加計学園の問題が炎上ている。ここで面白いなと思うのは加計学園の問題については一切デモなどが起きていないにもかかわらず政権へのダメージが大きそうだということだ。国民が怒っているのは安保法制の問題の方であって、加計学園の問題ではないように見えるのに、これはどこかがおかしいのではないか、と思った。
安保法制は平和国家のあり方に関わる大きな問題だ。憲法の問題ともリンクしており学者や一部の<市民>の猛烈な反発を招いた。だが、よく知られているようにこの問題はそれほど安倍政権の支持率には影響を与えなかった。つまり、大方の人は「どうでもいい」と思っているのだ。
一方、獣医学部をどうするかとか、神道系新興宗教の教義を教える学校を作るということはどちらかといえば瑣末なことで国民生活にはあまり関係がなさそうだ。にもかかわらずこちらが問題になるのは政府の許認可という利権に関わっているからだろう。一部の人が優遇されて「ずるい」という感情の方が、一般の人たちの関心を引きやすいのだ。つまり、政権は利権を「公平に」扱えないということが信任に影響していると考えられる。
森友学園問題は安倍総理の支持母体である神道系新興宗教(いわゆる国家神道のことだが……)を足がかりにして学校利権に食い込もうとして最後の最後に排除されるという物語だった。途中経過でかなりあからさまな(そして、多分違法性がある)国有地の売却が行われていたし、国と府が予定調和的に調整し合っていた様子もうかがえる。一方、獣医学部も既得権益を総理大臣のお友達に譲渡するという物語である。途中でルールが変わりコンペティターが排除された。
それに加えて、加計学園問題では露骨な省庁同士の内部抗争が行われていたという話がある。文部科学省は学校権益に内閣府が介入するのに反抗しており、その意趣返しとして天下り利権を潰されたというような話である。
ここから言えることは、日本人は自分に関係がないことについてはあまり一生懸命にならないということだ。だが、いったん利権から排除されると、そこに怒りが生じ「自分の立場を危うくしてでも相手を潰してやりたい」というような気持ちになるのだ。
もう一つの特徴は、意思決定が表向き見えにくいという特殊事情だ。意思決定とそれを正当化するリチュアルが分離しているので、外から攻撃されてもどうとでも言いくるめることができてしまう。だが、利権集団はインサイダーとして機能していて、どのような意思決定が行われたかということを知っており、注意深い人たちは記録さえ残している。利権集団が機能している時、交渉がアンダーテーブルで行われる。いったん利害関係から切り離されてしまうとそれを暴露して騒ぎが起きるという構図がある。もともと根回しは人に聞かれるとまずい情報を含んでいるということである。
日本人はそもそも表の議論には何の価値も感じていないし、相手を信用もしていないということだ。表向きの議論は利益分配に正当性を与えるためのリチュアルに過ぎない。議論が行われないわけだから、個人が利害を追求するということはできないわけで、集団だけが信頼されるという根拠になるのではないだろうか。
まとめると次のようになる。
- 日本人は利益にのみ反応する。相手が「不当に」利益を得ると、自分の身の安全を置いてでも相手を罰したいという感情が生まれる。
- 日本人は利益追求を水面下で行う。表向きの議論は正当性を与える儀式にすぎない。裏で行われている議論が表面化すると大騒ぎになる。
- 利益追求は集団単位で行われるので、個人の利益を追求することは仕組み上できない。
ここからデモを起こして平和について訴えたり、原子力発電所の停止を訴えても誰も動かない理由がわかる。これらは集団的利権には関係しないので、そもそも政治イシューではないのだ。デモが盛り上がらないのも「デモで騒いでいる人たちはどうせ裏で何かの利益集団とつながっているのだろう」と理解されて支持が広がらないのかもしれない。
日本にはいわゆる利益分配としての民主主義など最初から存在しないことになる。民主主義もまたリチュアルであって、実質上は何の意味もないのだ。もし日本が中国に占領されていたら、共産党の指導体制がリチュアルになっていたのかもしれない。
日本が非正規雇用化すると、インサイダーではなくなる。だから、その会社の利益追求には無関心になるだろう。これは日本の成長力を大きく削ぐに違いない。アメリカでも同じような議論があり、インセンティブをどう設計するのかということがよく問題になるギャラップ社の調査によると、熱意のある社員の割合は139ヵ国中132位なのだそうだ。会社が個人にとって利益集団ではなくなっているからなのだろう。アメリカは競争力を強めることでやる気を引き出したそうだが、日本もそうなるとは限らない。従業員と経営者が別の利益集団になり、ますます冷めた関係になってしまうのではないだろうか。
国民が政治への熱意を失っているのは、それが自分たちに関係がないと考えているからなのかもしれない。つまり、一億層活躍と言う言葉とは裏腹に日本は非正規国民化していると言えるのである。