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安倍首相はなぜ存在自体が虚偽なのか

元々のタイトルは「ストーリーに夢中になる人たちとそうでない人たちとの違い」とするつもりだったのだが、政治の状況があまりにもひどいのでタイトルを変えた。ということで、この文章には2つの軸がある。

今回は安倍首相がなぜ存在自体が虚偽なのかということについて書く。発言ではなく存在が虚偽なので、一つひとつの虚偽答弁について議論しても時間の無駄である。そもそも、安倍首相とその一派はもともと我々とは違う概念で「真実」を捉えている。一般常識が通じないので、一般の言葉で語りかけてもあまり意味がないのだ。

これまで、日本人についていくつかの「発見」をしてきた。まず日本人は集団性が高く競争好きだ。そして、日本人は集団でストーリーを作り、それを競い合っている。ストーリーにあったものだけが事実として採用され、それ以外は棄却されるという競争である。

これまで主語を日本人としたきたのだが、ある記事を読んでこれが間違っている可能性があると思った。クリエイティブな人たちは同時にいくつかの視覚情報を処理しているが、そうでない人は一度に一つの情報しか処理できないのだという。ライフハッカーのこの記事は経験への開放性という概念でクリエイティビティについて説明している。

経験への開放型が高い人は目の前にある事象に対していくつもの情報を同時に受け取るのだが、そうでない人は一つのことに集中して、それ以外のことが見えなくなる。つまり、知覚の段階から情報処理のやり方が違うのだ。こういう人たたちを非注意性盲目と呼んでいる。注意していない側の事象にが見えないというような意味なのだろう。

もちろん、ここでは個人の話をしているので、これがどう集団に展開するかはわからない。だが、このように自分たちが着目する以外の事実を棄却してしまっている集団はそれほど珍しくない。

例えば稲田元防衛大臣が<活躍>していた雑誌『正論』などでは、日本皇軍は悪くなくしたがって犯罪行為などを行うはずはないという前提に立って、南京大虐殺はなかったなどと言っていた。こうした類の結論を導き出すために「弁護活動」を展開している人たちはたくさんいて、稲田さんもそのうちの一人だったのだろう。南京大虐殺や慰安婦問題については資料がたくさんあり、中国や韓国の言い分が誇張されたものであったとしても、元になる事実は多少なりともあったのだろう。が、ネトウヨ系の論者にかかると、そうしたことはすべてなかったことになってしまう。なぜならば相手が嘘をついているからである。

彼らはつまるところ、日本はかつて五大工業国として反映していたのだから、戦前の体制に戻ればすべてうまく行くと主張している。それ以外の可能性ももちろん考えられるわけだが、そうした可能性はすべて排除されてしまうのである。

今思い起こすと、こうした論の建て方は、現在の稲田元防衛大臣の「自己防衛」の論の建て方や、安倍首相の加計学園をめぐる言い訳の仕方とほとんど一緒である。つまり、弁護するべき立場があり、そのために選択的に事実を採用し、都合の悪いものはなかったと言い切ってしまう。が、事実は彼らの頭の中に確実に存在するのであって、それ以外の事実を持ち出す人たちはすべて「虚偽」なのだ。

が、立場を変えてみると、多くの人たちが採用する類推こそが「事実」であり、彼らの言っていることの方が虚偽という可能性もある。これは、受手の側も実は個別の事実については話しておらず、事実を刈り込んで物語を作っているということを意味する。すると、それ以外のことは見えなくなってしまうのである。つまり、集合体としての事実があり、これを事実と呼んでいて、それに合わないものが「虚偽」なのだ。

日本人がすべて非注意性盲目だとはとても思えないのだが、集団的には事実の刈り込みを通じて非注意性盲目の状態に陥っていることがわかる。

事実が集合的なものであるかそれとも個別の事象なのかということはマスコミに対する態度をみるとわかるように思える。ある人たちは複数の事象を組み合わせて、より多くの事象が説明できそうなものを事実として採用する。しかし、中には「マスゴミ」批判を展開する人たちがいる。民主党政権時代ネトウヨの人たちは「マスコミは嘘ばかりつく」と批判してきた。安倍政権が復活するとNHKに人事介入したこともあり、反対側の人たちからマスゴミ批判が起こった。さらに、世論が安倍政権叩きに傾くと再びネトウヨ側が「マスコミはおかしい」と言い出すようになった。実際にはマスコミ(特にテレビ)は一貫して誰からも非難されないようにおずおずと複数ソースの主張を並べているだけなので、こうした変化が起こるはずはない。となると見ている側の意識が違ってきているのだろうと類推できる。

政治の世界では、「多数派の考えるストーリー」が正義だということになるだろうから、安倍首相たちは、答弁ではなく存在自体が虚偽ということになってしまうだろう。だから、国会で安倍首相の虚偽答弁について責めても実はあまり意味がない。意味があるのは、彼らの説明態度だ。安倍政権が説明を求められれば求められるほど、扱える事実が少なくなって行き、いろいろなことろから彼らの考えるのとは違う事実が出てくる。こうなると誰も安倍晋三さんのいうことを信用する人はいなくなる。こうして存在自体が虚偽になってしまうのである。

いったん存在自体が虚偽とされると人々は虚偽との距離をとりはじめる。小池百合子東京都知事は裏では安倍首相らとつながりながら表面上は改革勢力だなどと主張していたし、横浜市長選挙の林候補が安倍首相との距離を置いて民進党の山尾志桜里議員などとの連携を強調している。この間、安倍首相の態度や政策が180度変わったわけではない。多分「大勢から支持されている」ということを最大の評価項目にしている有権者が選挙の結果を動かしているのだろう。

日本人がなぜこうした態度をとるのかはわからない。アメリカではトランプ大統領が同じようなことをしてCNNやニューヨークタイムズを「フェイク(虚偽)」扱いしているのだが、マスコミ側はストーリーを作って対抗するわけではなく、それぞれがファクト(事実)のチェックを行っている。日本人が集合体を見るのに比べて、アメリカ人は個別事情二着目する。よく言われることだが、前者が森を見ている時に、後者は木の一本一本に着目していると言えるだろう。

ストーリーを決め込む態度には大きなデメリットがある。新しい発見ができないのである。今回の話を「虚偽」ではなく、経験への開放性から始めた理由はそこにある。日本人にとって「虚偽」とは、単に少数派が考える集合的な事実のことだ。数の問題なのだから、取り立てて論評することはない。が、こうした態度は実は情報の刈り込みによって新しい可能性に対して盲目になっている。これは「成長」を捨てているのと同じことだ。

なぜならばもはや開発途上国ではない日本には模倣して近くべき社会モデルは存在しないからである。

先進国は新しい探索を通じて経済成長を実現している。例えばライフハッカーにはクリエイティブなりたい人のための読み物が多数掲載されている。「クリエイティブであり続けるための17の方法」などという記事もある。これはクリエイティブであることに経済的価値があるからだろう。

しかし、日本でクリエイティブであることは必ずしも喜ばしいことではない。画家や音楽家などは不確実な職業なので公務員にでもなって趣味でやるべきだなどという声を聞くこともあるし、会社で新しいことをやろうとすると「保障はあるのか」といって潰されてしまう。日本は社会としては新しい経験について開放性がないということがわかる。

政治家が嘘つき呼ばわりされるのは別に構わないと思う。が、経験への開放性のなさは明らかに日本を困窮へと向かわせているのではないかと考えられる。

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