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萩生田さんの「田舎のプロレス」発言について考える

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萩生田さんというオルトライトな国会議員が野党の対応を「田舎のプロレスだ」といったことが話題になっている。テレビとしては「国会を軽視している」という批判があるという伝え方になっているようだ。しかし、この発言にはいろいろと考えるべきところがある。なぜならば、トランプ大統領の誕生を見てもわかるように、政治は明らかに演劇化しているからである。
第一にプロレスとは何だろうか。レスリングは格闘技だがプロレスは格闘技が興行化したものである。このサイトによると日本のプロレスの始まりは、日本人が強そうに見える外国人を打ちのめすという形で発展したとのことである。初期のスターは力道山だが、彼が実は日本人ではないということは厳重に隠蔽されていた。Wikipediaには力道山が国籍の壁から相撲で大関になれずに廃業したという説が紹介されている。つまり、初期のプロレスは相撲のまがい物だと考えられており「まともな人」は参加できなかったのだろう。だが、そうした事情とは関係なくプロレスは大衆には人気があった。プロレスを見ている間だけは日本がアメリカに負けたという事実を忘れることができたからである。
プロレスには正義と悪という明確な構造があり、苦難の末正義が悪を倒すという物語が提供される。この外国人対日本人という形はかなりのちの時代まで受け継がれた末、解体されていった。日本人が直接外国人と触れる機会が増え、外国人が脅威であるというのが実は間違った情報だということが認知されるようになったからかもしれない。
多くの芸能がそうであるように伝統的な形のプロレスも地方では保存されているようだ。中央のプロレスがスポーツ化してしまったのと対照的に、ヒーローが悪を倒すという形の「田舎のプロレス」を見ることができる。萩生田さんは八王子(まあ、十分田舎だと思うが……)出身なので、地方にそれぞれの豊かな文化があるということを知らないのだろう。
さて、プロレスは興行であり演劇であるなどというと、多くのプロレスファンは憤りを覚えるのではないだろうか。あるいは、このように言われても公然とは反論しないかもしれない。それはプロレスが普通の演劇とは違い、常に大怪我の危険があるからである。体を鍛えていないと成り立たないのだ。その意味ではプロレスは演劇でありながら真剣勝負であるという側面を持つ。
プロレスは真剣勝負ではあるのだが、相撲的な伝統も持っていた。炭水化物が多そうなちゃんこ鍋を食べて体を大きくしたというような伝統があったようだ。船木誠勝は当初相撲的な体をしていたが、食生活を改善して筋肉を大きくしようとしたというような話を記憶している。(船木誠勝のハイブリッド肉体改造法)パンクラスはのちにプロレスというカテゴリーを離脱し「総合格闘技」を名乗るようになった。
さて、萩生田さんはなぜ国会をプロレスに見立てたのだろうか。それは国会の構成が固定されていて自民党が提案したことは基本的になんでも通ってしまうからである。英語ではこうした形式的なやりとりを「リチュアル」という。日本語に訳すると「儀式」という意味だ。日本の民主主義は単に国会で何時間議論したら「熟議を尽くした」ということになるという意味では単なる儀式になっている。
そこでこうした決まったやりとりを「プロレス」だと言ったのだろうが力道山が必ずシャープ兄弟に買っていたのははるか昔の話である。あらかじめ勝敗が決まっているという意味ではプロレス的だが、国会の議論には政治的な犠牲はない。つまり、与野党の議員たちは体を張っていないわけでプロレスとは基本的に異なる構造を持っているといえる。さらに、現在の地方のプロレスのように明確な正義と悪という構造を持っているわけでもない。また、八王子以上に都会的な地域はいくつもあり「田舎の」というのを三流のと考えるのも間違っている。
だから、萩生田さんの比喩はいろいろな意味でおかしいのだが、そもそもオルトライトとはそういうものなのだろうし、彼らの考える民主主義感もデタラメなのだろうなあというくらいの感想しかない。
どちらかといえば今の国会は歌舞伎に近い。歌舞伎には予め筋書きがあり、それを盛り立てるための行動様式も「型」として保存されている。国会議員たちはできるだけ自分たちが真剣に戦っているかのように行動する必要があり、型の正確な踏襲が求められる。
野党の国会議員たちは、反対しているという見栄を切っている。実際には負けることがわかっているので、反対は単なるポーズである。役者が見栄を切ると贔屓筋が決まった声がけをするというのも歌舞伎の特徴だ。これは支援者たちの声であるといえる。
国会議員が批判されるとしたら、歌舞伎役者ほど真剣に型を演じないことだろう。そのため、新規の客がつかない。
例えば、トランプ劇場は、日本の昔のプロレスに似ている。荒くれ者の主役が「多様性」とか「政治的正しさ」という敵をぶっ潰す物語だ。背景には現実世界では決してこういう大義名分には勝てないという事情があり、フィクションの世界で勝利するしかなかったのだ。しかし、皮肉なことにこの演劇が現実を凌駕することになった。
一方、日本の野党の攻撃は歌舞伎的であり、決してフィクションの枠をでない。多分、基本的なラインで既得権益層の代表なので、現実を崩すところまではいかない。真剣に歌舞伎をやりすぎて、新しい熱狂的なファンがつくのを避けているのだろう。それは現実を崩す危険性があるからだ。