小泉今日子氏が憲法改正をすると戦争になると言っている。
小泉今日子 改憲の動きに「戦争に進んでしまう可能性が…」戦争知らない若い世代には「知る機会がない」」
小泉氏がどのような戦争を念頭にこの発言をしたのかぜひ聞いてみたいものだと思った。
実は今戦争の定義は変わりつつある。確かに世界は戦争に向けて進んでいるがそれは小泉氏が考えるような戦争ではない可能性が高い。ではいったい何が起きているのか。
20世紀に歴史を習った人たちのイメージする戦争は第一次世界大戦と第二次世界大戦だろう。つまり世界がいくつかの陣営に分かれた全面戦争である。ベトナム戦争やイラン・イラク戦争は大国の思惑による代理戦争的側面があった。これも全面戦争の変種である。全面戦争の出口は当然和平協定だった。
最近ヒズボラがイスラエルを攻撃した。ヒズボラは「すぐさま攻撃しなかったのは緊張状態を高めるため」であって「今後も攻撃を行うかもしれない」と示唆している。イスラエルもこれに呼応し「今後も脅威は続く」と言っている。
イスラエルとヒズボラの緊張高まる ヒズボラ指導者は「攻撃成功」と強調(BBC)
ところがアメリカ民主党よりのCNNは「バイデン政権下で状況が悪化した」という印象を付けたくない。共和党からの攻撃材料にされてしまうからである。このためヒズボラは緊張を高めているが全面戦争の脅威は後退したとの主張を展開している。
これまで「戦争の反対は平和」だった。各国が外交関係を取り結び話し合いによって問題を解決する状態を「平和」という。
しかし、中東の状態は「平和」でも「戦争」でもない。お互いが武力攻撃を予想しつつ常に緊張状態にあるという新常態である。韓国と北朝鮮の「停戦・休戦」関係に近いが実際に武力衝突が起きている。
右派も左派も「戦争の一歩手前」という表現を使う。各地で戦争が起きていても日本は巻き込まれていないという認識があるのだろう。
ヨーロッパが世界を支配する前の状態に戻ったことになる。
世界帝国と呼ばれる塊がいくつかあり常に拡大を狙っているという世界である。世界史の教科書を見ると各地に大きな帝国がありその版図は大きくなったり小さくなったりしている。
ただ今回の「新常態」の主役は皇帝ではない。
アフリカではイスラム教が主体の北アフリカ地域とヨーロッパの植民地が主体のキリスト教地域がありこのフロントラインで多くのいざこざが起きている。中東で起きている戦争はユダヤ教・キリスト教連合とイスラム教の戦いだ。ヨーロッパには多くのイスラム教徒が暮らしておりヨーロッパの中にも潜在的な脅威が生まれている。キリスト教の内部にも争いがある。ウクライナ西部はカトリック主体のポーランド・リトアニアに支配されていた時期が長く東側はロシア正教の配下にある。つまりスラブ正教とカトリックの間にも争いが起きている。また中東の戦争の多くはイランが指揮するシーア派とサウジアラビアなどが指揮するスンニ派の争いの構図が見られる。
サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を書いたのは1990年代だそうだが、今まさに「文明の衝突」が各地で起きていると言えるだろう。単にキリスト教とイスラム教が争っているわけではなくそれぞれの分派にも言い分の違いがある。
アメリカ合衆国は本来ならば新しい世界秩序を受け入れるかあるいは同盟国に多額の援助を行ってでも今までの世界秩序を維持するのかを選択しなければならない。だが実はアメリカ合衆国にも進歩的な人々とキリスト教原理主義的な人々の間に争いがある。民主党・共和党の間の「文化戦争」には宗教戦争的側面がある。彼らの信じるキリスト教は厳密に言えば旧世界のものとは異なっている。アメリカ合衆国は自分たちの領域の問題に忙殺されていて世界で起きている文明衝突にうまく対応できていない。
こうした変化に対応するには何が必要なのだろうか。各国の対応はそれぞれ異なっている。
今回のゾーリンゲンの事件についてQuoraで「ドイツでは議論の整理が進んでいる」と報告してくれた人がいた。
イギリスでは反移民感情が虚偽のネット情報に煽られて各地で暴動が起きたがドイツでは政党がすぐさま世論を汲み取り政治的アジェンダとして吸収されたようだ。同じヨーロッパと言っても国情の違いがあることを感じる。
ドイツではネットメディアが「賛成・反対」に分かれた討論を整理するところも出てきたという。暴力でなく議論で物事を解決しようとする姿勢が見られる。
日本の言論空間は極めて特殊である。お互いに意見が異なる人達が実名で自分たちの意見を表明することはない。リスクを恐れて意見表明しないが内心に抱えた思い込みは頑固に維持されている。だからいつまでも思い込みに沿った感情的な議論から抜け出せない。
そして、それぞれの陣営に分かれていつまでも思い込みに沿った内向きな議論を展開し時折匿名で相手を徹底的に否定するような極端な動きに出る。
世界の「戦争と平和」の定義は大きく書き換わりつつある。だが日本では情報のアップデートが進まず「戦争とはこんなものだろう」という思い込みに沿った議論が展開されている。