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トランプ大統領と演劇的空間

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NHKの番組に高田延彦が出ていた。トランプ大統領の誕生を予期できなかったマスコミは何を間違えたのかというテーマがあり、制作者たちは、トランプはプロレスから学んだというような仮説を持っているようで、得意げに「プロレスはヒールが物語をコントロールしている」などと言っていた。
演劇の視点からはこの説にはかなりの無理があるように思えた。そもそも西洋の演劇類型は悲劇と喜劇の2つある。悲劇が扱うのは運命なのだが、主人公は最終的に運命に負けてることになる。それ以外の事象を扱うのは全て喜劇である。
実際の神話には、主人公が敵に勝つという物語がある。これも運命に勝つという物語であり、運命対人間という図式には違いがない。悪役というのは主人公が対峙する運命を具現化しているだけなので、受け手の心理的な投影の対象にはなりえない。
人々が演劇に求めるのはカタルシスだ。閉鎖された空間で他人の悲劇的状況を見ることで、普段の生活で抱えている様々な感情を解放するのである。だから、政治が演劇であるという前提そのものに大きな問題がある。有権者は大統領選挙を閉鎖空間の出来事だと捉えていることになってしまうからだ。実際には明日からの生活に影響があるわけで、これは有権者の誤認だと分析されるべきだろう。
いずれにせよ、運命そのものに投影しているということは、つまり物語そのものが解体するのを喜んでいるということになってしまう。するとヒールが破壊しているのは、主人公ではなく物語世界そのものだ。
一つ思い当たるのはアメリカの映画が、運命に打ち勝つだけでなく、主人公が成長することが前提になっているという点だ。だが、アメリカにも成長したくないという人はいるわけで、そういう人たちが成長を否認する演劇世界がプロレスだという仮説が立てられる。プロレスは、成長物語を信じているテレビや新聞が「下に見ている」人たちのための娯楽空間なのだ。
髙田延彦は、演劇の素人たちから「プロレスってヒールが物語をコントロールしてるんですよね」などと言われて、曖昧な笑顔を浮かべていた。プロレスが持っている物語の構造についてきちんと語るべきだったのではないかと思う。と同時に「プロレスはスポーツだ」と思っている人もおり、そのために遠慮があったのかもしれない。あるいは、政治報道のアウトサイダーが「きちんとした場所にお呼ばれした」という意識があったということも考えられる。
オバマは理想を語ったけど、結局成長したのはオバマだけであり、受け手には関係がなかった。であれば、そんな理想が完膚なきまでに破壊されるのを見てカタルシスを得たほうがいいということになる。
橋下徹が「今回の選挙ではインテリが敗退した」と言っている。これはインテリがヒールだという意味なのだと思っていた。だが、トランプ分析を受け入れてしまうと、そもそも政治の持っている物語世界の解体を意識しているのかもしれないと思えてくる。あるいはその闘争自体が、一つの物語かもしれないなどと考えてしまうと、構造は無限に複雑化する。
本来考えたかったのは、受け手はどうやってヒールとベビーフェイスを分けているのかということだ。例えば小池劇場では、内田さんがヒールであり、小池百合子はベビーフェイスである。しかし、国政では安倍晋三がベビーフェイスであり、蓮舫がヒールになっている。
蓮舫代表はベビーフェイス顔なのだが、きつすぎてヒール顔になってしまった。だが、構造がわからないので何がヒールを決めているのかが分析できない。その上、受け手が物語の解体そのものを願うようになると、もはや誰がヒールなのかという分析そのものが無効化するだろう。
何が物語の解体を望むのか(言い換えれば日本人はなぜ物語の崩壊を望まないのか)という点についても「よくわからない」としか言いようがない。スケールとしては日本が一番進んでいるように思える。正義と悪の対立が民主主義とは切断していて自民党の内部構造が担っている(例えば、小池百合子は自民党員だ)からだ。アメリカがこの中間にあり、もっとも遅れているのは韓国だ。正義の味方が現れては、堕落して消えてゆくという悲劇を延々と繰り返している。これは韓国に民主主義の歴史がほとんどないからだろう。ただ、このスケールだと一番進んでいる国は中国だということになる。共産党王朝なので民主主義が介在する余地が革命しかない。
しかし、物語の解体には持続性がないのだから、プロレスが興行としてヒールがベビーフェイスを破壊するという構造が永続するとは思えない。これは興行としては成り立たないわけで、ヒールがぶつかるというのは余興であるか、ベビーフェイスが勝つための途中経過なのではないかと考えられるべきなのではないだろうか。高田さんにはそのあたりを解説していただきたかった。
もちろん、政治を興行として扱うことはあまりにも不謹慎だ。政治は困っている人を助けたりして実感を取り戻すべきであるなどと書きたいのは山々なのだが、それが信じられない程度には政治家は堕落している。