麻生さんが派閥の会合でヒトラーは動機が正しかったが結果が間違っていたと発言して問題になった。ヒトラー=いけない人ということになっているので脊髄反射的な側面もあると思う。今日はこれがどう問題なのか考える。
第一の問題は麻生さんが繰り返しヒトラーやナチスに対する信仰告白をするのをどう捉えるかだ。過去にヒトラーの手口に学んだらどうかと言っているので、多分ヒトラーをある程度評価しているものと思われる。周りがあれこれ推測していても本人の理屈はわからないので、ぜひ一度考え方について説明すべきだろう。
類推すると、自分の考える正義を貫くためには手段を選んではいけないということなのではないかと思う。経済が一時的に上向いたことは確かなのでこれを評価しているのかもしれないし、アウトバーン網やフォルクスワーゲンなど今につながる資産も残っている。
ところがそもそもヒトラーが経済を打開するための手段としてユダヤ人を殺したり共産党を弾圧したのかはよくわからない。物事を解決するために他人を殺したり社会的に抹殺すべきだと考える人はいるかもしれないが、それを実行するのは明らかにサイコパス的な特徴だからだ。
次に「正しいか正しくないか」は政治家が知っていてコントロール可能であるという考え方も危険かもしれない。統治者は、自分が正しいことをやっているかどうかは自分ではわからない。だからチェックが必要だというのは人間が経験を通じて学んだ大切な戒めだ。仮に、当初の目的が正しかったとしても副作用が出る可能性はあるわけで、その副作用を責められた結果権力に立てこもるようになるということもある。
例えばベネズエラでは「石油の富を平等に分配する」という理念のもとで社会主義的な政策が取られたのだが、現在の経済は破綻状態にある。チャベス大統領のやったことは「正しかった」かもしれないが、完璧ではなかった。
麻生さんが「ヒトラーの何が正しいと考え、何が間違っていたのか」を言わないので、周囲にいる人たちがあれこれ騒ぎ立てるのだが、騒いでいるだけではヒトラーの何がおかしかったのかということはよくわかってこない。
ヒトラーは極めて取り扱いが難しい爆薬のようなものだ。日本人にはなかなかわかりにくいがこれを日本人が絶対悪だと考えているが清算できていない問題に変えてみるとよくわかる。それが原爆である。
アメリカ人には「原爆は戦争を終わらせるために仕方なく投下された」と考える人がいる。政府のプロパガンダだとも言われるが正確なところはよくわからない。ところが日本人に平気でこれをいう人がいる。日本人は原爆をひどい仕打ちだと考えているがアメリカの統治を受け入れるためにこれを天災のように扱っている。そこで感情が動くわけである。ヒトラーにも同じような側面があり、ドイツ人は自分たちの中にある狂気が利用されたという気持ちを抱えつつ、戦後ヨーロッパの一員になるためにナチを厳しく封印してきている。これを軽々しく持ち出してきて評論家のように語ればどういう影響があるのかということを麻生さんは考えていないのだろう。
こうした複雑な事情に加えて「正しい」という言葉に対する認識の違いもある。
英語で「right」というと正義という概念を含むので、これを一方的に使うとかなり嫌われる。つまり、評価は人それぞれであるはずなので、そもそも正しい答えなどないと考える人が一定数いるからである。その上でヒトラーは正しかったと言ってしまうと「ヒトラーは正義だった」ということになり、とても受け入れられそうにない。
一方、今回はcorrectという言葉で翻訳されたようだ。こちらは正解とかあるべき姿だいう意味を含んでいる。オリジナルの動機が「正解だった」というのはどういう意味だろうと考えることになる。
Rightという言葉は「内なる価値判断基準に照らし合わせて正しい行いだった」というニュアンスを含む。ドイツ人の経済を発展させるために共産党員を投獄しユダヤ人を収容所送りにするのは「キリスト教徒である麻生さんの価値判断基準としては正しかったのか」という疑問が浮かぶ。
欧米人は「神」を持っていて、この神の意思に添うように自分を律するのが正しいと考えている。が、この神の原理は何かということがしばしば問題になる。一時期マイケル・サンデルの「これから「正義」の話をしよう」という本が話題になった。マイケル・サンデルはコミュニティに共通する価値観がありそれを共同で追求するのが「正義だ」と考えているようだが、それとは違った例えば功利主義的な正義についてもわかりやすく解説している。つまり神様というのは言葉であり論理なのだ。
麻生さんが安易に「当初の目的は正しかったが結果は間違っていた」という時、そこにある「正しい」の論拠は何なのだろうか。
日本人はロジックによる神を持たないので、多数派が正しいということになる。つまり勝てば官軍だと考えるわけだ。こう考えると、ヒトラーは政権を取った時には多数派で正しかったが(実は選挙による多数派ではないので、これも間違いなのだが)最終的にはニュルンベルク裁判で負けたので正しくなくなったというような説明ができるが、これを欧米の人に説明すると、心底ぎょっとされるのではないかと思う。つまり日本人は多数派が形成できないと黙っているが、勝負に勝てると思うと突然暴れ出すかのように受け取られかねないからである。
事実日本ではこうした主張がなくならない。東京裁判に負けた時には力の面からは正義ではなかったが、今は選挙で意思決定権を握っているのでA級戦犯を含めた人たちを「正しかったことにできる」と考える人はそれほど珍しくはない。だから、同じ枢軸国のリーダーだったヒトラーにも「理解できる点はある」などという人がいなくならないのだろう。ヒトラーにも良い点はあったから、日本を戦争に導いた人たちもそれなりの理屈はあったと考えるわけだ。
麻生さんのは、当初の目的はよかったが受け取られ方が悪かったというのは、裏を返せば当初の目的を隠して結果的によかったことにすれば正当化されるということでもある。自民党政権は、途中経過を説明しないで都合の良い数字だけを持ち出して「結果はあっていた」というような説明をすることが多い。多分、麻生さんに見られるような考え方は割と共有されているのではないかと思う。
ここまで「目的と手段」について考えてきたのだが、麻生さんや安倍さんという政治家は世襲であり、そもそも何かを成し遂げるために政治家になったわけではない。しかし、封建領主ではないので徴税権があるわけでもないので自分たちの地位を守るためには支持者たちに利益誘導してやるしかない。それを正当化するためにみんなが受け入れやすい理屈を後付けする。
多分この件について追求すべきは麻生さんの政治姿勢だと思うのだが、それが本人の口から語られることはないだろう。