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ヨハネス・イッテンの色彩論

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色彩論を読んでいる。イッテンはバウハウスで色彩論を教えていた人で、今でもグラフィック・デザインの世界では、まず最初に学ぶべき本の一つだとされている。

バウハウスの教師の中にはクレーやカンディンスキーというような芸術家がいた。しかし、イッテンは生粋の教師だった。教師といっても、国が作ったカリキュラムをそのまま教えるのではない。自身で絵の具を混ぜて、色彩の調和について研究したのである。色彩論にはこうした独自の探究心がよく分かる。

音楽と違って視覚芸術には理論が少ない。バウハウスの時代は科学万能時代の幕開けであり、視覚芸術に携わる人たちは、視覚芸術の理論化を試みる。しかし、意外な事に(今回読み返して、意外だなと思ったのだが)イッテンは理論化には慎重な姿勢を見せている。

色の理論化はある程度まで進んでいる。しか色が見える仕組みについてはよく分かっておらず、標準的な色空間のモデルも存在しない。工業的には赤・黄・青は三原色ではなくなっているのだが、このエントリーに出てくる赤・黄・青の色相環モデルもいまだによく使われる。これについては別途エントリーを準備した。

たいていの人間は生まれたときから色のある世界におり、視覚芸術家(バウハウスは工芸学校なので、この言い方にも賛否両論があるだろうが)は、色や形に関する天性の資質を備えている。フランスの「技術者は教育によって作られるけれども、色彩の芸術家は、生まれつきのものである」ということわざがあるそうだ。

デザイナーをしている人たちも「であるから、色については教えられない」と言われたことがあるはずだ。これはある程度正しいとイッテンは考える。天性の直感がある場合、色の理論はあまり役に立たない。理論は「不慣れな人たち」のものである。つまり、理論は「調和しているもの(あるいは不調和なもの)」を説明するには役に立っても、理論的にきれいなのだから、この芸術作品はきれいなはずだということにはならないということだ。

また、色に対する感性は人によって異なっている。つまり「主観的」なのである。ここがイッテンの教師として優れている所だと思われる。イッテンは「調和する色彩」について教える。すると生徒は「それは調和的ではない」と文句をいう。もしあなたが教師で、ついでに文部科学省の作ったカリキュラムを元に教えているとしたら、どう反応するだろうか。きっと「この理論が正解である」というに違いない。しかし、イッテンは「調和する色彩」を実際に描かせて、差があることを観察するのだ。イッテンは生徒の「調和」について記録を取っている。整理ができるのは、自分なりに理論ができているからでもある。

では、どうして理論化できないものを教える必要があるのだろうか。

イッテンは色彩に対する態度を3つに分類している。一つは「教師に言われた通りに色を塗る亜流の人たち」だ。多分流行している色を、よく見るからという理由できれいだと感じる人はこのグループに入っているだろう。ここから抜け出した「独自の色彩感覚」を持つ人たちがいる。しかし、その人たちが感じる「調和」は限定されている。どのような絵を描いても同じような色遣いをするのだそうだ。そして、そこから抜け出した人だけが、様々な可能性を組み合わせた色を使えるようになるのである。

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実験を行うためには理論化と実験が必要だ。教師にできるのは「最初の実験のやり方」を教えることだけだ。これを旅に模して、最初は馬車に乗って行くがその内に自分の脚で歩くようになると言っている。その人の持っているポテンシャルを広げて行くために、理論が必要なのだ。

造型については天性の才能を持っているが、色についてはよく分からないという職人がいる。この人はこのままでは立派な工芸家にはなれないかもしれない。しかし、理論化の助けがあれば、造型の才能を活かすことができるようになるだろう。また、イッテンがいうように、固い色彩を好む人が、スチール家具の設計者として成功するということもある。つまり、探求の結果、適性を見つけることもできるわけだ。つまり人材を活かし、その才能をより広範囲で活かすことために、理論の助けが必要なのである。


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