先日は日本は近代法治国家を偽装した村落共同体の集まりであると書いた。その真ん中には巨大な真空があるのだが、安倍政権は自らがプレイヤーとなることでこれを毀損してしまったという分析だった。
ゆえに、安倍政権は崩壊して日本は法治国家を真に理解した国家に生まれ変わるべきだと書きたいのだが、どう考えてもそうそうはなりそうにない。逆に安倍政権は「村落的優しさに包まれて」後退してしまうのではないかと思える。つまり、今までのように決められる政治から決められない政治に逆戻りしてしまうのではないだろうか。
日本人の法治主義に対する理解は極めて限定的だが、政局になるとマスコミもアクターである政治家も急に生き生きしだす。現在も二階幹事長が張り切って動いているようだが「自分の損得」で動くという日本型の村落主義の方がみんなに理解されやすいからだろう。
この中で切られそうになっているのは、どうやら筋を通そうとして頑張ってしまう麻生副総理らしい。日本人らしい「助け合い」が理解できない人だ。逆に村落性を意識して動いてきた安倍首相が下されるという兆候はない。日本の村落が筋を通すことよりも人間関係の貸し借りに敏感であることがわかる。安倍さんは「それが自分の手柄だ」と増長しだしたために「お灸をすえる」必要があると判断されたのだろう。菅さんのように身内の話を聞いているだけではダメで、これからはみんなの言うことをよく聞きなさいよということだ。
一連の動きを見ていると、この政局は日本が近代民主主義を取り戻す機会にはならないだろう。むしろかつてあったかばい合いを前提にした村落の温情主義が際立ち、日本は村落社会へと一歩後退することになる。それは、既得権を守るために何も変えないで、結果的にドロップアウトした人たちを見捨てるという社会である。
思い返してみると、日本はこうした村落型の社会を脱却して「決められる社会」を目指したはずだった。その行き着いた先が安倍政権であるということを考えるとこの動きはとても皮肉なものに感じられる。
バブル経済が崩壊した後、日本人の多くは利益共同体である村落を失い「難民」となった。多くの都市住民にとってそれは正規雇用を意味した。また、別の人たちは地域の商店街が崩壊することで利益集団をなくしてしまった。この象徴になっているのが例えばイオンモールだ。商店街の代わりにできたイオンのショッピングモールは非正規の人たちによって運営されている。かつてあった商店街のような生業(なりわい)ではないし、多くの従業員はイオンにとっては使い捨て労働者である。
こうした人たちが、既存の利益集団に敵対意識を持ち生まれたのが小泉政権の「自民党をぶっ潰す」というスローガンだった。小泉首相がターゲットにしたのは特定郵便局という既得権益だ。そもそも自民党が派閥という村落の共同体なのだが、派閥を潰すことで「指導力のある近代国家」を目指したのが小泉主義だったと言える。
小泉政権は同時に派遣労働者を増やす政策をとった。表では既得権をなくして皆様の政治を行いますよと言っていたが、裏では既得権を守るために「余分な労働者」を企業共同体から排除したのである。つまり、小泉政権がやったのは既得権からの脱却ではなく、自分たちの既得権が延命できるように他者を潰すことだった。だから小泉政権は日本が村落共同体を脱却した後の統治の仕組みを考えなかった。
村落というのは自らの損得のために個々人がそれぞれに動くというある意味では極めて民主的な仕組みである。ただし、損得というのは限定的・局地的な情報しか持たないので、その共同体がある程度以上に大きくなる可能性はない。日本が集団として大きく変われないのはそのためだろう。日本人は所与の仕組みの中でどう立ち回るかとうことは考えられるのだが、仕組み自体を変えることはできない。例えば憲法も「県という枠組みを温存して既得権を復活させよう」という議論と「例外を作って絶対的な縛りを脱却しよう」という二本立ての議論にしかならない。自民党の村落共同体は人権という絶対的な概念が気に入らない。人権はその場その場の判断とぶつかる可能性があるからだ。自分たちの利益をどう守るかは自分たちが知っているのであって、人権のような絶対的な縛りはその邪魔になると考えるのが、村落的民主主義なのである。
そのために憲法の解釈が変わったり、決済文書にバージョンができるのは彼らにとっては極めて自然なことなのだろう。例えば決済文書を書き換えることは犯罪だがそれは検察のさじ加減でいかようにもなるわけだし、逆に決済文書を守ろうとして筋を通そうとすれば、官僚の立場が危うくなるかもしれない。そこは「柔軟に」対応したいわけである。だから麻生財務大臣のように「筋を通したがる人」は排除される必要がある。面倒くさいからだ。
いずれにせよ小泉政権が「脱村落」を訴えたのに、その統治機能を作らなかったので続く勢力は混乱した。結果的に自民党で三代、続く民主党で三代の首相が交代した。その間に起こったのは、内部からの情報リークと仲間同士の罵り合いだった。麻生降ろしで国民はかなりうんざりしたが、その後の民主党政権ではその罵り合いはさらにひどいものになり、現在でも続いている。そもそも権力を持って変えることが目的だったはずなのだが、決めたことに対して内部から様々な異論が出てくる。そして決めた方も間違いを決して認めようとせず地位にしがみつく。こうして政治不信が強まっていった。日本人は変われなかったし村落的民主主義を脱却することがどういうことなのかよくわかっていなかった。
そして自らで枠組みを作れるかもしれないと感じて暴走を始めた。枠組みづくりには仲間同士の協力と言葉による契約が必要なので、所与の環境で自分の利益をどう最大化するという計算が効かない作業だったからだ。
これが表向き収まったのが安倍政権だ。安倍晋三は「私について行けば間違いがない」といい、仲間をかばい、ポストを派閥に分配した。やっていることは村落政治そのものだが、表向きは「決められる民主主義社会のリーダー」として振る舞った。つまり、決められる政治を偽装することで枠組みを定めたということになる。この枠組みの中で自民党の派閥政治家たちは再び安心して利益誘導ができるようになったのだ。
表向きの顔と裏にギャップがあるのだから、安倍政権は多くの事実を歪める必要があった。憲法の解釈も歪められたのだが、日本人は気にしなかった。日本人はそもそも人が決めたルールを信頼しないし、法治主義主義は「儀式」としての役割しか期待されていない。さらに、以前の6年間の混乱を知っている。安倍政権は「安心・安全」の装置として機能しているということになる。
現在起きている動きはあたかも「政治の手続きの歪み」が正されることであると思っている人も多いようだが、実際には「国民一人一人が不都合で面倒な事実に向き合わなくて済むように、政治の辻褄があっているように見せられるか」が大切なのかもしれない。
政治家がそろって「大丈夫だ、何も問題がない」とさえ言ってくれれば、人々は生活困窮者の問題、人口減に苦しむ地方、基地負担や原発事故に苦しむ地域の問題を考えなくても済む。そうした問題は「政権によって適切に管理されており」「不満がある人は、どこか個人的な問題があるか何かをしくじった人なのだろう」と思えるからである。仮に野党のいうように、人々が政治に関心を持ち常に関しなければならないとしたら、こんなに面倒なことはない。監視して他人の苦痛を知ったとしても重苦しくなるだけで何の得もないからである。
個人的には今日1日の目覚ましい野党の活躍が日本の膿を出しきってくれることを期待している。だが、同時にあまり期待をすべきではないなとも思う。いずれにせよ、今日の一連の動きが単なる儀式に終わるのか意味のある1日になるのかはこの時点ではわからない。
期待と不安が入り混じってしまうのだが、経過を冷静に見守りたいと思う。