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加計学園問題の本質とは何か

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連日、加計学園問題について考えている。世間の関心は安倍首相の関与の有無だと思うのだが、これは決着しないだろう。安倍首相は最初から嘘をつくつもりでおり、表面的にはその嘘のシナリオに従って形式を整えているからだ。そこで、視点を変えてみたい。ここに登場するほとんどすべての人がとても格好が悪い野はなぜだろうということである。見え見えの嘘をついて国会で追求される安倍首相はとても格好が悪い。でも安倍首相には嘘をつかなければならない事情がある。

安倍首相が嘘をつかざるを得ない理由

安倍首相が嘘をつかなければならない理由は簡単だ。彼には首相としての力量がない。経済を活性化させることができなかったし、憲法を改正するために支持政党をまとめる力もない。できることと言えばお友達を優遇するということだけだが、彼が配っているのは国民の財産であり、彼の財産ではない。かといって、自分の評判を犠牲にしてでもお友達を優遇するという根性はない。批判されると嫌だからだ。だから、嘘をついて表面上は民主主義的なルールが守られているように細工した上で、お友達を優遇せざるを得なかったのだ。

安倍さんの問題の本質は、彼には何の才能もないという現実に向き合えないということだろう。さらに、憲法を改正したいという意欲はあるが、なぜ変えたいかということを自分の頭でまとめるだけの知的能力はない。だから、変えたい憲法の条文がコロコロ変わるし、思いつきで言ったことは周りからすぐに突っ込まれる。政治家としての芯はないので尊敬されることはないだろうが、安倍首相はそれを認めることができない。

やる気を失った官僚たち

安倍政権のデタラメな説明にお付き合いして都合良く記憶をなくす人が出世し、実力があっても頑張りがみとめられなくなってしまった。が、彼らもこんなことをするために完了になった訳ではないだろう。このことが士気に影響していることは想像に難くない。

が、もともと官僚たちは自分では何も決められなかった。自分たちよりも馬鹿な国会議員に使われる立場であり、実際にそのように接してきた。実は立場の違いであり身分の差ではないのだが、あたかも身分差のように感じていたのだろう。自分たちの方が賢いのにという自負心がありながらも、国会議員に従わざるを得ない。だからこそ「実質的には俺たちが日本を動かしているのだ」という虚栄にすがるしかなかった。

だが、それも怪しくなってきている。日本はこの数十年衰退に向かっていて、彼らのやってきたことは何の成果も上げていない。あげくの果てに分けのわからないぽっと出の政権から「二位じゃだめか」と問いつめられたり「嘘をついたら出世させてやる」などと言われている。彼らもまた欺瞞の中を生きているのだが、残酷なのは頭が良い分それがわかってしまっているという点だろう。

実力のない加計学園

実は加計学園に実力があれば、国を挙げての騒ぎにはなっていなかっただろう。加計理事長は表に出て来れなくなってしまった。本拠地の岡山理科大学は二流とはいえ、いわゆるFランク大学というわけではなさそうである。しかし、それだけではやってゆけない。少子化の時代に生き残れないので、高校に行けないような子供を集めて形ばかりの大学に入れてやるということをやっているようだ。このため業を煮やした文部科学省からBe動詞を教えるのは大学の授業ではありませんと指導を受けている。千葉科学大学も世界の最先端で活躍する危機管理人材を育成するという名目で作られた大学だ。

千葉科学大危機管理学部のシラバスを見ると、「英語I」ではbe動詞や一般動詞過去形など「英 文法の基礎を確認した上で、英語で書かれた文章を読み解くトレーニングを行う」、「基礎数学」では分数表現や不等式、比例・反比例など、中学で学習する内 容が授業計画として記されている。(ライブドア/J-CASTニュース

嘘をついているのだが、もし実力があり優秀な生徒が集められるなら、こんなことを言われる必要はなかったのである。加計学園も実は自分の実力とやりたいことの間にギャップがある。がそれを埋める努力はしないで、安倍首相とゴルフをしたり、萩生田さんを教授として雇ったりという見当違いの努力をしている。

止まらない地方の衰退と取り残される今治市

今治市は土地の値上がりを当て込んで山を切り崩した。だが、結局道路網は完成せず、バブルも崩壊した。今治に興味を持ってくれる企業はなく、補助金目当ての大学だけがすり寄ってきて、土地を無償提供した上で開学費用も負担してくれと言っている。設計図も出してくれないし、相場より高い坪単価でなければ学校は作れないと言っている。明らかに詐欺だ。しかし、それを断る訳には行かない。もう数十年も「加計ありき」で来ているから降りる訳にはいかないのだ。

こうした地方の苦悩を国会でぶつけたのが加戸元愛媛県知事だ。手持ちのカードがしょぼいので文部科学省から全く相手にされてこなかったのだが、それでは、愛媛県が有望な企業や学校からは相手にされないという現実を認めなければならなくなってしまう。本当は霞ヶ関で出世したかったのかもしれないが、そこでうまく行かなかったから都落ちして県知事になったのかもしれない。

いつか俺を否定した霞ヶ関を見返して、愛媛県に世界をあっと驚かせるような研究拠点を作るのだ!

だから裏門からでも今の計画を実現しなければと考えてしまったのだろう。

加戸元愛媛県知事の頭の中には、アメリカにも負けない最先端の研究が今治で行われ、畜産の危機を今治の大学が救うという壮大な計画があるのだろう。そのために市の財産を差し出すというのはとてもうるわしい構図だ。「あのとき決断してよかった」と未来永劫たたえられるに違いない。

しかしやってくる大学は「仮面浪人してでもいいから来てください」などと言っている。嘘はわかっている。でも認められない。今治市役所にはマスコミがやってきて「官邸では誰にあったのですか」と連日聞いてくる。面と向かって嘘ついてるんですよねと言ってくれた方がどれだけ楽かもしれない。お金がなく発展からも取り残されようとしているというのはどれだけ惨めなことだろうか。でも、その現実を変えることはできない。できるのは自分をだますことだけなのである。

政策が作れない野党

一方、野党の方も手詰まりになっている。そもそも政策コンペに勝てるなら、安倍首相の嘘を証明するなどという面倒なことをやる必要はない。にも関わらず、この問題だけに一生懸命になるのは、他に決め手がないからだ。民進党の支持母体である連合は自民党と取引しようとして失敗したし、民進党自身も「執行部がグダグダしているなら離党もありうる」などと言っている。支持が集まらない民進党内部で相当の動揺が起きているようだ。

そもそも政権についておいしい思いをしたいというだけで集まってきた政党なので、長年政権につけないと求心力がなくなってしまうのである。桜井議員は質疑のときに山本担当大臣に「出て行けよ」と声を荒らげていた。が、そのいらだちは実は自身の所属する政党にも向かっている。産經新聞は次のように伝える。

桜井氏は発言後に両院懇を中座し、「都議選の総括文書を読む限り、全然反省は見えない」と記者団に対しても執行部批判を繰り返した。「(離党を含めて)仲間とこれからいろいろ考えたい」とも語った。(産経新聞

決められない国日本の進路

さて、色々と書いてきたが、結局問題はどこにあるのだろうか。ここにいる人たちはすべて何らかのアンビバレントな状況を抱えている。その現実に向き合えないために、相手をののしったり、嘘をつかざるを得ない。この揺れ動く心情の裏には実は決められない日本があるのではないだろうか。何かを決めて一生懸命にやれば失敗もするだろうが、少なくともやっただけの満足感は得られるだろう。結局何もしないからいつまでもうだうだとしていなければならないのである。

が、道がわからないから決められないという訳ではない。日本にはいくつかの選択肢がある。みんなを満足させることはできないし、誰かが変わる必要がある。が、確実な道は一つもない。変わるというのは怖いことだ。でも何もしないというのも十分に怖いことなのではないだろうか。すべてではないかもしれないが例を挙げる。

  1. 心を入れ替えて公平な市場主義と民主主義が支配する法治国家を作る。誰もが実力に沿った活躍ができるようになるだろう。だが、あらかじめ結論が決まっているわけではないので、国民一人ひとりが事実をありのままに受け入れ、リスクを管理する必要がある。今回の件では文部科学省は学校の監督から手を引く。当然、途中でつぶれる学校も出てくるかもしれないし、卒業しても資格が取れないかもしれない。が、すべて自己責任だ。政府が関与しなくなれば、安倍首相がお友達だけを優遇するということはできなくなるだろうし、加計学園のような実力の足りない学校は淘汰されるだろう。
  2. 日本人の心情にあった競争的な開発独裁型の政治に回帰する。それでも力強さが足りないと感じるなら、戦時経済にまで回帰する。1940年体制と呼ばれる戦時体制は日本人が大好きな集団での闘争に専念できる体制だ。労働者は死ぬまで働き、擦り切れて死んだら靖国神社に祀られ、銃後の備えのために年金があるというような社会だ。競争の目的を考えずにすきなだけ競争に耽溺できる。
  3. 競争を諦めて包摂的な社会へと移行する。日本のリベラルという人たちが言っているのは実は何かからの開放ではなく、日本を包摂型の社会に変えることなので、リベラルの人たちが言っているような社会になるだろう。実はこの障害になっているのはリベラルの人たちそのものだ。彼らは安倍首相を妥当するための競争に夢中になっていて、右翼の多様な価値観を認めない。実は競争的で画一的という意味では右と左にはそれほど違いがない。日本はそれほど、多様性の需要が苦手で、好戦的なのである。多分、リベラルの人は、リベラル警察のような存在になるだろう。包摂社会になると闘争する目標がなくなってしまうからだ。
  4. 縮小する現状を受け止めて、地方を犠牲にして都市に政治的なリソースを集中させて国を成長させてくれそうな産業を構築する。いわゆる「トリクルダウン」の一種だが、今まで成功した試しがないのでこれを信じさせるためにはかなりの努力が必要になるだろう。トリクルダウンが成功しないのは、実はお金のある企業の人たちも「自分たちが没落したら誰も助けてくれないだろう」という潜在的な不安を持っているからだろう。この不安を取り除くのはとても難しいのではないかと思う。

繰り返しになるが、変わることには不安もある。が変わらないことにもリスクがある。結局は国民一人ひとりに「変わりたい」という意欲があるかということになる。

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