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人の心を失った化け物が7時40分から会見を開くのを見た感想

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蓮舫参議院議員が憲法104条による調査の呼びかけをしている。与党はこれに応じるべきだと思う。


最初にこの話を聞いた時、国会は自らの調査権限を手放すことで検察・警察に命運を委ねようとしており危険だという筋で文章を書くつもりだった。しかし、その後現場担当者が遺書を残して亡くなったという話を聞き、これはもう法治国家とか民主主義とかいうレベルの話ではなくなってしまったのだなと思い直した。
これはもう政治の問題ではない。いわば「人間の良識」の問題だ。良識というと贅沢品のように聞こえるかもしれないが、人が人であるために必要不可欠なボトムラインと言い換えて良いだろう。これをそのまま放置すれば大切なものが失われる。たいていの間違いは許されるものだが、決して許されるべきでないこともあるのだ。
麻生財務大臣はこのテストに不合格だったようだ。彼は会見で次のように語った。

  • 佐川国税局長官がふらっと入ってきて「俺は辞める」といった。「やり方がまずかった」と言って責任を感じているようだった。
  • 自分は佐川は適任だと思っているが、彼が辞めたいと言っているんだから、辞めさせてやることにした。
  • 詳しいことは俺にはわからないが、週末も調査しろよと言っておいた。どうなるかわからないが何かわかるかもしれない。
  • 佐川には「今の調査で何か出てきたら追加処罰もあり得るからなと」釘は挿しておいた。俺はいうことは言ったのだ。
  • なお、職員が自殺したらしい。話は聞いたが俺は何も知らないし何も感じない。

つまり、俺は知らないが佐川がやってきて辞めたいと言ったから辞めさせてやったと言っているのだ。記者会見で自分に非難が向かっているということはわかったようで、それを心理的にかわすために「俺が会議を仕切っているんじゃない」とも言っていた。あくまでも議事進行についてを言っているのだと思うのだが、実際に言いたかったのは「役所が勝手に安倍を忖度してやったんだろう、俺は知らないよ」ということなのだろう。
この人は人間の洋服を着て日本語のような言葉を話している(あいかわらず、有無を「ゆうむ」と読んで、あとであるなしと言い換えていたが)のだが、もう人間の心は持っていないのだろう。人が一人亡くなっているのだから自分の持っている範囲の権限を使ってなんとかしてやろうと考えるのが人間の情というものなのだろうが、彼は「ああ、面倒なことでバカが騒いでいるよ」くらいにしか思っていないのではないだろうか。
そもそもこういう人が日本の財政政策に関与しているということに戦慄を覚えるのだが、もはやそのようなレベルの話ではなさそうだ。組織は個人を守るために存在するのであって、いかなる人も犠牲になるべきではない。仮にも組織のトップに立ったのなら責任感を持って間違った方向に向かいつつある組織をなんとか正常化すべきだろう。麻生財務大臣はそれができるのだが、やろうとは考えていないようだ。
官邸は明らかにこの問題から距離を置きたがっているようだ。安倍総理大臣は「佐川国税局長官を任命したのは麻生財務大臣だ」と答弁を避けていたし、菅官房長官も「今回の辞任については話を聞いていない」と開き直ったそうだ。彼らも立派な背広を着て歩いているが、多分中身はもう人間ではないと思う。
国会は国会法の規定によって政府を調査する権限がある。その根拠規定は憲法62条にあるそうだ。だが憲法規定は「することができる」と書いてあるだけで、しなくてはならないとは書いていない。つまり、これは権限があるというだけで必ずしもやらなければならないということではない。ゆえに利益がないと考えるなら与党には協力する義務はない。
だが、これをできるのにやらなかったということは、この権限を誰が別の人に譲渡するということを意味している。この場合検察が事件化すれば内閣の責任問題になるし、握り潰せば内閣への貸しになるということを意味している。すなわち、予算が成立するかどうかは検察が決めるということになってしまう。形式上検察も政府の一部なのだから内閣の管理監督下にあるはずだが、検察の意向が政府の意思決定に影響するようになれば、検察が内閣の監視から自由になるということを意味している。
これは国民にとっては警察国家という悪夢への第一歩だが、議会にとっても職権の放棄と自己否定を意味している。つまり、与党は単なる内閣の追認装置であって、国民の要請に従って政府を監視するという役割を放棄したことになる。追認装置としてしか存在しないのであれば、少なくとも参議院は必要がない。
さらに麻生発言からわかるように、政府は今起きていることを「役所の不始末によるドタバタ」と考えているようで、自殺者が出てなお態度を変えるつもりはないようだ。
自民党は「与党対野党」というフレームに夢中になっていると思うのだが、実際には議会対検察という構図になりつつあった。しかし、今問題になっているのは国という集団が国民を守ってくれるのか、それとも国を私物化しようとした人たちが自ら作り出した混乱を他人事のように眺めるだけの装置に堕落ているのかという点にある。
国が国民のことを考えることを「徳」と言うと思うのだが、今の政府は明らかに徳を失っており正統な政府であるとは言えない。であれば、今行われていることは政治ではなく単なる暴力であろう。不作為であっても問題なのだが、発端は総理大臣の不規則な発言から始まっている。
最後に付け加えると、一人がなくなるまでこうした強い憤りを示さなかったことに対して、個人的に反省をしている。民主主義や法治主義がなくなっても日本型の統治さえされていれば問題はないと考えていた。
これはいじめによる自殺の問題に似ていると思う。誰がか亡くなるまで周りの人たちは本気になって「根本的なあり方が間違っているのだ」と思わないものだ。その態度が「自殺による一発逆転」を許してしまい、いじめの問題が解決しない原因になっている。今回の件はこれが国レベルで起きていたのだと思う。


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