毎日新聞に天皇陛下が退位についての議論についてショックを受けているという報道が出たらしく、朝からTwitterでは騒ぎが起きている。これを見いていて、特に考察ポイントも建設的なアウトプットもないのだが、一文書いてみることにした。
一言「情けない」としか言えない。
今上陛下の立場には前例がなく、政治的な権限も制限されている。そんな不自由な状況下で、自分には何ができるのだろうかということを真剣に考えたのだろう。そこでたどり着いたのが、困った人たちの目線に立って共感を示すということだった。寄り添うというのは大切なことだけれども、多くの人たちは日々の暮らしを立てるのに忙しく、そのような活動には従事できない。そこでその役割を引き受けられたのだろう。
そんな人に向かって、いわゆる「天皇を大切に思う」という立場の人たちが何を言ったのか。「儀式だけしてくれて、血統がつながればそれでいいんだよ」と言い放ったのだ。つまり、人が生涯をかけて行おうとしたことを「そんなことはどうでもいい」と言って切り捨てたのだ。
毎日新聞はこう書いている。
ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀(さいし)だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
話がおかしくなっているのは安倍首相の名前が書かれているからだと思うのだが、よく考えると、私たちも天皇の活動に特に感謝もしなかったし、ねぎらいもしなかった。単にニコニコ笑って手を振っているのを見て「毎度ご苦労さんだなあ」くらいしか思ってこなかった。が、皇族だって笑いたくない日もあるだろう。たまたまその家に生まれたからといって、ニコニコ笑って手だけを振って、暇な時間には研究でもしながら、引っ込んで儀式だけしといてくれればいいんだよなどというのはかなり異常な光景だと思う。が、皇室はそれについて文句は言わない。
それに加えて「宮内庁は政治的な発言力を求めている。何様のつもりだ」みたいなTweetが多く流れてきている。安倍首相を応援していて、それ以外の人たちはすべて共産主義者くらいに思っているんだけど、それってどうなんだろうか。
そもそも、国って何なのと思う。「形だけあればいいのか」ということだ。中身があってそこにいる人が笑っていられるからいい国なんじゃないのかと思うわけだ。だが、天皇をいただく国家を作りたい人にとって国というのはそういうものではないらしい。が、それはたんなるがらんどうの空間ですよ。中には何もないですよ。
例えばキリスト教の教会にいってみれば良いと思うのだが。そこで儀式したり、難しい言葉で飾っても、そこには神様なんかいない。教会に来て祈りを捧げたり、信者同士で話を聞きあったりするところに価値があるのだ。確かに、神様の凄さを表現するために大きくて立派な建物を立てたりすることはあるけれども、祈りのない巨大な空間には何の意味もない。
教義がないなかで一つの祈りを代々受け継いでいるからこそ、あれは美しいわけで、DNAに意味があるわけではない。神道は例えてみれば火のようなものである。火の形を捉えようとしても捉えられないし、触れることもできない。が、確かにそこにあるし、光を放ち続けている。なぜそれが美しいかといえば、稲を育てて種籾を取り次の命につないでゆくのと同じような根源的な営みがあるからだ。ついでにいえば、私たちも一粒の籾のような存在だ。
確かに儀式というのは祈りの一つの形なのだが、そこに意味がなければ何の価値もない。が、ここでいう意味は言葉で記述できるようなものではない。農業をやっている国は多いけれど、それを祈りのかたちに昇華した国がいくつあるのかという問いを、保守派で「儀式だけやってくれりゃいいんだ」と言い放った人にひとしきり説教した上で問い詰めたい。
きっと彼らは「稲なんて種蒔きゃ生えてくるだろう」くらいのことをいうのだろうが、そういう当たり前のことがどれだけの恩寵によるものなのか、多分理解していないんではないだろうか。つらいことにぶつかった人々の生活がこの先もできるだけ安寧に続いてゆくように励ますのは、我々が先祖から受け継いできた祈りの一つのかたちなのだとどうして思えないのだろう。
ということで、筋がなくめちゃくちゃな文章だが、言いたいことをいったら少しだけすっきりした。