日本語はどれくらいコンテクスト依存なのか

最近面白い経験をした。Quoraで「私はお預け」というのはどういう意味かと聞かれたのだ。わからないので適当に「男が女に寝てくれと頼んだがお預けと言われた」というシーンを想定しておもしろおかしく書いたところ、17000回も閲覧されてしまった。

Quora初心者としては思わぬ反響だったので「しまった」と思い、真面目に答えようとgoogleで検索した。すると2つの例が見つかった。1つはポルノ小説でお高く止まった女性に「お預けをくらった」男というものだった。これは最初の想定に似ている。

さらにもう一つはインスタグラムのタグだった。アップルパイの写真で「クリームが入っているから私はお預け」というものだった。アップルパイにクリームが使われているとは思えないのだが、どうやら「私は食べられない」ということが言いたいのではないかと思う。

すると、質問をした人からコメントが戻ってきた。よくわからないのだが「ナルト」という漫画のシーンだった。久しぶりに夫が帰ってきて一夜を過ごす。次の日に妻はお弁当を渡す。すると夫は娘にデコピンをする。妻は「私はお預け?」というのだ。これは絶対にわかりっこないし、漫画のシーンだけを見せられても彼女の心情はわからない。

日本語は難しい。アップルパイの例では「主語は何だろうか」がよくわからない。英語だと「私はアップルパイが食べられない」というか「アップルパイがお預けだ」になる。が少なくとも、私に主郭を表す格助詞をつけて「私は」とするのは英語としては正しくない。

これが成り立つのは日本の主格が主語とは違った概念だからなのだろうが、コンテクスト(ここでは写真)がないとよくわからなくなる。

例えば国会審議や政治討論番組を聞いていると「私は正しくない」という言葉をよく聞く。これは私が間違っているという意味ではなく、そのあとに続くのはなんらかの否定文である。実際には「私はあなたが言っていることは間違っていると思う」ということを言っているのだ。これもその場のコンテクストを通して見ないとわからなくなってしまう。

ナルトの例題はさらに難解だが、Quoraではナルト関連の質問を時々見かけるので漫画で日本語を学んでいる人は少なくないらしい。漫画の日本語は日本人でも難しい。余韻を作るために伏線を作ったり、インダイレクトなコミュニケーションを多用するからだ。

漫画を最初から読まないとこの夫がどういう立場にいるのかはよくわからないし、思わせぶりなシーンの意味すらわからない。デコピンがお預けになっているのは、多分「娘にはデコピンをしてくれるのに、私にはしてくれない」という子供じみた態度から、妻がどれだけ夫を愛しているのかということを示しつつ、夫が帰ってきて妻にデコピンをしてくれるだろうという期待感を示しているのかもしれないのだが思える。が、正確なことはわからない。いずれにせよかなりの量のコンテクストに依存していることがわかる。

英語でこうしたことが起こりにくいのは文章の構造が比較的はっきりしているからだと思う。が、これが日本語が劣っているからだと結論付けるのは正しくないかもしれない。頭に浮かんだことに格助詞などのマーカーをつけてとにかくつないでゆけばあとは文脈から補完が効くという仕組みになっていて、話者と聞き手の間に一定の共通認識があれば、英語よりは自由度が高そうだ。

Twitterは140文字で文章を作ることができる。漢字を使っているので極めて集積度が高い上に非論理的な文章が作れてしまう。しかも相手とは文脈を共有しない。これでは喧嘩が絶えないわけだと思った。

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麻生さんの「ヒトラーは動機が正しかった」発言について思うこと

麻生さんが派閥の会合でヒトラーは動機が正しかったが結果が間違っていたと発言して問題になった。ヒトラー=いけない人ということになっているので脊髄反射的な側面もあると思う。今日はこれがどう問題なのか考える。

第一の問題は麻生さんが繰り返しヒトラーやナチスに対する信仰告白をするのをどう捉えるかだ。過去にヒトラーの手口に学んだらどうかと言っているので、多分ヒトラーをある程度評価しているものと思われる。周りがあれこれ推測していても本人の理屈はわからないので、ぜひ一度考え方について説明すべきだろう。

類推すると、自分の考える正義を貫くためには手段を選んではいけないということなのではないかと思う。経済が一時的に上向いたことは確かなのでこれを評価しているのかもしれないし、アウトバーン網やフォルクスワーゲンなど今につながる資産も残っている。

ところがそもそもヒトラーが経済を打開するための手段としてユダヤ人を殺したり共産党を弾圧したのかはよくわからない。物事を解決するために他人を殺したり社会的に抹殺すべきだと考える人はいるかもしれないが、それを実行するのは明らかにサイコパス的な特徴だからだ。

次に「正しいか正しくないか」は政治家が知っていてコントロール可能であるという考え方も危険かもしれない。統治者は、自分が正しいことをやっているかどうかは自分ではわからない。だからチェックが必要だというのは人間が経験を通じて学んだ大切な戒めだ。仮に、当初の目的が正しかったとしても副作用が出る可能性はあるわけで、その副作用を責められた結果権力に立てこもるようになるということもある。

例えばベネズエラでは「石油の富を平等に分配する」という理念のもとで社会主義的な政策が取られたのだが、現在の経済は破綻状態にある。チャベス大統領のやったことは「正しかった」かもしれないが、完璧ではなかった。

麻生さんが「ヒトラーの何が正しいと考え、何が間違っていたのか」を言わないので、周囲にいる人たちがあれこれ騒ぎ立てるのだが、騒いでいるだけではヒトラーの何がおかしかったのかということはよくわかってこない。

ヒトラーは極めて取り扱いが難しい爆薬のようなものだ。日本人にはなかなかわかりにくいがこれを日本人が絶対悪だと考えているが清算できていない問題に変えてみるとよくわかる。それが原爆である。

アメリカ人には「原爆は戦争を終わらせるために仕方なく投下された」と考える人がいる。政府のプロパガンダだとも言われるが正確なところはよくわからない。ところが日本人に平気でこれをいう人がいる。日本人は原爆をひどい仕打ちだと考えているがアメリカの統治を受け入れるためにこれを天災のように扱っている。そこで感情が動くわけである。ヒトラーにも同じような側面があり、ドイツ人は自分たちの中にある狂気が利用されたという気持ちを抱えつつ、戦後ヨーロッパの一員になるためにナチを厳しく封印してきている。これを軽々しく持ち出してきて評論家のように語ればどういう影響があるのかということを麻生さんは考えていないのだろう。

こうした複雑な事情に加えて「正しい」という言葉に対する認識の違いもある。

英語で「right」というと正義という概念を含むので、これを一方的に使うとかなり嫌われる。つまり、評価は人それぞれであるはずなので、そもそも正しい答えなどないと考える人が一定数いるからである。その上でヒトラーは正しかったと言ってしまうと「ヒトラーは正義だった」ということになり、とても受け入れられそうにない。

一方、今回はcorrectという言葉で翻訳されたようだ。こちらは正解とかあるべき姿だいう意味を含んでいる。オリジナルの動機が「正解だった」というのはどういう意味だろうと考えることになる。

Rightという言葉は「内なる価値判断基準に照らし合わせて正しい行いだった」というニュアンスを含む。ドイツ人の経済を発展させるために共産党員を投獄しユダヤ人を収容所送りにするのは「キリスト教徒である麻生さんの価値判断基準としては正しかったのか」という疑問が浮かぶ。

欧米人は「神」を持っていて、この神の意思に添うように自分を律するのが正しいと考えている。が、この神の原理は何かということがしばしば問題になる。一時期マイケル・サンデルの「これから「正義」の話をしよう」という本が話題になった。マイケル・サンデルはコミュニティに共通する価値観がありそれを共同で追求するのが「正義だ」と考えているようだが、それとは違った例えば功利主義的な正義についてもわかりやすく解説している。つまり神様というのは言葉であり論理なのだ。

麻生さんが安易に「当初の目的は正しかったが結果は間違っていた」という時、そこにある「正しい」の論拠は何なのだろうか。

日本人はロジックによる神を持たないので、多数派が正しいということになる。つまり勝てば官軍だと考えるわけだ。こう考えると、ヒトラーは政権を取った時には多数派で正しかったが(実は選挙による多数派ではないので、これも間違いなのだが)最終的にはニュルンベルク裁判で負けたので正しくなくなったというような説明ができるが、これを欧米の人に説明すると、心底ぎょっとされるのではないかと思う。つまり日本人は多数派が形成できないと黙っているが、勝負に勝てると思うと突然暴れ出すかのように受け取られかねないからである。

事実日本ではこうした主張がなくならない。東京裁判に負けた時には力の面からは正義ではなかったが、今は選挙で意思決定権を握っているのでA級戦犯を含めた人たちを「正しかったことにできる」と考える人はそれほど珍しくはない。だから、同じ枢軸国のリーダーだったヒトラーにも「理解できる点はある」などという人がいなくならないのだろう。ヒトラーにも良い点はあったから、日本を戦争に導いた人たちもそれなりの理屈はあったと考えるわけだ。

麻生さんのは、当初の目的はよかったが受け取られ方が悪かったというのは、裏を返せば当初の目的を隠して結果的によかったことにすれば正当化されるということでもある。自民党政権は、途中経過を説明しないで都合の良い数字だけを持ち出して「結果はあっていた」というような説明をすることが多い。多分、麻生さんに見られるような考え方は割と共有されているのではないかと思う。

ここまで「目的と手段」について考えてきたのだが、麻生さんや安倍さんという政治家は世襲であり、そもそも何かを成し遂げるために政治家になったわけではない。しかし、封建領主ではないので徴税権があるわけでもないので自分たちの地位を守るためには支持者たちに利益誘導してやるしかない。それを正当化するためにみんなが受け入れやすい理屈を後付けする。

多分この件について追求すべきは麻生さんの政治姿勢だと思うのだが、それが本人の口から語られることはないだろう。

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国防上極めて重大な危機を迎えている日本

北朝鮮からミサイルが発射され、朝のテレビは大騒ぎだった。Jアラートの禍々しい画面が映し出され、全テレビ局のすべての番組が中断した。しかしJアラートの情報は曖昧で、行動支援には全く役に立たなかった。それでもパニックが起こらないのは「北朝鮮が日本に直接ミサイルを打ち込むことなどない」とみんなが漠然と思っているからだろう。だが、これは極めて深刻で重大な状況だと思われる。

日本が危機に陥るのはどんな時だろうか。それは強力なリーダーシップがなく状況が物事を支配する時だ。いわば集団思考に陥った時だと言える。現在、日本は集団思考に陥っている。つまり、誰も行動を起こすつもりがないのにとにかく大騒ぎして時を稼ぐのである。

真東に落ちたのかはわからないが、だいたい距離感についてはこんな感じになるようだ。

Google Mapの距離計測機能からコピーしました。

ミサイルがどこから飛んでくるかはわからないので、場所が特定できなかったことを非難するつもりはない。またJアラートの本番稼働は初めてなのだろうから、受信トラブルも修正していけばよい。

だが、一気に不安になったのは安倍首相の次の発言だった。

「北朝鮮が発射した弾道ミサイルが我が国上空を通過し、太平洋に落下いたしました。政府としては、ミサイル発射直後からミサイルの動きを完全に把握しており、国民の生命を守るために万全の態勢を取ってまいりました。 我が国を飛び越えるミサイル発射という暴挙は、これまでにない深刻かつ重大な脅威であり、地域の平和と安全を著しく損なうものであり、断固たる抗議を北朝鮮に対して行いました。国連安保理に対して緊急会合の開催を要請します。国際社会と連携し、北朝鮮に対する更なる圧力の強化を日本は強く国連の場において求めてまいります。  強固な日米同盟の下、いかなる状況にも対応できるよう緊張感を持って、国民の安全そして安心の確保に万全を期してまいります。」

安倍首相が「完全」とか「100%」というのは必ず嘘をつくときである。東京オリンピック誘致の時には「福島原発の状況は100%安全」と言っていたし、森友学園問題の時も「自分も夫人も全く関与していない」と言ってその後の国会審議を大混乱に陥れた。加計学園問題でも「絶対に関わっていない」と言っている。

もし完全に把握しているなら広範囲にJアラートを出す必要はない。Jアラートが正しければどこの上空を飛ぶのか良くわかっていなかったことになる。また飛んでくる恐れがあるのならいざという時は(例えば部品など)を射ち落す命令は出しているべきだ。が、そのような命令はでなかった。

このように明らかにちぐはぐなことが起きているのに「完全に」と言っている。これは明らかに嘘なので、つまり「どうしていいかわからなかった」ということである。実際にはこのような解説が出ている。つまり原理的に「発射直後に完全にわかる」ということはありえないのだ。

となると、安倍首相はどうしていいかわからなくなると、色々と質問されたくないのでとにかく「絶対に大丈夫」と言ってしまうのだ。実際に安倍首相ができるのはトランプ大統領に泣きついて40分電話することか、国連で仲間の国に圧力をかけてもらうくらいしかできることがない。ミサイルが飛んできても射ち落すことはできないし、落下してくる部品を打ち落とすことができたとしても、破片は地上に飛んでくるだろう。

このため、そのあとに様々な憶測が流れた。

  • Jアラートは本当は役に立たない対北朝鮮対策に予算をとるための国民向けの恫喝だ。
  • これまでにない危機と言っているがそれは根拠もないでまかせだ。
  • Jアラートは首都圏には出ていないから、これは単なるお芝居だ。

こうした憶測が飛び交うのは「完全に」などといってそのあとの質問を一切受け付けないからである。結果的に日本人は「Jアラートというのは根拠のないでたらめだ」と思うようになるかもしれない。だが、どちらに傾いたにせよ、北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃つことができるということには変わりはない。

その上アメリカも大して頼りになりそうにない。

トランプ大統領は「アメリカファースト(実際には自分ファースト)」なので、日本の状況に構う時間はない。「手持ちの札が悪い」などと嘆いていたが、実際には自分がアメリカを混乱させている。BBCの記事を読むと暗い気持ちになる。アメリカ人は、オバマ大統領の努力で状況が改善されたのにトランプが台無しにしたというのが一般的な理解のようである。

北朝鮮については打ち手がないようだ。トランプ大統領のやり方は相手を恫喝してディールを引き出すというものだが、北朝鮮は最初から対決モードなのでこうしたやり方が通用しない。グアムにミサイルを打ってこなかったので「改心したのではないか」などと根拠のないことをいい、それが間違いだったということがわかるとそれから発言しなくなった。そのあとも具体的な対策が出せなかったので「すべての選択肢がある」といって武力攻撃の可能性を示唆したが、例によって具体的な計画は出さなかった。

トランプ大統領が暇ならば支持率確保のために北朝鮮を利用しようとしたのかもしれないのだが「壊滅的な」ハリケーンがテキサス州などを襲ったために大忙しである。多分、北朝鮮のミサイルにはかまっていられないだろう。

これが安倍首相にいう強固な日米同盟の正体である。立場と驚異の度合いが違うので「日米が完全に一致する」ことなどありえない。だからアメリカに働きかけが必要なのであり、完全に一致しているのなら何もしなくていいということになってしまう。実際には何も言えないので「完全に一致した」ことにして日本側でつじつまを合わせるのだろう。

しかし、それがパニックにならなかったのは、国民も「誰かがなんとかしてくれるだろう」と思っているからだろう。このため放送局ですら状況がわからないので把握しようという気持ちにはならなかったらしい。NHKは襟裳岬に訪れていたバイカーをインタビューしていた。バイカーは「襟裳岬にミサイルが飛んでくると思わなかったから、早くこの場を立ち去りたい」と言っていた。素直な街の声を流したのだと思うが、実際には1000km以上も離れた宇宙空間を飛んでおり、多分襟裳岬から離れても何の意味もなかった。

前に考えた通り、北朝鮮や中国が日本に攻めてくるとは思えないのだが、トップの安倍首相も、報道機関も、そして国民もそれぞれ勝手な思惑で好き勝手に話をしている。多分、偶発的な事態が起きた時にはパニックに陥るはずである。国防上極めて重大な状態にあるものと思われる。

こうした状況は国防だけに起こっているのではない。安倍首相が何かでたらめなことを言うたびに「それは間違っているのではないか」という追求が起こる。ある時はデモにつながり、ある時は憲法で定められた国会の開催が行われなくなる。が、それがでたらめではないという理屈を官僚が考え、ひと悶着している間に次のでたらめが出てくるという繰り返しである。

こうしたでたらめが横行するのは、本当にまずいことが起きたら誰かがなんとかしてくれるだろうという集団思考に陥っているからなのだろう。

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なぜ24時間テレビは取りやめるべきなのか

今年も24時間のチャリティー番組が行われたらしい。「らしい」というのはそれを全く見ていないからなのだが、ブルゾンちえみが走ったことだけは知っている。興味はなくてもTwitterの人たちが教えてくれる。要は国民的な番組の一つになっているのだ。

24時間テレビを見ないのはそれが胡散臭いからだが、なぜ胡散臭いのかは言語化してみないとよくわからない。突き詰めていえば「搾取に加担したくない」からである。搾取する側に回ろうと覚悟を決めた人は心行くまで楽しめばいいと思うが搾取社会特有の帰結は受け入れるべきだ。搾取社会では誰もやる気がなく、最低限のことしかこなさない。

24時間テレビ「愛は地球を救う」自体は1978年から続いている。そういわれると、なんとなく子供の頃からやっているという印象がある。マラソンが行われるようになったのは1990年代からだそうで、最初のランナーは間寛平だった。間寛平のマラソンはライフワークだった。だがそれが繰り返されるうちに儀式化しててしまった。多くのコンテンツが「昔成功した」という理由で儀式的に行われているのではないかと思う。

24時間テレビが搾取なのはタレントのギャラを見れば一目瞭然である。障害者はタレントが高額のギャラを得るための口実になっている。これをオブジェクト化という。感動ポルノという言葉を使う人もいる。ポルノという言葉を使うのは、ポルノ映画に出てくる女性(時には男性)は対象物であり人間ではないからである。

広告を出している会社はさらにここから収益を得ることができるし、見ている方も何もしないのに「自分たちが弱い人を助けてあげている」という優越感に浸れる。だが、日本人はそれに違和感を感じない。

もし、これがもし障害者を支援する番組であれば、特定の目的を決めてそのためにどうファンドレイズするかという番組になるはずだし、多分障害者本人がファンド集めの先頭に立つだろう。例えばパラリンピックでメダルを取ったアスリートとか乙武さんとか障害者でも普通の人と変わらないんだなという人はいくらでもいる。だが、24時間テレビでこういう人は司会者にはならない。

こうした、お題目を唱えて何もしないというのは日本ではよく見られる。例えば日米同盟というお題目を唱えて防衛や世界秩序の維持について全く何も考えず、他人を馬鹿にする口実にしている人たちは大勢いるし、逆に憲法第九条についてお勉強しているから戦争についてはよく知らないし考える必要がないと思い込んでいる人も大勢いる。24時間テレビは障害者について考えているからそれ以上何もしないという意味で相通じるものがある。

こうした意図的な搾取に加えて、集団的な陶酔という日本ならではの特徴もありそうだ。

高校の時に野球の応援に楽隊として「動員」されたことがあった。不良が集まった応援団の金切り声にあわせてフォルテッシモで音を流し続けるという非人間的な所業である。芸術的に作られた曲をただただ大音量で流すというのは音楽にとっては虐待に近い。木管楽器は熱に当たるとチューニングが狂い、パッドの部分が痛む。それに加えて何度抗議しても応援団が水をばらまく。水が当たると楽器が傷んでしまうのだが、そんな些細なことなどどうでもよいだろうと言われる。

こうした行為が正当化されるのは、集団での競い合いに興奮を伴う一体感があるからである。音楽は陶酔感を得るための装置なのだ。

そもそも日本人は他人を応援するのが嫌いだ。だが、自分たちの集団のために誰かが苦しんでいるのを見るのは大好きである。高校野球や箱根駅伝などはその良い例だろう。24時間テレビは障害者をネタにお金を搾り取るという搾取ショーになっているので、できればすぐにやめるべきだ。しかし甲子園や箱根駅伝を見ているとこうした搾取ショーには需要がありなくすことはできないだろう。

この裏には「もう伸びしろがなくなってしまった」という無力感があるのではないかと思う。つまり成長をあきらめているから搾取に走るのだ。例えば欧米ではエクストリームスポーツのように個人が能力の限界を目指すような競技が人気である。これは「人間は頑張ればどこまでいけるか」ということを競っている。

この背景にあるのは「人間にはいずも能力を伸ばす余地があり、それを追求することが人生にとって重要である」という認識だろう。これに従えば、障害者であれば自分ができる範囲で限界を突破できることにフォーカスを当てることができるし、健常者が限界に挑戦することの素晴らしさを伝えることもできる。

だが、日本人は個人をそれほど信用しないので、こうした極限への挑戦はあまり重要視されない。代わりに他人が当惑して苦しんでいる姿を見るのが好きなのだ。例えばブルゾンちえみは数日前まで自分が走るということを知らされず、ショーに出してやるからといわれて、ジャージを渡されたそうである。当惑が売り物になっていることが分かる。もし、限界に挑戦することが目的ということであれば、いつも走り込んでいるような人が参加するはずだが「それはテレビ的においしくない」のだろう。普段からがんばっている人が何かを達成しても「自慢になる」だけだからだ。

その意味では24時間テレビというのは現代日本にふさわしいショーになっている。何もしないし目的も提示しない高齢者が、とにかく若い人たちを目的のない競い合いに巻き込んで消耗してしまう姿を眺めるというものだ。だから、このまま日本が何のためにがんばっているのかは良く分からないのだが、とにかくみんな疲れているという社会にしたいのなら、このままこういう類いのショーを楽しみ続ければ良いと思う。

人には選択の自由があるからだ。

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なぜ中国は日本に攻めてこないのか

Twitterで面白いつぶやきを見つけた。ネトウヨが「中国が攻めてくる」と言っているので、それを否定するのが大変だったというのだ。




面白いことに、日本人は戦争が無料でできると考えているらしい。ネトウヨの人たちは中国は血に飢えた獣なので当たり前のように攻めてくると考えており、否定する側もそれについて考えてみようとはしない。サヨクの人たちは戦争は愛と理念で防止すべきだと考えるので、そもそも戦争にいくらお金がかかるかを考えない。そこで「外国が攻めてきたら酒を酌み交わして話し合いをするので、自衛隊はいらない」といえてしまうのである。

こうしたことが起こるのは、この世代の人が戦争をウルトラマンや仮面ライダーの類型で考えているからかもしれない。ショッカーは悪であって攻めてくるのが当然であり、彼らの団体がどう運営されているのかということには誰も関心を持たない。

ということで、この話は左右どちらからもあまり理解されない。にも関わらずこれを書くのは、これが意外に重要な視点を含んでいると思うからだ。中国や北朝鮮は日本に攻め込むよりも安く目的を達成することができ、それは日本にとっては必ずしも好ましいことではないだろう。

中国が日本に攻め込むことを考えてみよう。理由は領土的野心でも安全保障上の問題でもなんでもいい。すると、戦争にどれくらいの時間とお金がかかるかを計算した上で、それに見合う価値があるかどうかを計算しなければならない。日本には天然資源はないので、占領してもあまりうまみはない。また賠償金の徴収は70数年前になくなった制度なので、これもあてにできない。この二つが世界から大規模な戦争が消えた理由だろう。

太平洋の出口を塞いでいるという話があるのだが、塞いでいるのはアメリカであって日本は関係ないし、尖閣諸島や小笠原諸島の例でもわかるように日本は手出しができないから放置しておいてもかまわない。せいぜいできるのは、尖閣にいる船に護衛をつけることくらいである。これはやればいいと思うのだが、なぜか日本の政治家は口ばかりで護衛をつけたりはしない。

アメリカが日本を守っているという話があるが、アメリカが守っているのは日本の米軍基地であって、日本ではない。だが、いずれにせよ日本を叩くとほぼ自動的にアメリカが参戦するので、たちまち世界大戦になる。すると世界経済はガタガタになり世界の工場である中国は大損害を被るだろう。

中国は第二次世界大戦前夜の日本ほど追い込まれおらず、世界経済にも組み込まれてしまっているので戦争をする動機はゼロではないがあまり高くはなさそうだ。

にもかかわらず「中国が攻めてくる」と言い立てる人が後を絶たないのは、敵がいないと軍拡の理由付けができないからだろう。安倍首相などの自民党の右派の人たちもそうだが、民進党の前原議員や長島昭久衆議院議員もその系統の人たちである。いわゆる「ジャパンハンドラー」と言われる人たちは、アメリカでは軍事産業の代弁者になっているのだろう。冷戦期に発展した軍事産業を守るためには引き続き敵が必要なのである。

愛国的な政治家たちは「中国が攻めてきそうで危ないから軍備を確かにすべし」などと言っているが、冷静に考えれば日本海にいる漁船を守るための護衛体制を整えるべきだとは言っていない。漁船を守ってもアメリカから買ってくる武器を使えないからではないだろうか。彼らにとってはイージス艦などのお金がかかるがいつ使うかわからないような武器調達することの方が優先度が高いのである。南スーダンには交戦権のない自衛隊を平気で送り込んだのだから「中国漁船警備艇が発砲してきたらどうする」などという議論は起こらないはずなのだが、漁船警護の方が現実的な衝突の度合いが高いので、議論もしないのだろう。

中国が太平洋への出口を求めているのは確かなようだが、これはアメリカが南シナ海を我が物顔で航行することに対する対抗措置なのではないかと思える。相手国側の視点に経つと、アメリカはかなり「悪の帝国」的な側面がある。最近でもトランプ大統領が「ベネズエラは混乱しているから軍隊を送るかも」などと発言し、ベネズエラや周辺国の態度をかなり硬化させた。攻め込むと言われて喜ぶ国はないのだが、そういうことを平気で言ってくる国なのである。

さて、中国は世界経済に組み込まれており、第三次世界大戦を引き起こす動機はあまりないということはわかった。もしそれでも攻めてくるという人がいるならば、その人に理由を説明させればよい。最近では櫻井よしこ氏のように、日本には所有者がわからない土地が九州ほどの大きさもあり、それが中国に根こそぎ買われてしまうなどと言っている人もいるが、よく考えれば所有者が分からない土地は誰も買えないのだから、言っていることがでたらめではないにしても大げさだということがわかる。

ここまで考えると中国ができるだけ安価に太平洋への入り口を確保するためには、アメリカと直接手を結んでしまうのがよいということがわかる。むしろここで問題なのは、アメリカがわざわざ東太平洋を権益化しようとしているのはどうしてなのかという問題だろう。フロンティアがなくなりハワイまで版図を拡大したという事情はあるにせよ、太平洋を抱えている意味は実はあまりなさそうだ。韓国もお金がかかるばかりで特に特殊な利権があるわけではない。

アメリカにはもはやわざわざ高いお金を払って日本や韓国を防衛してやる必要はない。つまり、アメリカが中国と直接交渉して東太平洋の管轄権(本来そんなものはないのだが)を与えたとしても、取り立てて違和感はないだろう。だが、中国とアメリカが手を結び、日本の防衛から手を引けば日本は自力で国を守らなければならなくなる。少なくともイニシャルではかなりの資金が必要になるだろう。この「ディール」で一番困るのは実は日本なのだ。

一方、北朝鮮は気が狂った金正恩によって支配されており、追い込まれたあげく原爆をぶち込むのではないかという懸念はある。だが、日曜討論で専門家の話を聞くと、どうやら金正恩はそこまで気が狂っている訳ではないらしい。アメリカとの全面的対決を巧みにさけつつ、自分たちの軍事技術をアピールしている。

北朝鮮ですらミサイルを開発したり軍隊を稼働するためにはお金が必要なので、闇雲には攻めてこない。またアメリカも石油のようなうまみがないので北朝鮮に軍隊を送るようなことはしないはずである。

今専門家が恐れていることは2つあるらしい。1つは日本に向けて発射ができる程度の核爆弾を残したままでアメリカが交渉に応じてしまうという「デカップリング」だ。これが起こる可能性は低くはないようである。もう1つは北朝鮮が持っている核爆弾の技術をテロ集団などに売って技術のマネタイズをするというものである。

こうした現実の懸念をしっかり見つめるには、戦争には金がかかるということを理解した上で、冷静に議論する必要がある。

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なぜいつも北朝鮮のミサイルは聯合ニュース経由で知らされるのか

また北朝鮮からミサイルが飛んだらしい。こういう時にはテレビの特報が流されるのだが、いつも聯合ニュースという通信社経由である。日本政府はアメリカの顔色を伺って情報をどう出していいか自分で判断できないようなので、韓国経由であるのは仕方がなさそうだ。だが、どうしていつも韓国の情報は聯合ニュース経由なのだろうか。

実は韓国には聯合ニュースしかメジャーな通信社がないらしい。だから、韓国の重要な情報はすべて聯合ニュース経由になる。政府と軍の情報が通達のような形で聯合ニュースに流れるのだろう。

韓国に聨合ニュースしか通信社がないのは、全斗煥政権下で言論統制が起きたためだという。1980年に通信社や新聞社が整理されて現在に至るそうである。なぜそんな非民主的でないことが起こるのかといえば、当時の韓国は共和国ではあっても、民主主義国ではなかったからである。

もともとは軍人だった朴正煕がクーデターを起こして政権を奪還した。1963年のことだそうだ。朴正煕大統領のもとで経済発展するが、権力を固定化しようとしたために反発を招き最終的には暗殺されてしまう。そのあと、クーデターで政権を奪還したのが全斗煥大統領だ。二代続けてクーデターによる軍事政権だったので光州で大々的な民主化要求デモが起きる、

全大統領は、言論統制を行い政府批判を封じた。だが、同時に国民を懐柔するために、エンターティンメントを奨励した。「他に楽しいことがあれば権力批判はしなくなるだろう」と考えたのかもしれない。3S政策と呼ばれるそうだが、スポーツ、セックス、スクリーン(映画)の略だそうである。この動きが最終的にパルパルオリンピックと呼ばれた1988年のソウルオリンピックにつながってゆく。

つまり、韓国に通信社が1つしかないことと、現在韓流ブームが起きていることは同じ根でつながっているということになる。

テレビでは今でも言論弾圧が続いている。「韓国メディア界が背負う負の遺産」というニューズウィークのコラムにこんな話が出てくる。日本では考えられない光景である。

公共放送局の社長は事実上、大統領が選任するが、任期中に思うがまま解任することはできない。08年、李明博大統領が選んだKBSのユ・ジェチョン理事長(当時)は、私服警察を動員して会議室を封鎖した上で、盧武鉉政権時に就任したチョン・ヨンジュ社長を解任する決議案を審議し、無理やりクビにしてしまう強引な手を使っている。

このコラムを読むと、一旦言論弾圧をする「クセ」がついてしまうと、有権者やテレビ局の労働者がマスコミの報道方針を信頼しなくなることがわかる。さらに、大統領の意向を受けた経営者が全能感に浸り、好き放題に経営を私物化する。そして、次の大統領が就任すると苛烈な追い出しが起こるわけである。韓国は延々とこのような状態を繰り返している。

日本でも言論統制的なことは行われている。だが、日本人は積極的に言論統制に従っている。日本人が数紙しかない大新聞とNHK以外を信用しない。また記者クラブのようなものを作って、自主的な検閲を行っている。記者クラブは新聞社の互助的な組織だったのが、戦時体制で言論統制機関となった。GHQは解体を迫ったが容認され、現在に至っている。つまり、翼賛的な取材体制が今も「マスメディアの自主性」の名の下に残っている。

面白いのは韓国はあからさまに言論統制を行っているが、日本はあからさまではないということである。ところが結果は真逆になる。韓国人は報道をあまり信じず自分で状況を判断するので、大統領を解任するようなデモを起こすが、日本人はデモを起こさず「おかしくなったらだれかが解決してくれるだろう」と思うわけである。

こうした韓国の状況が「面白く」見えるのは、日本が韓国のような進路をたどりつつあるからだろう。安倍政権はかなり露骨にNHKの人事に介入し、一部の有権者からかなり反発された。あるニュースを伝えたとか伝えなかったことに関して「偏向報道だ」という声が聞かれるようになり、スポンサーを恫喝したりテレビ局に直接電話をしたりということが一般化しつつある。一方でオリンピックを推進して、それを言い訳にしてテロ関連法制を通すなどいうめちゃくちゃな論理が横行するようになった。これが行き着くと、あらゆる報道機関で高圧的な経営が横行し、権力が変わった瞬間に前の政権のバッシングが起こるという病的な状態が日本にももたらされることになるだろう。

全斗煥大統領時代にはオリンピックが誘致され韓国が先進国の仲間入りをしたという印象を与えた。しかし、全斗煥大統領そのものはオリンピック開催前に政権を追われ、民主化を弾圧したという罪で有罪判決を受ける。逮捕監禁されていた方の金大中はのちに大統領になった。

韓国は朝鮮戦争後、政治抗争が相次ぎ経済成長ができなかった。考えてみれば韓国は民主主義を経験したことがないので、話し合いによって意見をまとめることができなかったのだろう。そのあと朴正煕大統領が大統領に権力を集中させることで漢江の奇跡と呼ばれる経済成長が実現する。

日本人は曲がりなりにも話し合いによって意思決定をすることができるのだから、何も韓国を真似する必要などないはずなのだ。

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小泉進次郎の年金返上案はなぜ愚策で有害なのか

小泉進次郎筆頭副幹事長が「年金を返上してこども保険の財源に当てたい」と言って人々を当惑させている。今回はこれが愚策だという立場で分析したいと思う。まず、重要だと思われる疑問は「善意なら勝手にやればいいのに、なぜ新聞でわざわざ発表するのか」というものだ。

愚策だと思える理由を列挙してゆく。

第一に挙げられる理由は、ここから得られる原資が少なく実質的な効果がないというものだ。これはすでに新聞などで紹介されている。人々は「にもかかわらず、お金に敏感な経営者が見返りなしに年金を手放すはずはないだろう」という疑念を抱く。

次の理由は同調圧力だ。日本人は「みんながやっているから自分もやれ」と言われると抗えない。だからこうした動きが中間管理職に広がれば、自分は年金をもらっているということに罪悪感を感じる人が出てくるかもしれない。理由がわからないのに同調圧力で年金をあきらめさせられたらどうしようと考える人出てくるだろう。

第三の懸念は比較のさざなみである。純粋に善意なら別に新聞で公表することはない。新聞で公表するのはこれが間接的な自慢だからである。

例えば、最近小池一夫という恒例の漫画家がTwitterで大反発された。

例えば、子供を抱えたワーキングマザーがこの書き込みをみたらどう思うだろう。鱧を調理している時間などないし、もしかしたら夕食はカップラーメンだけかもしれない。貧困に対する想像力が欠如している。

だが、実はこれは間接的な自慢なのだ。奥さんが「私はこんなにちゃんと料理をしている」といってインスタグラムにあげるのは構わないが、多分奥さんはそんなことはしないだろう。料理をするのは自分たちの暮らしを自分たちなりに「きちんと」することが目標であって、若者に説教をするために料理しているのではないからだ。小池さんは謝罪しているようだが、実は最初から「自分はちゃんとしている」と自慢した上で、それに引き換えお前たちは……とやっているのである。さらに自分は料理をしているわけではない。あくまでも他人の仕事に乗っかっているだけである。

つまり「俺はえらいがお前は」という言動から生まれるのが比較のさざなみである。ひけらかしまでは構わないと思うのだが、ひけらかしに比較が入った上で他人に行動を強制するということが問題なのである。

こうしたひけらかしが経営者にもみられる。年金を返還する余裕がある人は、実は何回も役員になって退職金を得たりすることができる人なのだろう。サラリーマン社会の成功者であり、これを顕示したいという欲求があるのだろう。さらに「表彰する」という案も出ているようだが、これもお金で名誉を買っている。

さらに経営者というのは自分で仕事をしているわけではない。他人の上がりの一部を自分の給与としている。多くの企業は非正規雇用の人たちを使い倒すとことで収益を挙げている。つまり、一部の経営トップの人たちが役員を歴任して退職金をもらっている裏では、将来に何の希望も持てず多分年金も当てにできないという人がいる。こうした人たちの犠牲の上で「自分は実力があるから、何度でも退職金をもらう権利がある」などと言ってはばからない。

労働者側から見ると搾取だが、経営者はこれを「自分の実力だ」と考えるだろう。搾取には立場による非対称性がある。

最後の理由は実利的なものだ。いくつかのものがある。

経営者たちは企業で儲けた金を海外の会社にプールしてそこから役員収入を得るということもできる。毎月もらっているお金は少ないかもしれないが、それは実質的な年金である。こうした年金資金を確保するためには、非正規の労働者への報酬はできるだけ少なくすべきである。つまり、自分たちが「たくさんもらっている」という批判を避けつつ、しっかりと将来設計ができる上に、社会に貢献していますといえてしまう。一方、ワーキングマザーなど将来の不安を抱えている人は「社会のお荷物」と言われかねない。

加えて、国に福祉政策を移管することで経営効率をあげようとしているという問題がある。この話は「将来保証は国の責任だ」という話なのだがこれを「だから企業は面倒をみなくてもよいのだ」と言い換えてしまうわけである。日本の企業は終身雇用という形で社員とその家族の将来をまる抱えしていた。これを国に背負ってもらえるのでこども保険には経営的なメリットがある。労働者への配分が少なければ、それだけ自分たちの将来設計は楽になるだろう。だから新聞を使って宣伝をするわけである。

さらに、知らず知らずのうちに「年金」と「こども」という対立構造を植え付けようとしていることもわかる。メッセージ効果を狙うなら「政府の効率化」と「福祉」としてもよいわけだし、「防衛」と「福祉」としてもよい。しかし、自分たちは特区などを使っておいしい思いをしたいので、福祉とは切り離したいのだろう。

つまり、小泉筆頭副幹事長のやっていることは、こども保険の実際の財政的な問題を何一つ解決せず都合の良いフレームワークを作ろうとしており、さらに格差を放置した上で、経営者にひけらかしの機会を与えているという意味で何重にも悪質なものになっている。こうした発想が生まれるのは、自民党が一部の支持者たちの声しか聞かなくなっているということを意味する。

「そのうちひどいことが起こるぞ」と思うのだが実際には影響が出ている。例えばプレミアムフライデーは創設された瞬間に死語になった。誰も経営者の発案に乗る人がいなかったからだ。さらに暮らしがよくなるからお金を使えと言っても誰も使わない。イオンなどのプライベートブランドは値下げをするようである。こうしたことが起こるのは、日本人が経営者と政治家がでっち上げるマーケティングプランを信用しなくなっているということを意味している。小泉筆頭副幹事長はそれに新しい泥を塗っただけなのかもしれない。

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前原民進党に投票するというのはどういうことなのか

今回は前原誠司衆議院議員が新しい民進党の代表なったと仮定して、前原民進党に投票するというのはどういうことなのかということを書く。もちろん私見が入っているし未確認の情報も多いので信頼する必要はない。が、一応過去の発言などを読んで構成した。いろいろと忘れていることが多いのだ。

前原さんのポリシーは一貫している

前原さんの過去の発言には一貫性がある。前原さんはアメリカのジャパンハンドラーと呼ばれる人と仲が良く、アメリカで講演活動もされている。アメリカとのパイプが太いことは、北朝鮮情勢が緊迫化するなか、肯定的に捉えることができるかもしれない。

例えば、前原さんは過去に「日本の軍事産業を武器市場に積極的にアクセスさせるべきだ」と主張している。つまり、ジャパンハンドラーの人たちの主張を日本で実現するためのリエゾンになっているのだ。大げさに「CIAの工作員である」というようなことをいう人がいるのはそのためである。同じように見られている人には長島昭久衆議院議員がいる。この人も憲法改正論者だ。

ジャパンハンドラーと呼ばれる人たちは、軍事産業を儲けさせるためにアメリカを戦争ができる体制にしておきたい人たちだと言え、必ずしもアメリカそのものではない。そのためには同盟国にシンパとなる政治家を抱えておく必要があるのだろう。

前原さんは、憲法第9条についても踏み込んだ発言をしている。これは特に隠された野望というわけでもなくご本人のサイトで堂々と主張している。つまり、首相の権限を強くしてアメリカと軍事的に協力できる体制が作りたいわけである。主な首相は首相公選と一院制であり、首相の権限強化と自衛隊の正規軍化だ。一方で、世界情勢が平和を希求するのは「単なる理想主義で全く受け入れられない」としている。

これが「現実的な歴史観に沿った国家観」なのか「単なるスポンサーを引き付けるためのポーズなのか」というのがよくわからないというのが正直な感想である。

アメリカの軍事産業が潤うためには常に敵が設定されていなければならない。この地域での敵は中国だ。つまり、ジャパンハンドラーの人たちの主張を正当化するためには、中国がアメリカに対抗して世界の覇権を握ろうとしているというストーリーが必要だし、世界平和に向けてみんなが努力しているという図式はあまり好ましいものではない。

さらに付け加えるならば、アメリカの軍事産業が潤うことが政治的目標なのだから、日本の国力を上げたり、平和外交に力を入れることはポーズとしての意味はあるかもしれないが、あまり意味がない。つまり、子育て支援をして国力を高めたり、競争的な産業を作って日本を経済的に世界で戦える国にするということには力を入れない可能性がある。できればそういうことにお金をかけずに、アメリカに貢献する国を作った方が都合がよいからだ。

安倍政権にとって経済政策とは「増税しないためのいいわけ」程度の意味合いしかない。選挙に有利だからである。だからアベノミクスにはどこかおざなりさがある。一方、前原さんのみならず、民進党右派の人たちの経済政策がどこかおざなりなのは、日本を植民地的に見ているという理由によるものなのかもしれないと邪推してみたくなる。

アメリカとは何か

さて、一番の懸念はジャパンハンドラーと言われる人たちが日本を武器産業の顧客程度にしか見ておらず、いわば植民地の総督のような視点で日本を見ているという点にあると思われる。が、それ以外にも懸念はある。

つまり、ジャパンハンドラーがすなわちアメリカなのかという問題である。オバマ大統領は少なくとも表向きは軍事ではなく外交によって世界の問題を解決したいという理想主義的な政策を推進していた。トランプ大統領は全く反対に利己的な理由からアメリカは世界の警察官をやめるべきだと言っている。

冷戦期にはソ連がアメリカを攻撃するかもしれないという潜在的な脅威があったが、市場が一体化してしまったために、大規模な戦争をして世界経済を混乱させる動機はない。にもかかわらずアメリカの軍事産業が冷戦期のように軍事産業が予算を獲得し続けるためには、ある程度対立をでっち上げる必要がある。つまり、いわゆるジャパンハンドラーはアメリカそのものではないと言える。

このことは、日本の防衛政策を考える上では実はとても重要な視点ではないだろうか。アメリカは太平洋の覇権から解放されたがっているかもしれない。すると中国が覇権を握ることになり、韓国、沖縄、グアムなどに基地を置いておく理由はなくなってしまう。日本はある程度アメリカの軍事政策にフリーライドしているために(核兵器は持っていないが、アメリカの核の影響下にある)日米同盟への過剰な期待は視界を曇らせる可能性が高い。

例えば、安倍政権はアメリカから高価なミサイル防衛システムを買おうとしているが、これは却って日本の軍需産業の空洞化を招くかもしれない。日本は技術開発には関与せず、単なるアメリカのお客さんになってしまうからである。アメリカのセールスマンであるトランプ大統領は喜ぶかもしれないが、これが国益に叶うのかという議論は必要だろう。だが、前原民進党がこれをチェックすることはないだろう。

前原さんの従米の度合いは安倍首相よりも強い。が、どちらもアメリカと中国が直接結ぶ可能性を全く失念している。実は日本には憲法上制約からどのくらい協力してくれるかわからない。そんな国と結ぶより、一党独裁で決断が早い中国と結んだ方が手っ取り早い。米中が直接手を結ぶというのは日本にとっては悪夢以外の何物でもないのだが、少なくとも打ち手を考えておく必要はある。

政権を取った時、共産党は邪魔になる

前原さんは共産党との共闘には否定的である。これについて深く考える人はおらず、単に「共産党が嫌いなんだろう」と考えがちである。しかし、過去の発言をみると、実は軍事的な拡張と繋がっていることがわかる。特に政権をとった時には、中国を敵視して軍事的に拡張しなければならないので、軍拡路線に反対する共産党は邪魔な存在だ。

仮に前原さんの思惑通りに民進党が政権を奪還した時に、共産党や社会党のせいで、前原さんの従米的な政策を邪魔する可能性が高い。前原さんは菅政権時代に「日本の武器輸出を解禁したい」という方針を主張していた。これが政権に取り入れられなかったのは社会党の反対によるところが大きいのだそうだ。つまり、アメリカの利益に沿って行動するためには政権に共産党がいては邪魔なのだ。

親米・従米路線が悪いわけではない

このように書いてくると「従米は戦争への道である」という理由でこの人はこんな文章を書いているのだなと思われるかもしれない。が、政治家が特定の産業のために働くというのは必ずしも悪いことではない。特定の国の利益のために結ぶのは問題だが、アメリカの場合は仕方がないかもしれない。日本には親米の政治家が大勢おり、これを否定することは、残念ながらできない。

問題なのは、そういう意図を隠している点にあるだろう。日本の左翼運動というのは、多くの場合反米運動になっている。原子力発電所はアメリカの思惑によって日本に設置されているのだし、反戦運動も反ベトナム戦争運動が源流の一つになっているのだろう。これは反米というよりも、アメリカによって日本の意思決定の幅が狭まっていることに対する反発だと言える。

つまり、従米路線を取ること自体は、有権者の支持さえ得られれば必ずしも悪いことではないのだが、支持者は自分たちで集めなければならない。

阿部知子議員などは「共産党との共闘しないというのはデマだ」などと言っているようだが、実は前原さんとコミュニケーションが取れていないか、知っていて党員を騙していることになり、罪が重い。

これまでも「あれ、民進党(民主党)がおかしいな」ということはいくつもあったが「安倍政権を崩壊させるためには戦略的に必要」などといって我慢してきた人は多いのではないだろうか。前原民進党の民進党支持者は引き続きこうした認知的不協和に苦しむことになるだろう。

まとめ

これまで書いたことは、もちろんこれは個人が、過去の発言などから想像しているだけなので、信頼していただく必要はない。だが、過去の発言から見る限り、支持者の期待とは全く違った方向に政策転換が図られるか、やはり党内左派をまとめきれずに迷走する可能性が高い。

さらに、軍事・外交以外の政策はおざなりになる可能性が高いだろう。八ッ場ダム問題を迷走させ、普天間の基地移転問題を途中で放り出したという「前科」があり、プロジェクト管理能力や現状把握力は必ずしも高くない。逆に党内反発を抑え込むために「思い切った措置」をとり、これが暴走する可能性が高いのではないだろうか。

前原民進党を応援するならこうしたことを踏まえた上で「それでも自民党政治を暴走させないためには抑止力として必要だ」という割り切りが必要である。

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森友問題についてデジタルフォレンジック以前に考えるべきこと

Twitterで、複数の人経由で「デジタルフォレンジック」という単語が流れてきた。森友学園問題に関して採用が検討されているらしい。コンピュータの電磁的記録を証拠として採用することをこう呼ぶらしく「デジタル法科学」などと訳されるようだ。

森友学園問題は、首相との関係をほのめかした人に国民の財産が格安で払い下げられようとしたという問題だ。公平性に重要な懸念があり、再発を防止しなければならない。しかし、現状ではうまくいけばボロ儲けができるが、バレたら投獄されるというロシアンルーレットのような状態になっている。だが、安倍首相を追い落としたということだけが問題になっているので、こうした不公平な状態をどう改善すべきかという議論は全く見られない。

この問題を見ていると、重要な意思決定がどのようになされたのか、後から検証できないというのが問題の根幹であることがわかる。原因はいくつかある。まず、役人や政治はが情報を隠そうとしており、さらに電磁的データがどう扱うべきかよくわかっていないようだ。

やっかいなことに、この問題は「意図したもの」と「意図しないもの」に単純に分解できない。

問題をとく糸口は日本の決済文化があるように思える。日本の決済文化は紙に印鑑を押したものを終的な決済資料とするように組み立てられている。一方で、意思決定に至るまえに水面下での「根回し」が行われ、これは印鑑が押されない文書や非公式な会話で行われる。

これがコンピュータに置き換わるとどうなるのだろうか。まず、印鑑という概念がなくなるので、誰が決済した(つまりどの程度正確な)文章かということがわからなくなる。さらに、やりとりも電磁的に行われるために、それが正式な決定なのかそれとも非公式な根回しなのかということもわからなくなる。実際には「これはオフィシャルなやりとり」で「これは根回しだ」などと考えている人はいないだろう。さらに、コピーアンドペーストが容易になるので、ある程度公式な文章が勝手コピーされる可能性もある。

改めてこのように考えてみると、媒体の特性というものが意思決定にどれだけ重要な影響を与えているのかということがわかる。この影響力の強さはある種の悲喜劇を生んでいる。

最近話題になったのは、エクセルのマス目に一文字づつ埋めてゆく「神エクセル」だ。紙文化の影響が強すぎて、エクセルは印刷の書式を整えるものであるという誤解があるからだろう。だが、この神エクセルが生産性を押し下げているという指摘もある。(「神エクセル」が役所ではびこる理由 (1/2)

また、コンピュータで作った文書を最終的に郵送するかFAXで送れなどということもあるだろう。これも最終的には紙こそがすべてなのだという意思の表れだと思われる。重要なのはデータではなくそこに押される印鑑なのである。

このように紙にこだわりつつも、内部では効率化のために電子データが使われることがある。記憶に新しいのは、戦地からの情報を誰でもアクセスできる掲示板に公開した上で、後から「記録があった」とか「なかった」とか大騒ぎした南スーダンの日報問題があった。あの問題が恐ろしいのは命に関わる重要な情報が、全く閲覧権限や電子承認という概念なしにやりとりされていたという点なのだろうが、それよりも恐ろしいのは誰も「閲覧権限と電子承認に対応したグループウェアに帰るべきだ」と言い出さなかったことだ。

「権限」を明確化しようとすると、ジョブディスクリプションをはっきりさせなければならなくなる。すると非公式のコミュニケーションが排除される。だが、日本人は現場が情報を持っていることが多いので、管理職に意思決定をさせると大惨事になるかもしれない。さらに、そもそも、決定に個人が責任を持つという文化がないので、そもそもグループウェアが導入できないのだろう。

さて、最初の土地の問題に戻ると、日本の役所はそもそも誰がどのような土地を持っているのかということを完全に把握できていない。持ち主がはっきりしない土地は九州の面積を上回るほどの規模になっており境界線がよくわかっていない土地も多い。境界を確定するためにはすべての関係者から承諾書をとる必要があるのだが、そもそも誰が所有者かわからない土地に隣接していると、自分が持っている土地の面積を確定できず、売れないし相続もできないというようなことが起こる。さらに、こうした情報は紙のままだったり、データ化されていたりする。

政治家はこの問題を知らず、さらに官公庁は誰もこれを整理したがらない。抜本的な解決が不可能だからだろう。そこで「自分は関係がない」といって知らないふりをするということが横行しているようだ。国有地や公有地の管理がいい加減でも構わないのは、土地に応じて税金を納めなくてもよいからだろう。そのためそもそも評価がおざなりになりやすいのではないかと考えられる。

森友問題を外側から見ていると、そもそもきちんと土地の価格が管理されていないので、いろいろな言い訳でいかようにも評価ができる上に、コンピュータが使いこなせておらず、情報が簡単に錯綜してしまうということがわかる。かなり複合的に汚染された状況にあり、誰が悪いといって簡単に済ませることができる問題ではない。

そのため、民間のレベルから見るとデタラメなことが横行しているのだが、役人はこれが当たり前のことだと思っているのだろう。土地の管理やコンピュータに弱い政治家が、そもそもどのように情報や土地を管理していいのかがわかっていない役人に話を聞いても何も解決しないだろう。

森友問題も加計学園の問題も築地と豊洲の問題も、すべて土地の管理と記録という問題が出てくる。犯人探しをする前に、土地がどう管理されるべきかということを議論すべきだと思うのだが、国会で「土地の管理について話し合おう」という人は誰もいない。

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ナチズムはなぜいけないのか高須さんに説明ができますか?

「みんながいけないって言っているからダメなんでしょ」では説得できない

整形外科医の高須克弥さんという人が「ナチズムを肯定した」として叩かれている様だ。この一連の議論の中で「なぜナチズムはいけなかったのか」を説明しようとしている人たちがいた。いくつか眺めてみたが次のような説明が一般的なようである。

  • ナチスはユダヤ人をたくさん殺してかわいそうだからいけない。
  • ナチスは国際的にいけないという人がたくさんいるからいけない。
  • ナチスはドイツ人を正しいドイツ人と正しくないドイツ人に分けたからいけない。

日本人は「決まりだから守らなければならない」と考える人が多いが、ここでもその法則があてはまるる。つまり「被害者がたくさんいてみんながいけないと言っているからダメなんでしょ」という説明が受け入れられている。

この言い方で「ナチスがいけない」と思っている人を納得させることはできるが「みんなの<思い込み>に逆らう俺カッコイイ」と思っている様な人を納得させることはできないだろう。擁護派の中には「一部成果があったのを肯定しているだけ」という人もいるが、これも実はあまり意味のない話だ。

ではなぜナチズムはいけないのかということを調べてみたい。一つだけ確実なのは、ナチズムの被害を被らなかったドイツ人はいないし、被害を受けたのはドイツだけではなかったということだ。つまり、ユダヤ人が被害を受けたことは確かだが、ユダヤ人だけの問題ではなかったのである。

ナチズムが起こった当時のドイツ

ドイツは第1次世界大戦に敗戦して、主に東側の現在はポーランドにあたる領土を失った。だが、崩壊したのは領土ではなく、自分たちは何者なのかという概念そのものだった。ドイツ人というのは複雑な概念で「ドイツ語を話す人」という意味しかない。例えば、東ヨーロッパには支配者層のみがドイツ人の地域があった。さらにオーストリアにもドイツ人は住んでいた。さらに海辺のドイツ人と高地に住むドイツ人では話す言葉がかなり違っており、現在では別の言語だと考える人もいるくらいの差がある。つまり、ドイツ人とは何かということを考えはじめると「なんだかよくわからない」ということになってしまうのだ。

だが、各地で帝国が崩壊してヨーロッパ各地に国民国家が立ち上がると、ドイツ人も「自らのドイツ性とは何か」ということを考えざるをえなくなってしまった。

だが、問題はこれだけではなかった。イギリスで共産主義が生まれロシアで発火した。いわば「資本主義は労働者に希望を与えられないから内側から体制を破壊してしまえ」という運動だ。これに対抗するためには資本主義を肯定したくなるがそれも難しかった。金融恐慌が発生して資本主義経済がめちゃくちゃになってしまったからだ。何か欠陥があるのは明らかだったが、何が問題でどうすれば解決できるのかがわからない。つまり、資本主義も肯定できないが、かといって共産主義的な政策も取りたくないという状態にあった。

ドイツ人は最終的に、共産主義でも資本主義でもない「独自のやり方がある」という主張に共鳴した。しかしそれは「考え方が違うから考え方を変えてみよう」というようなおとなしいものではなく、敵の設定だった。共産主義を代表していたのはソ連なのだが、資本主義に敵を作れなかったので「ユダヤ人が悪い」ということになったものと考えられる。

この二つが結びついてナチズムになったのか、それともナチズムがこうした動乱を利用したのかはわからない。だが、最終的にはヨーロッパ全体を巻き込む嵐になって誰も止めることはできなかった。

敵の設定には成功したが問題は解決できなかった

ヒトラーがやったことは、国会を破壊することだった。1933年の総選挙の選挙期間中に国会が火事になった。誰がやったかはわかっていないそうだが、ヒトラーは「共産主義者が国を破壊しようとしている!」と叫び、共産主義者系の新聞を発禁にして共産主義者を予防拘禁した。最終的にはヒトラーへの全権委任が行われ、国会は開催されなくなった。日本の憲法改正案にある「緊急事態条項」が嫌われるのはこの時の記憶によるものである。人権に配慮した憲法があったとしても、それを合法的に停止することができるようになる。そして危機などというのはいくらでもでっち上げることができるのである。

次に行われたのがユダヤ人の迫害だった。ドイツ人が一つになれなかったのは異物であるユダヤ人のせいだ意見は以前からあったようだが、ナチスによって組織化されて「効率的な」排除が行われた。最初は国外に追放して財産を奪う計画だったようだが、それも面倒になりガス室を作って殺す様になった。これは財産を奪うという目的の他に、不調の原因を可視化することが目的だった。つまりナチスの政策が悪いわけではなく、ユダヤ人のせいで暮らしがよくならないという責任転嫁がなされたのだ。

ナチスドイツには経済的な問題についての知見がなかったようだ。これは世界的な問題だった。協調行動をとる仕組みが全くない上に経済理論も脆弱だったせいで金融危機への対応ができない国が多かった。ここからすぐに抜け出せた国は、中国本土に展開した日本と東方に展開したドイツだけだったが、どちらも最終的に行き詰った。

正面から問題を解決しようとすると国民から非難される可能性があるので、敵を設定してそれを問題解決だと思い込ませる必要があった。現在の日本でも中国や北朝鮮に目を向けてアベノミクスの失敗を糊塗する動きがある。安倍政権が特区を使って仲間たちに利益配分する動きが国民の注目を集めると「中国が日本の土地を乗っ取ろうとしている」などと騒ぐのがその一例である。つまり、敵の設定は行き詰まりの印だと言える。

ドイツは公共事業で失業者を吸収しようとした。これ自体が悪いとは言い切れないが、ドイツ政府は国債も発行できず外貨準備もなかった。そこでメフォ手形を発行することになる。しかし、こうした<経済対策>は生産力の底上げにはつながらないので、やがて政策が行き詰ることは明白だった。そこで軍備増強が計画された。つまり軍隊そのものが巨大な公共事業であり、略奪は資金の調達方法でもあったということになる。このせいでヨーロッパの多くの地域でナチスによる破壊が横行することになる。

「最初のうち、ナチスドイツの経済政策が成果をあげた」ということ自体は確かなのだが、持続性がなく、周囲を破壊しつつ拡大するガンのような成果の上げ方だった。だから、アウトバーンやフォルクスワーゲンだけを取り上げて成果があったということはできない。これらの政策はひとつながりになっているからである。これでもナチスのやり方は正しかったなどという人がいれば、それはもう頭がおかしいとしか言いようがない。

問題はどう解決されたのか

さて、大規模な破壊が起こったのだから、当然誰かが償わなければならない。だが、その被害は誰かがなんとかできる規模ではなかったので、ヨーロッパ全体で負担する必要があった。さらに、第一次世界大戦でドイツを経済的に追い詰めたことが第二次世界大戦の要因になっていることはわかっていたので、賠償金や補償金という方式は採用されなかった。

これが日本とドイツの決定的な違いになっている。つまりヨーロッパ人は自発的に賠償金を取らないということを決めて、代わりに集団的な自衛の枠組みを作った。しかし、独立国が少なかったアジアでは自発的な取り組みは行われず、半ば所与のものとして賠償金の請求をしないという決定がなされた。このため、ドイツ人は過去の「過ち」について意識的に否定しなければならないと考えているのだろう。

戦後賠償のためには生産設備を接収して賠償に当てる「デモンタージュ」という方法が取られた。東側ではデモンタージュが徹底され東ドイツは生産設備の多くを失った。一方で、西側では共産化を防ぐ方が先だという認識が生まれ、デモンタージュが徹底されることはなかったようである。西側はルール地方の資源を共同管理する枠組みが作られ、これがやがてEUへと成長することになったという分析もある。また、ソ連に対する集団防衛の体制が取られ、ドイツは集団的自衛の仕組みに強制的に組み込まれた。

メフォ手形をはじめとしたドイツの戦後処理がどの様に行われたのかをwikipediaで簡単に見ることはできなかった。ドイツの返済能力を超えているので、補償を優先するとドイツ経済が破綻することはわかりきっていたし、かといってすべての補償を全く行わないというわけにもゆかなかった。

例えば、ここに「ロンドン債務協定」についての文章があるのだが、正直何が起こったのはよくわからない。文章を読むと、最初は東西ドイツが成立するまで補償問題は棚上げしようということになり、東西ドイツが成立してからもうやむやになったようである。ヨーロッパ経済は複雑に結びついてしまっているので、ドイツ経済が破綻してしまえばヨーロッパ全体が壊滅的な影響を受けるだろうということだけは想像ができる。

これがドイツがナチズムを決して許容しないもう一つの理由になっている。ナチズムは狂気であり普通のドイツ人の考えを違っていたということにしなければ、補償問題に直結してしまうのだ。現在、アメリカや日本でナチズムを賞賛する動きがあるが、被害を受けたユダヤ人だけでなくドイツ人も蒸し返して欲しくないと感じているのではないだろうか。

確かに経済政策(例えばアウトバーンや自動車産業が有名だ)などだけを見ると効果があったことは確かなのだが、全体を見ると持続可能性のないスキームだったということがわかる。だがその背景には社会体制に対する根本的な疑問やドイツ人のアイデンティティをめぐる問題があり、これを日本の事情に合わせて勝手に解釈をすることもできない。

こうした知識なしにナチズムについて議論することには意味がないし、議論をしてナチズムを肯定しても誰も喜ばない。

ナチズムに関する問題は、日本ではネトウヨが正しいのかサヨクが正しいのかという党派性の話に矮小化されているのだが、これはもったいない話だ。経済や社会体制が行き詰まり、政治が解決策を見出せなくなると、嘘が横行し、敵が設定され、政府はより強い権限を欲しがる。こうしたことは現代の日本でも起きている。多分、ナチズムがいけないということを人に説明するよりは、私たちの目の前で何が起きているのかということを考える方が重要なのではないかと考えられる。

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