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森友問題についてデジタルフォレンジック以前に考えるべきこと

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Twitterで、複数の人経由で「デジタルフォレンジック」という単語が流れてきた。森友学園問題に関して採用が検討されているらしい。コンピュータの電磁的記録を証拠として採用することをこう呼ぶらしく「デジタル法科学」などと訳されるようだ。

森友学園問題は、首相との関係をほのめかした人に国民の財産が格安で払い下げられようとしたという問題だ。公平性に重要な懸念があり、再発を防止しなければならない。しかし、現状ではうまくいけばボロ儲けができるが、バレたら投獄されるというロシアンルーレットのような状態になっている。だが、安倍首相を追い落としたということだけが問題になっているので、こうした不公平な状態をどう改善すべきかという議論は全く見られない。

この問題を見ていると、重要な意思決定がどのようになされたのか、後から検証できないというのが問題の根幹であることがわかる。原因はいくつかある。まず、役人や政治はが情報を隠そうとしており、さらに電磁的データがどう扱うべきかよくわかっていないようだ。

やっかいなことに、この問題は「意図したもの」と「意図しないもの」に単純に分解できない。

問題をとく糸口は日本の決済文化があるように思える。日本の決済文化は紙に印鑑を押したものを終的な決済資料とするように組み立てられている。一方で、意思決定に至るまえに水面下での「根回し」が行われ、これは印鑑が押されない文書や非公式な会話で行われる。

これがコンピュータに置き換わるとどうなるのだろうか。まず、印鑑という概念がなくなるので、誰が決済した(つまりどの程度正確な)文章かということがわからなくなる。さらに、やりとりも電磁的に行われるために、それが正式な決定なのかそれとも非公式な根回しなのかということもわからなくなる。実際には「これはオフィシャルなやりとり」で「これは根回しだ」などと考えている人はいないだろう。さらに、コピーアンドペーストが容易になるので、ある程度公式な文章が勝手コピーされる可能性もある。

改めてこのように考えてみると、媒体の特性というものが意思決定にどれだけ重要な影響を与えているのかということがわかる。この影響力の強さはある種の悲喜劇を生んでいる。

最近話題になったのは、エクセルのマス目に一文字づつ埋めてゆく「神エクセル」だ。紙文化の影響が強すぎて、エクセルは印刷の書式を整えるものであるという誤解があるからだろう。だが、この神エクセルが生産性を押し下げているという指摘もある。(「神エクセル」が役所ではびこる理由 (1/2)

また、コンピュータで作った文書を最終的に郵送するかFAXで送れなどということもあるだろう。これも最終的には紙こそがすべてなのだという意思の表れだと思われる。重要なのはデータではなくそこに押される印鑑なのである。

このように紙にこだわりつつも、内部では効率化のために電子データが使われることがある。記憶に新しいのは、戦地からの情報を誰でもアクセスできる掲示板に公開した上で、後から「記録があった」とか「なかった」とか大騒ぎした南スーダンの日報問題があった。あの問題が恐ろしいのは命に関わる重要な情報が、全く閲覧権限や電子承認という概念なしにやりとりされていたという点なのだろうが、それよりも恐ろしいのは誰も「閲覧権限と電子承認に対応したグループウェアに帰るべきだ」と言い出さなかったことだ。

「権限」を明確化しようとすると、ジョブディスクリプションをはっきりさせなければならなくなる。すると非公式のコミュニケーションが排除される。だが、日本人は現場が情報を持っていることが多いので、管理職に意思決定をさせると大惨事になるかもしれない。さらに、そもそも、決定に個人が責任を持つという文化がないので、そもそもグループウェアが導入できないのだろう。

さて、最初の土地の問題に戻ると、日本の役所はそもそも誰がどのような土地を持っているのかということを完全に把握できていない。持ち主がはっきりしない土地は九州の面積を上回るほどの規模になっており境界線がよくわかっていない土地も多い。境界を確定するためにはすべての関係者から承諾書をとる必要があるのだが、そもそも誰が所有者かわからない土地に隣接していると、自分が持っている土地の面積を確定できず、売れないし相続もできないというようなことが起こる。さらに、こうした情報は紙のままだったり、データ化されていたりする。

政治家はこの問題を知らず、さらに官公庁は誰もこれを整理したがらない。抜本的な解決が不可能だからだろう。そこで「自分は関係がない」といって知らないふりをするということが横行しているようだ。国有地や公有地の管理がいい加減でも構わないのは、土地に応じて税金を納めなくてもよいからだろう。そのためそもそも評価がおざなりになりやすいのではないかと考えられる。

森友問題を外側から見ていると、そもそもきちんと土地の価格が管理されていないので、いろいろな言い訳でいかようにも評価ができる上に、コンピュータが使いこなせておらず、情報が簡単に錯綜してしまうということがわかる。かなり複合的に汚染された状況にあり、誰が悪いといって簡単に済ませることができる問題ではない。

そのため、民間のレベルから見るとデタラメなことが横行しているのだが、役人はこれが当たり前のことだと思っているのだろう。土地の管理やコンピュータに弱い政治家が、そもそもどのように情報や土地を管理していいのかがわかっていない役人に話を聞いても何も解決しないだろう。

森友問題も加計学園の問題も築地と豊洲の問題も、すべて土地の管理と記録という問題が出てくる。犯人探しをする前に、土地がどう管理されるべきかということを議論すべきだと思うのだが、国会で「土地の管理について話し合おう」という人は誰もいない。

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