新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて騒ぎになっている。会社としては最初は人権に配慮してやってきたしこれからもやって行くとしていたのだが、騒ぎがテレビに取り上げられるようになると休刊を決断した。

これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。実際に休刊に対しては「言論封殺だ」という批判もでていて、却ってこうした主張が地下化しかねない。

ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。AbemTVの取材によると、社長の発言なのに「甘くなったのではないか」と他人事のように書かれている。実際には新潮社という会社があるわけではなく、雑誌や文芸という村がなんとなく共存していた様子がうかがえる。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。このヘイトは、一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想に基づいており、これが周囲の価値観とぶつかるのは時間の問題だった。朝日新聞によると、編集方針が変わる前から新潮45に執筆をしていた小田嶋隆は「あまりに唐突な方針転換で、このまま無事では済まないと、ある程度予想していた」という。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

編集者一人ひとりの心情を察するとこれを指摘するのはためらわれるのだが、この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの一連の発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきだ。しかし、誰もそれをせず、結果的に新潮45はLGBTの人々を「生産性がない」と蔑んだ。中には傷ついた人たちもいたはずだが、最後まで誰もLGBTの人に謝罪をすることも、なぜこうしたヘイトが放任されたのかを説明する人もいなかった。これが集団思考の恐ろしさなのである。

新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だったのだろう。経営は積極的にこれを推進したのではイカもしれないが、結果的にこれを許容した。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。

ただ、現在の佐藤隆信社長の経歴を見ると東京理科大学を卒業して電通経由で新潮社に入ったことがわかる。この斎藤イズムがどの程度経営に浸透していたのかということは実はよくわからない。社内の俗物志向に取り込まれてしまった可能性もあるが、遅まきながら廃刊を決断したことから、社内の「専門家集団」に経営的な指示や指摘ができなかっただけなのかもしれないとも思う。

他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。そして社長は「それはダメなのだ」と指摘できない。佐藤社長がよそから入ってきた「外様」であり、村生まれの「文芸人」や「ジャーナリスト」ではなかったからなのかもしれない。

巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。誰一人として責任を撮ろうともしない人たちが、読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

さらに、これも言いにくいことだが、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られる。村の人たちは別の村だとみなしているかもしれないが、外の人はそうは見ない上に、実はお互い二利用し合っている。今回の社長のコメントでも「文芸出版社」を名乗っているのがその現れである。新潮45は「廃刊に近い休刊」として逃げてしまえばいいが、結果的に文芸部門が突きつけられている残酷な課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っていることになる。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。しかし、文芸がこれを脱却できないというわけではない。

松山の俳句集団の夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。文芸にはこうした生き残り方もある。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないのではないか。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけ。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。

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核なき保守思想にいかに対峙すべきか

まさかこのブログで保守思想について書こう日がくるとは思わなかった。そもそも哲学や思想が苦手でそういうものは避けてきたからだ。

最初は現在の保守というのは切断を意味するというような定義の話をしようと思ったのだが、たいして面白くならなかった。そこでそもそも保守には核がないので相手にする必要はないという結論にした。

一晩考えてもっと単純な例えを思い出した。例えばある人が優れている場合「他人と比べてこういうことが得意」というのが特徴になる。例えば歌がうまい人というのは、大勢に歌わせてみて「ああ、この人の歌は違うな」ということがわかる。だが、歌のコンテストに出たことがない人は「自分の歌は凄いに違いない」という妄想を抱く。そして「唯一絶対無二である」と考えるだろう。しかし、この人はコンテストに出て歌を歌うことはできなくなるはずだ。そこで他人の歌を聞いて「あれは違う」などと言い出す。現在の保守には「問題を切断して現状維持を目指す」という側面があり、内向きにはそれで用が足りてしまうのだが、本当の問題は外と向き合えなくなっていることなのではないかと思う。

保守という考え方を規定するためにはまず「自分たち」が何なのかということを規定しなければならない。つまり守るべきものの範囲が確定してはじめてそれをどう守るのかという議論ができるからである。

ところが日本人は自分たちが何者なのかという自己規定ができなかった。文明の衝突(文庫上巻文庫下巻)では日本は中華圏から独立した独自の文化圏とされる。日本語も琉球語を方言とみなせば一系統一言語であり近縁の言語がない。さらに統一的な政権が早くできたことから国としてもまとまってしまっており、神道を一つの宗教とみなせば宗教圏としても単一である。他者がいないので自分たちが何ものなのか規定しなくても済んだといえるしできなかったと考えることもできる。

小熊英二の「単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜」には海外を模倣して帝国期に入った日本が朝鮮のように大きな社会を飲み込みながらも帝国としてどのように自己を再構成するのかという議論に失敗したことが書かれている。

よく「歴史が長くて日本は独特でユニークな国だ」といって喜んでいる人がいる。確かにその通りなのだが、裏を返せば自分たちが何者なのかを他者を通して規定する機会がなかったということを示している。歴史が長いことやたまたま円錐形のきれいな火山を持っていることしか誇れることがないということになる。

それでも日本が外に拡張しているときにはこのことは大した問題にはならなかった。戦前、中国大陸に向けて拡張するときに朝鮮人を割当制度なしで受け入れたところをみると「朝鮮人が入ってきて国が乗っ取られてしまうかもしれない」などという心配はしなかったのだろう。選挙権を与えてハングルによる投票まで許していたのである。さらに戦後になっても経済的に拡張している間は、日本人が自分たちが何者なのかということを考える必要はなかった。せいぜい日本が気にしたのは外国人からみて日本がどう見えるかという日本人論だったが、これも内側から問題を指摘するよりも外圧を利用したほうが意識改革がしやすかったという程度の日本人論だった。日本人がユダヤ人になりすまして書いた「日本人とユダヤ人」には、だからそれほどの危機感は見られない。

日本人が「保守」を気にするようになったのはバブルが崩壊して経済の先行きが見えなくなって以降なのだが、最初はサブカルチャ的な位置付けだった。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年だが、この頃にはバブル崩壊はよくある周期的な不況の一つだろうと考えられていた。しかし状況は変わらず、人々の不満は徐々に旧弊な自民党政権へと向かって行く。全体として「日本は改革できるはず」という期待があったからこそ逆張りも可能だったということになる。ゴーマニズム宣言は初期の段階では「ゴーマンなことを敢えて言える俺たちはカッコイイ」と言えたのである。

自民党に代わる政権は状況を打開することができず、内紛によって離合集散を繰り返す。民主党政権時にピークに達して崩壊した。「やってもダメだったじゃないか」というわけである。そしてゴーマンな逆張りは期せずして「安倍時代」の主流のイデオロギーになってしまった。

安倍時代のイデオロギーの特徴は幾つかある。まとめると先送りと切断ということになる。これまでの政権は構造的な分析を提示しないままに「どうにかしないと日本は大変なことになる」といい続けていた。ところが安倍政権は「みんなが変わらなくても日本はもう大丈夫」という言い方で「改革の呪縛」から日本人を解放した。ブクブクと太っていてダイエットができなかった人が「鏡と体重計を変えればいいじゃない」と気がついたのである。そして新しい保守思想のもとで日本人は鏡が見られなくなった。

ただ、これが嘘であるということに人々はうすうす気がついている。だから、保守の人たちはなにかというと反日という言葉を持ち出す。安倍政権に逆らう人たちはすべて反日である。社会党や共産党は中国をスポンサーにした反日だと言っていたのだが、最近では自民党内の石破茂も反日であり、天皇陛下も「反日認定」されることがある。自分たちが理解できないものをすべて「反日」と規定することで自分たちは変わる必要がないと自分たちに言い聞かせ続けているのである。

だから、現在の新しい保守思想に語るべき価値はない。そもそもサブカルチャ的な「ゴーマン」を許していた頃には本流の保守思想は消えていたと思わざるをえない。

確かに「レイプされた女性には問題がある」とか「日本人には天賦人権は似合わないから取り上げるべきだ」とか「北海道には先住民族はおらずすべてはなりすましだ」などと言われると腹が経つのだが、もともと「敢えて世の中に逆らってみる」のがかっこいいという程度の話なので、それに反発してもあまり意味はなさそうだ。問題なのはそういう「外に逆らって見るのがかっこいい」と思っているのが、一般庶民だけではないという点である。政権そのものが嘘を擁護するようになっている。

なぜそうなってしまったのかはよくわからないが、結局頑張っても変われなかったという諦めが現在の停滞につながっているとしたら「それではいけない」と思っている人が自らのリーダーシップで新しい一歩を踏み出すべきなのではないかと思う。

改めて現代の保守とは何かと考えると、それは諦めからくる欺瞞と切断による自己保身の別名なのだと言えるだろう。

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保守思想と先住民族とDNA

先日Twitterである投稿を見た。アイヌ民族について連続して発言しているアカウントである。なぜかアイヌ民族などいなかったと主張したがる人たちがおり彼らに反発しているようなのだが「アイヌ人などいない」とか「和人の方が先にいたから先住民族ではない」などという人たちが後を絶たないようだ。彼らは今回は遺伝子を引き合いに出して「アイヌは先住民族でなかった」とか「いまアイヌを自称している人はなりすましだ」などと言っている。ただ、それに反対する側も遺伝子を引き合いにだして「遺伝的にある傾向があるはずだ」と主張していた。

これは問題だなと思ったのだが、誰にとってどんな問題なのかを考えるとこれがなかなか一言では言えない。アイヌ系の日本人への人権侵害や中傷であることは確かなのだが、実はヤマト系の日本人にとっての問題を方が切実である。特に真面目に本邦の保守思想を考えたことがある人にとっては、自己規定というのは大問題のはずなのだが、未だに民族をDNAで規定できると考えているということは、おそらく真面目に考えたことがない人たちが大手を振って「自分たちは保守思想家でございます」と言っているというのが空恐ろしい。

日本人は実は民族について真面目に学校で教わることがない。これは教育の不備というよりも国の事情による。あまり他者と触れ合ってこなかったので自己規定が必要なかったのである。この点においては平和主義の議論と似たところがある。日本は大規模な戦争に直面してこなかったのであまり平和について突き詰めて考えることがない。憲法の平和主義を理解し擁護するためには当時の国際状況と現在の国際状況を見なければならないのだが、護憲派も改憲派も第二次世界大戦直後の状況認識が変形したものを抱えたままで論争を続けている。

民族についても同じことが起きている。先住民の権利保護は比較的新しい考え方なので、歴史的な経緯を踏まえないと「なぜ先住民の権利を保護すべきなのか」という論拠が立てられないのである。

まず、民族という概念からおさらいしてみよう。

韓国人と日本人を比べた時に「純粋な韓国人」という遺伝的マーカーも遺伝子の組み合わせもない。日本はなぜかチベットと同じ遺伝傾向(ハプロタイプD)を持った人たちが多く暮らしており、アイヌ系の中にも同じ遺伝傾向を共有する人たちが多数いる。一方で日本にはハプロタイプOという朝鮮半島と同じ系統の人たちもいる。だがハプロタイプDの人は韓国にはあまりいない。

だからハプロタイプOの人を連れてきて遺伝子解析してもこの人が韓国人なのか日本人なのかということはわからない。ハプロタイプDの人はおそらく韓国人ではないだろうが、この人が日本人なのか、日本に同化したアイヌなのか、アイヌなのかということもわからないのである。つまり、遺伝子と民族性というのは関係がないことはないが、遺伝子で民族は特定できないことがわかる。

にもかかわらず日本人は民族性と遺伝子が関係していると思い込んでいる人が多い。おそらくは多民族と接したことがないので「民族性というのは血によって決まるのだ」と漠然と信じているからではないかと思う。韓国は半島国家なので少し状況が違っていて「氏族」が自分たちがどこから来たのかということを伝承して書き残している。古く中国からきたと自認する人もいれば、最近アメリカ人と韓国人のハーフが創立した新しい氏族もある。

天皇中心の世の中ではもともと渡来系の家系と在来系の人たちを明確に区別しており、天孫と呼ばれるおそらく古い外来系の人と渡来系の人も分かれていた。だが、日本が武士の時代になると氏族の乗り換えが起こるようになった。例えば徳川将軍家はもともと藤原を自称していたが将軍家は源から出るということで源に変わり、最終的に徳川という氏族を創設したことになっている。

外敵がいないので氏族について考える必要がなかった日本人だが、明治維新期に日本人という枠組みが作られて、国語という概念もできてゆく。主権国家には領域という概念があるのでロシアとの国境画定を急ぐ中で「系統の明らかに異なるアイヌ人をどう扱うか」という問題が起きた。しかし日本政府はこれを棚上げしたままで「なかったこと」にして領域の確定だけを急いだ。数が少なかったのであまり問題にならなかったのだろうが、本州以南の習俗や社会を押し付けたという意味では侵略と一緒である。

もっと大きな問題が起きたのは台湾と朝鮮を併合した時だった。急激に大きな人口を飲み込んだでしまったからだ。この時日本にはいくつかの選択肢があった。日本を多民族国家として朝鮮人や台湾人を固有のグループとして扱う道、日本を単一民族国家として規定し朝鮮人や台湾人を同化する道、さらに植民地として切り離して本土とは区別するという道だった。だが、優柔不断な日本人は一つに決めることができなかった。内地にきた朝鮮人には日本人と同等の選挙権が認められ衆議院委員も出た。植民地としては破格で寛大な待遇と言える。一方で東洋拓殖という会社を使って農地を収奪して日本人の植民も計画した。これは後々大いに現地の恨みを買うことになる。

この裏返しとして日本人の自己規定の問題がある。自らの国家についてまともな議論ができなかったのである。政党同士の小競り合いから天皇機関説が糾弾されると議論そのものが萎縮してしまい、日本はどのような人たちからなるどんな国家なのかという議論ができなくなってしまった。

実はこの文章を書く時に「日本民族」とか「日本人」という言葉を使って良いのか迷いながら書いている。例えばヤマト系と書くと他の原住民族や外来の人たちを認めることになるのだが、政府として「ヤマト系」の定義はないはずだ。だからアイヌ系日本人という言葉もないし、帰化した朝鮮系の人たちを朝鮮系日本人とか新渡来人などと呼称することもない。つまり、よく考えてこなかったから学校でも教えられないのだ。実はアイヌ系が誰なのか規定できないということはヤマト系の人たちが規定できないということなのだが、この文章を読んで「ああ、そうだな」などと思う人はいないだろう。

このように日本人は曖昧に周縁に拡張してきたので「他民族を侵略した」という意識が持ちにくい。故意に隠蔽している側面もあるだろうし、意識していないのでよくわからないという側面もあるのだろう。

次に、先住民を保護すべきという機運はどのようにして生まれたのかということを考えたい。

調べてみると1970年代から議論が始まり1980年代に固まった新しい権利のようである。まず最初に日欧米の主権国家とそれ以外の地域があり主権国家はそれ以外の地域を植民地化してもよいことになっていた。これが破綻して植民地域にも主権国家という扱いをすべきだということになる。これができたのが1945年である。この時に自決権の塊として人工的にに定義されたのが「民族」という概念だった。民族という概念は帝国が崩れたときに国家の構成主体として考えられた「アイデンティティを同一にする一団」のことである。

これが落ち着いて「国家格を持っていた人たちにも権利を拡張しよう」と考えられるようになったのが1970年代なのではないかと思われる。つまり、歴史的に国家格を持ってこなかった人たちにも自決権を認めようという流れである。アメリカの事例を見ると黒人の主権を認めてゆく公民権運動の影響を受けてアメリカ原住民の権利を認めて行こうという動きもあったようだ。

つまり、固定的な領域概念だとされていた「民族」や「国家」に移動の概念が取り入れられていることがわかる。日本やアメリカ合衆国のように周辺に伸びてゆくときにもともといた人たちの権利が蹂躙されるということもあるだろうし、アフリカから連れてきた黒人の人権をどのように守るかということでもある。

この時にぶつかった壁が「民族とは何か」という問題である。世界には様々な民族集団がいる。例えば言語をとってみても「方言なのか言語なのか」という問題があり民族が自明に見えるヨーロッパでは一部で独立運動も起きている。また遺伝的には同じ集団でも「イスラム教を受け入れた」という理由で異なった民族を自認する人たちもいる。もっとも極端なケースとしてヨーロッパ人が勝手に見た目で割り振ってIDカードを使って固定したケースもある。ソビエトが人工的に民族を規定した中央アジアでは歴史的な民族の呼称と今の人たちの遺伝的傾向が異なっていたり、一つの民族概念に異なる人たちが含まれる国もある。例えばウズベク人の中にはトルコ系の人とペルシャ系の言語を話す人たちが含まれるそうだ。

「民族とは何か」とという概念もないのだから、そもそも先住民族とは何かという定義ができない。アムネスティですら「定義はない」と言っている。

世界には、およそ3億人の先住民族が暮らしていますが、彼らの暮らしや文化、社会はさまざまです。そのため、国際的に決まった先住民族の定義は存在しないという指摘もあります。

そもそも定義がないのだから、遺伝情報を取り出して勝手に「ある」とか「ない」などと議論しても全く意味はない。アムネスティは次のように続ける。

先住民族とは、自らの伝統的な土地や暮らしを引き継ぎ、社会の多数派とは異なる自分たちの社会や文化を次世代に伝えようとしている人びとである、という定義もあります(ILO169号条約、国連コーボ報告書など)。

つまり自認が大切だというのである。

ところが自らの自己決定をあまり信じずに他人からの承認を重んじる日本人にはこの「自己決定権」という概念がそもそもよくわからないのかもしれない。だから「みんながないと言い出せばなかったことにできるのではないか」と思ったり、逆に「なんとかして科学的な民族の証を求めよう」という話になる。要するに民族を意識するかしないかにかかわらず固有の社会集団としての歴史があり、なおかつそれを今後も存続させたいという集団がいるとき、その人たちは「民族として扱われる」ということである。

現在の保守を定義すると「問題を先送りしたり切断したりすることで自己保身を図る」というものだと思う。だから自分と主義主張が異なる人を「反日」として切断したり「在日認定」して切り捨ててしまうことになる。安倍政権もこれまでのお友達を「あの人たちのことは実は最初から信頼していなかった」などといって切断し、最近では石破茂までも「安倍政権に反旗を翻すから反日だ」と言われる。中には天皇陛下を反日と呼ぶ人もいるそうだ。もともとの定義を考えると不思議な話だが、保守の本質を切断処理だと考えれば特に不思議に思うことはない。

だが、これはタマネギやキャベツの皮を向いたら何も残りませんでしたというのに似ている。

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障害者雇用の数字水増しを許してはいけないのはなぜか


本屋では雑誌以外はめったに立ち読みしないのだが、たまたまある本を手に取った。障害者自立の話である。漫画なので簡単に読めたのだがとても感動した。だがなぜ感動したのかがよくわからなかった。多くの人に読んでもらいたいと思ったのだが、自分も立ち読みなので「買ってくれ」とはいえない。

どうやらNHKでドラマにもなったようだが全く見逃していた。NHKはオリパラを盛り上げるプログラムの一環として扱ったようだが、できれば朝ドラか大河ドラマにしてほしいと思った。

この本を読んで、前回障害者雇用の水増しの件について観念的にしかわかっていなかったなと反省した。そして。この本を読むと官僚たちが踏みにじってきたものの大きさがよくわかる。

漫画の筋は簡潔だ。イギリスの研修で障害者スポーツを見た中村裕はこれを日本でも広めたいと思った。しかし研修先では「そういった日本人はたくさんいたが誰も実行しなかった」と言われてしまう。帰国して早速取り組み始めた中村だったが案の定病院からも当事者たちからも拒絶されてしまう。それでも自立したいという青年との出会いを通じて障害者スポーツに取り組み始め、自分の車を売って工面したお金で二人の選手を国際大会に派遣する。さらに中村の尽力は続き東京パラリンピックの開催にこぎつけた。

しかし話はそこでは終わらなかった。海外の選手は大会が終わった後街に繰り出すが、日本人選手はそれができない。海外の選手は自分で収入を得ることができるのだが、日本人障害者は社会のお荷物なので「大手を振って楽しむことなど出来ない」と感じていたからである。障害者に働く場所がないのである。

そこで中村は自分で工場を立ち上げる。しかし、生産性が低く取引を断られてしまう。また一ヶ月真面目に働いても従業員に2000円程度の給料しか渡すことができなかった。当然従業員たちもこれは事業ではなくお情けなのだと感じてしまう。ベルトコンベアを使えば障害者が動き回る必要がないということまでは着想するが、自力では工場が作れない。最終的にたどり着いたのが現在のオムロンだった。今でもオムロン太陽という会社があり雇用者のうち5割が障害者なのだそうだ。

個人的な感動ポイントはいくつかある。仕事を開拓した当時はとても給料が払える状態ではなかったという点に心を動かされた。これはやり直しを図った人が自力で再起を図ろうとしたときに最初に感じる壁だと思う。そもそも収入を得るということが難しい上に、収入が得られたとしても「この程度では仕事とは呼べない」と社会から拒絶されてしまうことがあるのだ。そこで諦めてはいけないのだろうが、やはり「道楽であり仕事ではないのではないか」と感じてしまうのに無理はない。

次の感動ポイントは中村の姿勢である。お医者さんとしての地位はあるわけだから、何も他人のためにそこまでしてやる必要はない。つまり、合理的に彼の行動を説明することはできないのだ。しかし人間には社会に貢献したいという内発的な動機があり、これはお医者さんであろうが「社会のお荷物」になってしまった障害者でも変わらないのである。そしてこの内心こそが社会を変えてゆくのである。

もう一つはオムロン側の対応である。障害者相手の「善意」なのだから「かわいそうなので助けてあげましょう」としても良さそうなものだが、ベンチャー企業を立ち上げたいと提案する。「損をしたら借金を負担するように」ということである。Wikipediaの太陽の家の項には井深大、本田宗一郎、立石一真という三人の名前が出てくる。日本の製品を世界に広めた人たちなのだが、自立についての見識を持った立派な人たちだったことがわかる。24時間テレビが障害者を利用して感動を押し売りし、官僚が数字をごまかして障害者の自立を妨げる現在では想像できないことだが、つい少し前には日本にも立派な経営者たちがいたのである。

興味を持って立石についても調べてみた。

オムロンの立石一真の経歴は面白い。戦前から働きはじめ、戦後に「自動化こそが新しい産業の鍵である」ということに気がついた。戦前にはすでに社会人だった「古い」世代の人なのだが、企業が社会貢献するにはどうしたら良いのかということを常に考えており、日本で最初の福祉工場の立ち上げにつながる。また、立石はサイバネティクスというビジョンを持っており、巨費を投じて「娯楽」と言われながらも研究所を立ち上げて次世代への投資をしたそうだ。このサイバネティクス技術の国産化がその後の高度経済成長を内側から支えた。

よく、日本には立派な経営者がいないとか、アメリカ流の合理的な経営を学んでいないという批判を目にする。実際にこのブログでもそのようなことを度々書いてきたのだが、海外の事例を探さなくても日本にも立派な経営者はたくさんいて、単に忘れているだけなのである。

漫画では立石一真が最初から障害者にコミットメントを求めていたような書き方がされているが、オムロンのウェブサイトには別の文章がある。つまり、どちらか一方が「見識があった」わけではなく、障害者、支援者、経営者たちの「社会を良くするためには何ができて何をすべきなのか」という熱意が出会い、徐々に社会を変えていったことがわかる。これも自己責任が跋扈し切断ばかりが目につく現代とは全く違った姿である。

立石一真 語録5 「企業の公器性」の意味

オムロン太陽電機の操業開始の日のことを一真は、次のように記しています。
「私はこの創業式で、重度身障者を前にしてあいさつをせねばならぬ立場にあったので、気が重かった。気の毒な境遇の人たちを、まともに正視できるかどうか心配でもあった。しかし、壇上に上がってあいさつを始めると、そんなことはものの五分もたたぬうちにすっかり忘れてしまった。というのは、「さあやるぞ!」といわんばかりの意欲のみなぎった顔がいっぱいで、工場が実に明るかったからである。フレンチ・ブルーの作業服にオムロンのマークを胸につけた二十八歳の吉松工場長が、車椅子で前に出て、凛々しいあいさつをしてくれるのを聞いて、私は胸が熱くなる思いであった」。これにより、一真の「企業の公器性」に対する想いは確信へと変わっていったのです。

立石太陽が設立されたのは1972年である。ここで障害者もセットアップ次第で生産性が向上させられることがわかる。障害者の雇用が義務化されたのは1976年だった。障害者の自立支援に尽力した人や、彼らの自立について「経営的なコミットメントが必要だ」と見なした経営者がいた一方で、官僚機構は裁判所を含めて、それを信じておらず「形だけ守った風に見せればいい」と考えていたことになる。

官僚機構が長い間何を踏みにじってきたのは、社会の偏見から解き放たれるために自ら踏み出した障害者たちと高い見識でそれを支えた経営者の勇気ある一歩であるといえる。社会はこれを許すべきではないと思う。

だが、支援する側が社会の偏見や常識に争ってここまで尽力したのはどうしてなのかがよくわからない。単にかわいそうな人たちを放置しておけなかったということもできるのだが、それだけではここまでのことはできないのではないかと思う。やはり、目の前にいる当事者たちの切実な気持ちが一人ひとりを動かしてきたのではないだろうか。ではその切実な気持ちとは何だったのかは受け手である我々一人ひとりが考えるべきだろう。

私たちは自分たちの手で「歩みなおすことができる社会」を作るか「一度つまづいたら社会から切断されて引きこもらざるをえなくなる社会」を作るのかという選択肢を委ねられていることになる。

常に生き残るために他人を追いおとし失敗を相手になすりつける競争社会に住んでいる政治家と官僚は、共助による歩み直しと共感することはできないのかもしれない。だが私たちはまたこうした人たちを許容するのか、それとも声を挙げるのかという選択肢を持っている。

改めてこの本の何に感動したのかを考えてみた。私たちは一人ひとりの行動によって社会を変えることができるという実証がパラリンピックとある医師の挑戦と中村の生き方にあるからなのだろう。

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現在の奴隷労働とそれを許容する日本人

先日Twitter毎日新聞の「外国人、借金返せず不法残留」という記事について知った。

仲介業者に125万円支払って日本に来た看護師が日本語学校の系列の病院を紹介されて週28時間勤務をこなした。しかし経費を差し引かれて2万円しかもらえなかった。そこで、失望して脱走してアルバイトに明け暮れたあと不法滞在で逮捕され、泣きながら謝罪したという記事である。

これを見て現在の奴隷労働だなと思った。つまり経済的に「働き」を搾取されているのである。

ところがこれについてつぶやいたところ「善意」で「ものごとを良く知ってそうな」人から、これは奴隷労働ではないという意見をもらった。狭義の奴隷は誰かに所有されている人の事をいうのだという。抵抗勢力の根強さを感じるとともに「知っている」ということでショックを和らげたいという気持ちの根強さも実感した。このことは逆に私たちの社会がもはや誰かの人権を犠牲にしてしか存続し得ないということを許容したいという気持ちの表れなのだろう。

ここから、戦前の慰安婦や強制徴用などの問題も形式的には「志願」で自発的に来ているとされているケースが多かったのだろうと思った。つまり、戦前から一貫して「見て見ぬ振りをしたい」という気持ちがあったのだろう。それは、日本人特有の感覚というよりは人類が共有している感覚なのではないかと思う。

戦前のケースでは日本人は二律背反的な気持ちを持っていた。アジアで最も優れた民族としてアジアを解放するのだという意識を持っていた一方で、朝鮮人を差別しているのだから何をされるかわからないという恐れもあった。このため日本の植民地政策は一貫せず、外から入ってきた民族をどう受け入れるかという思想がまとまらないままで戦後を迎えてしまう。それは日本が帝国として他民族化するか、それとも「純血の」日本人だけを日本人とするのかという感覚がまとまらなかったことを意味している。

この短いエントリーですべてを書くことはできないので、奴隷労働については人権の観点から分析するのだが、この問題を突き詰めてゆくと、海外から短期労働者を隷属的に受け入れることでしか維持ができなくなった国が、そのアイデンティティをどう作り上げて行くかというかなり本質的で根深い議論に発展するはずである。そして、その議論を妨げるのは多分無知な人たちではなく、今回遭遇したような「善意で」「教養のある」人たちなのだろう。

現在の日本の「奴隷労働市場」には単独の犯人はおらず、かなり巧妙な仕組みができている。一度考えてから浮かんできた疑問は「なぜ海外のブローカーが野放しになっているのか」という問題だ。

この外国人看護師が隷属的な労働に甘んじなければならなくなったのは元はと言えばブローカーから借金してしまったからである。そしてこれは日本政府が正規の紹介業者から紹介を受けた人だけにビザを与えるというようにすれば簡単に解決できる問題だ。ということは日本政府は、表立っては決して認めないだろうが、知っていてこの問題を放置していることになる。

さらに学校であるはずの日本語学校が「系列の病院」を持っていることが怪しい。正規の賃金は支払っているかもしれないが、いろいろな名目で天引きしているところから「最初から安い賃金で労働者を輸入して、その最低賃金さえも支払うつもりがなかった」ことがわかる。

先に述べたように、政府もこのような実態を把握しているはずで「知らなかった」とは言えないと思うのだが、介護業で人出が足りず、満足な給料も支払えないことを知っているのだろう。

つまり、三者がお互いに目に見えないトラップを作ることで、海外の有望でやる気のある若者を惹きつけているという実態がある。だが、彼らの間に直接の関係は見えないので、誰も責任を取らずに済むのである。

最初に述べたように、旧来の奴隷は所有者が奴隷の生存に責任を持っていた。しかし、今回の場合隷属的労働をさせても、奴隷の所有者はいないので誰も責任を取らなくて済む。つまり、現代の隷属的労働の方が罪が重いのだが、この人は自発的に来たのだから奴隷ではないと「切断処理」してしまうと、一切の問題を考えずに済んでしまうということになる。

同じことは慰安婦についても言える。慰安婦を集めたのは現地のブローカーだったのかもしれない。だが、だからといって軍が女性を使役したことが「問題がなかった」という証明にはならない。彼女たちは国でも差別されることになったのだが、これも日本軍がやったことではない。しかし、女性にとっては環境全体が問題であり、その原因を作ったのは戦争だ。

このように他人の人権を犠牲にして社会を維持する側には罪悪感が生まれるので、それを巧妙に隠蔽しようとする「智恵」が働く。だが、この「智恵」は内輪のものであり、世界的には通用しない。このズレが問題になりつつある。技能実習制度も研修生を隷属させているという懸念があるそうだ。日経BPは次のように伝える。技能実習制度もブローカーが暗躍して日本語学校と同じような状況にある。重要なのは政府がこれを知っているという点である。

 厚労省による実習生の労働状況の調査によれば、2016年、監督指導した5672事業所のうち7割に当たる4004事業所で労働基準関係法違反が見つかった。時間外労働が1カ月130時間を超える例や、月5万~6万円程度の低賃金で雇用して時間外労働に時給300円ほどしか払わない例も散見された。

「最大の問題は実習生が不満を言えない隷属した状況下に置かれていること」と、自由人権協会の理事、旗手明氏は指摘する。彼らは自国の送り出し機関に保証金を払い、ブローカーである監理団体の仲介で企業に実習に来る。住居費などを天引きされ、手元にほとんどお金が残らない例や、1部屋に3~5人押し込められる例もあったという。しかし「不満を言えば本国へ強制帰国させられ、保証金が戻らないばかりか、違約金を払わされることを恐れて意見を言えない」と旗手氏は指摘する。

この記事から海外ブローカーが日本にとって都合が良い存在であるということが見えてくる。つまり、彼らはすでに借金まみれになっている。つまり、最低賃金以下で働いている人は家族を人質に取られているのである。だから甘んじて「自発的に」隷属下に置かれるのだが、決して雇用者が「手を汚したわけ」ではない。研修生や日本語学校の学生は、国内の雇用者からは「進んでこの状態になった」人であり自分たちが「そうしたわけではない」という安心感が得られるということになる。だからブローカーは放置されているのだ。

このような状態を把握していながら厚生労働省は次のように言っている。

外国人技能実習制度は、我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的としております。

だが、冒頭の日経BPの記事はこのように指摘している。

こうした日本の人権問題に世界も懸念を示している。米国務省が2017年6月に発表した人身取引報告書は、日本の外国人技能実習制度が強制労働の温床になっていると指摘し、日本をこの人権問題における先進的な第1グループの国群から外した。

安倍政権が嘘をついて法案を通すことが問題になっている。これは内輪ではうまく行くのだが、海外には通用しない。だから日本と同じような調子で人を使うと、海外では「人権侵害だ」として訴えられたり、その製品の不買につながるリスクがあるということになる。

前回、韓国が海外資本を受け入れるためにワークライフバランスの確保に取り組み始めたという事例を紹介したが、日本は逆に今ある企業環境を守るために人権侵害の道を目指しているということになる。海外から資本を受け入れる必要がないので資本家を説得する必要もなく、従って人権侵害を是正する機運も出てこないという構造がある。

奴隷労働を許容しているということになる。さらに民主党政権時代の3年間にもこの制度に対する見直しがあったという話は聞かないので、野党も含めて加担していると考えて良いだろう。そして外国人に向いた「隷属的労働を許容すべき」という機運は、日本人労働者にも向かう。過労死が増え、成果主義で学校の予算を削るなどの動きが出ている。ところがいったん内向きの社会ができるとそれが是正できなくなってしまうのである。

我々は安倍政権を許容することでこの隷属的労働を許容している。一人ひとりが「これはいけない」と考えて変わってゆくしか、改善の道はない。ところが、いざ声をあげてみると「常識的な」人たちが「こんなのは奴隷労働とはいえず大げさに騒ぎすぎだ」と「善意」を装って近づいてくるのである。

今回一番印象に残ったのは「日本はまだ奴隷労働に依存しておらず、今後この状態が数年間続いてから騒げばいいじゃないか」というほのめかしだった。多分、日中戦争も「これくらいはいいじゃないか」というズレが徐々に拡大化して泥沼に陥ったのだろうと思う。現在でも同じようなことが起きているということになる。

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逆に感動を与えてもらったという言葉の違和感についてまったりと考える

昨日24時間テレビについて考えたので、その続きとして「逆に感動を与えてもらった」という言葉が持っている強烈な違和感について考える。この言葉のポイントは「逆に」である。

まず「感動」という言葉を処理してみる。もともと感情が動いたことを意味する言葉だが、どうもスポーツでは別の使われ方をしている気がする。例えば甲子園で熱中症になりながら野球をする人たちを見て「感動した」という人たちがいる。野球以外は何もせず、青年の美しさをすべて捨て去って坊主頭で球を追い続ける人たちに使われるようである。また、年始のマラソンや駅伝を見て「感動した」という人たちもいる。これも全てを投げ打って合宿生活を送るやせ細った人をみて「感動した」と言っている。

この二つに共通するのはどちらも「全てを投げ打って何かをしている」という点にある。全てを犠牲にしている限りは自分たちには襲いかかって来ないしライバルにならないという安心感がある。彼らが意識しているのは集団に対する貢献であり、逆に個人の記録についてはあまり重要視されないという点も見逃せない。オリンピックの個人競技に感動したという人もいるが、あれも全てを投げ打ってオリンピックのメダルを日本という国に捧げたというところに意味がある。つまり、個人が全てを投げ打って集団に勝利を捧げる姿をみて「感動した」と言っているのだ。そして、その集団の中になぜか「感動した人」が含まれるのである。

苦労しているのは選手だが勝利の感覚を味わうのは観客である。つまり自分の犠牲なしに相手が犠牲を払って勝利を捧げるのをみることを「感動」と言っていることになる。実は先日見た「チャリティ」の切断と同じように、選手を切断して対象物として楽しむのが「感動」の正体なのである。

これは、映画を見たり本を読んだりしてで心が動かされて何か内心に変化があったという「感動」とは趣が違っているのだが、内心を持たない人が本を読んだり映画を見たりして心が動くということはありえない。中には両方の「感動」を持っている人もいるだろうし、どちらか一つの感動しか持っていない人もいるだろう。

こうした意味での感動は日本ではよく使われる。中には「感動を与える」ことを生業にしている人もいる。彼らが用いるのが「逆に感動を与えてもらった」である。感動を与えるのだから、普通の人たちに対して優位に立ってはいけないという特徴がある。感動を与えるスポーツ選手や芸能人は憧れの対象ではなく「普通の人たちの下位にいる」存在なのだ。

そこで、被災者を支援した人が「逆に感動を与えられた」などいうことがある。もちろんそういう人ばかりではないが、自分たちの芸能人としての評価をあげたい人たちがマスコミを引き連れてボランティアに出かけることがある。彼らが使う「逆に」は「助けてあげるというおこがましい気持ちではなく結果的に勇気付けられました」という謙遜として機能しているのだが、実際には「普段は感動を与えている」側の人間が「逆に」感動を与えてもらったという意味合いもある。

ここでは感動を「搾取」と見ている。ひけらかしにボランティアに訪れる芸能人は、被災者を利用して自分を大きく見せているという意味で搾取をしていることになる。彼らは被支援者と自分を切断している。

ここまで「感動は搾取である」ということを書いてきたので「ずいぶん皮肉めいている」と感じる方も多いのではないかと思う。例えば「美しい日本」という言葉で日本社会の問題点や過去の歴史的な過ちを隠蔽することがあるように、感動も臭い消しのように用いられることが結構多いのである。例えて言えばトイレの芳香剤のように気楽なものなのだ。そして、このメンタリティはかなり浸透している。多分日本だけの現象でもないと思う。

こうした気持ちはかなり根強く当たり前にあるので、搾取感情が表にでないことが多い。最近江川紹子さんがこういうツイートをした。普段から真摯かつまじめな気持ちでジャーナリズムに取り組んでいる人なのでなんら悪気はないと思うが、このツイートには問題が多い。

なんとなく感動的な良い文章のように思えるのだが、名前や顔立ちが日本人的でなくても日本国民であるという人は大勢いるし、その人がその外見や属性ゆえに他の人と違って「多様性」に尽くさなければならないということはない。もしそうだとしたらそれは「普通の日本人以上の義務を他人から勝手に負わされている」ということになる。

そもそも、選手は日の丸のために頑張っているわけではなく、個人として可能性を追求したいだけかもしれない。最近のスポーツ選手が「自分の可能性を試したい」と言わないのは、スポーツが各種の補助金を得ているからだろう。このため「税金を使っているのだから世間の常識(実は自分の思い込みのことだが)に逆らってはいけない」などと言い出す人が大勢いるのだ。

普段はこうした欺瞞を攻撃するであろう江川さんでさえ、自分が理想とする多様性を相手に写し込んで、それが実現することに勝手に「感動」してしまっている。ただ「それはさ搾取ですよね」などと指摘しても何を言われているかすらわからないのではないだろう。そこにはほのかな違和感が残るだけである。

外国人が言われて嫌な言葉に「日本人でもないのに日本人らしいわね」という言葉がある。日本人はこれを褒め言葉だと思うかもしれないのだが、言われた方は「でも所詮外国人でしょう」と言われていると感じることがあるからだ。切断されて対象物として扱われることによる疎外感は「外国人」として社会から二級市民として扱われた経験のある人しかわからないかもしれない。しかし、頑張ってもインナーサークルに入れないというのはかなりの絶望感を生む。

日本人は「する」よりも「なる」を好むので、自分の理想形を目の前にすると「これがあるべき姿なのだ」と勝手に感動してしまうことがある。実は単なる他人の対象化なのだが、それを感動だと錯誤してしまうのだ。

なかなかわかりにくい「感動」だが、簡単なテストもある。感動の対象物が自分のやりたいことを言ったり権利を主張したりした時に「嫌な気持ちがする」としたらその感動は搾取の言い換えであろう。対象物として切断しているはずのものが競争者になってしまう。すると「対象物として利用できるはずだった」という期待することで腹が立ってしまうのだ。このようにして我々は割と自動化された形で「誰が利用できて、誰がライバルになるか、そして誰が敵なのか」ということを判別して生きているのである。

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ローラさんのバッシングと24時間テレビ

タレントのローラが叩かれている。拠点をロスアンジェルスに移したあと、インスタグラムでセレブっぽい発言を繰り返しているのがその理由のようだ。ローラは環境破壊問題に興味を持ちユニセフに1000万円寄付をすると主張している。

これについて、アメリカではセレブが「ノブレスオブリージュ」を果たすのが一般的だが日本は村社会なのでそれが理解できないのだろうという論評を見た。これだとそれほど面白みもないので特に論評する価値はなさそうだが、考えてみると少し面白い視点が見つかった。それが「日本人とチャリティ」についてである。24時間テレビが叩かれていることもあり、改めて考えてみることにした。

かつて、日本にもユニセフに寄付をしたり大使として協力するという芸能人がいた。ユニセフに貢献している有名人は黒柳徹子アグネス・チャンが有名である。最初は日本の芸能人は憧れの対象だったがいつしか下に見られる存在になったという枠組みのお話を考えた。

だが、1980年代のアグネス・チャンについて調べているうちに基本的な構造自体はそれほど変わっていないということがわかってきた。そこから見えてくるのは、どうやら日本人は社会貢献や改革にはそれほど関心がなく自分のマウンティングのために利用する対象物としてみているというあまり直視したくない現実である。

香港出身のアグネス・チャンはそれほど日本語がうまくなかったので少し侮られていた。子供をつれて職場復帰したことで一部の女性の妬みを買いいわゆる「アグネス論争」が起こった。妬んだのは独身の「お姉さん」やフェミニズム運動を苦々しく思っていた「お姉さん」である。論争が起きたのは1988年のことだったそうだがこの公開いじめのような状態が2年も続いたという。今でも子連れで通勤すると「子供を自慢しているのか」とか「迷惑になる」などというネガティブな感情が生まれることがあるが、それはバブル崩壊前の時代も同じだったということになる。また「女性を攻撃するのが女性」という構造も変わっていない。

このときにアグネス・チャンを叩いた林真理子は結婚していなかった。子供がない女性が子供を産んで「充実した生活を手に入れた」ことが恨まれたという側面があるのだろう。林真理子はその後1990年に見合いで結婚し1999年に出産したそうだ。よく女性の敵は女性と言われる。その実態は村社会型のマウンティングなのではないかと思う。似たような属性のちょっと優れた人を妬むのである。

男性がことさら子連れの女性を嫌わないのは、男性の方が優れているからではなく子連れの女性がマウンティングの対象にならないからだろう。代わりに「生産性が下がるから職場に連れてくるのは遠慮してほしい」などということはあるかもしれない。男性同士での競争がマウンティングになっているからである。

アグネス・チャンが叩かれなくなったのは彼女がマウンティングの対象ではなくなったからだろう。彼女はこの経験を活かしスタンフォードで教育学の修士号を取得する。テーマは日本とアメリカの格差である。このこと自体はあまり問題にならなかったし議論にもならなかった。アメリカで英語で博士号を取られてしまうと「負けは明白」なのでマウンティング材料として利用できないからである。

ローラの構造もこれに似ている。「生意気だが少し知性が足りない」といういわゆるおばかキャラとして失礼な言動が許されていた。今まで下に見ていた人が「セレブ気取り」になると嫉妬心を持つ人が多いのだろう。自分より下に見ていた人が「上にいる」と感じることで負けた感覚を持ってしまう訳である。さらに環境問題は人類全般が加害者なので「可哀想な人に施してあげる」という従来のチャリティ感が通用しない。これがローラが炎上した理由であろう。

では黒柳徹子は自身が飛び抜けているから嫉妬されないのだろうか。それも違うような気がする。黒柳さんは継続的にユニセフの活動をしており、日本人としては唯一の国際大使である。自己顕示欲だけでチャリティを継続的に続けることなどできないのだから、彼女には強い意志があるはずである。だが、黒柳さんは同時に日本の状況をよくわかっており、日本では「セレブっぽい」訴求の仕方はしない。

最近、24時間テレビが問題になっている。障害者を可哀想なものとして社会から切断した上で感動のための対象物にしている。そればかりか出演者は高額なギャラまでもらっているようだ。24時間テレビに違和感が出てきたのは、障害者本人たちがテレビに登場したりパラリンピックで活躍したりして、普通の人とそれほど違わない(つまり感動のための切断された対象物ではない)ことが分かってきたからだろう。黒柳さんの活動で評価されるのは「世界の発展途上国にいる可哀想な人たち」を助ける活動である。これも切断されている。こうした人たちを日本に受け入れようという人は誰もいない。こうした「可哀想な人」を置くことで、自分は施しを与える側の人間なのだという比較優位の感情が得られる。

例えばユニセフのハガキなどをもらったら大げさに感動してあげなければならない。送った方は「私はいい人だ」と思われたいからやっている場合が多いからである。

日本人にとって福祉とは切断された対象物に対する施しであって、社会の一員として共に生きてゆくための活動などではありえない。こうした感覚の差は村社会と社会の違いを良く表している。社会ではそれぞれができうる限りの貢献をするのが当たり前だ。セレブは成長のための目標でもあるので、セレブとして成功した人がリーダーあるいはロールモデルとして社会貢献することになんらの違和感はない。つまり、社会という共通の枠組みがあり「共に生きている」という感覚がある。たとえそれがポーズや自己顕示であったとしてもその建前は守られる。

だが、村社会には共通で管理する社会はない。村社会はそれぞれ利権を確保して成り立っているのでできるだけ損を出さないようにしながら、よその村のことは黙っているというのが掟である。施しが肯定されるのは、施しの対象が村から切断され対象物として「安心して利用できる」場合だけである。さらに自分たちが加害者になっているという環境破壊の問題などは直視することが許されない。それは自らを貶める自虐的な行為になってしまうからだ。

<普通の>日本人は「施しの対象」になることを嫌う。社会から分断されて発言権を奪われてしまうからである。生活保護は権利だが「社会参加権の放棄」とみなされてしまうのはこのためである。これまで切断してきたからこそ切断されることを恐れるのだということになる。だから高齢者は既得権益を手放さない。国会議員は対象物である福祉と自分の老後の問題を分けて考え「年金だけで暮らせるはずなどないではないか」と囁きあう。

24時間テレビの場合には、施しを与える側の人たちは24時間テレビの利権を分配してもらえるのだが、障害者にはギャラは支払われない。彼らは見世物としての地位にあまんじるべきであって、決して利権に関与してはいけないという暗黙の了解があるのだろう。チャリティ番組と言いながら極めて残酷で差別的な宣告だが、日本ではこれがおおっぴらに許されてしまうのだ。

今の時点ではローラさんがこのマウンティング型村社会から離脱したのかはわからない。芸能プロダクションの問題に片がついたとされた2018年の4月には世界的二有名なIMGに「所属する予定」とされていた。しかし、WikipediaにもIMGにもローラさんの記述はない。ローラさんがアグネスチャンのように突き抜けるとバッシングの対象からは抜けるが、マウンティングのために「セレブっぽさ」を利用したとすれば逆に日本の村社会に喰われることになるだろう。

ここから日本人がチャリティーをマウンティングの機会と捉えていることは明白なのだが、よく考えてみるとなぜ日本人がこれほどまでに比較優位によるマウンティングにこだわるのかはわからない。普通であるということだけでは優位性や満足感が生まれないので、絶えず自分の位置確認をしたがるのだと考えてみたりするのだが、もっと自動化された構造があるのかもしれないと思う。あまりにも普遍的に日本人の間に蔓延している思考形式だからである。

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日本人が人権をイマイチ尊重できないわけ

このところ、あるツイートをきっかけに人権について考えることが多くなった。「天賦人権がそんなにえらいなら守ってもらえる様にせいぜい神様にでもお願いしろ」というような意味のことが書いてあったのだ。その昔迫害されたキリスト教徒が言われた言葉で、遠藤周作の著作にも同じ様なセリフがあったと思う。

こういう人に天賦人権の大切さを考えようとすると、日本ではほぼ詰んでしまうことになる。なぜならば日本人は内的規範を一切持たずないからである。内的規範と言ってわかりにくければ良心がないと言って良い。そして、他人が個人的に良心を持つことも認められない。だから、みんなが幸せで暮らせる世の中がいい世の中なのだと信じていますなどと言っても「ふーん」と言われるだけだ。そもそも社会と個人に関係があると思っている人などいないので「この人はありもしない社会というものにどうして関心を寄せるのだろう」と不思議がられるだけであろう。こうした人ほど自分が得をするためなら進んで「公共」について語りたがるのだから日本というのは不思議な国である。

人権に関しては個人的な鉄板ネタを持っている。昔、日本人だからだという理由でルームメイトに住んでいたところを追い出されたことがあるのだ。

まだ9.11前だったが、当時からイスラム系の人たちには社会から阻害されているという意識があったようだ。特にアメリカで生まれたイスラム教徒はもはや移民ではないのに顔の色や信仰で差別されることに大いに憤っていた。そこでイスラム教徒は互助的な組織を作り始める。だが、仲間を作るということは他人を排除するということである。そしてその他人は強い白人にはならない。彼らは仲間内で固まり「仲間を守るためなら何をやっても良い」と考える。仲間の中に「ここに住みたい」という人がいたようだ。そこで英語のできない非白人であるということで目をつけられたのだ。

そこで彼らが作り出したロジックは「日本人はたくさんの神様を信じているとんでもない人たちだ」というものだった。これをあまり教育のない白人のアパート管理人(janitorという)に吹き込んだ。そこでいじめの様な状態になり半月で出て行けという話になったのである。なぜか「便利だから車は置いて行け」と言われた。

ここから「日本人である」という本人が選択した属性でないもので判断されるのはとても怖いことだなと思う。また、無知な人が持っているステレオタイピングの恐ろしさもわかる。さらに社会に溶け込もうとしているのに言語ができないということだけで権利が主張できないという悔しさも体験した。自分で同じ経験をしたいとは思わないし、他の誰かも同じ様な経験をすべきではないと思う。

だが、一方でマイノリティがかわいそうだから人権を守るべきだと言われると疑問に思うことがある。マイノリティも人権が守られないとなると必死になる。そして被害者から加害者に変わることがあるのだ。こうした被害者意識はやがてアメリカの中にネットワークを作り上げて9.11のような事件を起こすことになる。彼らは普段挑戦できない白人社会に「飛行機をぶち込んだ」のである。こうして最終的には「誰がよくて誰が悪い」ということがわからない状態が生まれる。いったん社会が分裂するとそれを再統合するのはとても難しい。

こうした状態を防ごうとすると、「人々は人種に関係なく評価されるべきだ」という嘘を置かざるをえなくなる。天賦人権というのは嘘なのだが、そうした嘘でも置かない限り社会が成り立たなくなってしまうのだ。言い換えれば人々は「人権は嘘である」ということを薄々知っており、それでも守っている。アメリカではこのため履歴書に写真を添付することが禁止されている。それでも黒人とわかるファーストネームだと採用率が下がるそうである。人種差別があるのにないふりをするのがアメリカだ。

このように「これをあることにしないと社会がめちゃくちゃになる」から人権が守られるという側面がある。綺麗事なので一人に認めてしまうといろいろな人に認めなければならなくなる。

日本はもともと単一民族の国でありこうしためちゃくちゃな状態にはならないだろうと考える人もいるかもしれない。社会がある種の偽善を前提にしている状態も知らないので、日本人に天賦人権を守らないと社会がめちゃくちゃになりかねませんよなどと言っても説得力はない。

さらに、日本人は「普通でない」という自己認識を持つと自らを潰してしまう傾向がある。最初に出したイスラム教徒が加害者に転じたのは彼らが「自分たちにも幸せになる権利がある」と考えたからなのだろう。日本人の場合はそれが恥になってしまう。よく考えると人口の半分(つまり女性)は確実に差別の対象になっているのだが「自分は女性という劣っている存在である」とか「怒ってばかりいる女性は女性らしくない」とか「男性社会にうまく馴染めなかった女性が大騒ぎするのだ」と言ってマウンティングする人たちのおかげで、こうした差別がおおっぴらにまかり通る。ヨーロッパでは性犯罪にあった女性は保護されて当然だが、日本では逆に女性から「女性としての生き方がまずい」などと言われて嘲笑されてしまう。そしてそれに加担する人の中にも女性がいて、その人たちは優先的に議員になれたりする。

仮に女性の権利意識が高ければ「女性だけ」の会社や組織ができて男性を逆差別し始めるだろう。これは人権が崩れつつある社会では実はよく起こっていることである。生まれた時から男女機会均等法があったという時代の人が出てくれば「ネイティブな世代」の登場ということになるだろう。だが、実際には「子供を作らない」という非協力的な選択で社会を衰退させるという状態になっている。もちろん子育ては男女が分担してやるべきなのだろうが、男性はどんなに頑張っても子供を生むことはできないのである。

それまでの間は「人権がなくても割となんとかなる」のは確かなのだが、今度は逆のことが起こる。これまで散々見てきたことだが、扉を閉めて村落の均質性を守ることはできる。だが、約束事が多くなり窮屈な組織ができてしまう。その結果としていじめが蔓延したり、ルールを書き換えて嘘が横行したりする。組織は村落となり内側から重みで潰れて行くというのが、去年の年末あたりから観察してきた結果である。さらに、そんな窮屈な組織はいやだといって外から人が入ってこなくなるか、社会の規範とぶつかりガバナンスそのものが崩壊したりする。こうしたことが日本では毎週のように起きている。スポーツの様に上下関係がしっかりしているところほど早く潰れるのは偶然ではないだろう。ガバナンスが効きすぎるので腐敗も早く現れるのだ。

実際に日本は閉鎖的な空間になりつつある。そこでいろいろルールを作り変えて「自分たちだけは生き残りたい」という人たちが増えている。社会というものを信じない日本人だが「利用できる」となるととことん社会を利用し始める。この時に社会という左派が好きな言葉を使わず公という言葉を使いたがるのが特徴なのだが、公というのはたいていの場合社会の私物化の言い換えに過ぎない。

こういう人たちは「日本社会の伝統」というものを勝手に定義してよくわからない人権のようなものを「定かではないですが、こういうものは日本人の心持ちには合わないと思います」などと言ったりする。わからないものを切り捨てておいて「今まで見えなかった本質が理解できる様になった」といって自己催眠をかけるのである。

だが、ルールを自分たちの都合の良いものに改変したり理解できないものをかっこでくくって放置してみても社会の活力が戻るわけではない。そのうちに制御できないものはすべて「日本の伝統にない」などと言って社会を硬直させてゆくのではないかと思える。

私たちは人間が持っている良心に従って人権を尊重する、人権は偽善にすぎないがそれでも尊重する、閉鎖した村落で孤立して滅びてゆくという三つの選択肢を持っていることになる。日本がどの道を選ぶかは、我々一人ひとりの選択にかかっている。

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私たちは無力ではありません

久しぶりに力のある言葉を聞いた。

平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

これは広島市の原爆記念式典で子供達が伝える「平和への誓い」の一部である。全文は広島市のウェブサイトで読める。

核兵器に対しては日本の立ち位置は難しい。日本は世界の中でもっとも多くの核兵器保有国に囲まれた地域である。ロシア、中国、アメリカという隣接する国が核兵器を持ち北朝鮮も核兵器を持ちつつあるからだ。しかし歴史的経緯から自前で軍隊や核爆弾を持つことに対する懸念も強い。このため非核三原則を掲げつつも現実問題としては自分たちを守るための核兵器をこっそり持ちたいと考えてしまう。そのため安倍首相のスピーチは表向きは核のない世界を目指すとなっているもののとても空虚なものになっている。

ところが広島の子供の視点から見るとこれは単純なことである。つまり核爆弾は悲惨であり、それを知っているのだからすぐにやめなければならない。

このスピーチの草稿をを子供が作ったのかどうかはわからないのだが「私たちは無力ではない」という言葉は力強い。彼らは実際に核兵器について知っている人たちから話を聞いていて、今でもその活動を続けている。そして未来にも「伝承者になります」と宣言をしている。こうした実際の行動に裏打ちされているからこそ「自分たちは無力ではない」ということが明確に言えるのだろう。ただ思っているだけではダメで、行動しなければならない。しかし行動するだけでもダメで、自分たちの信念を周りに伝えなければならないのである。

この言葉が真剣に響いた理由はいくつかある。大人たちの発言が言い訳ばかりであり内容が空疎であるということがその一つであるのは間違いない。

一方、主張が聞き入れらないと感じた人も「自分たちは弱者な存在であるから守ってもらわなければならない」と感じることがある。世間からは受け入れられないのではないかという疑いの気持ちを持ってしまうからだ。同性愛者が生産性がないとか、女性医師は制限されても仕方がないとか、少数民族を差別してもそれは言論の自由であるとか、政府は円滑に政治を進めるためなら嘘をついても構わないというような主張が溢れているので無力感を感じるのは無理もない。

原子爆弾の被害を受けた人たちはそれ以上の苦痛を感じてきたはずである。放射線の影響で遺伝子に異常があり子供に影響するかもしれないと結婚差別を受けた人もいるだろうし、体力に問題があるのではないかという理由で就職差別を受けた人もいるだろう。それでも、広島や長崎の人たちは「核兵器はなくならなければならない」という信念と勇気から声をあげる人がいた。そしてその意思を受け継いでいる人もたくさんいて体験を後世に伝える活動をする。だから我々はそうした勇気が「無力ではなかった」ということを知っているのである。

私たちが困難に直面した時、すべての人が声をあげたり、感情的に戦いに身を投じるべきだとは思わない。それぞれに社会的な立場があり、できることも人によって違っているだろう。しかし、どんな立場にあるにせよ「私たちは無力ではなく」自分たちは声をあげる正当な権利があるのだということを認識し、さらにそれを他人に積極的に伝えてゆくということはとても大切なのではないかと思った。

一つだけ恥ずかしいなと思うのは、こういう当たり前のことを子供から聞くまで気がつけなかったということである。今回スピーチをした二人は小学校六年生なのだそうだ。

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女性を医者にしないことの本当の弊害

本日は真面目に女性を医者にしないことの弊害を考える。とはいえ、この問題に異議を申し立てる上で合理的な理由を述べる必要はない。「女性差別だからいけない」という理由で十分なので、当事者は引き続き怒りを社会に伝えたい方が良いと思う。

現代の先進国においては人間が基本的人権の元で平等に扱われるのは当たり前のことで、その当然の権利を感情的に疲れることなく表現するアサーティブさを日本人は学ぶべきだと思う。さらに、人権上の保護を求める上で「かわいそう」であることは前提条件ではない。最近、Twitterで同性愛者のアカウントをフォローしているのだが「やはり社会的弱者であることは確かなので保護されるべき」という論を持っている人がいる。多様さを許容しない社会は間違っておりこれは社会全体として正されるべきである。

とはいえ、女性がなぜ差別されているのかを考えるのは面白い。実は女性差別にはある隠された目的がある。家庭と職場というもののバランスをとる傾向が強い女性を貶めることで反対側の価値観を強調しているのである。「私生活を投げ打って組織に貢献のが正しい」というほのめかしだ。よく考えてみれば「社畜として生きること」と男らしさの間には何の関係もない。単にそう思い込まされている人たちがいるだけのことである。

最初の段で多様さを許容しない社会は間違っていると書いた。社会全体が多様さを許容しないことで歪められているといえるからだ。確かに、ワークライフバランスを考慮しない医療は社会とぶつかり持続できなくなる。今回はいわゆる先進国のスタンダードとあまりにもずれているために「日本は女性差別のある国である」という評判が立ちつつあり、安倍政権も選挙対策上許容できないと考えているようだ。これが石破派に利用されかねないからである。

これまで僻地医療に医師を派遣したり忠誠を誓わせたりすることはそれほど難しいことではなかっただろう。耳元で「女のようにわがままをいうのか」と囁けばよかったからである。こうしたことは正社員と派遣の間にも成り立つ。派遣などの非正規職員を差別することで正社員に「お前は彼らとは違うよな」と言える。「あなたは正社員なのだから申し越し無理をしてもらわねば」といえる。ただ社会の価値観とぶつかった時そのマネジメントは成り立たなくなってしまうのである。

医療の世界で女性差別の問題は常態化しているというのは常識らしい。これは医療制度になんらかの問題があり医療の世界がブラック化しているということを意味する。ただこれが騒ぎになっているところをみると同じように持続可能性を欠いた産業がいくつもあるのではないかと思えてくる。もちろん、社会の写し鏡である政治の世界でもこのスケープゴーティングが蔓延している。

最近、杉田議員や長谷川豊元候補者のような人たちが差別発言を繰り返している。杉田議員の場合は女性を貶めたり在日外国人を攻撃することにより首相の目に止まり自民党から出馬し当選することができた。これが羨ましいと思ったのか長谷川元候補者も同じように過激な発言を繰り返している。このように安易に政権に近づくことができるため、保守と呼ばれていた思想はすっかり形骸化してしまったようだ。あるヘイト漫画家は「保守とはメンテナンスのことだ」と発言し社会から失笑された。のちに取り繕っているようだが他人をあげつらっていれば「保守のふり」ができるわけだから、特に保守思想について勉強する必要はない。中国の古典が読めなくてもフランス革命当時の政治状況を知らなくても「保守を名乗ること」ができてしまうのだ。これも「他人の差別を前提に優遇された人たち」が優遇なしではやって行けなくなったという実例であろう。

安倍政権はこうした人たちを大いに利用してきた。中にはもう少し「頭の良い」人たちがいて行政組織を恫喝することで嘘をつかせたり記録を改竄させたりしてきた。まず「当たり障りのない」他人を叩く別働隊みたいな人たちがいて、その裏には「あなたたちもそうなりかねませんな」とほのめかして組織の意思決定を歪める人たちがいるという行動がある。ネトウヨ議員は実は単に面白おかしく他人を叩いているわけではない。めちゃくちゃが許容されているということを社会に示し、内側にいる人たちに「銃口が向いている」ことを意識させているのである。

岸田文雄議員のようにすっかり怖気付いてしまい、総理に許しを請い「どうしたら優遇してもらえますか」と泣きついたとされる人も出ている。自民党の保守本流はすっかり骨抜きにされてしまっているようだ。岸田議員にはすでに日本のリーダーとしての資格はないと考えて良いだろう。弱腰の彼が誰かのために戦うことはないからだ。改革派とされていた河野太郎外務大臣も最近では外交の席で「ネトウヨ的な」主張を繰り返している。

ただ、安倍政権のこうしたアプローチは成り立たなくなるだろう。もちろん社会からの反発もあったが安倍政権には「大したことがない」問題だった。問題は内側で「優遇される見込みはない」と考える人が出てきた点にある。

安倍政権が成り立っていたのは、誰を優遇して誰を排除するかということを曖昧にしてきたからである。ところが政権が長期化するとこの構造が固定化する。するとあらかじめ「今更支持を表明しても取り立ててもらうことはできないだろう」という人たちが出てくる。岸田派の堕落を傍で見ていた竹下派の一部はさらに遅れてきた我々が優遇されることはないだろう」と感じたようだ。では良心に従おうということになり石破茂を応援するように決めた。今後彼らが処遇されないと内部告発のようなことが増えてゆくだろう。

安倍政権で目立つためには反社会的なことをわざと言えば良い。それが却って安倍支持者たちへの信仰告白になるからだ。男性医師が「家庭を顧みないことで大学に貢献します」というようなもので、つまり反社会性が忠誠心の証になるのである。ボクシング連盟でも「奈良判定」をすれば会長に恫喝されずにすむ。だが、こうした体制は長くは続かない。優遇された側が増長し、それに反発した人たちが秘密裏に離反するからだ。

これが差別をベースにした忠誠心を担保にしたシステムが崩壊してゆく基本的な仕組みだと言える。こうして被差別層を犠牲にしてマネジメントを維持してきた組織は内側から崩壊してしまうのである。

ただし、こうしたことは「彼ら」の問題である。スケープゴートにされてしまった人たちは対等に扱われる権利を主張するべきである。誰にでも対等に扱われる資格があるし、そうするべきである。他人のごまかしに加担するために犠牲になる人などいてはいけないのだ。

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