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アッキード事件と議事録

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瑞穂の国安倍晋三記念小学院を扱ったいわゆるアッキード事件で不思議なことがある。なぜ守るほうも責めるほうも「議事録」をそんなに気にするのだろうか。
議事録がないと誰が何を決めたかが分からないということは、意思決定が集団で行われているということを意味する。だから議事録がないと誰が売却価格を設定したのかということが分からないのだ。
だが誰かが何かを決めたのは明白だ。同じ価値の土地が豊中市に高値で売却されており、なおかつ地下埋設物の撤去費用は豊中市が支払っているので、森友学園側に有利な計らいがあったことは明らかなのだ。
当初このことを考えたとき「西洋流のジョブディスクリプションが決まっていないから議事録でことの経緯を追うしかないのだろう」と考えたのだが、役所なのでジョブディスクリプションはしっかり決まっているはずだ。
つまり、集団の中でなんとなく物事が決まってゆくというのは実は普通のことではない。プロセスは法律で厳格にで決められており、責任者が何重にも管理しているはずの組織だ。しかし、そこまでやっても誰が何を決めているのか分からないわけで、日本人の意思決定の強い癖が分かる。
官僚システムは「誰も責任を取らない」。官僚は普段は法律で決まったことしかやらないと言い張ることで責任を取ることを回避している。しかし、法律がすべてを想定できるわけではないので、想定外のことが起こると外部からプレッシャーがかかり、責任を分散させて「なんとなく」物事を決めてしまうのかもしれない。
国会は形式が遵守されなかったことを問題にしているのだが、もし本当に役人が法律できまったことしかやらなくなれば役所は全く何の仕事もしなくなってしまうだろう。そこで「責任を取るから」と介入するのが国会議員の仕事になっている。その国会議員たちが「役所が決まったことを逸脱した」と騒いでいるのだから救いようがない。
なぜこうしたことが起こるかというと日本人が絶対に「個人に権限を渡して任せるが、何かあれば説明してもらうし責任を取ってもらう」ことをやらないからだ。。一方で中にいる人も責任を取らされる立場には立ちたくないので、このような環境を甘んじて受け入れてしまうことになるのかもしれない。
だが、森友の件にしても豊洲の問題にしても「大事なことがなんとなく決まってしまい、あとで大騒ぎになる」という事例が散見される。
森友の件は「安倍を追い落とせ」とか「そのうち沈静化してサヨクが悔しがって飯ウマ」などというように語られているのだが、実際にはもっと深刻なことが起きているのではないだろうか。
官僚は「いざというときには政治家が責任を取ってくれるから」という理由で情報を上げたりいうことを聞いてやったしているわけだが、実際には最近の政治家は責任も取らないしいざとなったら逃げ出してしまう。すると政治家には利用価値がないわけだ。いうことを聞いてやる理由はなく、そのまま機能不全に陥ってしまうことになるだろう。
気になるのは、こうした「責任を取らない」政治家が増えているという点だ。組織が肥大化するとドメインが固まるので、そこに手を突っ込んでこない人が好まれるのだろう。適当に祭り上げていれば気持ちよくおみこしに乗ってくれるような人たちだ。
だがおみこしに乗ってくれるような人たちは責任も取ってくれない。何か問題が起こると、膨大な時間をかけて「誰が責任を取るべきか」という追求が始まり、その間必要な議論はすべてとまってしまう。
しかし、時間をかけて追求しても実際には明確な責任者がいないままでなんとなく物事が決まったということが分かるだけなのかもしれない。これは第二次世界大戦への参戦を決めた責任者が誰もいないというのと同じことだ。
とういことはつまり「結果責任を取らせる」という方法を取るのがよいのではと思う。フェアでない裁定が分かれば、政治家の関与などを一切考慮せず、ジョブディスクリプション上の責任者を裁いてしまうのだ。GHQは議事録を見て「戦争はなんとなく決まったんだね。仕方なかったね」などとは言わなかったわけで、フォーマリティだけを問題にするなら、それを徹底すべきだろう。
つまり見せしめにして再発防止を図れということだが、本当にこれしか責任をとらせる方法がないだとしたら情けない気持ちになる。