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なぜ私たちは消耗戦を戦っている様に感じるのか

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先日来、日本では政権交代の受け皿になる政党が出てこない理由を考えている。今の所、そもそも個人に考えがないのでそれを集めて政党が作られることはないということと、資本主義という宗教が死にかけているのでみんながまとまれる原理ができないということを考えてきた。

今回はみんながまとまれない理由を少し考えてみたい。まとまれない理由を考えるのだが、考えているうちにわかるのは、なぜ私たちが消耗している様に感じているのかということだ。

木曜日に「セシルのもくろみ」というドラマをやっている。読者モデルがファッションモデルへの階段を上がって行くというドラマで、リアリティがないせいか視聴率が4%以下に下落している。

今週の筋書きは次のようなものである。

雑誌の売り上げが落ち込み、読者モデルをクビになった主人公が再び専属モデルとして呼び戻される。だがろくにポージングもできず自信を失ってしまう。救いの手を差し伸べたのが憧れの対象であるカバーモデルだった。主人公はみんなが憧れるブランドの仕事を打診されるのだが、インスタグラムが炎上し、その責任をとってモデルと組んでいたライターがクビになってしまう。その炎上は嫉妬に駆られた同僚が仕組んだ罠だった。

このようにどうでもいい話が延々と続くのだが、基本になっているのは、フリーランスのライターと社員である編集者の格差とフリーランス(モデルとライターが含まれる)の間の足の引っ張り合いである。

ここではフリーランス同士の足の引っ張り合いは所与のものとして語られ「なぜ彼らは協力して仕事ができないのか」という視点はない。が、彼女たちが足を引っ張り合う理由は明白である。フリーランス2は身分保障がないので成果をあげて生き残るしかないのだが、何が成果なのかということがはっきりしないのである。難しい言葉でいうと成功を図るKPIや行動規範がないのだ。結果的に、彼らが浮くか沈むかということは運任せになる。すると、相手を蹴落としてライバルを減らすといいう「努力をする」ようになるのだ。相手を蹴落とすことは自分の力量の範囲でできるからである。つまり、モデルやライターには成果をあげるケイパビリティはないかもしれないが、相手を蹴落とすケイパビリティはあることになる。

話を見ていると、彼女たちは休みがあまりないようだ。とはい働かされているのではなく、企画を出すために走り回っている。しかし、その企画がどうやったら成功するのかは編集者と運(読者が喜ぶか)決める。だから、時間内に休みを取ることができない。これも所与のものとして考えられている。

つまり、彼女たちは相手を蹴落とすか、時間内に不安な思いで思いつきの企画を出し続ける自由があることになる。だから日本人は長時間労働を強いられることになる。

では編集者がライターをフリーライターとモデルを搾取しているのかというとそんなこともない。板谷由夏が演じる編集者は子供を作るのを諦めて仕事に邁進しているがあまり楽しそうではないのでほとんど笑わない。

なぜ板谷由夏が笑わないのかということはよくわからないのだが、彼女たちにないのはケイパビリティではなくコンピタンスだ。コアコンピタンスというのは企業の得意分野というような意味である。実際に企画を出しているのは編集者ではなくライターであり、また人気を集めるのもモデルである。編集者は単にそれを管理しているだけで、実際に競争力の源泉ではない。つまり、彼女たちも自分で頑張ることはできず、抱えているライター次第で売り上げが変わるという不安定な状況に置かれている。

しかも、配下にいるフリーランスのモデルたちはしょっちゅう摑み合いの喧嘩をしたり、勝手にインスタグラムをあげて炎上させてしまったりと、編集者たちは休む暇がない。つまり自分では状況がコントロールできないのに意思決定だけはしなければならないというかなり笑えない難しい状況に置かれている。

モデルには別の深刻な問題がある。主人公のモデルにポージングを教えてくれる人は誰もいない。普段から現場にいるライターやカメラマンが見よう見まねで教えるのだが、実践者ではないのでどうも要領を得ない。結局、キャリアが終わりかけで主人公と競合しないカバーモデルが教えてくれる。組織としてナレッジマネージメントがうまく進んでおらず、ノウハウをそれぞれのフリーランサーが抱え込んでいるという状態である。

これでもこの雑誌(バニティ)が回って行くのは、雑誌社が流通を抑えていて、ステイクスホルダー押さえているからだ。ステイクスホルダーは、広告を出してくれるアパレル企業、読者、そして流通である。ところが、不得意なインスタグラムに手を出していることからわかる様に、出版社のニッチはネットに脅かされつつある。つまり、出版社の最後のコンピタンスも実は失われつつあるのである。

ここで問題なのは、最初からこのような状態だったのだろうかということだ。

お話の中では、かつてカバーモデルと板谷由夏の編集者が仕事上のパートナーだったという話が出てくる。つまり、かつては編集者が企画を考えており、コンピタンスの一つは会社が抱えていたことがわかる。だが、板谷由夏の後輩たちは多分最初からライターを抱えて企画を出させているだけなので、コンテンツクリエイターとしてのコンピテンスも失いつつある。だが、これも所与のものと考えられており、それに疑問を呈する人はいない。

かといって、ライターやモデルが勝手に媒体を立ち上げることなど出来ないわけで、このコミュニティは最終的には誰もコンピテンスを発揮できなくなる運命にあるということがわかる。

これを正規雇用と非正規雇用に置き換えると、こうした状況が当てはまる会社は多いのではないだろうか。つまり、多くの会社が同じように生産性を失いつつあるのではないかということがわかる。

さて、こうしたことがなぜ起こるのかということを考えてみたい。行動規範がはっきりしないのも、知識共有が進まないのも、原因は企業が明確な意思を持って「コンピテンシービルティング」をやらないからだ。つまり何が強みなのかを分析した上でその強みを強化したり新しい強みを作って行こうという意欲がない。

なぜそのようなことが起こるかというと、このバニティという雑誌にライバルがいないからだと考えられる。ライバルがいないから強みを意識する必要はない。強みが意識できないと、内部での潰しあいが始まり、最終的にはコンピタンシーが崩壊する。一方ネットのようなライバルは視界に入っていない。

このドラマが全く面白くないのは、プレイヤー同士が24時間働かされ、足を引っ張り合っているにもかかわらず、なぜ頑張っているのかということがわからないからだ。いろいろと頑張る理由は出てくるがどこかふわふわしていて説得力がない。

さて、今回はなぜ政党が受け皿を作れないのかという話を考えている。結局のところ集団になんらかの明示的な目的があり、その目的のために知識の伝達が行われてこそはじめて協力ができるということがわかる。それは強みの形成である。目的意識が失われると、何のために頑張っているのかということがよくわからなくなり、フラストレーションがたまってゆく。こうしたフラストレーションがなんらかの形で組織を破壊し始める。これが炎上や分断の形で表出したのが今の状態なのではないかと考えられる。

組織の強みの源泉は個人なので、これを補強することがなくなると、結果的には消耗戦が始まる。多くの人が現在の状況をインパール作戦になぞらえるのは強みの補強がなく、消耗戦を強いられているからだろう。

ドラマの中ではすべての悪の源泉は実は明確な目的意識を与えず、編集長の椅子に座っている編集長だ。これを、無力な人をやらせると右に出るものはないというリリー・フランキーが演じている。

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