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田崎史郎氏 検察と「この辺でね」という手打ちがないのが岸田政権の問題と指摘

田崎史郎氏が岸田政権の問題について興味深い指摘をしている。検察との間で「手打ちをやらないのが問題だ」と言っている。極めて問題が大きい発言だが、最も深刻なのは田崎氏がこれを問題だとは感じておらず、おそらく国民も「ああそういうものだろうなあ」と感じているところにあるのだろう。「黒を白と言いくるめて」いるうちに日本の社会全体から倫理観が失われていったということがわかる。

ただ、あらためて「倫理がないことの何が問題なのか」と開き直られると反論は難しい。

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Yahoo!ニュースに興味深い記事を見つけた。政治ではなくエンターティンメントのセクションに入っている。「田崎史郎氏 自民党の政治資金問題は「筋書きのないドラマ」 岸田政権の情報収集能力の低さ指摘」というスポニチの記事である。TBSの情報バラエティ番組での発言のようだ。

田崎氏の解説はいかにも政治記者らしいと感じる。「ドラマである」としてエンターティンメントとして見ているようだ。ただエンタメとしては非常につまらない。視聴率は取れそうにない。

おそらく田崎氏にはなんの悪気もないのだろうが前の政権では(おそらく安倍政権に限らずだが)検察との間に「手打ち」があったと言っている。そして、それをやらないのが岸田政権の問題だという。実際の表現は次のようになる。

一つは岸田政権の情報収集能力の低さだという。「こういう事件の時は、法務省が官邸と内々に打ち合わせをして、黒を白にすることはないですけど、“このへんでね”という(妥協案の提示の)話が、行われるものなんですよ。安倍政権ではあったんです」。しかし、「それを岸田官邸は一切やってない。法務省の情報も東京地検特捜部の情報が全然、取れてないから分からない」という。

無理矢理「黒を白にしろ」と命令するのは問題だが「この辺でね」と穏やかにいうのは問題ではないという表現だ。

岸田政権が前の政権のように「黒を白と言いくるめる」ことをやってこなかった理由はよくわからない。政局として混乱を利用しているような側面がありわざと「安倍派の問題」を大きくしている可能性もあるだろう。

ただし、この認識は非常に問題だ。

例えば労働基準法を例にとる。経営者が「労働基準法と言ってもまあいろいろあるわけで当局とうまくやりながら労働者をいかに使い倒すかが腕の見せ所なんですよね」と言っているのと同じことである。これは国税でも同じことが言える。つまり「法律なんていうものは建前であってそんなのはなんとでもなるんですよ」ということだ。

田崎史郎氏は学生運動の活動家だった。もともとは正義感に燃えて学生運動に参加したのだろうが運動は過激化し国民の支持が得られなくなっていった。中央大学法学部を卒業したのち時事通信者に入り「清濁合わせ飲む」政治の世界のリアルを見てきたのだろう。だが、その過程で「何が正しくて何が間違っているのか」を建前であっても区分するという社会的な感覚は失われてしまう。

確かに「社会には(法律に限らず)さまざまなルールがありそれは守られるべきだ」という主張は現在の日本では極めて難しい。高度経済成長期には「会社に入れば給料が上がるのだから頑張って出世すべきだ」という了解があった。だが、現在のサラリーマンにはそのような一般的な原則はない。平成から令和にかけて「いきなりゲーム空間に放り込まれてゲームに参加しろと言われた」という映画やドラマが盛んに作られるようになった。ゲームに負けると脱落したり殺されたりする。人生とは理不尽なゲームであり負けたらそこで終わりということになる。

昭和のゲームは「勝ち」を前提としていたが、平成・令和のゲームには「負け」しかない。昭和のサラリーマン小説はビジネスとしての勝ちと倫理との葛藤について扱ったものが多かった。山崎豊子がそのようなテーマで多くの小説を書いている。だが、平成・令和にはそもそも倫理が出てこない。ゲームのルールの意味すらも説明されない。ただ負けたら「はいそれまでよ」となる。

社会は倫理観を保つべきだという理論から田崎さんに反論することはできないのだが、田崎氏の「手打ち路論」にゲームとしての反論することはできる。

検察は官邸に人事介入されてかなり怒っていたようだ。黒川広務氏の問題でその緊張は頂点に達した。さらに現在の東京地検特捜部のトップの伊藤さんは桜を見る会を指揮していた経験がある。田崎さんのいうほどほどにの結果トップには辿り着けなかったが、就任にあたって次のように言っている。ルールを決める「上の方の人たち」の都合で「正直ものがバカを見る社会はなくしたい」との強い決意が滲んでいる。つまり押さえつけた反作用が出ている。

伊藤氏は10日、報道陣の取材に対し「正直者がばかをみるような社会はなくしたいので、国民が不公正や不公平だと思うような、社会に潜んでいる犯罪を摘発していきたい。国税や公正取引委員会など関係機関と連携して真実を解明していきたい」と抱負を述べました。

次に岸田総理の「派閥改革」や「政治と金の問題」の改革が国民から支持されることはないだろう。そもそも「善悪の一般基準」がないために、何かを変えるとそれは「宏池会が清和会を粛清しようとしているのだろう」としか見なされない。これは野党も同じである。政治改革を訴えてもそれは党利党略としか見なされない。倫理基準を通じて有権者を説得できないという意味では利権分配ができない野党の方に深刻な影響がある。

例えば一般人からなる政治フォーラムのようなものをやってみるとこの現実がわかると思う。社会に一般に共有できる「白黒」がないためそもそも政治課題について問題意識を共有することができなくなっている。継続的な議論ができなくなると政治議論はもはや炎上以上にはなり得ない。つまり誰も何もできなくなる。

だが最も被害を受けたのは「黒を白と言いくるめてきた」側の人たちだろう。自分達はなんでもできるという奢りや思い込みが「5億だ10億だ」という裏金に変わった。現在は会計責任者が立件されるであろうとか、事務総長経験者も無傷では済まないのではないだろうかなどと言われている。そもそも何が良くてなにがいけないのかという「白黒の感覚」なしに人は遠近感を保つことはできない。

これは政治に限ったことではないと思うのだがやはり社会生活を円滑に運営するためにはなんらかの白黒基準が必要である。これを人は「倫理」と言っている。最低限の倫理観をもち相手に良い影響を与えることなしに持続可能で勝ち続けることなどできないということになる。

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