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集団主義と議論

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送信者 Keynotes

この図表を覚えていらっしゃるヒトはかなり古くからKeynotesを購読してくださっている方だと思う。昔作ったホフステードの指標から個人主義の度合いと、男性的傾向を抜き出したもの。男性的傾向とは「くつろぎよりシゴト」という価値観のこと。いわゆる先進国と言われる国々は個人主義的傾向が強い。ITや金融を引っ張って来たのはこうした国々だ。図表の真ん中にBRICSと呼ばれる国々が入っている。イギリスで発明された資本主義は、ラテン諸国に広がり、この帯を右から左へと移動している。
この順番の例外が日本だ。どうして例外になっているのかは良くわからないが、いわゆる富国強兵(がんばっておいつけ)がうまく行った結果だと思う。つまり「がんばってなんとかしてきた」わけだ。工業型資本主義ではこのやり方がうまくいった。しかし、プログラムはがんばっただけでは動かない。
ホフステードの本を読むと「集団主義」でいう集団は、家族や地縁といったようなものをさすようだ。日本は東アジアの中では集団性が低い国だが、これは早くから血縁関係が形式化したことと関係があるように思える。養子や娘婿が家業を継ぐことが容認されている。例えば中国や韓国では娘婿が娘の実家の姓を継ぐ事は考えられないので(妻は結婚しても姓が変わらない)入り婿ということはあり得ないだろう。この入り婿や養子が「才能を家に取り込む」ための装置として作用しており、一つの家業が100年続くということが頻繁に起こる。
さて、新しいアイディアが生まれ、それがプラットフォーム化するのはいつも右端の国々だ。個人主義社会では、一人ひとりが意見を持っていて、それをすりあわせるということを毎日やっている。アイディアは基本的には個人の頭の中でしか生まれない。だから個人主義は「新しい何か」が生まれるための重要な資質である。乱暴に言えばこのプロセスが「議論」だということになる。
もちろん、集団主義の国にも議論はある。しかし集団主義の議論は、個人主義の議論とは異なっている。メンバーは基本的にどの集団に属するのかを選べないので、議論が起こったときに妥協する余地は少ない。また、集団内部での議論では、どんな議論が行なわれるかということよりも、最終的な決定にどれだけ自分の意見が反映したかが重要だ。
ちょっと話はずれるけれど、今民主党、国民新党、社会民主党が行なっている、沖縄の基地問題は集団主義の議論のあり方を典型的に見せてくれていると思う。「私たち、これだけ検討しました」ということが重要なのだが、各政党がどういった「プリンシパル(原理原則)」で候補地を検討しているのかということはあまり重要視されない。そもそも外向問題で民主社会党と民主党が外向問題のプリンシパルで合意に達する事はあり得ない。個人主義の国の人たちは、プリンシパルが見えないことをとても嫌がる。「透明性がない」というわけだ。でも、これが日本のやり方なのだ。
また「ファクト」も重要視されない。これは日本だけでなく、結束した欧米の集団にも見られる特徴だと思う。「ファクト」をどう解釈するかは集団によっていかようにも決められるから、かならずしも正しくなくても良いのである。
1980年代から90年代の日本研究を読むと、日本人は議論のプロセスにやたら時間をかけるという観測が書かれている。次から次に「関係者」と呼ばれる人たちが渡米してきて、あれこれと聞いてゆく。議論は永遠に続くように思われる。しかしいったん決まると行動は早い。コンセンサスを得るプロセスでは、一応全員が意思決定に参加したという実績が大切だ。根回しが済んでみんなが重要なのだということが分かったら、みんな満足して一気呵成に物事が進むのである。このやり方が日本の成功の秘訣だとすら言われた。
日本の悲劇はこうして効率的に資本主義を押し進めた結果、製造業の分野でアメリカなどの先行諸国を追い抜いてしまったということだろう。模倣すべき相手がいなくなると、自分たちでモデルを作り上げて合意形成をしなければならなくなる。この時必要なのが「議論」なのだが、日本人は個人の利害関係をすりあわせることをしてこなかった。車や電化製品はアメリカで成功しているものを開いて分析すればなんとか模倣ができたが、金融商品やITプロダクトは開きようがない。また、真似しても仕方がない。だから日本はこの分野には乗れなかった。
すると、社会のいろいろなところに不満が貯まる。それをいろいろ議論するのだが、一向に決まる気配がない。実際には議論をしているようであって、集団の中のプレゼンスを競っているのである。つまり、誰がいちばん影響力があるかを見せつけたいだけなのだ。例えば、未だに「財政出動すべきか」「インフレを起こすべきか」みたいな議論には決着が付かない。良識のある人たちは「成長分野を見つけよう」と言うが誰も耳を貸さない。自分たちの集団の主張を繰り返しているだけなのだから、もともと決着しようがないし、決着をつけたいとも思っていないだろう。単に時間を稼いでいるだけだ。
このホフステードの記事から見える事は、日本社会が再びがんばってなんとかなる工業型資本主義に戻るのであれば、中国やインドに出てゆかなければならないだろうということだ。どうしてなのかは分からないが、資本主義の中心地はこうした国に移りつつある。そして、アイディアを形にする資本主義に行く(つまり資本主義社会の中で成熟したポジションに移る)ためには、集団主義を捨てて、個人主義的な態度を取るべきだろうということになる。具体的には集団で考える思考方式を捨てて、個人の意見が反映される社会的な仕組みづくりを目指さなければならないということだ。
日本の社会の今ひとつの特徴は、日本語文化圏=日本国=日本の社会=日本列島であるということだ。あたりまえじゃないかと思われるかもしれないが、1億人規模で他者とまったく接していない地域は世界中どこにもない。つまり日本的なマインドを脱却するためには、これのどれかから脱却しなければならないということだ。多分、いちばん近いのは英語で議論に参加することだろう。地理的には中国がいちばん近い。
新しいITプロダクトは、人間がどのような言論を嗜好するかということに影響を与えることはできない。ただ、今までやりたくてもできなかったことの生産性を上げたり、手が届かなかったヒト達が活動に参加できるように助けたりということはできる。もし日本語インターネット圏が匿名性を持っているしているのであればそれは2ちゃんねるのせいではない。もともと個人の名前で発信することを好まない社会なのだろう。散漫な情報がTwitterを流れていたとしてもそれはTwitterのせいではない。個人の判断で物事を進めてゆく社会ではなく、リーダーの庇護のもと一致団結したいと思っている人たちがあつまっている社会なのだ。
この事から分かるのは「議論」を考えるときに、その議論がどのような社会的な意味を持っているかを分析することが大切なのではないかということだ。個人主義社会では個人の間でぶつかり合う主張をすりあわせるのに使われる。新しいことが価値を持つ社会では、それが本当に有効なのかをチェックするために使われる。目的が明確なときには、どうすれば効率よく目的が達成できるかを議論して調整する。そして、妥協点が得られない社会では、お互いのプレゼンスを主張しつづけるのに「議論のようなもの」が交わされるのだろう。
どういう議論がどの社会で好まれるかを分析するためには、社会や集団そのものの分析が重要なようだ。