前回のエントリーでは、若い人たちには憲法第9条の擁護が響かなくなっているのではないかということを書いた。この中で、保守・革新といったラベルが有効に作用していないのではないだろうかということを考えた。「何が保守かということを研究した人はおらず、政治学は古くからのラベルに固執している」というような文章を書きかけたのだが、いや待てよと考えて調べてみることにした。
実際には、保守・革新というラベルについての調査は存在する。存在はするのだが、あまり予算がつかないらしい。ワーキングペーパー止まりになっているのだ。それが、早稲田大学現代政治経済研究所が出している「イデオロギーラベル理解の世代差に関する実験的検証」である。二人の共同著作になっていて、ウェブ上でいくつかの文章がある。
日本には保守・革新や右と左などの政治的ラベルがある。このうち、保守・革新というラベルはもはや機能していない。年代によって「革新」の意味づけが違っているからだ。老年層は共産党を革新だと思っているが、若い人たちは維新の党を革新だと思っているそうである。革新をリベラルと変えても同じような結果が出るそうで、革新とリベラルが同じような意味で使われていることがわかる。
右と左だと全世代で同じような傾向が見られるのでそれをラベルに使えばいいと思えるのだが、若年層を中心に「よくわからない」という人が増えてしまうのだという。このため右と左はラベルとしては使えない可能性が高いのだという。
日本には全世代で使える政治的分類というものは存在しないのだという結論になっている。同じ研究者(遠藤 晶久とウィリー・ジョウ)の別のペーパーでは、保守を支持する人たちの属性がおぼろげながら見えてくるが、これも一貫した関係は見られない。次のようなコメントがある。
- 右左ラベルでは右であるほど政治を信頼しているという関係がある
- 中韓排外主義では、保守革新ラベルと保守リベラルラベル の両方で保守であるほど中国と韓国に対し て排外主義的であるのに対して、右左ラベルでは 20 歳代以外はそのような関係はみられない
日本ではイデオロギは溶解したという見方ができるが、こうした分断がなぜ起こるのかというのはよくわかっていないようだ。50歳から30歳台にかけて断層があるようだがこの世代には二つの変化が起きている。東西冷戦が終わり東側陣営が崩壊しバブル経済が破綻して日本の経済が行き詰った。
- 1989年にベルリンの壁が崩壊し、東側の崩壊が始まった。社会主義の失敗が鮮明になった。
- 1990年に上海が開放され、中国が本格的に資本主義経済に参加した。
- 1991年に土地資産バブルが弾けた。また同年にはソ連が崩壊した。
東西構造がなくなってしまったので、若い世代が社会主義というモデルを信頼しなくなったというのは理解しやすいが、なぜ経済の失敗が政治的イデオロギに影響を与えているのかということは実はよくわからない。日本が経済政策に失敗した時期と、中国が資本主義経済に参加した時期が重なっている。日本は経済的なニッチを中国に奪われて今までのモデルで成功できなくなってしまったと考えることができる。自民党は高度経済成長の成果を分配することで成り立ってきた政党なので、自分で経済モデルを作ることができなかった。このため一度崩壊の危機を迎える。皮肉なことに自民党が揺らいで最終的に崩壊してしまったのは左側の陣営だった。社会党はほぼ壊滅し、民進党も今左右分裂の危機にある。
こうした状況を再整理するためには、様々な形容詞を並べた上で、保守とは何を意味しているのかとか、革新とは何を意味しているのかということを調査する必要があるのかもしれない、などと思ったりする。
ところが外国の状態をみると、少し違った見方ができる。まずこうした政治的態度の違いを脳科学から定義し直す人たちもいる。ハフィントンポストは保守とリベラルの違いは脳によってある程度類推できるとする記事を紹介している。「あなたがリベラルか保守かは、「気持ち悪い写真」に対する脳の反応でわかる(研究結果)」という研究では、気持ち悪い写真に対する脳の反応によって違いが見られるとしている。つまり、不愉快なものを避けたいと考える人ほど政治的に保守的になる可能性が高いというのである。
イギリスの別の研究(リベラル派と保守派、脳構造に違いがあった 英研究)では複雑性を扱える人と恐怖心を感じやすい人がいて、それが政治的態度に影響を与えるのだとしている。
ここで注目すべきなのは、アメリカやイギリスでは保守や革新というラベルが取り立てて疑問の対象になっていないということだ。アメリカでは守旧的で変化を嫌う態度を保守と呼んでおり、不確実性を受け入れる人たちのことを革新だと定義づけており、これが共和党と民主党の違いになっている。
こうした違いが生まれるのはなぜなのだろうか。アメリカでは個人の価値観が先にあり、そこから党派が作られる。だが、日本では党派が先にあり、そこに個人がつくという関係が見られる。しかも、独立して作られるわけではなく、外国の影響によって政党が作られたという事情がある。共産党はソビエト連邦と関係しており、社会民主党はヨーロッパの社会民主主義をモデルにしている。自民党はアメリカが財政支援して作った政党である。これらの政党が有権者の関心を引くためにさまざまな政策をアラカルト的に採用している。自民党にはこの傾向が強く、地方への分配や年金制度のような共産主義的な政策と、アメリカ型の自由主義的政策がキメラのように混じり合っている。
このため政党と個人が結びつきにくくラベルをわかりにくいものにしているのだろう。民進党に至っては「どちらが有権者に受けるか」ということが代表選挙の最大の争点になっているのだが、これが却って「どんな政党なのかわからない」ということになっている。いわば高級路線で売り出すか安売り店になるかわからないのでどちらもやってみてブランドが崩壊するというような話である。
さらに個人のレベルでも自分の政治的属性がわからないという人が多いのではないだろうか。例えば多様性に対応できるタイプだったとしても、言論界で優位な位置に立てるように自民党の応援をするという人がいたりする。さらに明らかに多様性を受け入れられないようなタイプの人が左側のリベラルを自認することもある。こういう人は「原発廃止以外はどんな考えも受け入れられない」などというのである。
もしこの仮定が正しいとすると、いくら形容詞を並べ立てて「あなたの政治的態度は何ですか」などと聞いてもあまり意味がないことになる。そもそもイデオロギーが存在しないからである。だが、いずれにせよこれも聞いてみないとわからない。
いずれにせよ、政治と個人を結びつけるためには、個人的なレベルでの政治的イデオロギの再構築が必要であり、そのためには本格的な調査が必要なのかもしれない。調査はかなり詳細なものになるだろうし、脳科学のような一見関係の薄そうな分野を統合する必要もあるのだろう。