敵対勢力が生まれる。この人たちがこのまま黙っているのか、それとも国外に退避したり、国内で反政府活動を行うようになるのかということはわからない。つまり、混乱は遅れてやってくるだけかもしれない。

中産階級や富裕層は資本主義との接点が多いので、親米・親ヨーロッパ型の民主主義を望むのだが、大衆はこうした考え方を理解しない。ベネズエラの場合には社会主義勢力が、トルコの場合にはイスラム教の勢力の考え方の方が理解しやすいのだろう。このことから類推すると、日本で自民党を応援している人たちも、都市型の中産階級や富裕層ではなく、こうした大衆的な類型の人たちであるということが推測される。

この層の人たちは、自分たちで話し合って問題解決するよりも、強いリーダーが何かを簡単に変えてくれることを望むのだろう。安倍政権が出てきた裏にはこうした人たちが増えているということを意味しているのではないかと考えられる。

結局、独裁志向の憲法改正は是なのか否なのか

自民党が大衆が支援する開発独裁型の政権だ。憲法改正の裏には開発独裁の行き詰まりがあるのだろう。これが顕在化したのが民主党政権への政権交代だ。この政権交代の防止が憲法改正の真の動機なのではないだろうか。

日本の場合に石油に当たる資産は土地なのだろう。土地バブルが弾けたのが、石油価格の下落と同じ効果を生んでいる。面白いことに日本の政治課題はほとんど土地の取り扱いを巡るものだ。土地の値段が上がると持っている人は自動的に豊かになれるので、面倒な理屈が必要な経済成長を達成しなくてもよいのである。日本の政治課題はほとんどすべて土地の問題が付随しているのは例外ではない。例を挙げると、加計学園、瑞穂の国記念小学院、築地の移転問題、広尾の病院問題などがある。国有や都有の土地を誰に優先的にばらまくかということが問題の根元になっている。

そのためには市場をコントロールしたり、土地の使い方を勝手に決めることができる権力が必要なので、民主主義を制限し「公」という概念を使って土地や私有財産の接収ができるようにしたいのだろう。つまり、安倍首相は憲法を改正して、土地を占有するのが目的なのだと言える。

だが、違いもある。ベネズエラと違ってある程度産業が発達している。トルコも問題の根元には外貨を稼いでくれるような重化学工業が発展していないという事情がある。こうした産業を発展させるためには、国による集中的なインフラ整備が必要だ。日本は必要な時期に独裁的な政権がインフラ整備を担ったので、現在のように反映しているのだと考えることもできる。

ここで考えなければならないのは2点であろう。日本は開発独裁政権を経て今のようなサービス産業型の国になった。こうした国では分散型の国家運営が望ましいように思える。例えばIT産業などはまとまった投資が必要ではなく、代わりに開発者一人ひとりの自由な発想と柔軟な産業変化が求められるからである。

もう一つは現在の日本は民主的な憲法の制限のしたで成し遂げられてきたということである。つまり、現行憲法下でも十分にインフラ投資ができていたのだから、ことさら独裁化が進む裏には政党の行き詰まりがあるものと考える方が自然である。

次世代のビジョンがないことが今の行き詰まりを生んでいる

このように憲法改正を産業発展の視点から見るとちょっと違った物語が見えてくる。日本の場合、世界経済から重工業型からの脱却を強制されているのだが、次のビジョンが見つからないために、権力を集中してより強くなるという間違った答えを導き出そうとしているのではないだろうか。さらに、民進党に至っては自分たちがどのような政権を目指すのかということすらまとめれないでいる。つまり、この二つの動きは「次の世代に進めない」という意味で同根と言えるだろう。

日本人は重工業で得た資金を使って国内の土地の値段をあげ、それを政治家が分け合うという成功体験があるので、なかなかそこから脱却できないのかもしれない。が、経済が発展しすぎたために、重工業だけでそれを支えるのはもはや不可能だ。かといって次世代の産業も育っておらず、過渡期にあると言える。

つまり、自民党は開発独裁の強化を狙っているのだから、この線で議論すると間違った議論に乗りかねない。重工業だけを強化しても中国と競争することにしかならないからである。

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民進党は整形依存の人に似ているなと思った話

民進党の蓮舫代表が退任した裏で「誰も幹事長人事を受けないように」と電話をかけて回った人がいたという話を聞いた。なんか最低だなと思った。人が困難にぶつかった時に取りうる態度には二つあると思う。一つはだからダメなんだとダメなところを探して責任者を引き摺り下ろすという態度で、もう一つはじゃあ自分は何ができるのだろうかと考える態度である。民進党には明らかに前者の人がたくさんいて、いつも他人の否定ばかりしている。このような政治家に国を任せることなどできるはずもないので、民進党は解党すべきだろう。

しかし「だから民進党はダメなんだ」と書いたところで、それは自明のことなのでさほど面白い文章は書けそうにない。民進党がダメなことは分かっているし、多分これがよくなるということもないだろう。だからここで文章が終わってしまう。

ちょっと思いなおして、困難にぶつかった時には自分がどのように貢献できるのかということを考えてみようという文章を書こうと思った。これを組織文化にすれば、建設的な組織が作れるだろう。だが、これも道徳話めいていて、きらいではないがたいして面白い話にはならないに違いない。そもそも民進党の人がこれを読むとも思えないし、政治好きな人たちも、政治にあれこれ注文をつけるのが好きなだけだから、民進党がよくなってもそれほど喜ばないのではないかと思うのだ。

が、いろいろ考えを巡らせているうちに、なぜ民進党はずっと新しい代表を探し続けているのかということを考えこんでしまった。

自分がどうしたら組織に貢献できるかということを考えられないというのは、そもそも貢献する気がないということに起因するとは思うのだが、それとは別に貢献できるものがないと考えているのかも知れないと思った。民進党は自分にないものを数えることばかりをしている政党といえる。民進党が「ない」と考えているのは、その自民党性である。民進党は自民党になりたい政党なのだ。

日本人は長い自民党支配を通じて、政権政党といえば自民党だという思い込みを抱えてきた。例えば小池百合子東京都知事が選ばれたのは、彼女が自民党を経験しているからである。同じように初期の民主党の人たちの中には、鳩山由紀夫さんや小沢一郎議員のように自民党の人たちがいた。

彼らは野球に例えると巨人軍の選手である。野球では長い間巨人軍の選手だけが正統な選手であり、あとは二流だった。今でも球団のない地域は巨人軍のファンが多い。政治では同じようなことが続いているのだろう。が、自民党経験のない人たちは絶対に自民党にはなれない。なぜならば、彼らは自民党に所属したことがないからだ。ゆえに努力のしようがない。共産党との共闘が常に問題になるのも共産党が「自民党からもっとも離れた政党」だからではないだろうか。対立軸を作ろうとすると共産党と共闘することになるのだが、自民党性を求めるとそこから離れなければならない。つまり、共産党と共闘すると自民党になれなくなってしまうと考えているわけだ。が冷静に考えると、もともと自民党ではないので自民党にはなれない。

が、それでは対立軸が生まれず、野党としての存在感がでないので自民党を基準にして「自民党でないもの」を求める人たちがいる。自民党は競争社会の開発独裁型の政治であり、それとは違う軸というと包摂社会型の政治になる。日本ではこういう人たちをリベラルと呼んでいる。

実は民進党の性格とは「自民党からどのような距離をとるか」によって決まるのだが、何の成果もあげないので、自民党的な性格を求めてみたり、逆にそこから距離をとってみたりするのだろう。

蓮舫代表は多様性の象徴であり、非自民的なお化粧だった。が、それを支える野田さんは「自民党的な」政治家だったといえる。これは有権者は非自民党的なものをもとめるが、中にいる人たちは巨人軍になりたがっていたというようなことなのだろう。今度の代表選挙は枝野さんと前原さんの戦いだと言われているそうだが、枝野さんがリベラル系の支持を集めており、前原さんが自民党的になりたい人たちの支持を集めていると言われているそうだ。

だが、よく考えてみると不思議な点が二つある。一つは自民党出身の人たちはすべて追い出されてしまい、今では「なんとなく自民党みたいだが自民党になりきれなかった人たち」しか残っていないという点である。彼らがいくら頑張っても目的は自民党になることなのだから、何かを達成することはなさそうだ。そもそも自民党ではないので、絶対に自民党にはなれない。もう一つはこの揺らぎは完全に内部事情であって有権者には全く関係がないということである。

ここから生まれてくる本当の疑問は、民進党は何をやりたい政党なのかということと、どういうキャラクターの政党なのかということだろう。政党を政策で選ぶ人はそれほど多くなさそうだが、それでも政策で選択している人たちはいる。が、いくら見つめてみてもさっぱり中身が見えてこない。歴代の民主党系の首相経験者はこれを「マニフェストをまとめきれなかったトラウマだろう」と言っているようだが、もともとマニフェストもお化粧のようなものであり、本当にやりたいことだったのかということも、実はよくわからない。

それよりも深刻なのはキャラがさっぱり見えてこないということだ。もてたいと思っていろいろ化粧をしているが元の顔を無視したために全く素顔が思い出せないという状態に似ているし、もっと深刻に捉えれば顔を整形でいじっているうちに、表情が消えて元の顔がわからなくなった状態だとも言えるだろう。

本来ならば「元の顔を思い出して」と言ってあげたいところだが、もうそれは無理そうなので、いったん解党して本当に合意できる人たちだけで政策集団を作ったほうが良いと思う。それも無理なら「この人とは一緒に働いてもいいなあ」くらいの人たちでお友達集団を作ってもよいのではないだろうか。あとは選挙で選び直しが行われるだろう。

なんとなく嫌だなと思う人もいるかもしれないが、これも野球の状況に似ている。もともとパシフィックリーグは「二流のリーグ」のような扱いをされていた。巨人軍になりたかった人たちなのである。がある時、地元密着型に変えたところ支持が広がった。セントラルリーグの球団も巨人軍の対戦相手のような位置付けだったが、広島のように市民球団という特質を生かして成功した事例がある。このように「どうやったら巨人になれるか」を考えるより、今いる場所で何ができるかを考えたほうが幸せになれるのではないかと思うのだ。

自民党もこれと言ってやりたいことがない集団だ。この与野党の状況を見ていると日本人は闘争は好きだが、その目的について考えるのは苦手なのだなということが嫌になる程よくわかる。が、個人の生き方にヒントをもらうとしたら、たとえ躓いたとしても「自分が持っているもので何ができるか」を考えて協力し合ったほうが、より幸せになれるということではないかと思う。

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安倍首相はなぜ存在自体が虚偽なのか

元々のタイトルは「ストーリーに夢中になる人たちとそうでない人たちとの違い」とするつもりだったのだが、政治の状況があまりにもひどいのでタイトルを変えた。ということで、この文章には2つの軸がある。

今回は安倍首相がなぜ存在自体が虚偽なのかということについて書く。発言ではなく存在が虚偽なので、一つひとつの虚偽答弁について議論しても時間の無駄である。そもそも、安倍首相とその一派はもともと我々とは違う概念で「真実」を捉えている。一般常識が通じないので、一般の言葉で語りかけてもあまり意味がないのだ。

これまで、日本人についていくつかの「発見」をしてきた。まず日本人は集団性が高く競争好きだ。そして、日本人は集団でストーリーを作り、それを競い合っている。ストーリーにあったものだけが事実として採用され、それ以外は棄却されるという競争である。

これまで主語を日本人としたきたのだが、ある記事を読んでこれが間違っている可能性があると思った。クリエイティブな人たちは同時にいくつかの視覚情報を処理しているが、そうでない人は一度に一つの情報しか処理できないのだという。ライフハッカーのこの記事は経験への開放性という概念でクリエイティビティについて説明している。

経験への開放型が高い人は目の前にある事象に対していくつもの情報を同時に受け取るのだが、そうでない人は一つのことに集中して、それ以外のことが見えなくなる。つまり、知覚の段階から情報処理のやり方が違うのだ。こういう人たたちを非注意性盲目と呼んでいる。注意していない側の事象にが見えないというような意味なのだろう。

もちろん、ここでは個人の話をしているので、これがどう集団に展開するかはわからない。だが、このように自分たちが着目する以外の事実を棄却してしまっている集団はそれほど珍しくない。

例えば稲田元防衛大臣が<活躍>していた雑誌『正論』などでは、日本皇軍は悪くなくしたがって犯罪行為などを行うはずはないという前提に立って、南京大虐殺はなかったなどと言っていた。こうした類の結論を導き出すために「弁護活動」を展開している人たちはたくさんいて、稲田さんもそのうちの一人だったのだろう。南京大虐殺や慰安婦問題については資料がたくさんあり、中国や韓国の言い分が誇張されたものであったとしても、元になる事実は多少なりともあったのだろう。が、ネトウヨ系の論者にかかると、そうしたことはすべてなかったことになってしまう。なぜならば相手が嘘をついているからである。

彼らはつまるところ、日本はかつて五大工業国として反映していたのだから、戦前の体制に戻ればすべてうまく行くと主張している。それ以外の可能性ももちろん考えられるわけだが、そうした可能性はすべて排除されてしまうのである。

今思い起こすと、こうした論の建て方は、現在の稲田元防衛大臣の「自己防衛」の論の建て方や、安倍首相の加計学園をめぐる言い訳の仕方とほとんど一緒である。つまり、弁護するべき立場があり、そのために選択的に事実を採用し、都合の悪いものはなかったと言い切ってしまう。が、事実は彼らの頭の中に確実に存在するのであって、それ以外の事実を持ち出す人たちはすべて「虚偽」なのだ。

が、立場を変えてみると、多くの人たちが採用する類推こそが「事実」であり、彼らの言っていることの方が虚偽という可能性もある。これは、受手の側も実は個別の事実については話しておらず、事実を刈り込んで物語を作っているということを意味する。すると、それ以外のことは見えなくなってしまうのである。つまり、集合体としての事実があり、これを事実と呼んでいて、それに合わないものが「虚偽」なのだ。

日本人がすべて非注意性盲目だとはとても思えないのだが、集団的には事実の刈り込みを通じて非注意性盲目の状態に陥っていることがわかる。

事実が集合的なものであるかそれとも個別の事象なのかということはマスコミに対する態度をみるとわかるように思える。ある人たちは複数の事象を組み合わせて、より多くの事象が説明できそうなものを事実として採用する。しかし、中には「マスゴミ」批判を展開する人たちがいる。民主党政権時代ネトウヨの人たちは「マスコミは嘘ばかりつく」と批判してきた。安倍政権が復活するとNHKに人事介入したこともあり、反対側の人たちからマスゴミ批判が起こった。さらに、世論が安倍政権叩きに傾くと再びネトウヨ側が「マスコミはおかしい」と言い出すようになった。実際にはマスコミ(特にテレビ)は一貫して誰からも非難されないようにおずおずと複数ソースの主張を並べているだけなので、こうした変化が起こるはずはない。となると見ている側の意識が違ってきているのだろうと類推できる。

政治の世界では、「多数派の考えるストーリー」が正義だということになるだろうから、安倍首相たちは、答弁ではなく存在自体が虚偽ということになってしまうだろう。だから、国会で安倍首相の虚偽答弁について責めても実はあまり意味がない。意味があるのは、彼らの説明態度だ。安倍政権が説明を求められれば求められるほど、扱える事実が少なくなって行き、いろいろなことろから彼らの考えるのとは違う事実が出てくる。こうなると誰も安倍晋三さんのいうことを信用する人はいなくなる。こうして存在自体が虚偽になってしまうのである。

いったん存在自体が虚偽とされると人々は虚偽との距離をとりはじめる。小池百合子東京都知事は裏では安倍首相らとつながりながら表面上は改革勢力だなどと主張していたし、横浜市長選挙の林候補が安倍首相との距離を置いて民進党の山尾志桜里議員などとの連携を強調している。この間、安倍首相の態度や政策が180度変わったわけではない。多分「大勢から支持されている」ということを最大の評価項目にしている有権者が選挙の結果を動かしているのだろう。

日本人がなぜこうした態度をとるのかはわからない。アメリカではトランプ大統領が同じようなことをしてCNNやニューヨークタイムズを「フェイク(虚偽)」扱いしているのだが、マスコミ側はストーリーを作って対抗するわけではなく、それぞれがファクト(事実)のチェックを行っている。日本人が集合体を見るのに比べて、アメリカ人は個別事情二着目する。よく言われることだが、前者が森を見ている時に、後者は木の一本一本に着目していると言えるだろう。

ストーリーを決め込む態度には大きなデメリットがある。新しい発見ができないのである。今回の話を「虚偽」ではなく、経験への開放性から始めた理由はそこにある。日本人にとって「虚偽」とは、単に少数派が考える集合的な事実のことだ。数の問題なのだから、取り立てて論評することはない。が、こうした態度は実は情報の刈り込みによって新しい可能性に対して盲目になっている。これは「成長」を捨てているのと同じことだ。

なぜならばもはや開発途上国ではない日本には模倣して近くべき社会モデルは存在しないからである。

先進国は新しい探索を通じて経済成長を実現している。例えばライフハッカーにはクリエイティブなりたい人のための読み物が多数掲載されている。「クリエイティブであり続けるための17の方法」などという記事もある。これはクリエイティブであることに経済的価値があるからだろう。

しかし、日本でクリエイティブであることは必ずしも喜ばしいことではない。画家や音楽家などは不確実な職業なので公務員にでもなって趣味でやるべきだなどという声を聞くこともあるし、会社で新しいことをやろうとすると「保障はあるのか」といって潰されてしまう。日本は社会としては新しい経験について開放性がないということがわかる。

政治家が嘘つき呼ばわりされるのは別に構わないと思う。が、経験への開放性のなさは明らかに日本を困窮へと向かわせているのではないかと考えられる。

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自衛隊の南スーダン派遣をめぐる三つのストーリー

ここに3つのストーリーがある。多分どれもいくばくかの本当と本当ではないことを含んでいるのだろうが、受け取る人はお好みのストーリーを見つけて、違う主張を繰り返す人たちを罵倒すればいいのではないだろうか。

ストーリー1 永田町・官邸

中国は野蛮でバカな国だ。でも、国際社会では中国の存在感は増すばかりである。これも日本が敗戦国であり国連の常任理事国になれないからだ。アフリカに貢献するところを見せれば常任理事国入りのキャンペーンに有利かもしれない。とはいえ、自分で国会を説得する力量はない。幸いなことに民主党政権時代に決まった南スーダンへのPKO派遣があるのでこれを利用してやろう。そのためには憲法の縛りが邪魔だ。頭のいいやつに理屈を考えさせて、憲法を無視して駆けつけ警護ができるようにした。こうなるとPKO参加国と同等な活動ができるので、みんなから尊敬してもらえるかもしれない。

だが、南スーダンの事情は悪化するばかりだ。政府軍と反政府軍がお互いに略奪を繰り返すなど、わけがわからない。でもここで逃げ出してしまえば国際社会から非難されるだろう。今検討している駆けつけ警護も否定されかねない。(安全保障関連法は、衆院で2016年7月16日、参院では同9月19日にそれぞれ本会議採決された。

 安全保障関連法は、衆院で昨年七月十六日、参院では同九月十九日にそれぞれ本会議採決された。

当時の党派名で採決時の対応をみると、衆院では、民主の大半と維新、共産、社民の野党四党が、違憲の疑いがある法案の採決そのものに抗議して退席。生活は欠席した。野党では次世代だけが賛成した。(東京新聞

民進党の蓮舫や社民党の福島みたいなバカな女どもがキーキーと反対している。だから女は嫌なんだ。感情的にキーキー叫ぶ。俺は世界から尊敬してもらいたい。これまで力強いリーダーという印象を時間をかけて作ってきたのだ。そのために金も惜しまなかった。これは俺のロマンの問題だ。

いずれにせよ、南スーダンは安全ということにしておかねばならない。国民はバカだから南スーダン事情なんかに興味を持たないだろう。だが、現場の隊員からは悲鳴のような日報が届く。自分の頭で考えられない稲田は「どうしましょう」と泣きついてくるばかりだ。俺は知らない。現場でうまくやればいいんだ。俺は忙しいんだ。だから、この件については報告をされていないことにすることにした。知らないふりをしよう。南スーダンはうまくいっているのだ。

法案は通った。あとは俺のやりたい放題だ。実績は作ったし、南スーダンで何かあったら大変なことになる。成果があったことにして逃げ出してしまおう。国民にはこう報告しよう。

「南スーダンの国造りが新たな段階を迎える中、自衛隊が担当している首都ジュバでの施設整備は一定の区切りを付けることができると判断した」(時事通信

でも逃げ出したことは確かだ。そもそも偉大な日本のリーダーになるという俺のロマンに協力しない野党が悪いのだが、存在感は保たなければならない。ここは金で解決しよう。

アメリカ6カ国の飢饉(ききん)対策として、総額2600万ドル(約29億9000万円)の緊急無償資金協力を決定した。南スーダンの国連平和維持活動(PKO)からの撤収を決めたことで、今後は日本が本格関与するPKOはなくなる。安倍政権の「積極的平和主義」をどう具体化するか、腐心している。(毎日新聞

ストーリー2 市ヶ谷

私は有能な防衛大臣だ。統合幕僚本部は協力的だが、現場の陸上自衛隊は筋肉バカの集まりである。そのバカが「現場では戦闘が起こっている」と泣きついてくる。わかってんのバカ?戦闘行為に関わったなんてことになったら、私のメンツが丸つぶれじゃないか。憲法違反なのよ。そんなことはあってはいけないの。

そうだ、なかったことにしよう。何か目の前で言っているは。「ああ、私には意味はわからない」。耳を塞いでしまおう。こんな時は何を考えればいいのかしら。心の中で歌でも歌えばいいのかな。ああ、通り過ぎた。

 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の部隊が作成した日報が、「廃棄した」とされた後に陸自内で見つかった問題で、2月中旬にこの問題の対応を協議した防衛省内の幹部会議の数日前にも、陸自側から稲田朋美防衛相に陸自内の電子データの存在が報告されていた可能性があることが分かった。(ハフィントンポスト)

これで、問題はなかったことになる。あとで、陸上自衛隊が何か言ってきたら、彼らが隠したことにして、陸上自衛隊の幹部に責任を押し付けて詰め腹を切らせよう。そうすればうまく行くわ。私の活躍で陸上自衛隊が隠蔽したのを暴いたの。いろいろ入ってくる人は批判するけど状況を知らないのよ。

 稲田朋美防衛相は25日午前の参院予算委員会閉会中審査で、南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報問題について「様々ご批判はあるが、(防衛省・自衛隊の)シビリアンコントロールは効いている。統制は効いている」と述べた。(朝日新聞

私がいなかったら文民統制は果たされなかったんだわ。私は偉大な仕事を全うして、後任に防衛大臣の仕事を譲ってあげるの。今後は党の立場から国民に貢献するの。記者が何か騒いでいるわ。私には意味がわからない。だって、私は素晴らしい防衛大臣なんだもん。これからも日本のために活躍するんだもん。「あんな人たち」に邪魔されるわけにはいかない。だって私は素晴らしい政治家なんだから。

稲田大臣は結局「事務次官までで情報が止まっていた」と記者会見したが、自身の隠蔽への関与は認めなかった。管理ができていなかったことだけを理由に内閣改造の前に辞任した。

ストーリー3 南スーダン

2016年7月にジュバで中国人が2名殺された。難民キャンプの警護に当たっていた装甲車に砲弾が当たったのだ。南スーダンでは売るに売れない石油が豊富にある。この石油と武器が交換されているらしい。

このままではやられるのだが、多国籍軍のために指揮命令系統がはっきりしない。その上、内戦になってしまうと国連のPKO活動自体が成り立たなくなってしまうために、下手に政府軍や反政府軍に手出しができない。

そんな中で生命の危機を感じた現場の隊員はすがるような気持ちであえて日報に戦闘状態という文字を書き、撤退も示唆した。

防衛省は七日、当初は廃棄したと説明していた陸上自衛隊の南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報を一部黒塗りで開示した。日報は、陸自が活動する首都ジュバ市内で昨年七月に大統領派と反政府勢力の「戦闘が生起した」と明記し、「市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」と報告。現地部隊は戦闘の激化を深刻に受け止め、PKO停止の可能性にも言及していた。(東京新聞

戦闘状態になればPKOを派遣する根拠が崩れるので、政治家が大騒ぎすることはわかっている。でも目の前で起きている惨状を目の当たりにすれば、もうそんなことは言っていられない。

12月になっても状況は変わらない。アメリカの主導で武器の流入を少しでも食い止めようという話があったが、日本は採決を棄権した。いったい何を考えているんだ。本当に南スーダンの状況がわかっているのか?

国連安全保障理事会は23日午前、南スーダンへの武器禁輸決議案を否決した。米欧は民族間の対立が虐殺や戦闘激化につながる可能性があるとして、武器の流入を食い止める武器禁輸を実施したい構えだったが、日本など8カ国が棄権に回り、必要な得票数に届かなかった。日本は国連平和維持活動(PKO)で現地に展開する自衛隊への影響回避を優先した。

安保理では全15カ国のうち9カ国以上が賛成し、中ロを含む常任理事国5カ国が拒否権を行使しなかった場合に決議が採択される。今回は反対票はなかったものの、中ロのほか、非常任理事国でも日本やマレーシア、セネガルなどが棄権した。米国のサマンサ・パワー国連大使は採決後、棄権した理事国を「歴史が厳しい判断を下すだろう」と非難した。(日経新聞)

陸上自衛隊の幹部は状況をわかっていたが、統合幕僚監部と大臣に対して戦ってはくれなかった。それどころか、陸上自衛隊だけが情報を隠蔽したことになり、陸上自衛隊の幹部だけが更迭されそうになっている。命を張った上にメンツを潰されて、詰め腹を切らされたのだ。仲間の名誉は踏みにじられた。我々の名誉は踏みにじられてしまったのである。これを許すわけにはいかない。仲間の名誉はなんとしてでも俺たちが守らねばならない。危険を冒したのは俺たちなのだから。

南スーダン国連平和維持活動(PKO)派遣部隊の日報を陸上自衛隊が廃棄したと説明しながら保管していた問題で、防衛省は特別防衛監察の結果を28日に公表する方向で調整に入った。(時事通信

日報の問題を巡っては、組織的な隠蔽があったかなどを調べる特別防衛監察の結果が28日にも公表されます。防衛省の事務方トップである黒江次官と陸上自衛隊トップの岡部陸上幕僚長はこの問題の責任を取って、ともに辞任する意向を固めました。(テレビ朝日

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加計学園問題の本質とは何か

連日、加計学園問題について考えている。世間の関心は安倍首相の関与の有無だと思うのだが、これは決着しないだろう。安倍首相は最初から嘘をつくつもりでおり、表面的にはその嘘のシナリオに従って形式を整えているからだ。そこで、視点を変えてみたい。ここに登場するほとんどすべての人がとても格好が悪い野はなぜだろうということである。見え見えの嘘をついて国会で追求される安倍首相はとても格好が悪い。でも安倍首相には嘘をつかなければならない事情がある。

安倍首相が嘘をつかざるを得ない理由

安倍首相が嘘をつかなければならない理由は簡単だ。彼には首相としての力量がない。経済を活性化させることができなかったし、憲法を改正するために支持政党をまとめる力もない。できることと言えばお友達を優遇するということだけだが、彼が配っているのは国民の財産であり、彼の財産ではない。かといって、自分の評判を犠牲にしてでもお友達を優遇するという根性はない。批判されると嫌だからだ。だから、嘘をついて表面上は民主主義的なルールが守られているように細工した上で、お友達を優遇せざるを得なかったのだ。

安倍さんの問題の本質は、彼には何の才能もないという現実に向き合えないということだろう。さらに、憲法を改正したいという意欲はあるが、なぜ変えたいかということを自分の頭でまとめるだけの知的能力はない。だから、変えたい憲法の条文がコロコロ変わるし、思いつきで言ったことは周りからすぐに突っ込まれる。政治家としての芯はないので尊敬されることはないだろうが、安倍首相はそれを認めることができない。

やる気を失った官僚たち

安倍政権のデタラメな説明にお付き合いして都合良く記憶をなくす人が出世し、実力があっても頑張りがみとめられなくなってしまった。が、彼らもこんなことをするために完了になった訳ではないだろう。このことが士気に影響していることは想像に難くない。

が、もともと官僚たちは自分では何も決められなかった。自分たちよりも馬鹿な国会議員に使われる立場であり、実際にそのように接してきた。実は立場の違いであり身分の差ではないのだが、あたかも身分差のように感じていたのだろう。自分たちの方が賢いのにという自負心がありながらも、国会議員に従わざるを得ない。だからこそ「実質的には俺たちが日本を動かしているのだ」という虚栄にすがるしかなかった。

だが、それも怪しくなってきている。日本はこの数十年衰退に向かっていて、彼らのやってきたことは何の成果も上げていない。あげくの果てに分けのわからないぽっと出の政権から「二位じゃだめか」と問いつめられたり「嘘をついたら出世させてやる」などと言われている。彼らもまた欺瞞の中を生きているのだが、残酷なのは頭が良い分それがわかってしまっているという点だろう。

実力のない加計学園

実は加計学園に実力があれば、国を挙げての騒ぎにはなっていなかっただろう。加計理事長は表に出て来れなくなってしまった。本拠地の岡山理科大学は二流とはいえ、いわゆるFランク大学というわけではなさそうである。しかし、それだけではやってゆけない。少子化の時代に生き残れないので、高校に行けないような子供を集めて形ばかりの大学に入れてやるということをやっているようだ。このため業を煮やした文部科学省からBe動詞を教えるのは大学の授業ではありませんと指導を受けている。千葉科学大学も世界の最先端で活躍する危機管理人材を育成するという名目で作られた大学だ。

千葉科学大危機管理学部のシラバスを見ると、「英語I」ではbe動詞や一般動詞過去形など「英 文法の基礎を確認した上で、英語で書かれた文章を読み解くトレーニングを行う」、「基礎数学」では分数表現や不等式、比例・反比例など、中学で学習する内 容が授業計画として記されている。(ライブドア/J-CASTニュース

嘘をついているのだが、もし実力があり優秀な生徒が集められるなら、こんなことを言われる必要はなかったのである。加計学園も実は自分の実力とやりたいことの間にギャップがある。がそれを埋める努力はしないで、安倍首相とゴルフをしたり、萩生田さんを教授として雇ったりという見当違いの努力をしている。

止まらない地方の衰退と取り残される今治市

今治市は土地の値上がりを当て込んで山を切り崩した。だが、結局道路網は完成せず、バブルも崩壊した。今治に興味を持ってくれる企業はなく、補助金目当ての大学だけがすり寄ってきて、土地を無償提供した上で開学費用も負担してくれと言っている。設計図も出してくれないし、相場より高い坪単価でなければ学校は作れないと言っている。明らかに詐欺だ。しかし、それを断る訳には行かない。もう数十年も「加計ありき」で来ているから降りる訳にはいかないのだ。

こうした地方の苦悩を国会でぶつけたのが加戸元愛媛県知事だ。手持ちのカードがしょぼいので文部科学省から全く相手にされてこなかったのだが、それでは、愛媛県が有望な企業や学校からは相手にされないという現実を認めなければならなくなってしまう。本当は霞ヶ関で出世したかったのかもしれないが、そこでうまく行かなかったから都落ちして県知事になったのかもしれない。

いつか俺を否定した霞ヶ関を見返して、愛媛県に世界をあっと驚かせるような研究拠点を作るのだ!

だから裏門からでも今の計画を実現しなければと考えてしまったのだろう。

加戸元愛媛県知事の頭の中には、アメリカにも負けない最先端の研究が今治で行われ、畜産の危機を今治の大学が救うという壮大な計画があるのだろう。そのために市の財産を差し出すというのはとてもうるわしい構図だ。「あのとき決断してよかった」と未来永劫たたえられるに違いない。

しかしやってくる大学は「仮面浪人してでもいいから来てください」などと言っている。嘘はわかっている。でも認められない。今治市役所にはマスコミがやってきて「官邸では誰にあったのですか」と連日聞いてくる。面と向かって嘘ついてるんですよねと言ってくれた方がどれだけ楽かもしれない。お金がなく発展からも取り残されようとしているというのはどれだけ惨めなことだろうか。でも、その現実を変えることはできない。できるのは自分をだますことだけなのである。

政策が作れない野党

一方、野党の方も手詰まりになっている。そもそも政策コンペに勝てるなら、安倍首相の嘘を証明するなどという面倒なことをやる必要はない。にも関わらず、この問題だけに一生懸命になるのは、他に決め手がないからだ。民進党の支持母体である連合は自民党と取引しようとして失敗したし、民進党自身も「執行部がグダグダしているなら離党もありうる」などと言っている。支持が集まらない民進党内部で相当の動揺が起きているようだ。

そもそも政権についておいしい思いをしたいというだけで集まってきた政党なので、長年政権につけないと求心力がなくなってしまうのである。桜井議員は質疑のときに山本担当大臣に「出て行けよ」と声を荒らげていた。が、そのいらだちは実は自身の所属する政党にも向かっている。産經新聞は次のように伝える。

桜井氏は発言後に両院懇を中座し、「都議選の総括文書を読む限り、全然反省は見えない」と記者団に対しても執行部批判を繰り返した。「(離党を含めて)仲間とこれからいろいろ考えたい」とも語った。(産経新聞

決められない国日本の進路

さて、色々と書いてきたが、結局問題はどこにあるのだろうか。ここにいる人たちはすべて何らかのアンビバレントな状況を抱えている。その現実に向き合えないために、相手をののしったり、嘘をつかざるを得ない。この揺れ動く心情の裏には実は決められない日本があるのではないだろうか。何かを決めて一生懸命にやれば失敗もするだろうが、少なくともやっただけの満足感は得られるだろう。結局何もしないからいつまでもうだうだとしていなければならないのである。

が、道がわからないから決められないという訳ではない。日本にはいくつかの選択肢がある。みんなを満足させることはできないし、誰かが変わる必要がある。が、確実な道は一つもない。変わるというのは怖いことだ。でも何もしないというのも十分に怖いことなのではないだろうか。すべてではないかもしれないが例を挙げる。

  1. 心を入れ替えて公平な市場主義と民主主義が支配する法治国家を作る。誰もが実力に沿った活躍ができるようになるだろう。だが、あらかじめ結論が決まっているわけではないので、国民一人ひとりが事実をありのままに受け入れ、リスクを管理する必要がある。今回の件では文部科学省は学校の監督から手を引く。当然、途中でつぶれる学校も出てくるかもしれないし、卒業しても資格が取れないかもしれない。が、すべて自己責任だ。政府が関与しなくなれば、安倍首相がお友達だけを優遇するということはできなくなるだろうし、加計学園のような実力の足りない学校は淘汰されるだろう。
  2. 日本人の心情にあった競争的な開発独裁型の政治に回帰する。それでも力強さが足りないと感じるなら、戦時経済にまで回帰する。1940年体制と呼ばれる戦時体制は日本人が大好きな集団での闘争に専念できる体制だ。労働者は死ぬまで働き、擦り切れて死んだら靖国神社に祀られ、銃後の備えのために年金があるというような社会だ。競争の目的を考えずにすきなだけ競争に耽溺できる。
  3. 競争を諦めて包摂的な社会へと移行する。日本のリベラルという人たちが言っているのは実は何かからの開放ではなく、日本を包摂型の社会に変えることなので、リベラルの人たちが言っているような社会になるだろう。実はこの障害になっているのはリベラルの人たちそのものだ。彼らは安倍首相を妥当するための競争に夢中になっていて、右翼の多様な価値観を認めない。実は競争的で画一的という意味では右と左にはそれほど違いがない。日本はそれほど、多様性の需要が苦手で、好戦的なのである。多分、リベラルの人は、リベラル警察のような存在になるだろう。包摂社会になると闘争する目標がなくなってしまうからだ。
  4. 縮小する現状を受け止めて、地方を犠牲にして都市に政治的なリソースを集中させて国を成長させてくれそうな産業を構築する。いわゆる「トリクルダウン」の一種だが、今まで成功した試しがないのでこれを信じさせるためにはかなりの努力が必要になるだろう。トリクルダウンが成功しないのは、実はお金のある企業の人たちも「自分たちが没落したら誰も助けてくれないだろう」という潜在的な不安を持っているからだろう。この不安を取り除くのはとても難しいのではないかと思う。

繰り返しになるが、変わることには不安もある。が変わらないことにもリスクがある。結局は国民一人ひとりに「変わりたい」という意欲があるかということになる。

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才能のない安倍首相は思い切り開き直って、過疎地域を抱き込んで心中するべきだった

二日間に渡る不毛な審議が終わった。個人的にはかなり興味を失っている。結局「言った言わない」の話にしかなっていないからだ。安倍首相が個人的なつながりを使って特区を悪用したことは確かで、これは健全な市場経済と民主主義を著しく歪める。

が、そんなことはみんな書いているので面白くもなんともない。ここで思ったのはもし安倍首相が「縁故主義の何が悪い」と開き直ったらどうなっていたかということである。安倍首相は嘘をつく必要がなくなるので、野党は攻撃ができなくなる。今の仕組みでは利害関係者は選定に関われないということになっているようなのだが、忖度が横行しているので安倍首相が直接関わらなくても加計学園が選定してもらえただろう。安倍首相はそれほど困らなかったはずである。

安倍首相はお友達に便宜を図りたかった。しかし、バレると怖いので加計学園は申請に関わっていないことにした。このため、本音と建前が錯綜し話が複雑化し、大騒ぎになったせいで支持率が低下した。しかし、野党が騒いでいるのは「安倍が嘘をついた」ということだけなので、嘘さえつかなければ判断がつかない国民はすぐに興味を失ったはずである。

すっかり忘れ去られているが、戦略特区は成長戦略の一環だ。都市圏ではそれなりの事業者がおり、特区はそれなりに進んでいるようだ。しかし、それでは地方は救えない。特区を作っても税金の援助などがなければ誰も過疎地域には見向きもしないのである。加計学園が医療・福祉系に目をつけたのは、国家助成が多いからだろう。国家助成が多いから、官庁も慎重になるのだ。

すると、加戸前知事が正しいということも言える。確かに、大学を作ろうとしても文部科学省の審査が面倒なのは確かだ。加戸さんは文部科学省のOBというインサイダーだったのにも関わらず難しいのだから、外国からの資本や中小の人たちが新規事業などを開始するのはほぼ不可能だろう。

今回の議論で、特区だけでなく大学を作ろうとなると、事前に何回もご相談に行かなければならないということがわかった。新設時にはどこの大学の相談にも乗っていると文部科学大臣が認めている。京産大にはここまで丁寧に接していないという点を脇に置いたとしても、大学の新設がいかに難しいかということがわかる。が、そうしないと持続可能性のない業者ばかりが集まってしまうのだろう。最近では通信制の高校への名義貸しなどが問題になっている。これも生徒数を確保するために、高校卒業資格を必要としていない生徒が在籍したように見せかけている。

加戸さんは「利権を持っているのだろう」と決めつけていたが、多分それだけではないだろう。大学が失敗すると文部科学省は責任を取らされる。国会で追求され、裁判を起こされる。それを恐れているのではないだろうか。

その意味で、維新の会はいいことを言っていた。文部科学省に挙証責任があるがそれに失敗したから認めないと仕方がないと決めつけていたが、確かにその通りだ。過去に加計学園が作った学校の偏差値が50に届かない程度で、加計学園が「隠れ浪人してもとりあえずこの学校に入ればいいですよ」と主張して学生を集めていても、獣医学部だけは例外で、立派な獣医をたくさん育てるかもしれない。つまり、未来のことは誰にもわからない。だから、文部科学省が監督する必要がなく自己責任でやってくれといえばよかったのである。

もちろん、こうした特区は大失敗するだろう。あまり財政状況のよくない加計学園はリスクを冒してでも新しい学部を作らないと首が回らなっているようだ。だから、もう政治家を抱き込んで心中するしかないのだろう。それほどまで困っていない人たちは既得権益を守りながらぼちぼちやって行こうかと思うはずだし、外資の人はこんなにわかりにくい割に市場も縮小しつつある国で新規事業をやろうなどとは思わないだろう。つまり、特区は困窮した企業ばかりを惹きつけるはずだ。が、それでも構わない。沈没するのは今治市だけだからである。

労働規制にしてもそうだ。いろいろなところで「外国人を農業労働者として導入したい」という要望が出ているそうだ。つまり、安い労働力に依存しなければ産業が維持できないような地域が多数あるのだ。が、やってみればいいと思う。多分、どんなに規制しても他業種へと人が流れるだろうし、闇労働市場もできるだろう。さらに地域住民との軋轢もあるかもしれない。それも自己責任である。

そう考えると、これは責任の問題だということがわかる。安倍首相は自分がリーダーシップを取って岩盤規制をぶち破るなどと格好の良いことを言っているが、縁故を隠し、部下に嘘をつかせ、責任を担当官庁に押し付けようとしている。これを全部引き受けて官邸と困窮する地方で勝手にやれば、中央政界の政治的リソースを消費することはなかったのである。

実際に中国はそのようなやり方をしている。強いリーダーがいて、全てをとり仕切る。文句をいう政敵は粛清するが、自分たちも失敗すれば粛清されるという世界である。韓国も大統領ごとに親類がいい思いをし、終わると粛清される。自殺した大統領もいる。

安倍首相は頭があまりよくないのか、民主主義的なルールを遵守して市場経済を活性化させるような方策を思いつかなかったようだ。さらに、加戸さんが言っているのは「俺は文部省のOBだから特別扱いされて当然なのに奴らは俺を無視しやがった。だからなんとしてでも俺のメンツを守ろうとして首相の縁故を使ったのだ。それのどこが悪いのだ」ということだ。

今治市は高速道路網から切り離されてしまい半島化が進んでいる。そんな土地に進出する企業も大学もない。特区を作ってもアイディアが集まるのは都市圏ばかりである。だから地方で産業を起こすためには、補助金目当てで筋の悪い事業者と一緒に地元住民を騙して土地と金を出させるしかなかったのである。

多分、今回の特区が認められれば加戸さんは「今治市で世界的な先進教育が行われるのだ」という夢をみつつ人生を全うできるだろう。後始末をするのはその後の世代である。日本にはそういう地方がたくさんあり、このような老人がたくさんいる。

安倍首相は衰退する地方と一緒に沈んでゆくしかない。経済を成長させることに失敗した上に後継者も自分たちで潰してしまったのだから、それはもう仕方がないことなのだ。

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今治市としまなみ海道

加計学園の問題が国会で審議されているが、今治市がどこにあるかということがわかると少し面白く見られるかもしれないなと思い地図を起こしてみた。

近畿・三陽地方から四国に渡る道は3つある。また四国には徳島・高松・松山からなる軸があり、南には高知に伸びる道がある。

地図上では神戸からの道が途絶えているが、大阪には阪神高速道路網があり、人口が密集する近畿地方には複数の道が延びている。

しまなみ海道と呼ばれる道は実際には西瀬戸自動車道と呼ばれているそうだが、実は尾道市側では山陽自動車道とつながっておらず四国側でも高速道路網につながっていない。だから例えば大阪から松山に行くときには合理的なルートにはならない。

このため結果的に今治市は高速道路網から取り残される結果になっている。現在問題になっている土地はしまなみ海道の南の端にあたる。もともとは高速道路網が完成し本州側から人が大勢四国にくるだろうという前提のもとで土地開発がなされたのだろうが、実際には道路がつながることはなかく、土地の価値は当初のもくろみ通りにならなかったのだろう。

なぜつながらなかったのかということはわからないのだが、本州とのルートは既に2つあり、わざわざ3つ目を作る必要がなかったのではないかと思われる。

今治市には鉄道は通っており、こちらは徳島・高松・宇多津・新居浜・今治・松山と結ばれている。宇多津から岡山まで鉄道が結節している。モータリゼーションのために今治市の地位が低下しているのがわかる。高速道路網から取り残されてしまったことで、地位の低下が起こり、そこに工業団地やショッピングモールなどの誘致が難しかったことがわかる。

船便では高松から神戸に渡るフェリーがあり、徳島からは和歌山市に行けるそうである。広島から松山に行けるルートもある。が、今治には直接本州に渡ることができるフェリー航路もない。つまり、今治は交通上は半島化しているということになる。

加計学園は銚子にも学校を作っているのだが、こちらも半島化した上に近隣に大きな工業地帯が作られて人口が流出しているという問題がある。また、木更津と川崎の間に道路が通ったが人口が増えるなどの現象は起きていない。つまり道路が造られたからといって、産業が起こるということにはなっていない。

この問題は学校と教育の問題なのだが、実は衰退する地方の問題でもあるという視点があると、別の視点が得られるかもしれない。国家戦略特区は安倍首相らの利益供与に利用されているという見方もできるのだが、多少政治家に食い物にされてもそれに依存しなければならない地方と言う事情もあるのだ。

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発達障害は「障害」なのか

今回はメモ程度に発達障害について書く。なお最初に断っておきたいのは、この文章には結論はないということだ。なんらかの答えを求めている人は読まない方が良いと思う。なお、幾つかの文章を読んでみたが「右脳の障害だ」と言い切っているウェブサイトもあり、安易に結論に飛びつくのは危険なように見える。

まずはじめに発達障害という言葉にはいくつかの概念を含んでいるようだ。主にADHDと自閉症スペクトラムという概念があるらしく、これが重なっているという人もいるようである。原因ははっきりしないので、対処法もはっきりとはしていないが、アメリカでは多くのADHDと診断された人たちが投薬治療を受けているという統計もあるそうだ。

NHKの番組によると、発達障害と診断された子供の母親は認めたくないという気持ちを持つ一方で、ほっとしたという気持ちにもなるのそうである。こうした症状を持つ子供は、単にわがままなだけに見えるのでお母さんの躾のせいではないかと言われることが多いのだろう。

このことにはなんとなく思い当たる節がある。知り合いにドタバタと落ち着きまわり、YouTubeが見たいと言い始めると誰のいうことも聞かなくなる子がいるのだが、やはり「安易に子供にスマホを渡すのがいけないのではないか」などと思ってしまう。が、普通の子供は幼稚園なり小学校に入ると、机に座って一定時間座って先生の話を聞けるようになる。いわゆる「普通」の子供なのかそうではないかということはこの時に決まるのだろう。つまり、じっとしていられない子供もいるのである。

が、こういう子がどれくらいいるのかということは実はよくわからないようだ。2012年に文部科学省が調査した資料があるというウェブを見つけた。孫引きになってしまうが、発達障害ではないかと先生が「自己診断」した生徒は6.5%いるそうだ。この数字は専門家の診断を受けた数字ではないということである。このように捕捉されるようになった生徒の数は20年の間に7倍になり、90,000人を超えたのだという。

が、こうした人たちがすべて「特殊学級」に入るとすれば、もはやマイノリティではあっても障害とは言えないのではないかと思える。例えばメガネという装具がないとものを見るのに困る人は30%いるという数字があり、近視を「視覚障害」という人はいない。すると、発達障害も障害なのかということはよくわからなくなってしまう。例えばメガネがあっても黒板が見えない人がいるならそれは通常学級とはいえないわけで、じっと座って授業が受けられない人が、例えばアメリカ並みに10%もいるようになれば、それは通常学級が変わらざるをえないのではないかと思えるのだ。

さらに、じっとしていられない子供と手足が自由に動かせない子供が必要なケアは違うだろうから、これらを一緒くたにして「通常の学習に耐えられない」という理由だけで別枠でくくるというのも乱暴なのではないかと思える。

発達障害がなぜ起こるのかということはよくわかっていないようだ。先進国に多く、発展途上国に少ないという統計があるようで、遺伝による影響とは考えにくいという。現在では様々な犯人探しが行われている。日本型の雇用環境が悪いという人や、添加物がよくないという人もいるようであるが、これもよくわからない。個人的にはスマホなどの過剰な情報に触れているのが悪いのではないかなどと思うのだが、これも単なる思い込みの域を出ない。

この文章は幾つかのウェブサイトを参照した。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/develop_disorder004.html
http://xn--u8j7eobcu7587k8dj.jp/population.html
https://www.news-postseven.com/archives/20160507_409670.html?PAGE=1#container
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/001.htm

 (*1)本調査における「1.児童生徒の困難の状況」については、担任教員が記入し、特別支援教育コーディネーターまたは教頭(副校長)による確認を経て提出した回答に基づくもので、発達障害の専門家チームによる判断や、医師による診断によるものではない。従って、本調査の結果は、発達障害のある児童生徒数の割合を示すものではなく、発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒の割合を示すことに留意する必要がある。

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ヤンキーにさえなれなかった安倍首相

結局、安倍首相が衆議院で丁寧な説明をすることはなかった。この人はまるでヤンキーだなと思った。「俺らルール」を振りかざして国民を巻き込んで大暴れしている。しかも、全く罪悪感は感じていないらしい。

が、よく考えてみるとヤンキーにすらなれていないのではないかと思った。根性がまるで座っていないのである。「選定に関わっていない」とか「加計学園がかかわっているのは知らなかった」などといいつつ「では首相の椅子を賭けるのか」と野党議員に詰め寄られると、そんな約束はしないと日和った。部下まで巻き込んで嘘をついているわけだからせめて最後まで嘘を突き通せばいいのにと思った。

加計学園は安倍首相の特区認定なしではやって行けない。年限を切っているのは、その頃から借金の返済が始まるからだといわれているそうだ。つまりその時までに新しい収入がないとお金を返せなくなってしまうのだ。まず、土地を手に入れて銀行から融資をしてもらえる状況を整えなければならなかったし、入学金や授業料などの実収入も必要なのである。だから安倍首相はダチのために嘘をつきはじめたら、その嘘をつき通す必要があるのだ。

さらに今治市は「首相が推進しているプロジェクトだから」という言葉を信じてすでに土地開発公社から土地を買い取っている。土地公社には県の金が入っているそうだが、昨日の加戸前県知事の話によると、愛媛県は今回の学校誘致からは撤退しているそうなので、市だけが「首相のペットプロジェクトだから」という形でリスクを抱え込んでいることになる。もし「首相が知らなかった」ということになり大学誘致が頓挫すれば市の財政は大変なことになってしまうかもしれない。

確かに特区を使ってお友達に利益配分するというのは悪いことなのだが。すでにそれを当てにしている人たちがいる。本物の不良だったら、一度悪事に手を染めると決めたら、とことんまで行って欲しいとさえ思う。それすらできないところに安倍首相という人の底の浅さを感じざるをえない。

だが、安倍首相に必死さはない。国会でこの件を追求されている時には全く悪びれる様子はなく、逆ギレしていた。それが評判が悪いと感じると、一応は殊勝な顔をして見せた。職員室に呼び出されて反省したふりをしている不良のようだ。しかし、プロジェクトを最初から見直すつもりはないようなので、なんとか乗り切れると思っているのだろうし、次からはもっとうまく言い逃れれられると世間をナメているのだろう。

加計理事長にも反省する様子はない。文部科学省から「ちゃんとした計画を出すように」と言われていたようだが、それに対応をしていないのではないかと思われる。みんなからやってもらって当たり前だと思っているのだろう。

加計学園が銚子市で経営する学校は文部科学省から「大学レベルの授業をやるように」と勧告を受けている。結局は配下の高校の受け皿なので、英語はBe動詞や過去形からやっているようだ。国会では岩盤規制がどうとか言っていたが、実は認可が降りなかったのは実力が足りないからなのだ。情けないのは文部科学省は官邸からの人事での報復を恐れて何も言えなくなっているということである。

そればかりか田崎史郎さんのように、前から首相を知っていたし応援していたという理由で、首相をかばい続けるジャーナリストもいる。その意味では大人たちも根性が座っておらず、不良たちに振り回されている。

怖いなと思ったのは、こうした不良になりきれない金持ちの人たちの理屈に日本中が振り回されているということである。この数ヶ月というもの、大した政策的な話は進捗していない。騒ぎになったのは、警察に大きな権限を与える共謀罪問題と、学校認可関係のゴタゴタ(しかも一つは右翼系の教育勅語を教えるというとんでもない学校だった)問題と、防衛省内部のゴタゴタからくる日報問題だけだった。その間政策論争は全く行われておらず、現実的な問題は議論されていない。

この大人になりきれず、責任感のかけらもない人たちが今度やろうとしているのが憲法改正である。さらに、数ヶ月は大混乱が続くだろうと考えると、なんだかうんざりする。

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ファッション写真の右と左

ファッション写真を見ていると、右脚に重心をかけて立っているケースが多いように思える。特にカタログだとその傾向が顕著だ。だんだん気になって右と左について調べてみることにした。

ファッション写真に携わる人はアートの歴史について学んでいるはずだからという理由で、まずはギリシャ彫刻について調べた。

7世紀中頃から前5世紀前半にかけて制作されたクーロス(青年像)は左脚を前に出しているが、体重は均等に乗っている。このころの神の立像も重心は均等になっている。シンメトリーな方が神々しく見えるからだ。仏像もギリシャ彫刻の影響を受けているのだが、仏像は今でもシンメトリーである。あまり派手なポーズがついた仏像を見たことがある人はいないのではないだろうか。ありがたみが薄れるからだと考えられる。仏像が左右対称性を崩す場合、顔は大抵怒っている。荒々しさを表しているものと考えられる。

ところが、彫像の対称性は徐々に失われる。どちらかに重心がかかったポーズをコントラポストといい、紀元前480年ごろの「クリティオスの少年像」が初出だと考えられている。足部が失われおりどちらが支脚なのかはわからないが、左脚が支脚になっているものと思われる。筋肉の動きを見ると体重の乗せ方も均一ではないそうだ。

紀元前360年の「幼児のディオニュソスを抱く神ヘルメス」では、右脚が支脚になっている。左側に開いており、左に支えが置かれている。時代はアルカイックではなくヘレニズム期に入っている。ミロのビーナスも右脚支脚で左側(画面でいうと右側)に開いている。ギリシャ世界では神に人間味を与えた方がより信仰されるだろうという考え方があったのかもしれない。

しかし、このポーズは運動機能的な利き足を模写しているというわけでもなさそうだ。例えばディスコフォロスではディスクを左手に持つので、左支脚になっている。ドリフォロスではは槍を左手に持って右支脚になっている。

いずれにせよ、コントラポストは右支脚が基本になっており、これがローマ時代に盛んに模写されることとなる。こうしたお手本をカノンというのだそうだ。

だが、ファッション雑誌において、右を支脚にし左を遊脚にするという厳密な決まりごとはないようだ。同じ側ばかりだと退屈になってしまうので、時々入れ替えたりしている。また日本にはギリシャ彫刻の影響はそれほどないようで、日本のモデル事務所の場合ポートフォリオの写真がほとんど左支脚になっている人もいた。

さて、写真の中には脚を肩幅に開き均等に立っているものもある。正三角形が作られるので安定して見えるのである。ここで変化をつけるために体をどちらかに傾けることがあるのだが、左(画面で見ると右になる)を前にしているケースが多いように感じられた。似たようなポーズはボクシングで見られた。右利き選手の場合、パンチを打つ方の手が奥になり、左を前にしたスタンスになる。写真の場合殴り合うわけではないのだが、自然に左側を前にする(正確には利き手側を奥にする)ということになるのかもしれない。

演劇には上手・下手という表現がある。画面で見て右側が上手だという。優位になっている人は上手におり、劣位の人は下手にいるという約束事があるそうだ。登場人物は大抵上手から出てきて下手に下がって行く。ということで写真でも優位にいる人を画面で見て右側に置くことがある。スティル写真でも左にスペースを開ければ登場人物を引き立てつつ背景を説明することができる。

しかし、これもすべての演劇がそうというわけではない。例えば、戦争という運命に翻弄される「肝っ玉おっかあと子供達」では、巡回馬車は画面の右に向かって進んで行く。スーパーマリオブラザーズも左から右へと動く。このようにして少なくとも演劇では左右は重要な意味を持っていて、知らず知らずのうちのその常識を受け入れている。

こうしたテクニックはインスタグラムの写真などでも使える。例えば悲しい感じや圧迫された感じを出したければ、左から右へと上がって行く背景を選び左側に立つことで、圧迫感を演出することができるだろう。こうすると画面の左下にいるような印象を与えるからだ。逆に右側に立って(写真を撮る時には左側に立つことになる)左画面を解放すると、その場所に到達した達成感を表すことができるかもしれない。

政治ポスターでもこうした左右が使い分けられている。アベノミクスで困難に立ち向かうというポスターでは安倍首相は画面の左側にいて右上を見ている。一方で首相として権威付けたいときには画面の左が解放されているという具合だ。本人が意図していないものもあるかもしれないが、そう見えてしまう。

「民衆を導く自由の女神」でも市民は画面右に向かって進んでおり、中央よりやや右側に自由の女神が立っている。これは苦難に立ち向かう市民というようなニュアンスがあるのかもしれない。

Es Lebe Deutschland(ドイツよ永遠に)で検索するとヒトラーの画像が出てくる。この絵はハーケンクロイツを掲げて画面の中心に立ったヒトラーの背景に翼のような物体があり後光が差している。天に守られて前進するヒトラー像というものを演出しているのだろう。

このように画面の左右中央と上下を使い分けることは政治的プロパガンダでもよく使われている。私たちはこうしたメッセージに知らず知らずのうちに従っているのである。普通に構図を切っている分にはあまりこうした類型にはまる可能性は低いかもしれないのだが、知らないうちにはまってしまうことがあるかもしれない。逆に、意図的にこうした構図を利用することで面白い写真が撮影できることもあるだろう。

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