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アゲハチョウと曖昧な日本人の私

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僕は日本人だ。と書くとなんだか当たり前のような気もする。ではいつから日本人だったのだろうかと考えると「よくわからない」というとこれがよくわからない。ある集団は港湾都市まで遡ることができ、その祖先は都市の後背部の農村地帯にいたという。が、日本人はもともと戸籍を持っていなかったので、農村地帯の人たちがどこから来たのかとか、いつから今の姓を名乗っていたのかということはよくわからない。過去帳を調べたいと考えていた親戚もいるが、結局果たせないままになっているし、過去帳を保存している寺が廃寺になっていないという保証もない。

一方で、古くからの系統を伝える人たちもいる。一方の祖父の墓にはアゲハチョウの紋様が入っている。たいへん大変お気に入りだったようだ。つまり、この一族は「平家であった」という自意識を持っているのだ。お寺そのものが一族のお寺なのだが、これがいつまで続くかはわからない。が中には無頓着な人もいて「六波羅蜜寺のお土産にうちのお墓と同じマークがあった」と不思議がっていた。歴史には同じ姓の人たちが出てくるが、どうやら戦争に負けてしまったようで、敗走した人たちの生き残りなのかもしれない。が、そもそも関東にいる平氏は僭称だったという話もある。

どうにもあやふやなのだが、桓武平氏なのだから半島系の血が入っていたことになる。つまり、実は日本人が中央に近づけば近づくほど、異民族の血を意識しなければならなくなる。一般の日本人がこうしたことを考えなくて済むのは、実は数代遡るとどこからきたのかがわからなくなってしまうからなのである。

もともとの日本人は四種類に分かれていた。天皇の一族、土着の人たち、そして渡来してきた人たちの三種類がおり、その他に姓も氏も持たない人たちがいた。天皇の一族は他の地方(日本列島かもしれないしそうではないかもしれない)から来たことを考え合わせると、よそ者が作った国であることがわかる。

平氏の祖である桓武天皇の母親は百済系の血筋を持つとされる高野新笠という女性だった。渡来系の中でもそれほど身分の高くない家の出だったようで采女から天皇の生母になったらしい。身分が低くても天皇の生母になれたのは、桓武天皇が傍系であり、本来は天皇になれるような家ではなかったからだ。

このころの皇族は天智天皇と天武天皇の二系統があり、当時の天皇は天武系から出ていたが、天武系で親族間のいざこざが続き、天智系の子孫に聖武天皇の娘を嫁がせることで後継を作ろうとした。この聖武天皇の娘(井上内親王)が政争に巻き込まれ、結果的に半島の血を引く女性の子供が次の天皇になったというわけだ。

高野新笠が有名になったのは今上天皇の発言以降だと思うのだが、実はその<半島性>はかなり曖昧なもののようである。百済の武寧王の子孫ということになっているのだが、これは桓武天皇が神格化のために使った可能性が高いのだそうだ。桓武天皇は傍流の出で母親の身分も高くなかったためにコンプレックスがあったのかもしれない。

桓武天皇は737年の生まれで、百済が滅亡したのは660年である。新笠の祖先とされる武寧王がなくなったのは523年なのだそうだ。仮に武寧王の子孫だったとしても日本に移り住んでから相当の年数が経っていたことになるだろう。つまり、当時の日本でも「本物の日本人」と認めてもらうのはかなり大変なことだった。

百済は朝鮮半島の南西部にあったのだから、武寧王は朝鮮人だったのだろうと思いたくなるのだが、実はそうとは言い切れないらしい。百済と高句麗は同族とされているのだが、この人たちがどこの系統だったのかはよくわかっていないのだ。百済はなんかしてきたツングースの人たちが支配層であり、地元にいた民族を支配していたという説があるそうだ。今の日本海沿岸には新羅という別の国があり、結果的にこの人たちが今の朝鮮の基礎を作った。

この手の情報は「古代史のロマン」によってかなり歪んだ解釈が横行している。だが、韓国語だともっとわからなくなる。wikipediaの韓国語を機械翻訳するとそのことがよくわかる。韓国人は半万年続く偉大な民族だということになっているので、高句麗まで含めて「当然韓民族だろう」としてしまっている。

いずれにせよ、このころまで東アジアではかなり頻繁に民族の移動が起こっている。こうした人たちが知識を伝えることによって、文字や鉄などといった技術が東アジア全体に広がっていった。日本人も朝鮮半島や中国大陸から数次に渡って移民を受け入れている。埼玉県にある高麗郡は高句麗からの移民を関東地方に移住させたのがその基礎になっているというし、高野新笠のように百済から逃げてきた人たちの子孫もいた。高野氏はもともとは和(やまと)氏というのだが、彼らが今の奈良県にいたことがわかる。その後の日本は親新羅政策を取ったので新羅からの技術移民を受け入れたようだ。

こうした移民は戦乱が収まるにつれて徐々に縮小しゆき、やがて移民の子孫たちも日本列島に同化していった。渡来系の人たちは諸蕃と呼ばれたのだが、今渡来系の苗字を持っている人を諸蕃とは言わない。ただし、華族制度が解体するまでは外別として区別されていたそうである。つまりつい最近まで日本には移民の子孫だということを自認する人たちがいたのだ。

<日本性>ということをつきつめてゆくと、極めて曖昧にならざるをえないし、もし仮に日本人が大陸からの移民を受け入れていなければ、日本の文化は今よりももっと遅れたものになっていたに違いない。それどころか高貴な家の人ほど「日本には移民の子孫がいた」ということを知っていたということになる。

今考えられている「純粋な日本人」というのは単なる幻想にすぎない。が、こうした幻想が受けいれられてしまうのは、多くの日本人が数代遡ると家柄を辿れなくなってしまうからなのだろう。

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