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右か左かという意識と政界再編

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日本は政界再編すべきだという声をよく聞く。自民党の政治は行き詰っている様に思えるのだが、かといって受け皿になる政党はない。イデオロギーは死んだという悲観的な意見もあるが、では何をもって政界再編すべきなのだということになる。

そこでいろいろ調べてみたのだが、前回のエントリーではそもそも政治を定義する枠組みが溶解しているという観測を見つけた。アメリカやイギリスでは保守とリベラルという枠組みがあり、その場に止まりたい人たちと進歩したい人たちの違いだと理解されているのだが、日本でリベラルという言葉の理解には世代によって違いがあり、古い世代は共産党を、若い世代は維新をリベラルと感じているようなのだ。左右の方が共通認識が得られるがが「自分がどちらなのかということがわからない」という人たちが多いそうだ。

これだけを見ると、すべての世代が使えるような共通認識さえあれば、政界再編の第一歩がふみだせることになる。難題ではあるが解決不能ではない。

そこでTwitterのフォロワーの人たちはどちらなのだろうかと聞いてみたくなった。が、聞いた後で「どちらでもない」が多くなるのではないかと少し後悔した。それはなぜかというと、ネトウヨとパヨクというように、それぞれが蔑視感情で政治的態度を捉えることが多いように感じられるからだ。つまり、わからないから答えないのではなく、自分が中心にいて相手が偏っていると感じている人が多いのかもしれない。

最終的に9票が集まった。多分傍観していて答えないという人が一番多かったのものと予想される。1名が右で2名がわからないと答えた。残り6名が左である。左が多いのは少し意外だったのだが、普段から安倍首相を批判するエントリーが多いブログなので、カウンターとして左を自認する人が増えているのかもしれない。安倍首相は右翼政治家とみなされており、それに対峙する自分は左であるという自己意識が生まれるという仮説だ。すると、左右という自意識は、ある対立する概念から見た自分の相対的な位置ということになる。

つまり、多くの人にとって政治的な位置付けはラベリングに過ぎず、自分の位置を自認する人も相対的にものを見ているということになる。

もしこの見方が正しければ、いよいよ日本では価値観をベースにした政界再編はいよいよ難しい様に思える。あえて言えば「正道党」とか「正義党」とか「中道党」というのが新しい政権政党の名前になるだろう。自分は普通であって、普通でない人たちが右と左に多いという考え方だ。

この点参考になるのが、同じ様な政治的風土を持つ韓国である。韓国には次の様な政党がある。ともに民主党、自由韓国党、国民の党、正しい政党、正義党、セヌリ党である。韓国は日本より包摂性の高い社会なので「ともに」という共感を呼ぶ名前がついているという違いがある。また北朝鮮と対峙しているので共産主義の政党ができる余地はない。違っているのは「新しい世」という名前のセヌリだけであり、あとは「正道でスタンダードな」というのが党の名前になっている。

ただ、「普通の溶解」が起きると、無党派層は増えるが、誰も新しい受け皿を見つけられないということになる。これを「正常な」状態に戻すためには、政権政党が政治的主張を捨てるべきだという結論になる。つまり、みんなから認められているのが正義なのだから、そこが「正常に」戻るのが一番いいということだ。それ以外の政党はみんなから選ばれていないのだからどこか偏っていて何かが間違っているということになる。

そう考えると民主党政権が受け入れられたのはそれが新しい政党であるからではなかったのではないだろうか。鳩山由紀夫は鳩山首相の孫であり「正統な政治家」である。自民党は内側からの自浄作用が働かないとされたから、形式的に外にでて政治を立て直す必要があったという理解ができるだろう。小池百合子が警戒されるのは自民党を経験しているからであると言える。

さて、これに関連して「脳・戦争・ナショナリズム」という本を読んだ。日本人の中にも英米のように脳科学から保守と革新というものを定義しようとしている人がいる様に思えたからだ。だが、その考えは間違っていた様だ。「日本人は科学的な事実が扱えない」ということを実証する結果になってしまった。

この本を手に取ったきっかけは、ウェブの情報ソースで「保守と呼ばれる人はオキシトシンが多い」という中野信子の説を読んだからだ。そこで、一次ソースに当たっておこうと思った。だが、本を読んでも一次ソースはわからなかった。中野はいろいろな学説を紹介しているのだが、一次ソースの提示が一切ない。出版元を見ると文春砲で有名な文芸春秋社だし、気軽に読める新書なので仕方がないのかもしれないが、いろいろな寄せ集めになっており、好きなものだけ取り出して自分の説を補強できる様になっているのはいただけない。

これに相乗りする様な形で批評家と評論家が自説を展開するという構成になっている。著者の一人は自分こそが真の保守であり安倍首相は邪道という主張を繰り返している人らしい。だが本を読む限りはそうしたバックグラウンドはわからないので、脳科学で得られた知見を自分の主張に転換するということになってしまっている。日本の出版界というのは恐ろしいところで、とてもインターネットには根拠のない二次情報が溢れているなどとは批判できない。

中にセロトニントランスポーターの話が出てくる。日本人は圧倒的に不安を感じやすい人が多く、これはセロトニントランスポータのせいであるという話だ。だから日本人には保守的な人が多いというのだ。この話は中野氏の持ちネタになっているようで、日本人に英語ができないのもセロトニントランスポーターのせいとらしい。が、中野さんは英語が得意だし、ネットを見ても英語で情報収集するのに困らない人は多い。この人たちはすべて例外であるとはとても言えないだろうから、こうした言質はまゆつばであるということがわかる。日本は社会全体を見ると「不確実さを嫌う性質が強く出ることも確かなので(ホフステッドのUAI指標)個人と集団の資質がごっちゃになっているのかもしれない。

面白いのは彼らが日本人というとき自分たちは例外になっているということである。日本人論ではよくあることなのだが、日本人というのもラベリング(つまり決めつけだ)の一つで「自分以外のバカ」を表すことが以外と多い。

この本で面白いなと思ったのが、彼らが政治についての持論を展開しつつも、自分の立ち位置を示さないという点である。その上で「バカなB層よりA層の方がけしからん」というような持論を展開していた。つまり、政治的な分類というのは他人に対するラベリングに用いられるべきものであって、自己を規定するものではないということである。これを一次ソースを提示しない<科学>で味付けしているのである。

つまり、そもそもの土台がしっかりしない上で党派の戦いがあるのだから、ここをどう再編したところで、政治的にまとまる様なことはありえないのではないかと思う。本当に政界再編が起こるとしたら、そこに参加する人たちが自分の中にある偏りを自覚するところから始まるのではないだろうか。このためには一人ひとりが自分の政治的態度を自覚しなければならない。

集団主義の強い国ではそもそも二大政党制のような対立を前提とする政治的世界は生まれないということになるので、いくら政界再編を叫んでもすべては徒労に終わるだろう。

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