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悪性インフレによる物価高に悲鳴をあげ、怒り、そして諦めてゆく なぜ日本人は諦めてしまうのかを考える

テレビ朝日が「物価高に悲鳴」という記事を出している。コメント欄はお祭り状態だったのだがなぜか「コメンテータ状態」の人が多かった。断片的な知識をもとに語り諦念と共に状況を受容している。なぜこうなるのだろうと考えたのだが「受容の五段階」にそっくりだと感じた。つまり死にかけている人がそれを受け入れるプロセスに似ているのか。

我々はそれを受け入れる必要があるのか。さらに言えばそもそも我々は本当に死にかけているのだろうか?

ここではなぜ日本人が物価高に悲鳴をあげ、怒り、そして諦めてゆくのかを考える。おそらく政治について語る場がなく個人的に怒りを処理する意外にないと思い詰めてしまうからだろうと考えている。

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テレビ朝日が「“値上げの春”悲鳴 4月は紙製品10%前後、2800品目も…5月は電気料金500円前後上昇」という記事を出している。この記事を見て「本当に人々は悲鳴をあげているのか」と感じた。そんな話を街中で聞いたことがないからである。さらにそもそも我々は悲鳴をあげて状況を受容する以外にないのだろうかとも思った。

Yahoo!ニュースのコメント欄はかなり盛況だった。匿名なのだから言いたいことが言えるはずだ。怒りのコメントで満ち溢れているのではと考えて読んでみた。

想像と違っていた。

まず人々は断片的な知識を寄せ集めて状況をなんとか把握しようとしている。また怒っている人はそれほど多くない。むしろコメンテータ風に冷静を装おうとしている。最終的には「考えても仕方がないことだ」と現状を認め諦めてしまう。

もちろんSNSのXには怒りのコメントが満ち溢れている。つまり怒っている段階の人もいる。だが彼らにも特徴がある。冷静に話を聞いてみると経済に対する知識がない。怒ったり文末に!マークをつけたりするのに忙しく(特に年配の人は赤い!や?の絵文字を多用する傾向にあるがこれはなぜなのだろうか……)経済について理解する時間はないようだ。

なぜそうなるのかを考えた。

日本人はもともと政治について語るのを嫌う。政治について語る人は危険な人物であり一緒に食事をするのも嫌だという人が多い。この傾向を持っているのは中国人と日本人だけなのだという研究結果もあり過去にご紹介した。

実際に政治について語るとどうなるか。5年ほどやってみた。現在はフォロワーが8,000人ほどいて普通に政治の話をしている。つまり日本人もやろうと思えば普通に政治の話ができる。

だが問題点も明らかになってきた。

第一に「私なんかが政治について語るのはおこがましい」と考える人が多く発言にかなりハードルがある。政治の議論を特殊なものと見做されており変なことを言って馬鹿にされたくないと感じている人が多いようだ。

次に自分の意見を押し付けてくる人に辟易している。自分の意見ばかりを展開する人を見るとうんざりして読む気がなくなるという人もいる。確かにそうだろうと思う。実際に意見を押し付けてくる人は多いからだ。個人攻撃を禁止すると政治言論に関わりたいと言う人が減る。つまり自分の攻撃欲を満たすために政治言論を利用している人が多いが、これは治安状態が悪いアメリカのダウンタウンと同じ状況にある。

実際に観察してみると「意見を押し付ける人」には数種類いることがわかった。とにかく何かに怒っている人がいる一方で自分の意見が受け入れられて当然だと感じる人もいるようだ。原因はおそらく固定化した社会環境だ。まず「下」から見る。

  • とにかく怒っているが意見が言えない人
  • 私なんかが意見を言うべきではないと感じている人

そして「上」には自分の意見が受け入れられて当然だと思っている人がいる。年配の男性が多い。だがおそらく彼らは安心しているのだろう。知識が全く更新されておらず思い込みに彩られている。

社会構成は日本人が政治を語る上での阻害要因の一つだがさらに難しい問題がある。それがムラ意識だ。なぜそうなるかはわからないが、在外経験がある人を除きほとんど全ての人が持っていると言って差し支えないと思う。

もともとQuoraは英語版サービスだった。だが、日本人が増える過程でわかりやすくムラ化していった。ムラの人たちはタイムラインに自分と違った意見が出てくることをとにかく嫌う。上下の区別なくとにかく許せないという人が多いようだ。決まって「ムラの統一ルールを作ろう」とする自警団が出てくるようになりQuoraのモデデーションチームに文句を言う。先生に正解を決めてもらいましょうというわけだ。「地位が上の人」は威圧的に抑えようとするが下の人たちは「みんなで異物を排除しようとする」傾向がある。とにかくみんな自分と違った意見が嫌いなのだ。

実は政党にも同じ傾向がある。政党の人たちはこうした平場の掲示板のようなところには決して降りてこない。立憲民主党・国民民主党・維新のような比較的新しい政党はサポータークラブのようなものを持っていて党勢拡大を働きかけている。だが有権者は問題を解決したいだけであって何も誰かに囲い込まれたいと思っているわけではない。ここに需要と供給のミスマッチがある。

サポーター制度には大きな弊害がある。国民民主党と立憲民主党はエネルギー政策などが折り合わないため野党共闘ができない。自民党の派閥も国会議員40名程度のところが多いが、立憲、国民民主、維新などの勢力もだいたいは自民党の派閥と同じ程度なので、おそらくこれがムラの人口の上限なのだろう。

ムラ意識を払拭できないのは、自分と異なる意見に触れてこなかったからだ。そもそも普通の生活で政治的な話に触れていないので異物と関わる経験がない。5年間で感じたのは「常に異物と触れているとそのうち慣れてくる」というものだった。アレルギーの治療にある減感作療法と同じである。

いずれにせよ、政治について語る場を持たない人たちは個人的に情報を集めてくるしかない。最初は怒りを感じるのだろうがそのうち「考えても仕方がないや」と諦めて状況を受け入れてしまう。怒り続けているのはしんどい。人は長時間しんどさに耐えられない。

日本は主権国家なので国民が変わらない限り政治を変えることはできない。最初から自分の意見を表明することはできないので(これは想像以上にハードルが高いようだ)まずは「政治的言論に触れるのは怖くない」ということを実感することから始めなければならない。ただ政治議論に触れる過程で確実に「違いが許せない」と感じるようになる。次の段階はおそらく「私と考えが違う人がこの世にはたくさんいる」という現実に慣れてゆくことだろう。

今回のインフレは構造の理解はそれほど難しいものではない。Yahoo!ニュースのコメント欄でも実は指摘が出ている。玉石混交のために「諦めたコメンテータ」たちに埋もれてしまっているのは惜しいことだが、構造さえわかれば、何も怒ったり諦めたりするような問題ではないと言うことが容易にわかるだろう。だが人々が共通認識をシェアしない限り「受容の5段階」からは抜け出せない。

個人的な課題もある。多様な意見に触れてほしいという提案も所詮は「数ある囲い込み運動」の一つと同じにしか見えない。会員募集などというと「結局あの人も支持者を増やしたいだけなんだろう」と思われてしまう。

実際に各政党は支持者集めのための運動を加速させておりなかなか囲い込みの疑念を払拭するのは難しいようだ。

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