前回、期待と不安が入り混じった気持ちで「多分変われないんだろうな」という文章を書いた。森友問題で国会が自浄作用を示せなかったということは、この国の命運は議会の手を離れて警察と検察に握られていることになる。日本は警察と検察が何を事件化するかということで首相の意思決定が変わってしまうという社会になったのだ。
朝日新聞社に続いて毎日新聞社が「森友学園問題は特殊な事例だ」としていた文書を発見したということなので、文書改竄があったことは間違いがなさそうである。これは犯罪だということなので、官僚側が犯罪行為を認めるはずはない。彼らが自白するはずはないのだから、政府の方から状況を正常化させなければならない。だが、安倍首相はこの状態を直視すること自体を拒んでいるようだ。つまり、彼は形式的には首相に止まる道を選んだのだが、政府のコントロールを手放したのである。
後に続くのはそれぞれがそれぞれの思惑でいろいろな方向に逃げ惑うというゲームだ。別の言い方をすると政府も自民党もパニックモードに入ってしまったことになる。
しかしながら、それは我々の毎日の生活とは関係がなさそうである。報道も「たくさんあるニュースの中の一つ」として扱っているようだし、私たちの生活は政治とは関係なく進んで行く。
だったらこのままでいいのではないかとも思える。
そこで改めて「このニュースの何がまずいのか」を考えてみた。一通り書いてみて思ったのは、これは日本が枯死するプロセスなのだろうということだ。日本を大きな植物に例えると、多分根が腐っているのだ。しかし、根は地表からは見えないので、我々は手遅れになるまでそのことに気がつかないのではないかと思う。
では根が死んでゆくというのはどういうことなのだろうか。
参議院野党は審議拒否だった。そもそも参議院野党は予算編成の意思決定には関われない。参議院の同意は必要がない上に、多数決の意思決定から締め出されているからである。つまり関わらなかったとしても何も困らない。そもそも野党は大きな利益団体を代表していないので闘争が机上の空論になりがちなのだが、加えて意思決定から排除されているうちに「審議拒否」以外の意見表明ができなくなってしまったようだ。
仮に日本を法治主義の社会だと仮定すれば、その意思決定のために蓄積された資料が改ざんされたということは予算の成立過程に正当性がないことになってしまう。裁量労働制の問題で資料をでっち上げたことからも、政府は事実を積み上げて一つの形にするという能力を失いつつある。裁量労働制はあまりにもあからさまだったので法律自体がなくなったのだが、予算はこのまま正当性のないものが通ってしまいそうである。
だが、野党抜きの審議を見る限り、自民党と公明党の議員はあまりそれを気にしていないようである。彼らにとっては自分たちの支援者に約束した予算さえ勝ち取れれば(あるいは勝ち取ったふりができれば)その成立過程がデタラメでも構わないのだろう。ここで重要なのは、与党は関わろうと思えば意思決定に関わることができたのだが、それをしなかったということだ。つまり、彼らは勝ち取ることには興味があるが作り出すことには興味を持っていないということである。
もともとアイディアを作り出していたのは官僚だった。ところが、今回の一連の国会審議を見ていると、官僚組織にアイディアがないということが実は明確に示されている。特に世耕大臣は「現場に知恵を絞ってもらう」という形の経済政策を多く披瀝していた。官僚にアイディアがないので民間からアイディアを募りたいのであろう。経済産業省はアイディアの箱は作れるが、かつての日本の官僚のようにアイディアを作り出せなくなっているのだ。そもそも意思決定における文書さえまともに管理できないのに、それぞれの官僚が話し合って日本をよくするアイディアを集約できるはずもない。
加えて国民の間にも諦めがある。自分たちが関与したところで政治は良くならない。諦めには苛立ちもあるが、同時に「責任を取らなくてもよい」という気楽さも含まれている。政治家は勝手に私服をこやしたり、自分たちの地位が向上するように文書を改ざんしているわけだから、自分たちも好きなことをやればいいということだ。ただし、そのアイディアをうっかり外に漏らさないようにはしなければならない。いったん目をつけられたら政治家が群がって潰されてしまう可能性がある。
多くの人は自分の権益を守ることと、言い訳を考えて国の財産から搾り取ったり、予算をもらうことには熱心だ。しかし、自分でアイディアを出し、それを組織的に集約して、形にして行こうという人は誰もいないということがわかる。
ここから「価値を作り出すアイディア」を出す人が日本からいなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。そればかりか、それが破壊されていることに誰も興味すら向けなくなっている。
だが、日本という樹には過去の蓄積があり、まだまだ倒れそうにはない。少なくとも外見上はまだまだ大丈夫なように見える。
財務省が気まぐれな首相の答弁に合わせて何種類の決済書類を作ったかがわからなくなっているということがわからなくなっており、誰が主導したのかも曖昧になっている。これ自体には犯罪の可能性があり、問題がないとは言えない。官僚が犯罪に手を染めざるをえなかったということは深刻な問題なのだが、実際の問題は自浄作用が働かなかったという点にある。
もともと、日本の組織はトップに情報がなく、細かい情報は現場が抱えている。その現場が何を考えてどういう意思決定をしたのかということをトップがつかみかねている。さらに集団の内部では「これはいけないことだが、誰かが責任をとってくれるだろう」という集団思考的な無責任さが蔓延しているということを意味する。言い換えれば「自分だけが美味しい思いをすれば国は全体としてやせ細ってしまうだろう」ということがわかっていても「きっと誰かがなんとかしてくれるだろう」という気分が蔓延しているということになる。
植物でいうと栄養を幹にあげる根が死んでいるのだが、まだ幹には栄養があるので幹を腐らせる菌だけが繁殖しているという状態になっている。菌の正体は「誰かがなんとかしてくれるだろう」という集団主義的な無責任さではないだろうか。つまり、我々が見ているのは多分「法治主義と意味の死」などという観念的な崩壊過程はなく、日本が価値を想像できなくなり実際に枯死してゆくプロセスなのだろう。
その意味で野党がやるべきなのは安倍首相の追い落としではない。彼にはもはやそれほどの価値はない。むしろ問題なのは、自分たちも含めた政治家が日本に価値を提供できなくなっているという事実を受け入れて、それを与党と共有することなのである。
だが、Twitter上での騒ぎを見ていると、一人でこんなに真面目ぶっていても仕方がないというような気分にさせられる。それよりも安倍打倒祭りにのって一緒に騒いだ方が楽しそうだし、達成感もありそうだ。タイムラインを眺めていると本当にそう思う。