ざっくり解説 時々深掘り

前川元事務次官のこと

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前川さんという文部科学省のトップに立っていた人が個人攻撃されている。いざ現実になってみると「まああり得るのかもしれないな」などと思ってしまうのだが、集団が個人を社会的に葬り去ろうというのは実はかなり異様な風景だ。
これまで、文部科学省にもそれなりの利権構造があり、それを崩された怒りが官邸に向いたのだろうなどと考えていたのだが、その認識は改めなければならないなあと思った。あるブログを読んだからである。

「あったものをなかったものにできない。」からもらった勇気というタイトルの記事を読んだ。あるボランティア団体を運営している人が書いたものだ。前川さんは、特に肩書きなどを名乗ることもなく、そこに熱心に参加されていたのだという。

これを読んでもなお、今回の件の背景には文部科学省の天下り利権問題があるのだろうという認識は改められなかった。が、認識が変わったこともある。

どうやら「あんな事件」があってから前川さんの気持ちには変化があったのではないかと思うのだ。官僚にも第二の人生があり、その人生を守るためにはよい就職先が必要だ。国会の審議でも出てきたが、文部科学省の内部では「人道的措置」として天下りネットワークが作られてきたという認識があったようだ。つまり、国民から見れば不当な処理だが、内部では「助け合い」という認識があったのだろう。

だが、この「人道的措置」は官邸から崩されてしまう。原因として囁かれているのが、総理一派が規制緩和を利用して学校認可権を私物化しようとしていたことに反抗した文部科学省が官邸の怒りを買ったという説である。その意趣返しとして利権を取り上げられてしまったというのだ。

もし、利権構造が守られていれば、前川さんも官邸に逆らったりすることはなかったのではないかと思う。「自分たちの仲間の助け合い」と「個人の正義感」の間でアンビバレントな感情が生まれるからである。

だが、利権は崩れてしまった。そうすると「仲間たちを助け合う」ということはできなくなるので、今まで抑圧されていた「個人の正義感」が立ち現れる。ブログの著者の渡辺さんによると学校教育の一番の問題点は「大人が嘘をつく」ことなのだそうだ。

教育委員会の大人が嘘は、生活を維持するための助け合いという意味合いが強い。つまり自己保身の嘘であり、それはつまりまともな手段では生活が維持できないであろうという不安の裏返しなのである。

が、教育者としては子供達に「嘘はいけない」と言わなければならない。利権から解放されたことによって、もともと持っていた内心がやっと解放されたのかもしれない。加えて、一旦解放されてしまえばそれなりに生活も維持できるということがわかるのではないだろうか。

つまりは、もともと完璧に高潔で正しい判断ができる大人だったかどうかはわからないのだが「文部科学省の仲間を助けたい」という責任感から解放されたことによって、本来持っていた内心が解き放たれた可能性もある。さらには、これほど国に尽くしてきたのにそのことは間違いだったのかという煩悶もあったかもしれない。すると人は原点を見つめてみたくなるのではないか。一生懸命に勉強して教育行政に携わったのはなぜかという問題であり、そのために何を得て、何を失ったのかという内心の問題である。

もともと、集団というのは個人の利益を最大化するために存在するべきもので、その集団の維持そのものにはそれほどの意味はない。が、実際に集団ができてしまうと、崩すのが恐ろしく感じるようになるし、それが崩れるのを恐れた人たちから寄ってたかって個人の人格を貶められることもある。前川さんといえば、官僚のトップに立ったエライ人で、中曽根家とも姻戚関係にある。そんな人であっても、社会的に抹殺されかねない社会だ。普段からこういう無言の圧力を感じている人は実は多いのではないだろうか。

「あったものをなかったものにしない」というのは、筋を通す社会的な責任感から出ているのかもしれないのだが、もっと単純に一人ひとりが幸せを追求するためにできるだけ物事を単純化しようという気持ちなのかもしれない。

一連の騒動をみていると、その道のりは決して平坦ではないようだし、内情はうかがい知ることはできない。そこでヒントになるのは関わっている人たちの表情である。テレビで見た前川さんの表情はどこか淡々としていた。主張はかなり単純なもので「どういう経緯だったのかをありのままに見つめようよ」というものだ。一方、菅官房長官の目は日に日に釣りあがって行き、その言説も曲芸化している。さらに読売新聞の記者に至っては表にも出てこない。

この問題について、正義と悪を分けるのはやめたほうがいいかもしれない。が、物事はできるだけシンプルに捉えたほうがいいのではないかと思う。時には頑張ることも必要だが、楽に生きられるならそれに越したことはないのではないだろうか。