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民進党は整形依存の人に似ているなと思った話

民進党の蓮舫代表が退任した裏で「誰も幹事長人事を受けないように」と電話をかけて回った人がいたという話を聞いた。なんか最低だなと思った。人が困難にぶつかった時に取りうる態度には二つあると思う。一つはだからダメなんだとダメなところを探して責任者を引き摺り下ろすという態度で、もう一つはじゃあ自分は何ができるのだろうかと考える態度である。民進党には明らかに前者の人がたくさんいて、いつも他人の否定ばかりしている。このような政治家に国を任せることなどできるはずもないので、民進党は解党すべきだろう。

しかし「だから民進党はダメなんだ」と書いたところで、それは自明のことなのでさほど面白い文章は書けそうにない。民進党がダメなことは分かっているし、多分これがよくなるということもないだろう。だからここで文章が終わってしまう。

ちょっと思いなおして、困難にぶつかった時には自分がどのように貢献できるのかということを考えてみようという文章を書こうと思った。これを組織文化にすれば、建設的な組織が作れるだろう。だが、これも道徳話めいていて、きらいではないがたいして面白い話にはならないに違いない。そもそも民進党の人がこれを読むとも思えないし、政治好きな人たちも、政治にあれこれ注文をつけるのが好きなだけだから、民進党がよくなってもそれほど喜ばないのではないかと思うのだ。

が、いろいろ考えを巡らせているうちに、なぜ民進党はずっと新しい代表を探し続けているのかということを考えこんでしまった。

自分がどうしたら組織に貢献できるかということを考えられないというのは、そもそも貢献する気がないということに起因するとは思うのだが、それとは別に貢献できるものがないと考えているのかも知れないと思った。民進党は自分にないものを数えることばかりをしている政党といえる。民進党が「ない」と考えているのは、その自民党性である。民進党は自民党になりたい政党なのだ。

日本人は長い自民党支配を通じて、政権政党といえば自民党だという思い込みを抱えてきた。例えば小池百合子東京都知事が選ばれたのは、彼女が自民党を経験しているからである。同じように初期の民主党の人たちの中には、鳩山由紀夫さんや小沢一郎議員のように自民党の人たちがいた。

彼らは野球に例えると巨人軍の選手である。野球では長い間巨人軍の選手だけが正統な選手であり、あとは二流だった。今でも球団のない地域は巨人軍のファンが多い。政治では同じようなことが続いているのだろう。が、自民党経験のない人たちは絶対に自民党にはなれない。なぜならば、彼らは自民党に所属したことがないからだ。ゆえに努力のしようがない。共産党との共闘が常に問題になるのも共産党が「自民党からもっとも離れた政党」だからではないだろうか。対立軸を作ろうとすると共産党と共闘することになるのだが、自民党性を求めるとそこから離れなければならない。つまり、共産党と共闘すると自民党になれなくなってしまうと考えているわけだ。が冷静に考えると、もともと自民党ではないので自民党にはなれない。

が、それでは対立軸が生まれず、野党としての存在感がでないので自民党を基準にして「自民党でないもの」を求める人たちがいる。自民党は競争社会の開発独裁型の政治であり、それとは違う軸というと包摂社会型の政治になる。日本ではこういう人たちをリベラルと呼んでいる。

実は民進党の性格とは「自民党からどのような距離をとるか」によって決まるのだが、何の成果もあげないので、自民党的な性格を求めてみたり、逆にそこから距離をとってみたりするのだろう。

蓮舫代表は多様性の象徴であり、非自民的なお化粧だった。が、それを支える野田さんは「自民党的な」政治家だったといえる。これは有権者は非自民党的なものをもとめるが、中にいる人たちは巨人軍になりたがっていたというようなことなのだろう。今度の代表選挙は枝野さんと前原さんの戦いだと言われているそうだが、枝野さんがリベラル系の支持を集めており、前原さんが自民党的になりたい人たちの支持を集めていると言われているそうだ。

だが、よく考えてみると不思議な点が二つある。一つは自民党出身の人たちはすべて追い出されてしまい、今では「なんとなく自民党みたいだが自民党になりきれなかった人たち」しか残っていないという点である。彼らがいくら頑張っても目的は自民党になることなのだから、何かを達成することはなさそうだ。そもそも自民党ではないので、絶対に自民党にはなれない。もう一つはこの揺らぎは完全に内部事情であって有権者には全く関係がないということである。

ここから生まれてくる本当の疑問は、民進党は何をやりたい政党なのかということと、どういうキャラクターの政党なのかということだろう。政党を政策で選ぶ人はそれほど多くなさそうだが、それでも政策で選択している人たちはいる。が、いくら見つめてみてもさっぱり中身が見えてこない。歴代の民主党系の首相経験者はこれを「マニフェストをまとめきれなかったトラウマだろう」と言っているようだが、もともとマニフェストもお化粧のようなものであり、本当にやりたいことだったのかということも、実はよくわからない。

それよりも深刻なのはキャラがさっぱり見えてこないということだ。もてたいと思っていろいろ化粧をしているが元の顔を無視したために全く素顔が思い出せないという状態に似ているし、もっと深刻に捉えれば顔を整形でいじっているうちに、表情が消えて元の顔がわからなくなった状態だとも言えるだろう。

本来ならば「元の顔を思い出して」と言ってあげたいところだが、もうそれは無理そうなので、いったん解党して本当に合意できる人たちだけで政策集団を作ったほうが良いと思う。それも無理なら「この人とは一緒に働いてもいいなあ」くらいの人たちでお友達集団を作ってもよいのではないだろうか。あとは選挙で選び直しが行われるだろう。

なんとなく嫌だなと思う人もいるかもしれないが、これも野球の状況に似ている。もともとパシフィックリーグは「二流のリーグ」のような扱いをされていた。巨人軍になりたかった人たちなのである。がある時、地元密着型に変えたところ支持が広がった。セントラルリーグの球団も巨人軍の対戦相手のような位置付けだったが、広島のように市民球団という特質を生かして成功した事例がある。このように「どうやったら巨人になれるか」を考えるより、今いる場所で何ができるかを考えたほうが幸せになれるのではないかと思うのだ。

自民党もこれと言ってやりたいことがない集団だ。この与野党の状況を見ていると日本人は闘争は好きだが、その目的について考えるのは苦手なのだなということが嫌になる程よくわかる。が、個人の生き方にヒントをもらうとしたら、たとえ躓いたとしても「自分が持っているもので何ができるか」を考えて協力し合ったほうが、より幸せになれるということではないかと思う。

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