非正規雇用は公害と一緒

今日はわりとわかりやすいが議論に登りにくいことについて考えたいと思う。テーマは非正規雇用と公害問題だ。
公害とは、製造業が本来行うべき処置を行わずに環境に有害物質を垂れ流す行為である。公害問題が蔓延したのは、公害防止策をとればコストがかさみ競争面で劣位に立たされるからだろう。
ではなぜ工場は公害防止策を取るべきなのだろうか。実際の抑止力になったのは環境対策に国費が使われたからではないだろうか。つまり、誰かが支払わなければ誰か別の人が支払うことになる。工場から見るとこれを「費用の外部化」という。費用を外部化すると競争力は増すが、処理費用は個別企業の支出を凌駕し、社会全体の競争力が失われる。
もう一つ大きかったのは機会の平等である。その場にいる人はすべて空気や水といった環境から影響を受ける可能性がある。だから世論の反発があったのだろう。
公害のような市場の失敗を個別企業が企業努力だけで乗り切ることはできないので、国や地方自治体のような「社会」が監視する必要がある。これが政府の役割だ。
さて、ここまで整理したら今度は非正規雇用について考えたい。非正規雇用は必要な時に労働力を確保してあとは「知らない」というやり方だ。企業はコストを削減することができるので、競争力を優位に保つことができる。どこか一つの企業が非正規依存に舵を切れば他の企業も傾かざるをえない。
非正規の人たちにも老後があるし病気をする可能性もある。また子供を育てるのも「余剰のリソース」が必要だ。非正規はこれを外部化しているので、社会の費用負担が増えることになる。つまり、費用の外部化が起きている。
次の論点は費用の外部化が環境を悪化させているかという点にある。第一に消費の落ち込みを通じて市場が痛んでいる。次には人口が減少する。もともとは大学に行かないとまともな職がないという理由から教育費がかさみ、第二子、第三子が育てられないという程度の話だったが、最近では結婚すらできない人も出てきている。費用の外部化が長い時間をかけて社会に害悪をなしているのは間違いがなさそうだ。
さて、公害対策については対策が進んだのに労働者問題については対策が進まないのはなぜだろうか。それは公害と違い労働者問題が「まだら」に進むからである。つまり、労働問題は労働者個人の自己責任だと考えらえやすい。
また、非正規労働者の間にも期待値がなく「失われた」という感覚が生まれにくいようだ。最近ヨーロッパ、韓国、アメリカで見られた民主主義の嵐の起爆力になっている人たちは「失われた」感覚を持っている有権者だが、日本でたいしたデモが起こらないのは日本人が自分たちの能力に自信を持たない縮み志向だからだろう。
非正規の問題に真剣に取り組んでいるのは共産党だけだ。これは非正規雇用の問題が労働者の問題だとされているからだろう。民進党すらまともに取り合わないのは、民進党の支持母体が連合や公務員の団体であり、非正規労働者問題は他人事だからだろう。企業にとっては労働者が分断されていた方がやりやすい。その意味では正社員は統治の道具になっている。ある意味、封建主義化が進んでいる。正規非正規の区分がなくなれば、全体の賃金は減っているので大騒ぎになるはずだ。だが「下」を置くことで転落を恐れた労働者は過労死するまで「自発的に」働くのである。
ただ、実際にも例えば自民党もこの問題の当事者だ。自民党の目的は中国に対抗して地域の覇権国家になることだ。軍事費を増やして対抗しようとしている。しかし、軍事費を拡大するためには足元の経済を拡張する必要がある。その手段は2つしかなく、人数を増やすか生産性をあげるかである。労働者の正規化はこのどちらにも関わっている。
しかしながら、自民党にはマクロな視野がない。このため場当たり的な対策しか打てない。安倍政権がやってきたのは、国内では民主主義や基本的人権を否定しながら、対外的にはアメリカにフリーライドして経済権益圏と軍事同盟を作ることである。前者がTPPで後者は安保ダイヤモンド構想だ。
さらに、自民党は中国の台頭による日本の国力の相対的な低下を解決するために、国家動員を進めようとしている。国民の人権を絞って国の権限を強化することで地域内競争に勝とうという戦略なのだろう。なんとなく正しいように思えるのだが、すでにこの戦略で失敗している国がある。それが党の指導力が強い北朝鮮である。強い中央集権が効率的なのだとしたら、北朝鮮は今頃韓国経済を凌駕していたはずだ。自民党はわざわざ憲法を改正して北朝鮮が70年かけた社会実験を再び繰り返そうとしているのだ。
 

正しい立ち方と4スタンス理論

正しく立てていない。足の土踏まずのあたりをペタペタとついて歩いているらしく、膝が内転する。そこで足の後ろ側に重心を持つと正しく立ったり歩いたりすることができるようだ。

だが、これも一概には「正しい立ち方」とは言えないらしい。4スタンス理論は人間の重心の置き方を4つに分けており、タイプによって正しい立ち方が違う。このタイプを知れば正しい立ち方ができるのだが、タイプは簡単に見分けることができるという。

扇子を手首で扇ぐ人はAタイプで、足のつま先に重心がある。逆に肘で扇ぐ人はBタイプであり、踵側に重心がある。また、コップを持つ時人差し指と中指を使う人は1タイプで、中指と薬指を使う人は2タイプである。つまりA1,A2,B1,B2という4つのタイプがある。

重要なのは軸の使い方で、A1とB2は足と肩の軸が斜めになる。右足が重心の時に軸を作るのは左肩だ。これを「クロス」と呼んでいる。その他のタイプは同じ側に軸ができるということである。

このようにそれぞれの個性がすっきりまとまったように思える4スタンス理論だが、疑問も多い。

前回考えた「正しい立ち方」や「正しい歩き方」は重心を後ろに置いた。前重心で歩いて片脚だけが歪む「変な歩き方」になっていたわけだから「本来とは違う」歩き方をしていたのかもしれない。が、本によると「無理して別タイプの動き方をすると怪我をする」とのことである。自己診断したところA1なので前重心であっている。しかし前重心で歩くと左脚だけが内側に歪むのだ。

また、動きを出す時には前重心だが、どっしりと立つためには後ろ重心の方が都合が良い。一方でポージングで動きを出すためにも、右肩右足を軸にして体全体を曲げたり、逆の肩を使ったりすることがある。ということは4種類を意識するときれいにみえる。特に自分がこれが得意だからこれ以外できないということはない。スポーツときれいな立ち方というのは違っているということなのかもしれないが、これもよくわからない。スポーツが「安定すること」と「力を出すこと」に特化しているからかもしれない。

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UNIQLOでTシャツを自作する

よく、Tシャツのデザインで悩むことがある。好きなデザインを選んでいるうちはよいのだが、胸のラインを強調するための図柄が欲しいなどと思うと、ぴったりとしたデザインが見つからない。微妙な色のジャケットなどと合わせるとなおさらである。形があっても色が合わなかったりするのだ。
ユニクロのUTme!はそんな悩みを解決してくれるサービスである。自分で作ったデザインをそのままプリントしてしまえる。価格は少しお高めの1900円で、他に配送料などがかかる。
具体的な作り方はとても簡単だ。今回はトウガラシをモチーフにした。技術仕様書によるとまず全体の大きさは最大で横35.5cm × 縦40.6cmだそうだ。これを印刷ギリギリレベルの150dpiで作ると2096 x 2398ピクセルになった。これで下地を作っておく。肩などにデザインすることはできないし、全体をボーダーにするというようなこともできない。これで画像サイズは4MB弱だった。まあこれくらいならそれほどスペックが高くないPCでも作業できそうである。

オーガニック柄

素材のトウガラシは白い紙の上で撮影する。画像加工ソフトで背景の白を完全な白(#FFFFFF)にして出来上がりである。白のTシャツの場合、白色は印刷されないので、切り取って使える。陰は薄くしておいた方が加工がやりやすかった。陰が広いと重なってしまうことがあるからだ。
オーガニックを選んだのは、デザインしなくても済むからだ。
0f490d3e-24cd-4cc5-b1ea-c40fa91c7f2c_1_print_llあとはトウガラシを好きなように並べてゆくだけ。これは単純にトウガラシを並べたもの。つまり、そんなに凝ったデザインでなくてもよいのだ。赤がコーディネートの差し色になりそうである。
インクジェットプリンターがそんなにきれいな印刷をしてくれるとも思えないので、輪郭をつけたりしている。
下に余白があるが、1/2程度はパンツの下に隠れるくらいの計算になる。
さて、次はトウガラシをネックレス状に並べてみた。
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これがデザインとして機能するかどうかは全くわからないのだが、思いついたものをいくらでも作って置いておける。
注文していないものは保存できないのだが、カートに保存することができる。元デザインはPCでとっておけばいくらでも作り直しが可能である。

イラスト風のTシャツ

6bf04a6d-3409-4531-b41f-bada4fb17710_1_print_llあとは思いついたことをとりあえずデザインにしておけばよい。ドーナツが好きならドーナツの写真を撮影してイラスト風に加工してから貼り付ければよいだろう。イラスト風にするにはまずポスタライズしてから、輪郭を抽出し、輪郭の彩度をなくしてからレイヤーで重ねればよい。ポップな色合いの写真を撮影しておくと後が楽だが
コツとしては最初に土台となる2096 x 2398ピクセルを準備すること。これは正方形の写真をそのまま持ち込んだので、図柄の調整に苦労した。

鉄道ファン(撮り鉄)向け

84e4d67b-9137-429d-86cd-04fafaba8e6e_1_print_ll撮り鉄なら「これは記念に残しておきたい」という写真があるはずだ。もちろんそのままカラーでデザインを切ってもよいのだが、モノクロにして少しコントラストを派手目にするとアートっぽくなる。
これは外川駅に到着した銚子電鉄。空の色はわざと飛ばしてある。でかでかと「I Love Chiba」などとしても良かったのだが、文字を入れるのは本職でないとなかなか難しい。
趣味のものは色を入れすぎると主張が強くなるのでモノトーンがおすすめである。銚子電鉄はあの朱色がかっこいいので、茶色と赤のDuoみたいにしても良かったかもしれない。

副業にもできるということだが

できたデザインは出展もできるそうだ。1点売れると300円入るという。誰でも簡単にデザインが作れるてしまうので、ただ漫然と待っていても簡単に売れることはないと思うのだが、自分が好きで作ったデザインが友達に売れたというくらいなら良いのではないかと思える。
 
 

オタクこそファッションを研究すべきではないか

現在のオタクたちは政治的圧力にさらされている。経済が行き詰まるにつれて日々のイライラをぶつけるスケープゴートが必要になる。そこで「オタク趣味は性犯罪の温床になる」というようないわれのない非難にさらされることになった。こうした危機感はかなり共有されており、山田太郎候補は落選こそしたものの「表現の自由」の保護を訴えて28万票を獲得した。
かつてのオタクたちは自分たちの世界に耽溺していればよかったのだが、現在では外見を整えて社会的な訴えかけをしなければならなくなった。面倒臭いことこの上ないが、現実は直視しなければならない。
需要は多いが、オタクが使えるファッション情報は少ない。皮肉なことにファッションは「ファッションオタク」たちに牛耳られていて、新規の顧客の参入を拒んでいるからである。ファッションオタクたちが服好きなのはわからなくもないし、否定されるべきでもない。なぜならば彼らは服が好きすぎて1日中洋服のことばかり考えているのである。だが、オタクにはそんな時間はない。なぜならば、そんな時間があったら好きなことに時間とお金を当てたいからである。
だが、実際のファッションは実のところ単なるパターン認識だ。もちろん、深みにハマればいくらでもハマる余地があるのだが、当初はパターンさえ覚えてしまえば、あとはそれを機械的に当てはめるだけなのである。
patterns最初のパターンは色だ。色の組み合わせはそう多くない。実際にはこれに灰色が入るのでちょっとだけ複雑になる。キーになる要素はバランスとラインだ。
まず、バランスを見ておきたい。暗い色ほど重くなるが、明るい色は広く見える。色が重要なのは体型が人によって異なるからである。例えば下半身が太っている人は上半身を引き締めてバランスを取ったりする。これは自分で確かめた方が早い。
もう一つはラインだ。一番下のコーディネートではジャケットがラインを作っている。黒のジャケットに明るい色のインナーとズボンを合わせると、縦長のラインが作られるのだ。
色を使わずに形で整えることもできる。例えば、緩めのズボンを選び、タイト目のジャケットを合わせることもできる。ファッション雑誌は手を替え品を替えこれをやっている。
お腹が出ている場合にはどうすれば良いのだろうか。「痩せろ」というのが最初の答えだ。痩せてユニクロ体型(ユニクロは顧客の体型を決め打ちしている)になれば、あまりこだわらなくてもよくなる。次の答えはバルーンのようなシェイプをつくることだ。白ジャケットの例でいうと、上のインナー(黒い部分)がバルーンの上半分で、下がズボンになる。つまり、上が太く下が細くなっているズボンを探せばいいということになる。こうしたズボンは「テーパード」というわかりにくい名前で売られている。「スタイルアップが図れますよ」などと宣伝されているのはこうしたシェイプが作りやすいからなのである。
服オタクが作るファッション雑誌のワードローブの作り方特集を読むと、キーになるアイテム(人によってジャケットとズボンの組み合わせだったり靴だったりする)を中核にして周辺アイテムを揃えて行くというようなことが書かれている。色の数は制限されており(黒、紺、カーキ色、白程度だ)アイテム数も10〜15といったところだ。ということで、似合うパターンを見つけたら好きなアイテムを探して、ワードローブを組み立てて行く。
一方、SAFARIにもワードローブの組み合わせを提案している特集があった。(Safari(サファリ) 2016年 09 月号)こちらは服ではなく、自分の趣味やキャラと洋服を合わせるべきという提案をしている。
SAFARがこうした提案ができるのは、SAFARIの読者層が自分たちの趣味やキャラが何かを知っているからだ。難点は彼らが考える趣味が車とかサーフィンだったりするところなのだが、コンセプトは応用できる。例えば撮り鉄ならば機能的で動きやすいジャケットスタイルが必然になる。靴は動きやすいスニーカーだろう。これは同年代には真似ができない。耽溺する趣味がないというのが普通だからである。つまり、オタクはファッションに親和性が高いのである。
一方で趣味に耽溺するために服自体はシンプルにするというファッションスタイルもある。最近ではノームコアという名前までついているが、ジョルジョ・アルマーニなども自分の服はシンプルだ。アニメファンは自分の好きな世界に耽溺したいと考えるかもしれない。趣味とファッションを合わせると自身のキャラと乖離してしまう。だから、ファッションはシンプルな方がよいかもしれない。
さて「お店でいろいろ試せない」とか「服に金をかけたくない」という人にも有利な環境が整っている。中古市場が充実してきているのだ。単に在庫を置いてあるだけという店もあるのだが、セレクトショップ並みに手が入っているところもあり、各種のブランドが比較でき、ズボンの価格も300円くらいからあり1万円もあれば失敗込みでシーズンの服が揃えられるだろう。できるだけ同じような色で太いズボンと細いズボン、大きめの上着と小さめの上着を試せば一通りバランスのチェックはできる。
このように見て行くとオタクは実はファッションが得意であるということがわかる。キャラやすきなことが明確にあり、分類やパターン認識が得意だからだ。
 
 
 

刺青とタトゥー – 伝播と歴史

NHKで海外からの観光客の呼び込みについてのプレゼンテーションを見た。その中に、銭湯でタトゥーが入っている人たちを一律に排除するという話が出てきた。観光客が来ただけでこれだけ大騒ぎになるのだから、移民の受け入れなんか絶対に無理だろうなあと思った。
その中にオセアニアの女性が顔の刺青で差別されたという話が出てきた。その民族の間ではタトゥーには家紋としての役割りがあるそうだ。こうした伝統は太平洋沿岸に広がっており、かつての日本も例外ではなかった。中国の古い書物には倭人が刺青をしていたという記述があるという。台湾の原住民は今でも刺青が通過儀礼になっており、日本もこうした太平洋世界の一員だったということがわかる。
だが、日本での刺青はその後廃れてしまう。代わりに刑罰として刺青を入れるという伝統が生まれた。太平洋原住民の伝統がなぜ消えたのかはわからないが、刑罰としての刺青には「犯罪者は真っ当な人には戻れない」という意味合いがあり、大衆に対しての抑止力としての効果が期待されたのだろう。
ところがこれはいささか浅はかな考え方だったようだ。犯罪者たちは社会に受け入れてもらえないので、自分たちで集団を作るようになった。社会復帰を許さず犯罪者に差別感情を向けると、犯罪組織が定着してしまうのである。ならずものの集団は刺青を様式化して仲間のシンボルとした。日本人は自分のドメインに関しては真面目なので、刺青の様式は精緻化し芸術の域まで高められることになった。
こうした犯罪者を社会から排除する」という意味合いの刺青は西洋にも見られる。ドイツ人はユダヤ人を収容所に入れる前に番号を書いた刺青をした。家畜に焼印を押すような感覚だったものと思われる。きわめて残虐な行為だ。
だが、西洋の刺青は太平洋経由で持ち込まれた。タトゥーという言葉は太平洋語(もともとは台湾あたりが発祥とされる)由来だ。このように、西洋のタトゥーは冒険や蛮勇の印と考えられている。イギリス王ジョージ五世は日本人に刺青を入れさせたことで知られている。軍人として諸国を訪れたさいの「お土産」と考えられたようだ。ジョージ五世は横須賀でスカジャンを買うような感覚で刺青をいれたのかもしれない。アメリカでも軍人が海外赴任する前に勇気を鼓舞したり、愛国心を確かめるためにタトゥーを入れる伝統があったようである。
このように限定された人たちの間の流行りだったタトゥーが西洋で一般化するようになった経緯はあまりよくわかっていないようだが、一時の流行ではなく定着しており、アメリカでは5人に1人が刺青をしているという調査もあるそうだ。
思い浮かぶのはサッカー選手だ。もともと下層階級のスポーツだったサッカーが世界に広まる過程でタトゥーも広がったものと考えられる。今ではベッカムのような白人や日本人の間にも広まっている。ベッカムがファッションアイコンになる過程で若者にも影響を与えている。
日本の銭湯や地方自治体が刺青を一律に禁止するのは、個人で責任を負いたくないからだろう。「〜ということになっている」とすれば、個人の責任が減免されると考えるのだろう。確かに犯罪者の印である刺青の入った人たちが集まれば、普通の人たちは怖がって入らなくなるだろう。だが実際には刺青は多様化しているので一律にルールを作って解決することはできない。
これを解決するためには「担当者に権限を与えて現場で判断させる」必要があるのだが、権限移譲して責任を持たせるのは日本人が苦手とする作業である。現場の判断は「仕事を楽にする」ほうに働きがちで、現場の風紀の緩みや安全性の低下につながる。これは日本人が成果を末端の構成員には渡さないので、組織の責任を果たそうという気持ちが生まれにくいからだろう。日本人は自分のドメイン以外のことには極めて無関心なのだ。
だが、タトゥーと刺青が区別されないのも当然のことである。各地の歴史は結ばれており、複雑に反響し合いながら変化し続けている。太平洋の文化が西洋に広まり、日本の犯罪者組織の間で芸術の域にまで高められた刺青はイギリスの王様に影響を与える。それがサッカー選手を通じて日本に逆輸入されるという事態になっている。もう一つのルールだけで全てを規定することはできないのである。

なぜ日本の政治は歌舞伎化してしまったのか

さて、先日来政治の演劇化について考えている。
アメリカでは、現状を打破してくれそうなトランプ候補に人気が集まった。プロレスやリアリティーショウで大衆の心を煽る手法を身につけたトランプ候補は当初「政治でなくリアリティーショウ」などと揶揄されていたわけだが、実際には、実際の政治は信頼できないと考える有権者を掘り起こし、従来の誠治参加層を離反させた。念入りに作り込まれたドラマが忌避されてリアリティーショウに人気が集まるのに似ている。旧来からのテレビの視聴者は離れてしまう。
一方、日本の政治は歌舞伎化している。実際には外国の状況や衰退してゆく人口動態に振り回されているだけなのだが、自民党は力強い統治者を演じ民進党がそれに反対するという図式である。問題解決ではなくテレビが入った時にいかに悲壮な顔をして反対して見せられるかというのが、野党政治家の一番の腕の見せ所になっている。問題解決は出来ないが、何か問題提起をしてそれがテレビニュースに乗れば一躍「朝生討論会」メンバー入りである。政治家はひな壇芸人化しているわけで、政治のバラエティー化と言える。
両国の現状は、政治が普段の生活から遊離してしまっていることを意味している。
アメリカの場合はそれでも選挙キャンペーンに有権者が参加することができる。有権者は対話を通じて目の前の問題について学ぶことになる。一方日本にも自分たちの問題に目を向けるチャンスはある。こうした問題は地域の自治会などで取り扱われている。自治会が扱う問題は国の規制の問題に行き着く。つまり地域と国は連動しているのだ。
これとは別に住民相談室を作っている地域政党もあり一定の支持者がいる。たいていの場合には「消費者のネットワーク」が母体になっているようだ。
しかしながら、自治会や消費者組織は一般化することがない。いろいろな問題がある。
第一に日本人の有権者が消費者化している。日本の政治はもともとは臣民型と呼ばれていたそうだが、アメリカに解体された。その後、紆余曲折を経て有権者は税金を払ってサービスを受益する消費者になった。これは皮肉な例えでもなんでもなく、市役所などでは有権者のことを「お客様」と呼ぶことがある。
もともと自民党は地域の生産者団体を組織してできている。地域生産者とは農家や地域の中傷零細企業だ。もともと政治は生産と結びついていた。しかし、長い歴史の中で有権者は生産者ではなくなり、ついには正規従業員でもなくなりつつある。それを受け入れる政治団体はないので、国民の政治離れが進むのである。
非生産者が政治に参入しないのはどうしてなのだろうか。
バブルを知っているくらいの世代の人たちは、左翼がもっと暴力的だった時のことを知っている。大学にはアジトがあり、普通の学生は「政治とは過激なものだから近づいてはいけない」ということを学ぶ。彼らは勉強もしないで7年間も闘争するドロップアウトであった。普通の知識人(といっても都心の大学生くらいのレベルだが)にとっては、政治はテレビで見るものであり参加する(といっても角棒を持ってデモに参加することだが)ものではないのだ。
自治会に入るのも敷居が高い。地域には「仕切り屋」がいる。仕切り屋たちにはいろいろな流儀があり、それ以外のやり方は許容しない。日本人は村落を作って落ち着くのを好むので、多様性を受容するのに慣れていないのだ。地域の中には退職前の職業が違うために、やり方が合わないという人たちが必ずいる。こうしたところに新規参入者が入ると大変なことが起こる。「どちらの味方になるのか」ということになってしまうのだ。
バブル期の大学のアジトと自治会は違っているように思えるのだが、実際には多様性を許容しないという点では似通ったところがある。違いは血の気の多さくらいだ。大学のアジトは闘争を繰り返し、小さな集団に分裂した。これは決め方を闘争によって決めようとしたからだ。国会が「プロレス」だとしたらこちらはストリートファイトのようなもので、実際に死人も出ている。
自治会の場合は気軽に引っ越せないので、そのまま耐え忍ぶしかない。集合住宅の中には「お金で解決する」人たちもいる。管理会社が自治会に入り、居住者は管理費を払うという形式だ。これは自治会が単なる「お掃除当番」だと見なされているからである。
日本の地域政治に消費者団体と自治会組織の二本立てになっているのは、お母さんが政治参加しようとしても自治会では主役になれないからだ。「お前は世の中のことは何もわかっていない」と決めつけられてしまうので、消費者団体などに避難してしまうのだ。
政党も自治組織や消費者組織を活かし切れているとは言えない。政治家は「仕切りたがる」人たちなので、こうした団体を自分たちのファンクラブだとしか考えていないからだ。そのため、独自の候補者を立てない消費者団体(現在では高齢化の問題に対処いている人たちも多い)は各所からくる応援要請を「どれにしようかな」と選び、付かず離れずの態度を取ることがある。取り込まれてしまうのを恐れているのだろう。実際に話を聞いてみるとその態度はかなり冷ややかである。
地域の団体は生存を危機にさらすような闘争を避け、ニッチを獲得するとそこで場を支配したがる。素人の「政治家」は人を利用して自分の利益を追求しようというずるさを持たないので、たいてい協力者がいない。
まとめると、日本では多様性のなさとリーダーシップの欠如から政治の演劇化が進んでいるものと思われる。これが政治の演劇化を加速しているのではないかと考えられる。

萩生田さんの「田舎のプロレス」発言について考える

萩生田さんというオルトライトな国会議員が野党の対応を「田舎のプロレスだ」といったことが話題になっている。テレビとしては「国会を軽視している」という批判があるという伝え方になっているようだ。しかし、この発言にはいろいろと考えるべきところがある。なぜならば、トランプ大統領の誕生を見てもわかるように、政治は明らかに演劇化しているからである。
第一にプロレスとは何だろうか。レスリングは格闘技だがプロレスは格闘技が興行化したものである。このサイトによると日本のプロレスの始まりは、日本人が強そうに見える外国人を打ちのめすという形で発展したとのことである。初期のスターは力道山だが、彼が実は日本人ではないということは厳重に隠蔽されていた。Wikipediaには力道山が国籍の壁から相撲で大関になれずに廃業したという説が紹介されている。つまり、初期のプロレスは相撲のまがい物だと考えられており「まともな人」は参加できなかったのだろう。だが、そうした事情とは関係なくプロレスは大衆には人気があった。プロレスを見ている間だけは日本がアメリカに負けたという事実を忘れることができたからである。
プロレスには正義と悪という明確な構造があり、苦難の末正義が悪を倒すという物語が提供される。この外国人対日本人という形はかなりのちの時代まで受け継がれた末、解体されていった。日本人が直接外国人と触れる機会が増え、外国人が脅威であるというのが実は間違った情報だということが認知されるようになったからかもしれない。
多くの芸能がそうであるように伝統的な形のプロレスも地方では保存されているようだ。中央のプロレスがスポーツ化してしまったのと対照的に、ヒーローが悪を倒すという形の「田舎のプロレス」を見ることができる。萩生田さんは八王子(まあ、十分田舎だと思うが……)出身なので、地方にそれぞれの豊かな文化があるということを知らないのだろう。
さて、プロレスは興行であり演劇であるなどというと、多くのプロレスファンは憤りを覚えるのではないだろうか。あるいは、このように言われても公然とは反論しないかもしれない。それはプロレスが普通の演劇とは違い、常に大怪我の危険があるからである。体を鍛えていないと成り立たないのだ。その意味ではプロレスは演劇でありながら真剣勝負であるという側面を持つ。
プロレスは真剣勝負ではあるのだが、相撲的な伝統も持っていた。炭水化物が多そうなちゃんこ鍋を食べて体を大きくしたというような伝統があったようだ。船木誠勝は当初相撲的な体をしていたが、食生活を改善して筋肉を大きくしようとしたというような話を記憶している。(船木誠勝のハイブリッド肉体改造法)パンクラスはのちにプロレスというカテゴリーを離脱し「総合格闘技」を名乗るようになった。
さて、萩生田さんはなぜ国会をプロレスに見立てたのだろうか。それは国会の構成が固定されていて自民党が提案したことは基本的になんでも通ってしまうからである。英語ではこうした形式的なやりとりを「リチュアル」という。日本語に訳すると「儀式」という意味だ。日本の民主主義は単に国会で何時間議論したら「熟議を尽くした」ということになるという意味では単なる儀式になっている。
そこでこうした決まったやりとりを「プロレス」だと言ったのだろうが力道山が必ずシャープ兄弟に買っていたのははるか昔の話である。あらかじめ勝敗が決まっているという意味ではプロレス的だが、国会の議論には政治的な犠牲はない。つまり、与野党の議員たちは体を張っていないわけでプロレスとは基本的に異なる構造を持っているといえる。さらに、現在の地方のプロレスのように明確な正義と悪という構造を持っているわけでもない。また、八王子以上に都会的な地域はいくつもあり「田舎の」というのを三流のと考えるのも間違っている。
だから、萩生田さんの比喩はいろいろな意味でおかしいのだが、そもそもオルトライトとはそういうものなのだろうし、彼らの考える民主主義感もデタラメなのだろうなあというくらいの感想しかない。
どちらかといえば今の国会は歌舞伎に近い。歌舞伎には予め筋書きがあり、それを盛り立てるための行動様式も「型」として保存されている。国会議員たちはできるだけ自分たちが真剣に戦っているかのように行動する必要があり、型の正確な踏襲が求められる。
野党の国会議員たちは、反対しているという見栄を切っている。実際には負けることがわかっているので、反対は単なるポーズである。役者が見栄を切ると贔屓筋が決まった声がけをするというのも歌舞伎の特徴だ。これは支援者たちの声であるといえる。
国会議員が批判されるとしたら、歌舞伎役者ほど真剣に型を演じないことだろう。そのため、新規の客がつかない。
例えば、トランプ劇場は、日本の昔のプロレスに似ている。荒くれ者の主役が「多様性」とか「政治的正しさ」という敵をぶっ潰す物語だ。背景には現実世界では決してこういう大義名分には勝てないという事情があり、フィクションの世界で勝利するしかなかったのだ。しかし、皮肉なことにこの演劇が現実を凌駕することになった。
一方、日本の野党の攻撃は歌舞伎的であり、決してフィクションの枠をでない。多分、基本的なラインで既得権益層の代表なので、現実を崩すところまではいかない。真剣に歌舞伎をやりすぎて、新しい熱狂的なファンがつくのを避けているのだろう。それは現実を崩す危険性があるからだ。

男性向けファッション雑誌の動向

このところ、男性向けファッションについて調べている。ネットでも情報が集められるわけだが、やはり雑誌だろうと思った。
そこでどの雑誌が売れているのかと思い情報を調べた。情報はすぐに見つかった。雑誌の売れ筋をまとめている人がいるのだ。このまとめによると、最近最も売れている雑誌はSafariらしい。2008年には50000部しか出ていなかったが、最近では20万部近くにまで増えている。一方、若いころに有名だったMen’s Non-noは以前は20万部以上の売り上げを誇っていたが、13万部を割り込んでいる。ラグジュアリ系のLeonは1万部程度増やして8万部近辺を推移している。

Men’s Non-noはなぜ落ち込んだのか

この中でMen’s Non-noの購読者は落ち込んでいる。なぜ落ち込んだのか、いくつかの仮説が立てられる。一つ目の仮説は雑誌が読まれなくなっているのというものだが、Safariは伸びているので必ずしもそうではなさそうだ。次の仮説は若者にはお金がないか、ファッションに興味がないのだという仮説である。必ずしも否定はできないが、実際には「別の経路で情報を得ているから」という仮も立てられる。たとえばWEARなどがアプリで情報発信をしている。こうした情報媒体を使えば無料でいくらでもファッション情報を得ることができる。最後にまだ仮説が発見できていないという可能性もある。

既存の情報経路の再利用で生き残るSarafi

もともとファッションはデパートが紹介した流行を大衆が模倣するという方法で日本に紹介されていた。そのもとになったは海外のセレブたちの流行を海外の仕立屋が形にしたものだ。そのうち、映画を使って流行が作られるようになった。日本のテレビが海外のスタイルを輸入して日本人のスターに着せてから日本に広めるという方法も取られた。総括すると、海外のコミュニティの憧れのライフスタイルを輸入するというのがファッションなのだ。
Safariはこの伝統をうまく使っているのではないかと考えられる。違いは、情報を直接仕入れているというところだ。また、Safariの読者層は過去の習慣から雑誌で情報を取るという経験が残っており、スマホでの効率的な情報収集に慣れていないという可能性も高い。

そもそもファッション雑誌はどれくらいの地位を占めているのか

ファッション情報の入手経路を調べた調査はそれほど多くない。ネットではインターネットで女性に調査したレポートが出回っている。この調査によると依然30%弱が情報収集のために雑誌を購読しているようで、雑誌の地位が落ちているとは言い切れない。しかし、購入の際には何を参考にするかという別の調査によると「ネット」という回答が返ってくるそうだ。普段は漠然と情報収集をしており、買うときにはネットで吟味するという方法がとられていることになる。ただし、こちらはOLに対する調査であり、すべての購買者向けの調査ではない。Safariが健闘しているという点を考慮に入れると「雑誌が滅びた」というのは間違った見方かもしれない。ただ、雑誌が「購買」というのとは別の目的で読まれている可能性はある。

ものへの関心は薄れているかもしれない

一方で面白い視点もある。LINE世代という人たちを研究した結果である。この調査によると、ファッションへの関心は高いものの、洋服に対して興味があるというわけではなく、経験をするための小道具として洋服が利用されているという洞察だ。思い出はパーソナライズされた特別なものでなければならないのだから、当然洋服も特別のものである必要があるということになのだが、シーンの一部なのでコードから外れてはいけない。
テレビからも情報を得ているようなので「テレビは死んだ」ということでもないらしい。面白いのは「雑誌には情報の押し付けがある」という意見だが、イヤだったらフォローを外せるSNS世代ならではの感覚だろう。
Men’s Non-noは伝統的なファッション雑誌なので、主役は洋服だ。そのため、体の線が細いモデルたちが大量に採用されている。こうしたモデルたちはどんな洋服でも着こなすが、何枚も洋服を着て体の線を作らないとビジュアルが成立しない。人間性を排除したのがMen’s Non-noなのだ。人気モデルの坂口健太郎は当初はアスリート体型では撮影に呼ばれず10kgほど減量したのだそうだ。
その裏にいるのが洋服が好きなスタイリストである。毎シーズン市場に出回る服をどのように組み合わせようかということに関心があるのだろう。ワードローブを構成するという企画があるのだが、いろいろなアプローチでワードローブを構築しており、熟読するととても楽しい。つまりMen’s Non-noは服好きのために服好きの人が作る雑誌であると定義できる。これを「押し付けだ」と感じる人もいるだろう。

ものを買う動機は多様化している

一方で、情報取得通路は多様化し、洋服を買う動機も多様化しているようである。これが「ファッション雑誌」の相対的な地位の低下に結びついているのではないかと考えることができる。少しあげただけでも様々な動機が考えられ、それぞれ働き掛けが違うことになる。

  • 自分の体のきれいなところを強調する。人間が主役なので洋服そのものはできるだけシンプルな方が良い。
  • 思い出作りの小道具として利用する。できるだけ安くて見栄えがよい方がよい。みんなから外れているのは良くない。ある期待があるので、相手にも同じような規範(モテコード)を求める。女性にとっては男性も小道具なので個性的過ぎるのは良くない。
  • 作られた製品としてのディテールを楽しむ。モノやデザイン志向になる。
  • 贅沢品を見せびらかす。誰でも知っている高級ブランドであることが求められる。
  • チームであることを強調する。洋服よりもコミュニティの方が大切。
  • 憧れの人を模倣する。インスタグラムなどを使って情報を集める。

ネットが台頭してきているからといって、毎日安売りのクーポンメールを送りつけても誰も見てくれないのは仕方がないことなのかもしれない。
この服に埋没してゆく感覚というのはよく理解できる。たとえばデザイン作業をやっていると、色使いやユーザビリティというものが「絶対」のような気がしてくるわけだが、実はそれを排除してみるということが必要になってくるはずなのである。
その意味では「作る人」と「売る人」は分離していた方がよいのかもしれないし、両方を経験すべきなのかもしれない。対象物に近すぎると視点が限られることになるからだ。

政治的な相互依存状態を確認するには

最初に政治的相互依存という概念に気がついたのは軍事アナリストの小川和久さんという人のツイートを見た時だった。ということで、偉大な洞察を与えてくださった小川さんには感謝したい。
さて、日本の防衛政策は行き詰っている。アメリカが国力を維持できず、アジア地域からの暫時撤退を希望しているからだ。安倍首相はアメリカをつなぎとめるために、憲法を無視した安保法案を成立させた。今でも南スーダンに行くのは現地の邦人保護ということになっているそうだが、実際には多国籍軍事活動への参加だ。
ここまで無理をしたのに潮流は変えられず、トランプ大統領時代にはこのトレンドはもっと顕著なものになりそうだ。安倍さんはアメリカにフリーライドして中国に対抗しようとしたわけだが、アメリカ人はその意欲を共有してはくれなかった。
安保法案が一部の国民のアレルギー的な反対にあっている時に小川さんがやったのは2つのことだった。「日本が独自で防衛するととんでもない出費になりますよ」といって国民を恫喝することと「実は日本はアメリカの大阪本社である」という仮想万能感を鼓舞することだ。
これはアメリカ人の実感とは異なっているだろう。第一に日本はキリスト教文化圏に属していないためにヨーロッパのようにアメリカのパートナーにはなりえない。次に沖縄はアメリカの利権であって、日本が協力して提供しているわけではない。最後に兵器の改良や長距離化が進んでいるので、無理をしてまで日本に基地をおく必要は無くなっている。
だからこの「大阪本社論」には小川さんを支持している人たちの気分を少しマシにするくらいの効果しかない。例えていえば朝鮮王朝は「朝鮮は小中華なのだ」と言っているのと同じことである。属国の中でも特別な属国なのだと言っているのだが、清が体調すると最終的には日本に占領されてしまった。
さらに「独自試算」は日米同盟をつなぎとめたい防衛省コミュニティから出てきているようだ。具合の悪いことに日本の軍事費はGDPの1%という低率であり諸外国からは「もっと出してもよいのでは」と言われかねない。現実的に「フリーライド」状態にあるものと考えられる。かといって、防衛省の言い値で軍事費を調達するととんでもない額になりそうだ。これは防衛省に調達能力がなく、防衛産業が寡占だからだろう。ある意味オリンピックに似ている。
考えてみればわかることだが、外国が3%程度の軍事費を使っているのに日本だけが10%などになるとは思えない。よっぽどの買い物下手ということになってしまう。かといって2%になっても、今の2倍のコストとイニシャルコストがかかる。日本は海が広域な上に軍事上の同盟関係を作ってこなかったのでヨーロッパのような集団防衛(もちろんこれは憲法改正が必要なのだが……)ができないのである。
つまり、日本の防衛政策はとても難しい判断を迫られている。
しかし、小川さんたちは新しいスキームを提供しようという努力をしない。その能力がないのだろう。着想はできるかもしれないが、政治的なリーダーシップは発揮し得ない。日米同盟に頼りきりになり、何も準備をしてこなかったからだ。
安倍首相も基本的人権の否定という政治的には無意味なキャンペーンには政治的リソースを使っているが、日米同盟後をどうするかということについては無関心だ。同盟関係の見直しは政権基盤を揺るがしかねないわけで、リスクを避けているのだろう。
代わりに彼らがやっていることは何だろうか。それは、軍事費などには興味がなく、単に「戦争のような汚いことには手を染めたくない」と言っている人たちが繰り出す無知な批判を「科学的な批判ではない」といって逆批判することだけである。不都合な現実には目を背けることができるし、馬鹿な左翼をいじっている時だけは優越感に浸ることができるからである。
つまり、彼らは相互依存状態にあるということになる。新しい提案をし得ない左翼が批判する人たちを必要としているのは明白だが、実は批判される人たちも左翼を必要としているのだ。
だが、自分が依存状態にいるかどうかということは自分ではよくわからないのではないだろうか。これを確かめるためにはなにかを作ってみるとよいのではないかと思う。何かと忙しくなるので、ぴったりと張り付いて批判者を見つけるのに時間を使うのがバカバカしくなる。
つまりは、相互依存は実は不安の裏返しだったということがわかるのである。「建設的な議論をしろ」とは思わないのだが、結局一人ひとりの意識が変わることによってしか状況は動かせない。
と、同時に何かを作るためにはリソースが必要だ。相互依存的な批判合戦と炎上が蔓延するのは、実は創造的な活動に使う時間やお金といった資源が不足しているということなのだろう。

デザイナーが引き出しを増やすためにできる便利なPinterestの使い方

ファッションについて調べている。現在のファッションは定番化と部族化が進んでいる。だから、普通の人がファッションデザインについて調べると、自分の半径500mくらいで「定番」が決まってしまうことになる。だが、たとえば、定番のカジュアル服と言ってもアメリカと日本ではかなり違っているし、日本でもMens Non-noとBitterでは異なっている。だから、選択肢が狭まるのはちょっと危険なことなのかもしれない。
最近、Pinterestの面白い使い方を見つけた。例として作ったのがアバンギャルドというコレクションだ。多分、正式な名前ではないと思う。アバンギャルドには幾つかの特徴がある。

  • 概ねモノトーンである。
  • ドレープを使っていて芯がない。
  • 形はアシンメトリーなものが多い。
  • パンツが太いことが多く、フードを使ったものもある。

アバンギャルドといっても、全く革新的なものではない。もともとは砂漠の遊牧民と着物からインスピレーションを受けているのだろう。つまり「巻きつける系」の衣服を洋服として再アレンジしたものである。最近ではD Squared2が日本をモチーフにしたようなショーを展開したことからわかるようにメインストリームでもちょくちょくと取り入れられている。
さて、ここまでは普通のコレクションなのだが、Pinterestはコレクションから同じような形のものをお勧めしてくれる。タイムラインに表示されたり、メールでのお知らせが来る。ポイントは「最初のキーワード」と違っても、なんとなく似たようなものがレコメンドされると言うことだ。そこからキーワードを拾って行けば、それがそもそも何のコレクションなのか分かるのである。
アバンギャルドと名づけたコレクションは、もともとパリコレに着物のデザインが導入されたことが源流にあるのではないかと思われる。これがSF映画に乗って広まり「未来風の」デザインという印象が生まれたのではないだろうか。