面白い書き込みを見つけた。NHKの報道を懸念した学者が呼びかけているものだ。これ、実は日本人かどうかがわかるテストになっている。これを読んで、国連報告者は「個人の資格で喋っているだけの人だ」と考えた人がいれば、それは典型的な日本人の思考だ。
メディア各位、
国連人権理事会の特別報告者の声明を「国連」と略すのは止めてください。国連の総意でも何でもありません。せめて特別報告者の報告書や声明に基づいた決議が採択されてからにしてください。https://t.co/Zo6plmD3Kx
— Kazuto Suzuki (@KS_1013) 2017年5月28日
最近、国連の報告者が「共謀罪はよく考えてから法制化するように」というレポートを出して大騒ぎになった。もともと「国連が共謀罪に反対している」という受け止められ方をし、その後に「あれは個人が勝手に言っていることだ」という説明がされた。目の前に二つの解釈が与えられると「どちらかを選択しなければならない」と考えるかもしれないのだが、実はどちらも正しくない。と同時にこの受け止め方は日本人の特性をよく表していると思う。
国連は個人の資格で調査をする人たちから情報を集めているようだ。彼らが調査しやすいように便宜も測っているのだろう。つまり、それなりに丁重に扱われなければならない。かといって、調査員たちは国連から指示をされて動いているわけではなく、個人の資格で発言し調査しているらしい。つまり、個人がありそれが組織を作っているということになる。個人が専門的な知見と個人の良心に基づいて行動していれば、全体の健康が保たれる。故に個人の意見は重要だ。
が、日本人はそのようには考えない。個人ではなく国連というラベルを見て判断し、その人の発言は集団を代表していると自動的に解釈する。これも日本人としては極めてまっとうな考え方であって説明の必要はない。つまり日本では組織が先にあり個人はその影響を受けるものと考えられていることになる。
だから「あの人は個人の資格で発言しているのですよ」となると、今度は一転して「集団のお墨付きがなく勝手に発言しているだけだ」といって無視してしまう。個人の良心というものを全く信頼していない上に、集団からの圧力だけが行動に影響を与えうると考えていることになる。
なぜこのように考えるのかはわからないが、国連という集団に一定の空気があって、個人は空気を読んで(あるいは忖度して)話しているのだと考えるのかもしれない。空気(国連の場合には国際世論などと言ったりするのだが)に異議を唱えないとその空気が定着してしまう。だから、菅官房長官のように「指摘は当たらない」などと強い態度に出てしまうのだろう。菅官房長官は、調査員のロジックを恐れているのではなく、国際世論の空気を恐れていることになる。国際世論が「偏りのない個人の意見に影響される」などとは考えないのだ。
実は官邸側も日本人の思い込みを巧みに利用している。日経新聞の記事では国連の事務総長の発表と日本の官邸側の発表の相違について書いている。「国連総長、慰安婦合意「内容触れず」 首相との懇談で」という記事を読むと、日本側が日韓合意に「国連のお墨付きを得た」というような印象操作をしたが、国連は内容まで踏み込んだ発表はしていないということがわかる。グデーレス事務総長はヨーロッパ流の公平さで「お互い約束したことは守らなければならないですよね」と言っているだけで、特にどちらかの国に肩入れしているわけではないのだ。が、官邸の「大本営報道」だけを見てしまうと、国連はやはり日本の味方なのだなあなどと感じてしまうのだ。
またNHKは北朝鮮を制裁するという日米の合意があたかもG7の総意になったかのように伝えた。多分「北朝鮮って困った国ですよねえ」くらいの合意はあったのかもしれないのだが、だからといって国際社会が制裁に積極的に参加してくれるという確約にはならない。
が重要なのは、国際社会の空気が安倍政権を信任してくれているという印象なのであり、こうした状態に居心地の良さを感じてしまうのだろう。
日本人に「日本人は個人の意見を尊重しない」と説明すると、大抵は集団の空気とは違った自分の石を我慢している境遇に重ね合わせて「俺の意見も少しは取り上げられるべきなのに」などと思ってしまう。だが、実際にはこの「個人を大切にしない」というマインドセットはかなり根深く、無意識のレベルに浸透しているように思える。右派とか左派には関係なく、日本人なら誰でもこうしたマインドセットを持っている。
冒頭のTweetを見ると、あのNHKでさえ無意識のうちに、国連から派遣されているということはすなわち国連の代表者の意を汲んでいるのだろうなどと思い込んでしまうくらいだ。
同じような誤解は現行憲法の解釈にも見て取れる。現行憲法はアメリカ人の思い込みによって作られている。それは、個人が民主主義というものに感謝して内心の自由というものを持てば、自然と社会は健全になり、軍部の暴走を内側から防いでくれるだろうという見込みだ。だからこそ表現の自由が民主主義にとって最重要とされているのだ。
だが実際には日本人は内心の自由などという概念を持たないので、表現の自由がなぜ民主主義にとって重要なのかということがよくわからない。だから表現の自由もあまり意味を持たない。もし日本人が内心の自由を持っていれば、現在の政治状況はこれほど混乱していないだろう。内心の自由よりも集団の空気や利益に影響を受けてしまう社会だ。かといって表現の自由の記述をなくしてしまうと、こうした集団優先の文化が暴走しかねない。
いずれにしても、日本人が個人の意見を重要視しないというのは価値判断を含んだステートメントではなく、多分単なる事実だ。これがわかるといろいろなことがもう少しシンプルに観察できるのではないだろうか。