ざっくり解説 時々深掘り

時代にあったオリンピックにするためには参加者に破格の給料を支払うべき

今回は、現代にあった東京オリンピックについて考える。前回のオリンピックは日本が戦後復興の最初のフェイズを終えていよいよ成長過程に乗ろうというときに始まった。このためには海外からの投資が必要だった。東京オリンピックは投資を呼び込むための起爆剤になり、東名高速道路や東海道新幹線などが整備された。今回のオリンピックは成長が一段落して次のフェイズをどうしようというときに行われるオリンピックなので、その姿は前回と大きく異なっているはずである。

結論からいうと、東京オリンピックは些細な仕事をたくさん作り出して破格の給料を支払うオリンピックにすべきである。できれば日本の将来を牽引する職種にお金を支払うべきなのだが、今のおじいさんたちに目利きはできないので、とにかくなんでもいいから仕事を作って給料をばらまくべきである。「成果を気にせずにお金をバラまける」機会はほとんどない。

リベラルあるいはポピュリズムだという非難がありそうだが、実は、経済学的な理由がある。今の日本は努力してこれを成し遂げる必要があるのである。


前回までは石破茂が首相になれないということを起点に日本の立ち位置について考えた。石破茂には日本を成長させるアイディアがない。ただ、アイディアを持っていないのは石破だけではなく、立憲民主党にも、国民民主党にも安倍首相にも成長のアイディアはない。だから「建設的な討論」が起こらない。

そこでなぜ成長がないのかを考えた。まず、成長がある国について観察し「海外からの投資を呼び込む」ことが新しいアイディアの導入につながるのだとした。皮肉なことに海外からの投資を呼び込むということはすなわち国にお金がないということを意味している。そこから考えると日本はお金があるから経済が成長していないという、我々の肌感覚とは全く違った仮説が得られた。

そこで経済の発展段階について調べたところ、被投資国から投資国になるというステップがあることがわかった。だが、発展段階が長いので、投資国がそのまま永続的に投資国でいられるのか、それとも再び成長を初めて被投資国に戻るのかということは必ずしも明らかではないようである。

加えて蓄積したお金は「成人病」を引き起こすことがある。例えば、オランダは資源が発見されたことで通貨の価値が上がり製造業が圧迫された。そこでワークシェアリングを通じて分配政策を見直した。つまり、国が豊かになると、却って経済的な被害を被る地域や階層が出てくるのである。

このことはマクロに仮説ができる。ある大企業に投資を行うセクションと実務を行うセクションがあるとする。成長市場に投資する投資セクションに比べて、成熟市場を相手にする国内セクションの効率や生産性が低いのは当然のことである。企業はこの二つを比べて国内から投資を引き上げてゆく。だから、成熟投資社会では国内の給料が下がるのだ。日本での経済活動が停滞すると税が得られなくなる。企業も国も教育投資をしなくなるので、それでなくても停滞している成長点が壊死してしまうのだろう。

人間は長い間飢餓の時代を生きてきたので「食べ物があったら食べよう」と考える。しかし栄養が過多になると肥満が起こる。肥満は運動不足と結構の停滞を起こす。日本はどうやら豊かになったことで同じ状態に陥っているのではないだろうか。

だからなんらかの機会を作って企業が蓄えた資金を放出しなければならない。とはいえ資本主義国では政府が強制して企業に出資させることなどできないのだから、このような祝祭を積極的に利用すべきなのだ。

つまり日本は「少し痩せる必要があり、オリンピックはその良い機会である」と言える。国内に給与が行き渡れば消費は活発になる。老人ではなく現役世代が消費を活発にすれば、それが探索活動となり次世代につながる成長点が探索される。

前回のオリンピックでは「壊れたものの修復も終わったし、空腹もなんとかなってきたので、さあこれから稼ぐぞ」というオリンピックだった。だから、オリンピックは海外からの投資を呼び込むためのきっかけとして利用された。だが、今回はフェイズが違っているので、同じことをやろうとしてもうまく行かないのは当然である。

現在の日本は紆余曲折はあったものの、これまでの働きが実を結びそれなりの成果が出たというフェイズに入っている。普段から社会のネガティブな問題にばかり着目しているのでとてもそうは思えないかもしれないのだが、当時最先端だった「平和主義」や「自由通商」というイデオロギーをいち早く取り入れて繁栄することができたという感謝を世界に向けて示すべきではないかと思う。

オリンピックは経済学的に見てもその配当を国民に配る機会にすべきなのである。

だが実際には、ボランティアの募集に支障が出るから夏休みに授業はするなとか、会場にエアコンがつけられないとか、銀メダルに使う銀が足りないというような「けち臭い」話に終始している。これは内部留保をためて成人病になった企業のメンタリティが飢餓の時代のままであることを示している。だが、このまま飢餓の思い出に支配されたまま太り続けると「あなた死にますよ」とみんなが言ってやらなければならない。

今の日本に足りないものがお金ではないというのは明白である。市場にいくらお金を流しても使ってくれる人がいないのが問題なのだ。ここはお願いをして「お金を使ってもらう」べきだということになる。ボランティアではなく、個人単位のプロジェクトにお金を使うようなれば、日本型のオリンピックは先行国モデルとして今後のよい手本になるだろう。残すのは時代遅れのサマータイムや箱物などの「レガシー」ではなく、次世代の「才能」であるべきなのだ。

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