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立ち泳ぎのやり方を覚える

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あまり一般的でない考え方を一般的なフォームに納めると人は納得してくれるのか。
生きる意味があるのかというような文章を書いた。これがTwitterにのって広まる。メッセージがFacebookに乗ったところで、多分心配したのであろう昔の知り合いから「僕は散歩しています」というようなコメントが寄せられた。かなり唐突だったので、当惑しながらも「体を使う事をせよ」というアドバイスであろうと考えて「立ち泳ぎ」をしていますとコメントを返した。多分、僕が何か高級なことでも考えているであろうと思っているその知り合いは何か噛み合ない答えを返して来たので、構わずに立ち泳ぎはできるが、まだ5分保たないと返した。ようやく「人生の比喩かと思いました」と返して来たので、そのままにした。立ち泳ぎって、何の比喩だよ…と思ったからだった。
多分、類推するに「いろいろややこしい状況をなんとか泳ぎきって行く」というような意味なのではないかと思う。普通に生活していれば「クライアントさん」と「企業の倫理」のあいだに立ったり、シゴトと日常生活の間にあるバランスを取りながらなんとかやってゆかなければならない。しかし、別にややこしい状況は抱えていないので立ち泳ぎしてなんとかやってゆく必要はないわけだ。なんとか立ち泳ぎしてやっていますよ、という言葉には「僕は忙しいんだ」という自慢と、「水の下ではいろいろやっているが、水上では平気な顔をして見せていますよ」という企業社会独特のなんとなく自虐的でいやらしい世界観のようなものも見たような気がする。
ところがこの比喩の持つ意味は一転した。それが「星占い」だった。星占いの度数にはそれぞれの意味が割り当てられている。それは他人と比較されない個人から始まり、最終的に共同体的な価値観の共有で終る。このあいだに家族、会社、共同体という3つの集団を経由する。この中に「曲馬を乗りこなす」という度数がある。ここで、この知り合いの言葉と状況が結びついたのだった。大抵変化というと、ある岸にいられなくなり、別の岸に行く事を意味する。あるときは飛び越えて行くだろうが、あるときは両岸のあいだを泳いで行かなければならない。泳ぐ間は息を整えて、流動的な状況を「耐え忍ぶ」ことになる。人が変化を怖れるのは、飛び越えようと言うときか、水の中に飛び込もうとするときだ。泳いでいるあいだは、あまりいろいろなことは考えない。人が25m泳げますというのは、例えば転職のときに1年は暮らして行かれますというのと同じ事なのである。立ち泳ぎはこれとは違っている。曲馬というのは、変化しつづけているものを変化するまま乗りこなすというシンボルなのだが、立ち泳ぎも文字通り流動的な状況を流動的なまま受け入れるという練習だ。最初は水の中にうかんでいることもままならないのだが、その内人間はほとんど浮かんでいるということを理解できるようになる。そして体が水のさばき方を覚えると、やっと手と足を動きを観察してみようという気持ちになるのである。もしかしたら、この水と思えていたものが新しい土地のように感じられるようになるかもしれないし、じたばた仕手いるうちに新しい土地に泳ぎつくかもしれない。
実際に立ち泳ぎを覚えたいと考えたのは「何か新しいことを覚えたい」と思ったからなのだが、それがどうして立ち泳ぎだったのかはよく説明ができない。これに「ダイエットに良いから」とか(実際にはやせるわけではなくて、インナーマッスルという調整に使う筋肉が発達し、持久力が増すようだ。これは3か月くらいで経験できる)、なんとか後付けで説明を加えている可能性が高い。ここに何年も連絡がなかった知り合いからのメッセージと本の内容が加わり、あたらしい布置を生むのである。そしてそれはなんとなく「説明できなかったもの」を説明できている可能性が高いように思える。変化を怖れるあまり、既得権益の高い山に逃げ混もうとしている人は多い。経済も人口規模も縮小してゆくとされる中で、現状維持を心がけようとすると、なぜか閉塞につながってゆく。この島の土地は浸食されつつあり、使える土地はなくなりつつあるわけである。こうした中で変化するということは、向こう岸の見えない海に飛び込む事を意味している。それはそれはものすごい恐怖心だろうなと思うのである。こうした状況で変化するというのは、なんとか向こう岸に泳ぎつくという事ではない。変化を受け入れた上で、常に変化し続けるダイナミズムも受け入れて、そこで立ち振る舞って行ける方法を見つけるということなのだ。ここではじめて、変化に対する恐れは消えるだろう。しかし「もう年だから新しい技術を覚えるのはムリだ」と考えると、いつまでたっても飛び込むことはできない。逆に「人は最初から泳げる潜在的な能力を持っているのだ」と考えるほうが、気持ちはラクになる。
飛び込んで来たメッセージは「もう用済みの」置いて来た価値観なのだが、ありがたいことに、それでも新しい洞察を生むんだなと思った。


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