ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。
ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。
その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。
自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。
だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。
サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。
まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。
両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。
その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。
よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。
勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。
このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。
ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。
あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。
例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。
ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。

グラスノスチ – 情報公開と国家の崩壊

安倍政権のように国家が情報を隠すようになると、どのような過程で国が崩壊するのだろうか、ということを考えた。正義感に燃えた市民が政府に対して抗議運動を起こし、最終的に国家が情報の隠蔽を謝罪するように思える。映画のようにドラマチックだが、もちろんそんな単純なことは起こらないようだ。
ソビエトは情報公開によって崩壊したことがよく知られている。ソ連の情報公開は「グラスノスチ」と呼ばれる。Wikipediaなどによると、グラスノスチの背景はつぎのようなものであったという。

  • 自己保身を図った官僚組織が原子力発電所の事故の情報をトップにあげなかったので対策が取れなかった。
  • 西側社会に負けかけていたソ連は改革を必要としており、知識人を巻き込む必要があった。

極めて単純化すると、情報の囲い込みは当事者から問題解決能力を奪うので、そこで外部の専門家の知識を集める必要が出てくる。そこで情報公開をしたということになる。
が、グラスノスチの結果、政府が隠してきた外交文書なども公開されることになり、東側の同盟関係は崩れ去ってしまった。また国内では共産党幹部が優遇されていたことが知れ渡り、体制への信頼が崩壊した。つまり、いままで隠していた分だけ知らされた時のショックが強かったのだ。
情報公開は東側を壊滅に導いた。外交的な信頼を失った同盟国が次々と離脱して行ったのだ。だが、東ドイツだけは少し違った経緯で崩壊することになる。東ドイツは例外的な分裂国家であり、イデオロギーだけが国家存続の拠り所だったからだという説がある。東ドイツの崩壊を体系的に捉えた理論を見つけた。ハーシュマンによると、国家が国民の期待に応えられなくなると2つの反応が起こる。

  • 退出:国家から逃げ出すこと。企業だとものを買わなくなること。
  • 抗議:国家に抗議すること。企業だと企業にクレームを入れる。

東ドイツは最初から国家に反抗的な人たちを国外追放していた。この退出はひそやかなものであり、国を揺るがすような騒ぎにはならなかった。しかし、いったん火がついてしまうと一人ひとりのひそやかな退出が表沙汰になり、あたかも政府への抗議運動のようにみえるまでになった。政府のスポークスマンの勘違いもあり、国民的な運動に発展してしまうと、最終的には壁を壊さざるをえなくなってゆく。東からの大量難民を恐れた西ドイツは、国家を統合する道を選んだが、結果的にはかなり高くついたようである。
退出が抗議に優先するのは、抗議のコストが高いからである。これはデモに出かけるのが面倒で、社会的にもどう思われるのかわからないということを想像すれば、比較的容易に受け入れられる。
東ドイツの人たちは西側の情報から完全には遮断されていなかったようだ。情報の入手経路は2つあった。1つは知識人の経路で、彼らはソ連のグラスノスチによって情報に接するようになり、体制への不信感を強めて行く。もう一つの経路はテレビで、こちらは昔から西ドイツのテレビをこっそり見ていたようだ。これらが呼応する形で、全体的な国家転覆運動へと発展したのだが、それは政府への抗議ではなかった。単に「国家を打ち捨てて出て行こうとした」だけなのである。そちらのほうがコストが低かったからだろう。
これをそのまま日本に当てはめることはもちろんできない。日本の場合は、情報隠蔽はまだ始まったばかりだからだ。皮肉な言い方なのだが、中央にはまだやる気のある官僚がいて情報が官邸に上がってきているから隠蔽ができるのだ。情報がコントロールできなくなるまでにはかなりの時間がかかるだろう。
情報を統制して「あったものをなかったこと」にするのが危険なのは、やがて各部門が自己保身のために情報を操作することになるからであると考えられる。さらに情報が歪められるようになると、やる気がある人たちがシステムから密かに退出することになる。だが、外には逃げられないので内側に引きこもるようになるわけである。現在の日本でも引きこもりは起きているが、大抵はひそやかなものであり、統計上はかなりの数に登っても、それが表沙汰になることはない。
これは一般国民レベルにもあてはまる。やる気のある人は海外の企業に転職するか、社会への貢献をそこそこにして、自分の趣味の世界などに引きこもることになるだろう。いくら能力を発揮しようとしても、政権が都合のよい発言をする人たちを優遇するので、努力するだけ無駄だからである。「一億層活躍」は「一億総動員」となる。つまり、仕方なくやらされることをみんなでだらだらとこなすという社会である。これは社会主義国の末期に似ている。
つまり、情報の隠蔽が直ちに国家の崩壊に結びつくとは考えられない。しかし、やがては崩壊することがわかっているのだから、それを未然に防いだ方が「賢い」ようにも思える。このままだらだらと衰退した上で、大きなゆり戻しを経験するのか、あるいは政権交代を通じて「合法的な安倍政権からの退出」を選択するのかは、国民一人ひとりの選択に委ねられていると言えるだろう。

国際報道に直に触れるということ

北朝鮮がまたミサイルを打ち上げた。今度は日本のEEZの中に入ったと言って大騒ぎになっている。そこで、英語で400kmの飛距離でどうやって日本のEEZに入るんだ?というTweetが流れてきた。どうやら打ち上げ地点から400kmでは日本のEEZには届かないらしい。
このニュースを見て、国際情報に直に触れるというのは「こういうことなんだな」と思った。考えを巡らせるうちに、これは社会への不信感につながるだろうなと思った。保守と呼ばれる人たちがまだ生き残っているのかはわからないのだが、もしいるとすれば今のうちに手を打たないと大変なことが起こるのではないかと思う。
地図を重ねてみてわかったのだが、国際的に流通しているEEZと日本政府が使っているものは違っているらしい。ご存知のように紛争地帯である竹島を巡って、韓国・朝鮮と日本の間に認識の差があるからだ。つまり、日本が主張するEEZは少し韓国側に張り出している。後になって、やはり竹島の北側に落ちたということがわかった。
日本政府の認識では日本海には紛争地域はない「はず」なので、そもそもマスコミは「日本が主張するEEZ」とは言えない。ということで日本の漁船が好きに操業できる地域にミサイルが打ち込まれたなどと主張するわけだが、実は竹島近海なので日本漁船が好きに操業することはできないのではないかと思う。距離を計測するのにGoogle Mapを見てみたが、Google Mapではリアンクール岩礁という聞きなれない名前が書いてあった。検索すると日本の郵便番号とウルルン郡(鬱陵島の一部と認識されているのだ)という名前が出てくるので、ここが曖昧な地域なのだなということがわかる。
このことはなぜ重要なのか。アメリカが日本を支援するにしても複雑な領土問題には巻き込まれたくない。つまり純粋な日本のEEZに落ちたのとは若干状況が異なるはずである。
日本のマスコミは日本のEEZ内にミサイルが打ち込まれたと言っているが、それは「日本が主張するEEZ内に打ち込まれた」ということにすぎないのだ。が、NHKをはじめとした日本の報道機関は、政府の言い分を右から左に流すだけがお仕事なので、この辺りの状況は伝わってこない。
あまりにもこういうことが続くので、NHKの報道を見た後で英語報道と比べることが多くなった。例えばこんなこともあった。日米会談では「北朝鮮制裁に具体的な方策をとる」ということで合意されたようだが、トランプ大統領は具体策については言及せずに「北朝鮮はとてもとても悪い」としか言わなかったようだ。具体的なアイディアはなく「ただ言っただけ」である可能性が極めて高く、安倍首相はそれに「乗っただけ」という可能性が高い。外交的には極めて無能な首相だと言える。
今回菅官房長官は「情報収集につとめて」て「制裁を強める」と言っている。つまり実際には日本には情報は来ておらず、聯合ニュースで後付けて知らされるということを告白しているのにすぎない。制裁の具体策もないので、つまりは形だけ強がっている姿を見せている。菅官房長官の会見は棒読みで、安倍首相の後継として若手からの期待が集まっているというから、もはや本気で政権を擁護するつもりがあるのかも実はよくわからない。
日本の報道がどこかおかしいというのは「実は安倍政権は情報の隠蔽を図っている」というような声高なものではなく、じわじわと「ああ、政府はその無策ぶりをごまかしてるんだなあ」ということが日常レベルで感じられるということだ。多分、積極的に信じたいことだけを信じる人は読売新聞やNHKのみを見るということになるのだろうが、それ以外の通常の知性を持っている人はやがて「何か変だな」と思うようになるだろう。いつのまにか政権を信じることが知的に劣っていることの照明になってしまうのだ。
例の、共謀罪をめぐる国連と日本政府の相違はこのブログに詳しく解説されている。日本は国連の言ったことを都合の良いように解釈して報道機関に流しているということがわかる。たいていの新聞社は(これは朝日新聞も含めて)国連側には確認せず日本政府の言い分をそのまま伝えている。産経新聞に至っては「日本はG7の事実上の議長国だ」と言いつのり、アメリカとヨーロッパ諸国の間にあったコンフリクトについては目をつぶっている。
このように情報というのは国を統治するための重要な装置になっている。恐ろしいのは当事者たちが「コントロールできている」と思っていても、外国からそれとは違ったソースがバンバン流れてきてしまうということだ。すると国民は政府の情報を信じなくなるが、代わりに信頼できるソースがあるのかもわからないという状態に陥るだろう。その先にあるのはみんなが信じたいものだけを信じて騒ぎ出すという世界である。
今、共謀罪が問題になっているが実は情報の透明性に一番の問題があるように思える。プロセスが可視化されておりあとから検証が可能になっていれば、ある程度の冤罪は防げるだろうし、間違いを正すことができる。しかし、現在の政府ではあった情報をあとでなかったことにするというようなやり方が横行している。しかしこれも状況次第で「いや、実はありました」となり、大騒ぎが起きる。
ついには政権が政権お抱えのジャーナリストを擁護するために性犯罪をもみ消したという話も出てきた。これくらいのことはやってくるのだから、警察のチェックを強化しないで権限だけを強めるのはどう考えても危険だ。百歩譲って共謀罪がテロ防止に役に立つと仮定しても、同時に警察への抑止力を高めるべきだろう。
こうやってボディーブローのように政府の信頼性が失われ、それが公への疑問につながる。もし、保守という人たちが日本にまだ生きているのなら、どうやって社会や公の信頼性を確保するのかということを真面目に考え始める時期に来ているのではないだろうか。

日本人はどれくらい個人の意見を重要視しないかがわかるテスト

面白い書き込みを見つけた。NHKの報道を懸念した学者が呼びかけているものだ。これ、実は日本人かどうかがわかるテストになっている。これを読んで、国連報告者は「個人の資格で喋っているだけの人だ」と考えた人がいれば、それは典型的な日本人の思考だ。


最近、国連の報告者が「共謀罪はよく考えてから法制化するように」というレポートを出して大騒ぎになった。もともと「国連が共謀罪に反対している」という受け止められ方をし、その後に「あれは個人が勝手に言っていることだ」という説明がされた。目の前に二つの解釈が与えられると「どちらかを選択しなければならない」と考えるかもしれないのだが、実はどちらも正しくない。と同時にこの受け止め方は日本人の特性をよく表していると思う。
国連は個人の資格で調査をする人たちから情報を集めているようだ。彼らが調査しやすいように便宜も測っているのだろう。つまり、それなりに丁重に扱われなければならない。かといって、調査員たちは国連から指示をされて動いているわけではなく、個人の資格で発言し調査しているらしい。つまり、個人がありそれが組織を作っているということになる。個人が専門的な知見と個人の良心に基づいて行動していれば、全体の健康が保たれる。故に個人の意見は重要だ。
が、日本人はそのようには考えない。個人ではなく国連というラベルを見て判断し、その人の発言は集団を代表していると自動的に解釈する。これも日本人としては極めてまっとうな考え方であって説明の必要はない。つまり日本では組織が先にあり個人はその影響を受けるものと考えられていることになる。
だから「あの人は個人の資格で発言しているのですよ」となると、今度は一転して「集団のお墨付きがなく勝手に発言しているだけだ」といって無視してしまう。個人の良心というものを全く信頼していない上に、集団からの圧力だけが行動に影響を与えうると考えていることになる。
なぜこのように考えるのかはわからないが、国連という集団に一定の空気があって、個人は空気を読んで(あるいは忖度して)話しているのだと考えるのかもしれない。空気(国連の場合には国際世論などと言ったりするのだが)に異議を唱えないとその空気が定着してしまう。だから、菅官房長官のように「指摘は当たらない」などと強い態度に出てしまうのだろう。菅官房長官は、調査員のロジックを恐れているのではなく、国際世論の空気を恐れていることになる。国際世論が「偏りのない個人の意見に影響される」などとは考えないのだ。
実は官邸側も日本人の思い込みを巧みに利用している。日経新聞の記事では国連の事務総長の発表と日本の官邸側の発表の相違について書いている。「国連総長、慰安婦合意「内容触れず」 首相との懇談で」という記事を読むと、日本側が日韓合意に「国連のお墨付きを得た」というような印象操作をしたが、国連は内容まで踏み込んだ発表はしていないということがわかる。グデーレス事務総長はヨーロッパ流の公平さで「お互い約束したことは守らなければならないですよね」と言っているだけで、特にどちらかの国に肩入れしているわけではないのだ。が、官邸の「大本営報道」だけを見てしまうと、国連はやはり日本の味方なのだなあなどと感じてしまうのだ。
またNHKは北朝鮮を制裁するという日米の合意があたかもG7の総意になったかのように伝えた。多分「北朝鮮って困った国ですよねえ」くらいの合意はあったのかもしれないのだが、だからといって国際社会が制裁に積極的に参加してくれるという確約にはならない。
が重要なのは、国際社会の空気が安倍政権を信任してくれているという印象なのであり、こうした状態に居心地の良さを感じてしまうのだろう。
日本人に「日本人は個人の意見を尊重しない」と説明すると、大抵は集団の空気とは違った自分の石を我慢している境遇に重ね合わせて「俺の意見も少しは取り上げられるべきなのに」などと思ってしまう。だが、実際にはこの「個人を大切にしない」というマインドセットはかなり根深く、無意識のレベルに浸透しているように思える。右派とか左派には関係なく、日本人なら誰でもこうしたマインドセットを持っている。
冒頭のTweetを見ると、あのNHKでさえ無意識のうちに、国連から派遣されているということはすなわち国連の代表者の意を汲んでいるのだろうなどと思い込んでしまうくらいだ。
同じような誤解は現行憲法の解釈にも見て取れる。現行憲法はアメリカ人の思い込みによって作られている。それは、個人が民主主義というものに感謝して内心の自由というものを持てば、自然と社会は健全になり、軍部の暴走を内側から防いでくれるだろうという見込みだ。だからこそ表現の自由が民主主義にとって最重要とされているのだ。
だが実際には日本人は内心の自由などという概念を持たないので、表現の自由がなぜ民主主義にとって重要なのかということがよくわからない。だから表現の自由もあまり意味を持たない。もし日本人が内心の自由を持っていれば、現在の政治状況はこれほど混乱していないだろう。内心の自由よりも集団の空気や利益に影響を受けてしまう社会だ。かといって表現の自由の記述をなくしてしまうと、こうした集団優先の文化が暴走しかねない。
いずれにしても、日本人が個人の意見を重要視しないというのは価値判断を含んだステートメントではなく、多分単なる事実だ。これがわかるといろいろなことがもう少しシンプルに観察できるのではないだろうか。

共謀罪討論まとめと感想

共謀罪に関する討論を見たので感想をまとめる。
賛成派の人たちの主張の中で納得したのは、プロシージャー(手続き)に関連するものではないので、実際の捜査手法が変わるわけではないというもの。この線だけで見ると、法務大臣の説明は何だったのかということになる。通したいなら法務大臣を変えるべきではないかと思った。
一方反対派の主張は「今でも冤罪が起きているのでチェック手法を明確にすべきだと」いうもの。この主張が出ると賛成派が「色をなして反論」するので、ここが彼らが本当に隠したいことなのだなということがわかる。つまり問題がある現状が変わらないまま範囲が拡大するのが問題ということになる。
これを改善するためには、令状主義の徹底などをやるべきで、これは共謀罪関連だけではなく、その他の犯罪捜査にも言えることなのだろう。国連の話になると、さらに反論が「理屈ではない」ものになる。人の国を心配するならマルタのことを心配しろよなどと言っている。これも「プライバシーの保護」とチェックについて指摘しているので、政府と賛成派の心配は「内心の自由に踏み込むなら、警察もそれなりのチェックを受けろよ」と言われることなのではないかと思う。
民進党は、政権の批判に集中しているのでこのことに気がつくことはないのではないだろうか。

前川元事務次官のこと

前川さんという文部科学省のトップに立っていた人が個人攻撃されている。いざ現実になってみると「まああり得るのかもしれないな」などと思ってしまうのだが、集団が個人を社会的に葬り去ろうというのは実はかなり異様な風景だ。
これまで、文部科学省にもそれなりの利権構造があり、それを崩された怒りが官邸に向いたのだろうなどと考えていたのだが、その認識は改めなければならないなあと思った。あるブログを読んだからである。

「あったものをなかったものにできない。」からもらった勇気というタイトルの記事を読んだ。あるボランティア団体を運営している人が書いたものだ。前川さんは、特に肩書きなどを名乗ることもなく、そこに熱心に参加されていたのだという。

これを読んでもなお、今回の件の背景には文部科学省の天下り利権問題があるのだろうという認識は改められなかった。が、認識が変わったこともある。

どうやら「あんな事件」があってから前川さんの気持ちには変化があったのではないかと思うのだ。官僚にも第二の人生があり、その人生を守るためにはよい就職先が必要だ。国会の審議でも出てきたが、文部科学省の内部では「人道的措置」として天下りネットワークが作られてきたという認識があったようだ。つまり、国民から見れば不当な処理だが、内部では「助け合い」という認識があったのだろう。

だが、この「人道的措置」は官邸から崩されてしまう。原因として囁かれているのが、総理一派が規制緩和を利用して学校認可権を私物化しようとしていたことに反抗した文部科学省が官邸の怒りを買ったという説である。その意趣返しとして利権を取り上げられてしまったというのだ。

もし、利権構造が守られていれば、前川さんも官邸に逆らったりすることはなかったのではないかと思う。「自分たちの仲間の助け合い」と「個人の正義感」の間でアンビバレントな感情が生まれるからである。

だが、利権は崩れてしまった。そうすると「仲間たちを助け合う」ということはできなくなるので、今まで抑圧されていた「個人の正義感」が立ち現れる。ブログの著者の渡辺さんによると学校教育の一番の問題点は「大人が嘘をつく」ことなのだそうだ。

教育委員会の大人が嘘は、生活を維持するための助け合いという意味合いが強い。つまり自己保身の嘘であり、それはつまりまともな手段では生活が維持できないであろうという不安の裏返しなのである。

が、教育者としては子供達に「嘘はいけない」と言わなければならない。利権から解放されたことによって、もともと持っていた内心がやっと解放されたのかもしれない。加えて、一旦解放されてしまえばそれなりに生活も維持できるということがわかるのではないだろうか。

つまりは、もともと完璧に高潔で正しい判断ができる大人だったかどうかはわからないのだが「文部科学省の仲間を助けたい」という責任感から解放されたことによって、本来持っていた内心が解き放たれた可能性もある。さらには、これほど国に尽くしてきたのにそのことは間違いだったのかという煩悶もあったかもしれない。すると人は原点を見つめてみたくなるのではないか。一生懸命に勉強して教育行政に携わったのはなぜかという問題であり、そのために何を得て、何を失ったのかという内心の問題である。

もともと、集団というのは個人の利益を最大化するために存在するべきもので、その集団の維持そのものにはそれほどの意味はない。が、実際に集団ができてしまうと、崩すのが恐ろしく感じるようになるし、それが崩れるのを恐れた人たちから寄ってたかって個人の人格を貶められることもある。前川さんといえば、官僚のトップに立ったエライ人で、中曽根家とも姻戚関係にある。そんな人であっても、社会的に抹殺されかねない社会だ。普段からこういう無言の圧力を感じている人は実は多いのではないだろうか。

「あったものをなかったものにしない」というのは、筋を通す社会的な責任感から出ているのかもしれないのだが、もっと単純に一人ひとりが幸せを追求するためにできるだけ物事を単純化しようという気持ちなのかもしれない。

一連の騒動をみていると、その道のりは決して平坦ではないようだし、内情はうかがい知ることはできない。そこでヒントになるのは関わっている人たちの表情である。テレビで見た前川さんの表情はどこか淡々としていた。主張はかなり単純なもので「どういう経緯だったのかをありのままに見つめようよ」というものだ。一方、菅官房長官の目は日に日に釣りあがって行き、その言説も曲芸化している。さらに読売新聞の記者に至っては表にも出てこない。

この問題について、正義と悪を分けるのはやめたほうがいいかもしれない。が、物事はできるだけシンプルに捉えたほうがいいのではないかと思う。時には頑張ることも必要だが、楽に生きられるならそれに越したことはないのではないだろうか。

個人が報われないという実感

ウェブサイトのページビューは毎日見ているのだが、最近では安倍政権がうまくいっていないことさえ書いていればページビューが集まるという状態が続いているのであまり意味をなさなくなった。そろそろ次を探さなければならないので、フィードバックを見てみた。とはいえ直接何かを書いてくる人はほとんどいないのでエゴサーチすることになる。エゴサーチの結果わかったのは「個人が報われない」という記述に多くの反響が集まっているということだった。
このブログでは「個人が報われないという実感」いくつかの文脈で出てくる。
一つめの文脈は、利益配分に関するものだ。日本人は利益集団を通じて利益の配分と安全保障を実現しており、個人の資格でそこに参加しても交渉力が得られない。最近では集団が個人の利益を守りきれなくなっており、個人が損の受け手になることも増えてきた。つまり、利益は分けてもらえないのに責任ばかりを取らされるということになる。
最近、前川元事務次官が官邸からの攻撃にさらされているというニュースを見た。身分を明かさずにボランティアをされていたらしく、教育に携わっていた人として「子供に正しい姿を見せなければならない」と考えていた風にも受け取れる。が、ご本人はそんなことは一言もおっしゃらなかった。事務次官といえば官僚のトップだが、そういう人でさえ個人の正義感で社会を正常に保つことが難しくなっている。存在が自己目的化した集団が個人の正義感を簡単に抑圧してしまうのである。
もう一つの文脈は、日本人が関係性を重視するので個人の意見表明というものにあまり重きをおかないという点である。個人の考え、つまり内心というものもありえないので、集団の意見を個人の意見の代わりに表明することが多い。また個人で意見表明しても「取るに足らない考え」として無視される傾向がある。
個人が幸せになれないとか、集団が個人の幸福追求に役立っていないという一連のステートメントには、実はプロテストの意味合いは含まれていない。日本は西洋の個人社会と東洋の集団主義社会のちょうど真ん中に位置する少し特殊な社会で、そのことを指摘しているにすぎない。社会の変化が早くなってきており、集団が個人の利益を調整できなくなっているという事情もあり、この辺りを観察するといろいろなことが見えてくるのである。
いろいろな分析もできるし、個人が幸せを追求できるような世の中にした方がいいですよといった提言もできるのだが、今回はそれはやめておく。あることに気がついたからだ。
多分このブログの読者の多くはスマホやパソコンなどを使って個人として文章を読みながら「共感したこと」をリツイートしたりシェアしているのだと思う。こちらからはある程度まとまった動きとして見えるわけだが、読者の方は他の読者が何を考えているのかということはわからないのではないだろうか。
つまり、一人ひとりは「個人が尊重されて活躍できる世の中になってくれればいいなあ」などと思いつつそれを言い出せないということになる。
そうした状態から一歩踏み出すためには「自分の主張を自分の言葉できるようになった方がいいですよ」などと思うわけだが、これはそもそも内心に抱えている「自分らしく生きたい」という欲求を認めない限り意見表明などできない。が、それを他人に打ち出せないということは、自分の中でその欲求そのものを承認できていないのではと思うのだ。
自己が持っている欲求が承認できさえすれば、相手もそれを持っているということを認めるのは比較的簡単で、相互的な助け合いができるようになるだろう。少なくともそれを見た他人が「自分と同じ考えを持っている人は他にもいるんだなあ」と思うことができる。だが、承認できない(あるいはそういう欲求を持っていることを自覚できない)状態では、それ以上はどこにも進めないかもしれない。
ということで、今回は何の分析も提言もしないで、ただ単に「個人がもう少し尊重できる世の中になった方がいいなあ」と考えている人は多いですよ、ということだけを指摘してこの文章を終わりにしたい。自分らしくありたいという気持ちは多分それほど特殊なものではない。

NHKはG7報道で今度はどんな印象操作をしたのか

NHkのお昼のニュースを楽しみにしていた。今度はどんな印象操作をするのかなと思ったからだ。お昼のニュースでは「北朝鮮に対する圧力を強めることには賛同が得られたが、隔たりがある分野もあった」とされている。
一方、CNN(英語版)のG7のサマリーでは北朝鮮の話は出てこない。話題には上ったのかもしれないがメジャーな話題ではなかったようだ。そこで「北朝鮮への圧力」で検索をかけてみた。どうやら日本とアメリカ事前会談を行ってこのことについて話し合ったのは事実のようである。ホワイトハウス発の情報だったようだ。さらに検索するとオーストラリアの放送局が「トランプは北朝鮮の問題は解決されるだろうとG7に語った」というヘッドラインで伝えているのを見つけた。
NHKのニュースを漠然とみると「世界各国が協力して北朝鮮への圧力を強めてくれるんだな」という印象を持つわけだが、実際には「日米マター」ということになっていて、トランプ大統領が「何か言っている」ということがわかる。
オーストラリアの記事には次のようなトランプ大統領の発言が載っている。

“We will be discussing many things including of course North Korea which is very much on our minds,” he said in the Sicilian town of Taormina as he held bilateral talks with Abe at the start of the two-day G7 summit.

“It’s a big problem, it’s a world problem.

“It will be solved, you can bet on that,” he added, without giving further details.

Read more at http://www.9news.com.au/world/2017/05/26/21/03/trump-north-korea-will-be-solved#deBHKPrhSwZTbcpv.99

いわゆるトランプ英語だが、最後には「詳細は何も話さなかった」となっているので、いつものトランプ節だったようだ。
NHKは何も嘘はついていないのだが、印象操作を行ったのは間違いがないようである。外交的な成果がなかったので、官邸に怒鳴り込まれないようにかなり苦労をしたのかもしれない。賛同はしてもらえたのかもしれないが「勝手に日米でやりますんで」というのに反対意見が出なかったという方が近いのではないか。

利益集団 – 安保法制とモリカケ問題の違い

加計学園の問題が炎上ている。ここで面白いなと思うのは加計学園の問題については一切デモなどが起きていないにもかかわらず政権へのダメージが大きそうだということだ。国民が怒っているのは安保法制の問題の方であって、加計学園の問題ではないように見えるのに、これはどこかがおかしいのではないか、と思った。
安保法制は平和国家のあり方に関わる大きな問題だ。憲法の問題ともリンクしており学者や一部の<市民>の猛烈な反発を招いた。だが、よく知られているようにこの問題はそれほど安倍政権の支持率には影響を与えなかった。つまり、大方の人は「どうでもいい」と思っているのだ。
一方、獣医学部をどうするかとか、神道系新興宗教の教義を教える学校を作るということはどちらかといえば瑣末なことで国民生活にはあまり関係がなさそうだ。にもかかわらずこちらが問題になるのは政府の許認可という利権に関わっているからだろう。一部の人が優遇されて「ずるい」という感情の方が、一般の人たちの関心を引きやすいのだ。つまり、政権は利権を「公平に」扱えないということが信任に影響していると考えられる。
森友学園問題は安倍総理の支持母体である神道系新興宗教(いわゆる国家神道のことだが……)を足がかりにして学校利権に食い込もうとして最後の最後に排除されるという物語だった。途中経過でかなりあからさまな(そして、多分違法性がある)国有地の売却が行われていたし、国と府が予定調和的に調整し合っていた様子もうかがえる。一方、獣医学部も既得権益を総理大臣のお友達に譲渡するという物語である。途中でルールが変わりコンペティターが排除された。
それに加えて、加計学園問題では露骨な省庁同士の内部抗争が行われていたという話がある。文部科学省は学校権益に内閣府が介入するのに反抗しており、その意趣返しとして天下り利権を潰されたというような話である。
ここから言えることは、日本人は自分に関係がないことについてはあまり一生懸命にならないということだ。だが、いったん利権から排除されると、そこに怒りが生じ「自分の立場を危うくしてでも相手を潰してやりたい」というような気持ちになるのだ。
もう一つの特徴は、意思決定が表向き見えにくいという特殊事情だ。意思決定とそれを正当化するリチュアルが分離しているので、外から攻撃されてもどうとでも言いくるめることができてしまう。だが、利権集団はインサイダーとして機能していて、どのような意思決定が行われたかということを知っており、注意深い人たちは記録さえ残している。利権集団が機能している時、交渉がアンダーテーブルで行われる。いったん利害関係から切り離されてしまうとそれを暴露して騒ぎが起きるという構図がある。もともと根回しは人に聞かれるとまずい情報を含んでいるということである。
日本人はそもそも表の議論には何の価値も感じていないし、相手を信用もしていないということだ。表向きの議論は利益分配に正当性を与えるためのリチュアルに過ぎない。議論が行われないわけだから、個人が利害を追求するということはできないわけで、集団だけが信頼されるという根拠になるのではないだろうか。
まとめると次のようになる。

  • 日本人は利益にのみ反応する。相手が「不当に」利益を得ると、自分の身の安全を置いてでも相手を罰したいという感情が生まれる。
  • 日本人は利益追求を水面下で行う。表向きの議論は正当性を与える儀式にすぎない。裏で行われている議論が表面化すると大騒ぎになる。
  • 利益追求は集団単位で行われるので、個人の利益を追求することは仕組み上できない。

ここからデモを起こして平和について訴えたり、原子力発電所の停止を訴えても誰も動かない理由がわかる。これらは集団的利権には関係しないので、そもそも政治イシューではないのだ。デモが盛り上がらないのも「デモで騒いでいる人たちはどうせ裏で何かの利益集団とつながっているのだろう」と理解されて支持が広がらないのかもしれない。
日本にはいわゆる利益分配としての民主主義など最初から存在しないことになる。民主主義もまたリチュアルであって、実質上は何の意味もないのだ。もし日本が中国に占領されていたら、共産党の指導体制がリチュアルになっていたのかもしれない。
日本が非正規雇用化すると、インサイダーではなくなる。だから、その会社の利益追求には無関心になるだろう。これは日本の成長力を大きく削ぐに違いない。アメリカでも同じような議論があり、インセンティブをどう設計するのかということがよく問題になるギャラップ社の調査によると、熱意のある社員の割合は139ヵ国中132位なのだそうだ。会社が個人にとって利益集団ではなくなっているからなのだろう。アメリカは競争力を強めることでやる気を引き出したそうだが、日本もそうなるとは限らない。従業員と経営者が別の利益集団になり、ますます冷めた関係になってしまうのではないだろうか。
国民が政治への熱意を失っているのは、それが自分たちに関係がないと考えているからなのかもしれない。つまり、一億層活躍と言う言葉とは裏腹に日本は非正規国民化していると言えるのである。

「民進党へのブーメラン」という詭弁

理屈にならない理屈で国民を騙しおおせると考える自民党の傲慢

菅官房長官が民進党へのブーメランを投げた。「獣医学部新設は民主党政権時代から始まっていた」から「安倍政権の意向ではない」というのだ。
だが、獣医学部新設が民主党時代に着想されたからといって加計学園が正当化されるわけではないということはちょっと考えればすぐに分かることで、これを理解するのに大した知性は必要としない。もし知性が必要なら、政治に専門的な知識のない僕は以下書くようなことは書けないだろう。
つまり、安倍政権はすぐにバレるような嘘をついているということになるのだが、それは「この程度で国民は騙されるだろう」と言っているのと同じことになる。国民が侮辱されているのである。
確かにNHKの報道によると、獣医学部の新設は民主党時代から始まっており、加計学園はリストに含まれていたそうである。つまり、獣医学部の規制にはどこかおかしいところがあった可能性があると。その<改革路線>を安倍政権が引き継いだ。それはそれで「いいこと」だったのかもしれない。

政権交代で利権構造が変化して均衡が破られた

しかしながらこれまでの議論でいくつかのことがわかっている。一つは安倍政権が特定の条件を後出しでつけることによって他の学校(京産大だそうだ)が参入できないように規制をかけたという点である。つまり、岩盤規制をなくすといいながら、新しい利権を作っていたことは明白だ。
もう一つは文部科学省の証言である。前川証言によると「農林水産省は獣医師の需給がどのようになるか」という見通しを立てないままだということがわかっている。京都では獣医師が不足しており、愛媛ではそうでないということもわかっている。つまり、そのまま議論をしていれば今治市よりも関西都市圏に学校ができていた可能性が高かったということになる。市場経済を歪めて利権を優先しているのである。
もともとの自民党の成り立ちを考えると、集団的な利益集団が均衡状態を作っており、新しい規制緩和はできなかったのだいうことが予想できる。民主党政権でこの利権構造が変化した。そこでそれを利用すれば、自分たちのところにより大きな利権を引き込むことができるということに気がついたのだろう。
もちろん民主党が「自民党が作っていた利権構造に食い込む」ことで新しい利権の獲得を目指していた可能性は否定できない。ゆえに民主党対自民党という構造が持ち込まれると「どちらが正しいかはよくわからない」ということになる。また、文部科学省が「抵抗勢力だった」ということも考えられる。つまり前川さんもそれなりの利権構造に乗っていてそれほど「イイヒト」ではないのかもしれない。

日本の政治には改革の継続性を担保する仕組みがない

だが、実際にここから学ぶべきなのは、実は日本の政治には改革の継続性についての重大な欠陥があるということだ。このままの利権構造を保持していても財政の均衡化は図れないことがわかっているので、これはかなり深刻度が高い。
長期政権が続くと集団間の利害が均衡して全く変化ができなくなる。かといって、政権交代が起こると今度は動いた均衡が別の政権によって悪意に利用される可能性があるということになる。本来なら政権交代は政治の私物化を防ぐために機能すべきなのだが、実際には私物化を促進するように機能しているのだ。これは政権と独立した機関による監査が適切に行われていないことで起こるのかもしれない。

継続性を監視できず、政局報道に終始するマスコミは責任を放棄している

もちろん独立した機関が公平性を担保すべきなのかもしれないが、実はマスコミには監視機能があるはずで、日本のマスコミが対立の中に入って「自民党が正しい」とか「自民党は間違っている」という争いに夢中になるということは、マスコミの責任放棄だ。Twitterのくだらない議論はそうしたマスコミの延長線上にあり、短文だから議論が深まらないというような話ではないのだ。