相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。

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メールでのご質問 – 公共と過剰適応について

メールで質問をいただいたので、ここに返信を書きたい。

引用の許可を取ればいいのかもしれないのだが、著作権の関係があり質問の全文引用して書けないので却って誤解が生じる可能性がある。今後ご質問はできればコメント欄にお願いしたい。コメント欄は公開されている上に後で編集が可能なので、ご自身で著作物(つまり質問)をしていただきたいからだ。許可を取ってメールの内容を載せたとしても「あとで書き直したい」とか「撤回したい」ということになるかもしれない。

ご質問の内容は二つ。日本人には公共空間を作るつもりがないというのはどういう意味かというものと、過剰適応とゲーム産業の関係である。

第一に「日本人は公共空間を作るつもりがない」についてである。主語を日本人にすると「日本人は議論をする資質がない」とやや自虐的に捉える方が多いというのは意識して書いているつもりなのだが、やはりそこから抜けるのは難しいのかもしれないと思った。

日本人にはそもそも公共という概念が存在しないと考えている。だが、この日本人はかなり限定的に使われている。経験上、英語圏での海外生活を経験している人は公共空間とか社会という概念が理解できる。例えばエンジニアのように英語が専門でない人でも英語圏で働くと簡単にこうした概念を理解するようだ。

例えば、英語で行われる授業で先生が何かを発言したとする。すると、誰かが手を上げて今回の授業に関係がありそうな情報を加えたり考えを述べたりする。これを「授業に貢献する」という。授業の貢献は成績に加算される。ただ聞いているだけでは「授業に参加していない」ことになり貢献点がつかない。授業はみんなで作り出してゆくというのが英語圏のやり方であり、アメリカなどでは高校レベルでもこうしたことが行われているようだ。こうして「みんなで作ってゆく」のが、社会であり公共空間である。こうした考え方は職場にも引き継がれる。

日本人は社会的なルールには素直に従うので、あらかじめこうした空間ができていれば簡単に公共概念を理解する。わざわざ海外留学や海外赴任をしなくても、公共を理解している日本人はたくさんいるのだ。例えば登山をすると下山してきた人に挨拶をされることがあり応えるのがマナーになっている。登山は多分ドイツやオーストリア辺りを発祥とする若者に人気のアクティビティだったのでその名残が残っているのだろう。つまり、登山愛好家は「みんなで山の雰囲気を作ろう」という気分があり、ゴミを拾ったりお互いに挨拶をするという習慣があることになる。同じように海外と接触したサッカー愛好家もゴミを拾って帰る。これも公共空間をみんなで守ろうという意識の表れである。つまり、こうした人たちは西洋と接触しているがゆえに公共という概念を理解していることになる。

だが、見たことがない人にはこうした公共という概念が理解できない。例えば自民党の憲法草案でいう「公」というのは、すなわち「ズベコベ言わずに国のいうことを聞け」という意味であり、その国とはすなわち国会議員のことだ。ある人は国にあれこれ言われるのは嫌だといい、別の人はみんなに異議を申し立てるとは迷惑な存在だと言う。知らず知らずのうちに公共を「誰かの空間」と認識し、その上で「誰の声が一番大大きいか」ということを瞬時に計算してしまうのである。

しかし、これはアメリカ人が優れている言う意味ではないし、日本人が劣っているという意味でもない。しかし、日本人が作る独特の社会には名前がないので、このブログでは、所有権や上下関係など諸々の属性を含めて「村落」と呼んでいる。社会学にはもっと別の良い呼び名があるかもしれない。

日本のスーパーマーケットで子供ににこりと笑ったり、コンビニでドアを開けてあげたりすると睨まれることがある。特に女性にこうした傾向が強い。多分「私に関わらないでよ」という気持ちが強いのではないかと思われる。日本には公共がないので外で出会う人は全て単なる他人でしかない。ゆえに他人同士で協力することもない。ただ、現行憲法が公共とか社会という概念を取り入れてしまったために、左派リベラルの中には公共とは国の行政サービスのことなのだと考える人もいる。

ある人は公共をお互いに参加して作り上げる社会だと捉え、別の人は誰かの所有物だと考える。そして、また別の人は公共を国の行政サービスだと捉えるわけである。

メールの内容を公開してもよければ貼り付けたいのだが、この後質問にはかなり様々な要素が整理されないままで入り込んできているように思える。そこに至る前にまず「公共」をどう理解しているのかということを整理した上で、提示してみるべきなのではと思う。

常々、外国の文化と接していない日本人が「公益」や「公共」を理解しているのかということが知りたいと考えているのだが、意外と「当たり前」と考えていることを言葉にするのは難しいのではないだろうか。この辺りはご協力いただける方がいらっしゃったらコメント欄にでもお考えを残しておいていただきたい。


ゲームに関しては、書いていることはほぼ当たっていると思う。かつてゲームのマーケティングをやっていたことがあるのだが、この時にすでにメールにあるような議論があった。当時の日本のゲーム業界はコンソールゲームが主流でPCゲームは日本では「洋ゲー好きの物好きしかやらない」となっており、携帯ゲームは「低スペックのかわいそうな」存在であった。

ただ洋ゲーのオンラインゲームを担当している人たちは顧客と接点があったので(オンラインゲームではイベントなどを仕掛ける必要がある)こうしたことが起こるのはあらかじめわかっていたようだ。

コンソールゲームの人たちはPRをコミュニティに頼っていた。日本にはゲーム雑誌が一つしかないので、そこのPRスケジュールが優先され、そこから逆算してオンラインの情報解禁日などを決めていた。ゲーム雑誌がランキングを発表しそれにファンが従うという構図があったのである。このため「過剰適応」が起きており、売り上げを広げることができなかった。「洋ゲー=クソゲー」という構図がありそれが固定化されていた。さらにライトゲームユーザーはゲームユーザーですらない完全に取り残された存在だった。彼らはそもそもゲーム雑誌などを読まないからである。

ということで、多分「過剰適応」にはマーケティング的な名前が付いているはずなのだが、今回は見つけることができなかった。

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村落共同体の視過剰適応と政党の「新規顧客獲得」作戦

これまで、日本の村落的な共同体が「顧客」や後継者を失い過疎化する仕組みを観察してきた。

日本の共同体が衰退する様子を見ていると「村的な」性質が観察できることが多い。

例えば大相撲は改革を握りつぶすことで閉鎖的な暴力制度が温存されることになり、これから新弟子やファンを失ってゆく未来が確定した。今は貴乃花問題が世間の注目を集めているのだが、実は可愛がりのような問題は全く解決できていない。普通の人は努力の成果が透明かつ公正に評価されるスポーツを選ぶはずなので、例えば野球やサッカーというような近代的なスポーツを選択するだろう。柔道などはスポーツ化が進んでおり不完全とはいえパワハラなどにも自浄作用が働きつつある。相撲はこれを拒絶する道を選んだのである。

相撲が衰退するメカニズムはわかりにくいのだがネトウヨ雑誌はもう少しわかりやすい形でこの衰退メカニズムを見せてくれる。

新潮45はもともと購読者数の減少に悩んでいた。彼らは「買ってくれるかどうかわからない」人よりも熱烈に雑誌を応援してくれる人たちを見つけて自滅した。これを「過剰適応」と呼ぶことにする。過剰適応とは、一部の声の大きい人を全体と錯誤して自滅する現象である。今回は社会の規範と正面衝突してしまっために急遽休刊となったわけだが、そうならなければ過激化しつつ購読者を失っていったはずである。あのようなめちゃくちゃな「論文」が掲載されている雑誌を進んで買おうなどという人はよっぽどの物好きか判断能力がない人だけだろう。しかし、内部の感覚は違っていたのではないだろうか。つまり、小川栄太郎「論文」がバズってしまい在庫が捌けてしまったために「この線で行けばもっと購読者が増えるのではないか」と誤認した可能性が高い。

その前にも「ネトウヨに訴求すれば受ける」という成功体験があったはずである。彼らがどこからその成功体験を得たのかはわからない。現在の宮本太一が編集長になったのは2008年だそうだ。これは民主党政権ができる1年前である。この頃のTVタックルを覚えている人たちは自民党流の公共工事が悪し様に言われていたのを記憶しているはずだ。既存の価値観が叩かれるとそれについて行けない人たちが出てくる。彼らはお金を払ってでも自分たちの感覚を慰撫してくれるようなメディアを求めるのではないだろうか。

いっけん勝利したかのように見えるネトウヨだが、実は商売流行りにくくなっているはずだ。安倍政権の出現でルサンチマンが解消されてしまえば、お金を払ってまでネトウヨ雑誌を買う必要はなくなる。習慣で買っている人が高齢化で徐々にいなくなり購読者が減っていったと考えれば購読が少なくなっていた説明はつく。

同じことがリベラルにも言える。現在は「左派リベラル的な雑誌」の購読者がピークの可能性がある。現在、選挙に負け続けている彼らは否定されているような気分になっているはずで、彼らを慰撫してくれるようなメディアが必要だからである。彼らが反応するのは昔ながらの「金儲けはいけないことだ」「戦争は悲惨だ」という価値観である。これが「成長なんかしなくてもいいから、みんなで仲良く貧乏になろう」という主張として展開されている。リテラなどがその好例だ。心が豊かなら貧しくても良いではないかという主張は高度経済成長を知っている高齢者には受け入れられるかもしれないが、現役世代は「いやいや待ってくれ」と思うのではないだろうか。

だが、彼らはそれに気がつかないだろう。左派リベラルに反応してくれる人は「憲法について議論したら自動的にアメリカの戦争に加担して地球の裏側に子供が徴兵される」というような、いわば「純化」された人たちだけである。彼らの声は大きいので、左派リベラルはこうした声に応えて過剰適応する。すると、それ以外の人は静かに退出していってしまうのだ。

ある一つの主張にコミットした雑誌や政治的な運動はレスポンスの良い人たちの反応を取ることはできても、静かに離反してくれる人や顧客になってくれていない人たちの声はすくい取れないことがわかる。これが過剰適応の罠である。マーケティングでは非顧客と呼ぶ。すでに一定顧客がいる人たちも、そうでない人たちもこのうちの「第三グループ(tier3)」と呼ばれる顧客を獲得する必要がある。

だが、この非顧客を発見するのは難しい。非顧客は積極的に働きかけてこないからである。過剰適応でなくても働きかけてくる潜在顧客から拡大のヒントをもらうのは難しい。例えばこのブログにコメント欄を作った時には「レスポンスを参考にしつつ紙面を構成しよう」というような淡い期待をしていた。しかし、これが甘い目論見であると気がつくまでさほど時間はかからなかった。

これにはいくつかの複合的な理由がある。第一に読者は忙しいのでわざわざ他人の書いたものにコメントしない。これは自分で読んでみてわかる。他人の文章について「ふーん」と思うことはあっても、いちいち感想など書いたりしないことが多いからだ。

さらに、ブログは他人の庭のようなものなので自分の意見をいうのがはばかられるという事情もあるのではないだろうか。一方で準公共空間になっているYahoo!には遠慮を知らない人たちが一方的なコメントを寄せるのが常である。日本人にはあまり「一緒に公共空間を作って行こう」という気持ちがないことがわかる。所有権とヘゲモニーを意識しているのではないかと感じる。日本人の意識には「他人の村」か「自分の村として戦力できるか」の二者択一しかない。これを批判することはたやすいが批判したとしても状況は変わらない。

さらに、この関門を突破してたとしても主観という壁が残る。ブログにもたまに反応を寄せてくださる人がいらっしゃるのだが、たいていはセルフレコグニションか承認を求めているようである。良し悪しは別にして日本人は対象ではなく関係性に強く反応してしまうので、これは避けられないのではないかと思う。対象物について議論するのではなく、ついつい人間同士の関係構築に興味が移ってしまうのだろう。

しかし、かといって情報が何も取れないというわけでもない。「個人としての日本人」はあてにはできないが、集団としての日本人はかなり統制された行動をとる。つまり、統計はかなり世論を反映するのである。

例えば、あるニュースが盛り上がると過去記事の閲覧が増える傾向にある。期待されている答えがないと0秒で離脱されてしまうのだがそうでない場合もある。これを見ているとある程度「どんなニュースにどれくらい価値があるのか」がわかる。誰かが指揮者として指示をしているわけでもないのに自然とそうなるのだ。例えば貴乃花親方の問題は今関心を集めているが、小池百合子と豊洲の問題には「引き」がない。

豊洲の問題が再び注目を集めるのは移転して戻れなくなった上で何か事故が起きた時であろう。解決できそうもない問題が出てくると日本人は誰かの首を取りたがる。誰かの首を取ることで問題解決に代替えするのである。現在小池都知事が最終責任者であるという「仕込み」が行われており、問題が起きた時にこのフッテージが繰り返し流されることになるだろう。汚水と思われる水が上がってきているYouTubeのショッキングな映像もあるが、これもほとんど閲覧されていない。ただ、これも無駄とは言えないだろう。小池都知事が問題を抱えた時、このフッテージの所有者に取材依頼が殺到するはずである。そして、その兆候は閲覧数などに現れるはずである。

もし、新規の支持者を獲得したいなら、ある程度記事の傾向をバラした上で様々な再度コンテンツを作ってみると良いと思う。さらに「今引きがない」からといって将来的にも情報価値がないということにはならない。

ただ、こうしたコンテンツをバラバラに持っていても分析はできない。だから、一箇所に集めておく必要がある。例えば左派政党が支持を集めるためにはいろいろな問題に注目して記事を書き、これを一箇所に集めておけば良い。普段から貯金しておけばそれだけ「当たる確率」は増えるはずである。

現在の政党の問題は個人商店のようになっているという点であろう。議員一人ひとりが支持者を獲得してそれを政党に持寄る仕組みになっている。特に民主党系の政党は社会党と自民党ハト派の寄り合い所帯担っているはずなのでこの傾向が強いはずだ。そうしたやり方をしているうちは、左派リベラル政党は支持を集められないばかりか、伝統的な支持者に引っ張られて過疎化してゆくはずである。

もちろん企業にもこうした過剰適応の問題は起こり得る。固定的な関係を作って「安心」を確保したがる日本人には起こりやすい成人病のような病状なのではないかと思える。成人病を防ぐためには日頃からの運動が必要なように、過剰適応を防ぐためには普段から課題を計測できる「聴く仕組み」を確保すべきなのである。

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なぜネトウヨ的マインドセットは世界から嘲笑されるのか

今回のお題はネトウヨメンタリティは世界に通用するのかというものである。結論からいうとネトウヨ的メンタリティは世界から嘲笑されることになる。大きく分けるとネトウヨが笑われる理由は2つある。

安倍首相がついにアメリカとの間での二国間貿易協定の開始を宣言してしまった。ワイドショーは「とんでもないことになるのではないか」と戦々恐々である。これが日本にとって得になることはないのだろうが、どれほど損になるかはよくわからない。日本は最後の一線を守っているからである。この件は韓国が先行しているので韓国の失敗から学ぶことができる。

韓国は鉄鋼の報復関税を回避するためにFTAの改定を受け入れてしまった。韓国がアメリカとのFTAにコミットしなければならないのは、米軍への依存度が高く経済的構造も日本と比べると単純だからだろう。FTA自体が改訂可能なものになっていたのも問題だった。

日本はFTAのような協定を結んでいない。だから、だらだらと交渉プロセスを長引かせながらトランプ大統領の任期切れまで逃げ切れれば「勝ち」となるだろう。アメリカはすでにこれを見越しており「二段階で成果を受け取りたい」としている(ロイター)のだが、日本はこれに従う必要はない。次の政権を見越した官僚組織も安倍政権には従わないだろう。彼らも長くても3年待ては安倍政権から解放される。

今のアメリカとはいかなる包括的な二国間協定を結ぶべきではないことがわかる。包括的な二国間協定を結んでしまうとアメリカは一方的に攻めてくる。トランプ大統領は選挙で負けると弾劾から逮捕というコースも予想されるので死ぬ気で押してくるに違いない。トランプ大統領の言動は日々その支離滅裂さを増しており、中国を名指しして選挙に介入しているとまで言い出している。トランプ大統領はロシアから支援されて大統領になったという批判があり現在捜査が続いている。そこで民主党は「あのアメリカから仕事を奪っている」中国から支援を受けていると言いたいのだろう。(ロイター)これはネトウヨが「民主党政権も同じことやっていた」と必死で言い張るのにも似ている。

トランプ大統領はアメリカに有利な条件を引き出して「公平でWin Winだ」と喧伝したがる癖がある。これは安倍首相のようなネトウヨメンタリティが自分たちに都合が良いファンタジーを「公平な事実だ」と言いたがるのに似ている。相手に対する共感能力が欠けているという点では共通点がある。

協力を前提として切磋琢磨のための競争がある総体を「社会」とすると、ネトウヨもオルトライトも反社会的である。この反社会的行動は嘲笑の対象になる。トランプ大統領は国連総会で国際社会から嘲笑され、安倍首相はプーチン大統領から突然の提案を突きつけられてニヤニヤと笑ってごまかすしかなかった。どちらも、協力を前提としていない上に自分のやりたいことだけを押し付けようとしたので、拒絶の笑いで歓待されたのである。

彼らは自分がなぜ笑われているかがわからないという点も似ている。トランプ大統領は「自分が笑われたというのはフェイクニュースであって、みんな自分と一緒に笑ったのだ」と言い訳してまた笑われた。安倍首相はプーチン大統領は本気だからあのようなことを言ったのだと言い訳している。

しかし、アメリカと日本には大きな文化的な違いがある。日本人は上下という固定的な関係を前提として関係性を築きたがる。つまり、ネトウヨは安定性を求めている。安倍首相が「ウチ」と「ソト」を分けているというのも同じ動機から来ているのだろう。

だがトランプ大統領は家族以外は信用しない。このように、トランプ大統領もアメリカ社会も安定的な社会構造を作ろうとは思わない。彼らの頭の中には「今利用できる」か「利用できないか」である。利用できるとみなされると賞賛と脅しで揺さぶられる。一方利用できないと中国のように「敵認定」され利用される。賞賛されたとしてもインサイダーになれるわけではない。

安倍首相は「自分が目下になりながらもインサイダーになる」ことをゴールにするのだが、トランプ大統領にはそのつもりはない。だから、関係性を求めて妥協してきたら「もう一押しすればもっといけるのではないか」と考えることなるのだ。

それでもかつては固定的な関係があったではないかという人がいるかもしれない。しかしこれも日本に利用価値があったからである。つまり、共産主義がアメリカ国内にも広がるかもしれない」という恐怖心があり、それを外から守るために東アジアのどこかに基地が必要だった。ただそれだけである。

共産主義の脅威が消え、北朝鮮ともコミュニケーションパスができた今、アメリカが「個々の国と個別に協議することでおいしいところを最大限につまみ食いしよう」と考えるのはむしろ当たり前のことで、実はこのこと自体は驚くことでもなんでもない。

ところが、上下関係を作りたがるネトウヨにはこれが世界の終わりに見える。彼らは自分の中に価値の体系をもっておらず、相対的な体系に依存している。だから体系が崩れると世界が崩壊してしまうのだ。

日本人の中にも「状況が変わったから賢く立ち回ればいいのに」と考える人は大勢いるだろう。だが、世界が終わると思っているネトウヨは「受け入れてくれ」としがみつくことになるはずである。

アメリカは各国をバラバラな状態にして、それぞれからつまみ食いすることを目指している。だが、トランプ大統領はこのバラバラな人たちが団結するという図式は予想していない。アメリカが圧力を強めると、結果的にそれらの国がお互いに協力したりロシアや中国といった別の国と結びつくとは思っていないのだろう。彼らの世界観はエゴ(自己)セントリック(中心)である。例えば韓国を起点として中国やロシアが結びつく図は認知的に理解できないのである。

実はこうした脱アメリカの動きはすでに現れている。前回はFTAで追い詰められた韓国が極東開発に望みを託す様子を観察したがヨーロッパにも脱アメリカの動きがある。どちらも「橋を燃やして」退路を断つわけではなく「バックアップは用意しておこう」という構えだ。

ヨーロッパにはPESCOというEUとは別の防衛の枠組みがある。アメリカがNATOが恫喝しても、別の供えを持っている。日本ではあまり取り上げられないPESCOだが産経新聞の記事を見つけた。

EUをさらに駆り立てるのが、トランプ米政権の存在だ。北大西洋条約機構(NATO)による同盟関係への不安は拭えず、「一国に頼れる時代は過ぎた」(メルケル独首相)との危機感が募る。

一国の運命がかかっているのだからリスクを分散させるというのは当たり前のことである。アメリカはエゴセントリック世界しか見えないが、ネトウヨには関係そのものが見えないという違いがある。ではなぜネトウヨには見えないのか。

安倍首相やネトウヨの人たちのメンタリティは固定的な関係を目指している。前回のエントリーで見たように協力のスキルがなく不安定さに耐えられない。彼らは固定的な関係を作り、対外的にはアメリカに諂(へつら)ってでも内政はアメリカの威光を使って「上」の関係を作りたいと考えているのだろう。しかし、これは結果的に日本が取り得る外交的なオプションを減らし、日本をアメリカとの真っ向勝負に追い込む可能性が高い。

例えば北朝鮮には北朝鮮の政体を維持したい。韓国も朝鮮半島がアメリカのおもちゃにされて核戦争に突入するのを防ぎたい。ドイツはドイツをロシアなどの脅威から守りたい。つまり、彼らは自分たちが何者であるかということを知っており、だからこそそれを保持しようとする。つまり、彼らは自分という起点を持ち、なおかつ自分を起点にしない世界も想像しながら生き残りを図る。

だがネトウヨにはこの起点がないのではないかと思う。彼らは何者でもないからこそ関係性を作ってその中で自分たちを位置づけるしかないのである。そのためには依存する存在と見下すことができる敵が必要なのだろう。つまり彼らは「LGBTより上の自分」とか「アメリカの子分」という関係性で世界を理解しているので、構造が消えると自分も消えてしまうのだろう。

よくネトウヨが日本を破壊するという言い方をする人がいる。これは間違っているのではないかと思う。なぜならば彼らはそもそも自分たちが何者かがよくわかっていない。だからそもそも破壊するという行動に出ることはできない。普通の日本人は「英語が話せるわけでもないし、中国人とも似ていないから多分自分たちは日本人なんだろうな」と思うだけだが、ネトウヨは常に「中国より偉い自分たち」という関係がないと日本人を規定でいないのだ。

この関係を作ってからことを優位に進めようというマインドセットは憲法改正でも破綻しつつある。自民党は公明党と事前に協議した上で憲法改正案を提起しようとしていたようだが、これを公明党に拒否された。公明党は創価学会というはっきりとした総体を持っているのでこれを守ろうとする。彼らが守りたいのは創価学会なので自民党が利用できるときには利用する。憲法改正は保守派同士の内輪揉めなので彼らはそこに一つ線を引いているということになる。(毎日新聞

いずれにせよ、守るべきものがわからないのだから、彼らの行動はいずれは敗北することになる。彼らにできるのは何もしないことと、彼らが考えている世界に浸ってそこから出てこないことだけだ。

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ネトウヨの行動原理としての勝ち負け

新潮45が「廃刊に極めて近い休刊」になった。知れば知るほど出版業界の闇が深いことがわかり憂鬱になる。新潮社も「金儲け」で雑誌を出しているだけなので、経営的判断でうやむやにした方がよいと考えるなら今回の行動も非難できない。

だがライターやジャーナリストにとっては死活問題なので、彼らはこの経緯をきちんと総括すべきだろう。新潮社にとっては文芸もジャーナリズムも単なる商売のための仮面にしか見えないのだが島田裕巳のように「かつてはそうではなかった」と主張する人もいる。もし、これが本当だとすると、日本社会は食べてゆくために大切なものを切り売りしているということになってしまう。また「ビジネスとしてのエコシステムを維持しようとしていた」とするならば、長期的経営視点を失いつつあるということだ。いずれにせよ、このままでは新潮社は相撲協会のような他の閉鎖的村落共同体のように次第に「呆れられ忘れられる」存在になるのではないかと思われる。

そんな中で「これは言論弾圧だ」と騒ぎ出す人たちが出てきた。彼らは言われのない被害者意識を持っているのに、自分たちが多数派になると他の人たちを弾圧し始める。だが、この心理的メカニズムがよくわからない。少数派として多数派から非難される苦痛を知っているのだから、他人に優しくなってもよさそうだからである。メカニズムがわからないと対処のしようがない。

そんなことを考えていたところ、須賀原洋行という人のTweetを見つけた。社会人になってから漫画雑誌は読んでいないのだが、昔大学の部室に置いてあった漫画雑誌に短いナンセンス漫画で名前を見かけたことがある。


この短いTweetはネトウヨ系の人たちが持っているマインドセットをよく表していると思う。ここに「上位・下位」という概念が出てくるからである。人間関係に上と下がある。これを当たり前だと思う人もいるだろうし、なぜ上と下という概念が出てくるのかがわからない人もいるのではないだろうか。個人的にはとても意外だった。

ネトウヨの人たちの行動原理を観察していると、勝ち負けにこだわっていることはわかるのだが、なぜこだわるのかという最後の動機がよくわからなかった。だが、上下という関係を入れるとこれがよくわかる。つまり、集団の中で上の方にいる人ほど意見が通りやすいということなのだろう。

もし仮に「何が正しいのか」が論理や合理性によって決まるのであれば議論が成り立つかもしれないが、そもそも数の多さで決まるのであれば多数派さえとってしまえばよい。選挙至上主義で議会制民主主義の残りのプロセスを無視する安倍政権の姿勢と通じるものがあり、なるほどなと思わされる。言葉にしてみるとバカバカしいほど陳腐だが、誰が偉いかを決めるために選挙を行い、偉い人が全てを決めて良いという世界である。

英語にto influence peopleという言葉がある。日本語では「影響を与える」などと言ったりする。これは自分がロールモデル(規範)になることで相手が従いたくなるような人間になることを意味する。最近ではインスタグラムのインフルエンサーというような使い方もされる。つまり、人々を従わせるには数で多数派を形成する以外にインフルエンサーになるというアプローチがある。

これらは和訳できない英語概念だが、日本古来の伝統では徳をもって規範となるというような言い方になるかもしれない。徳を慕ってやってくるというのは英語的にいえば「影響を受けた」ということになるからだ。ただ、中国系の哲学には孝悌という上下関係もある。ネトウヨは上下関係だけを継承して徳という中核の原理を失ってしまったということになるだろう。つまり内的動機は失われ外的装置だけが残った状態になっている。これを一般的には形骸化とか原理主義化と呼ぶ。

言論封殺を叫ぶ人たちは「勢いで誰かにマウントされた」から自分たちの意見が抑圧されたと言いたいのだろう。だが、逆は成り立たない。つまり自分たちの意見は正義なのだから相手は無条件に従うべきでそれは言論封殺にならない。彼らが朝日新聞を潰してしまえと主張するとき、それは言論封殺には当たらないのである。彼らの頭の中は一貫している。自分たちは常に正しくなければならないということなのだ。

この自分たちは正しいはずなのに勢いに負けているというルサンチマンは、かなり古い類型である。薩長は徳川幕府の統治下で300年近くも「本当は自分たちの方が正しい」と主張し続けていた。また、傍流と決めつけられた人たちも自分たちのことを「真正保守だ」と考え続け、結果的に保守本流を駆逐し、力で押さえつけている。(はてなキーワード)革命を起こす上でもっとも強い動機なのだ。

そもそも、LGBT側が「社会の正解になりたがっていたのか」という問題がある。例えばLGBTが「同性愛のような精神性の高い性的指向こそが崇高なものであって、子作りだけを目的とした動物的な交わりは汚らしい」というようなプラトニック至上主義を掲げればそれは、LGBTを正解と見なすということになるのだろう。LGBTなどのマイノリティが望んでいたのは、自分たちが排除されない社会であり「自分たちが社会の正解になりたい」ということではなかったと思う。つまり、異なる性的な指向性の人であっても「共存できる」社会を目指していた。

これは上下では説明できないのだから、ゆえにこれは議論としては最初からかみ合うはずもなかった。ネトウヨの人たちは部数が20000部に届かない雑誌の中で「LGBTは生産性がない」と叫び、それが新潮社の伝統的アセットの価値を毀損すると判断された途端に潰されてしまったに過ぎない。それでも彼らはその内輪の中でいつまでも自分たちの正しさを主張していたかったのだろう。

なんとなくこうなる理由を考えてみたところ、学校の教育の問題が大きいと感じた。日本人は集団秩序に従って競争することは学ぶが、なぜ競争するのかとかなぜ集団秩序に従うべきかということは学ばない。

例えば運動会をやる前に「なぜ人々は赤組と白組に別れて争うのか」とか「個人競技大会にしてはならないのか」という議論をする学校はない。もしこんなことを言い出せば多分親が呼び出されて「和を乱す」として説教を食らって終わりになるだろう。

これは裏を返せば、誰かを説得するための技術が発展しないということを意味する。また、みんなが競争することを当たり前だと考えているものでなければ協力しないという社会も生み出される。運動会が楽しいのは退屈な勉強よりもマシな行事であり、なおかつ誰でもなんとなく勝てる可能性があるからだ。

学校で学ばなくても目はしの利く人は他人を動かす技術を学ぶわけだが、他人を動機づける技術を持てないネトウヨ系の人たちは「仕組みをととのえろ」とか「地震のときは仕方がないから政府に従え」と主張する。他人を動機付けできないので、他人が否応無しに自分に従う環境を作りたがるのである。

一部の人たちは猛烈に反対するが、批判に加わらない人の方が圧倒的に多い。彼らは声を上げないで遠巻きに「自分が利得を得ない」競争に協力することを避ける。外にいては距離を置き、中では力を出し惜しみすることになる。場合によってはカツカレーだけを食い逃げし、さらに頭の良い人は非公式文書をマスコミにリークして混乱を楽しむ。

こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。

この考察を通じてなぜネトウヨが「マウンティングしたがるのか」ということはわかるし、逆に多数派による少数意見の封殺と勝負へのこだわりを持っている人たちのことをネトウヨというのだなということがわかる。ネトウヨのマインドセットに冒されている人を説得することはできないので、周りから変わってゆく必要があるだろう。一緒になって「どちらが正義か」などと騒いでいても状況はよくならないからである。

今回は「ネトウヨ」を主語にして書いたが、これは例えばリベラルを自称する人たちにも当てはまる。なぜ平和主義を維持すべきなのかを他人に説得できないと、新しい人たちを運動に勧誘できない。だから当時動機付けられた人たちが抜けてしまうと運動が形骸化してしまうのだ。さらに閉鎖的な相撲ではなくルールが公平でチャンスもある国際的なスポーツ(例えばフットボール/サッカー)に人気が集まる。これは、スポーツから政治まで、多くの過疎化した村落的運動体に共通した構造なのではないかと思われる。

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米韓FTA「合意」と日本への影響

ニューヨークで国連総会が行われるのに合わせて米韓FTAが「合意」に達した。これについて日本のマスコミはあまり取り扱わないだろうと思い調べてみることにした。交渉プロセスでは、アメリカの強引ぶりと韓国の「強かさ」が目立つ。だが、重要なのは合意内容ではなくプロセスそのものである。アメリカは経済と防衛をリンクさせようとしている。また米韓両政府は内政問題とこの問題をリンクさせている。内政問題とは端的に言えば選挙である。このためそれぞれの内政の情勢次第では日本や中国を巻き込んで地域情勢が不安定化しかねない。

北朝鮮と韓国は終戦協定に向けて動いている。ムンジェイン大統領は直前に、「核兵器廃絶」が北朝鮮政府内部で規定路線になったと発表した(聯合ニュース)。ただいつも通り時期や方法についてはなんら発表が見られない。これはある意味韓流ドラマが「また来週をお楽しみに」とするのに似ている。だが、この韓流ドラマは「視聴率競争」ではない。失敗すれば、今度は核兵器付きでの朝鮮戦争の再開もあり得るという危険なゲームである。

韓国産業通商資源部は、安全保障と経済が関連していたということを公に認めている。(聯合ニュース

「南北関係と朝米(米朝)関係に変化が予想されるなか、両国が安全保障と通商の両方で安定的かつ緊密に協力することが望ましいとの考えでFTAの改定を進めた」と説明した。

この二番目の記事の最後に「この先は、米国が検討する通商拡大法232条に基づく自動車への高関税賦課で、韓国が適用を受けないよう集中的に働き掛けていくと説明した。」とある。この聯合ニュースの記事だけを読んでも意味がわからないのだが、Bloombergには次のようにある。

ただ韓国の議員らは、米国が韓国製自動車に追加関税を発動させた場合はFTA見直し案を承認しないと述べている。米韓FTA見直し案の批准には韓国議会の承認が必要。

つまり、今回の合意は議会の承認が必要なのであり、議会が承認してくれるかどうかはこの時点では明確になっていない。

この鉄鋼関税は韓国の政財界に大きなプレッシャーになっていた。中央日報の記事を読むと、中国とアメリカがおおっぴらに貿易戦争を始めており「それが韓国に波及するのでは」というプレッシャーがあったことがわかる。結局、韓国は制裁的な鉄鋼関税の対象にならなかったが、代わりに総量を規制されてしまった。中央日報の別の記事は「次は自動車が危ないかもしれない」と危惧しつつも、鉄鋼が守れたと安堵する論調で書かれているが、Newsweekは韓国の鉄鋼業界の不況ぶりを次のように伝えている。

韓国で大きな外交的成果として当初歓迎された米国による鉄鋼輸入関税免除は、今ではその代わりに導入された輸入数量を制限するクオータ制がネックとなり、一部の鉄鋼メーカーの生産能力が半減するまでに追い込まれている。

日経新聞はアメリカの強硬な姿勢を次のように伝える。

改正交渉は今年1月に始まり、わずか3カ月で大筋合意に至った。その過程では、米国が在韓米軍の撤退論や鉄鋼関税の適用を持ち出して韓国に早期妥結への圧力をかける威圧的な姿勢を見せた。

どこまで本気なのかはわからないが、トランプ政権は交渉過程で「在韓米軍を引き上げる」と脅したりしていたようだ。これが実現するかどうかはわからないが、トランプ大統領の「強み」は、これを実際にやりかねないということである。

だが、この一連のことは日本ではニュースにすらならなかった。在韓米軍が引き上げてしまうと在日米軍の意味付けは大幅に変わってしまう。これについて日本が事前通告を受けていたとは考えにくい。

実は日本の防衛にも大きく関わることが経済的な取引の材料に使われており日本は蚊帳の外だったということになる。いずれにせよ、日本人には正常化バイアスが大きく働いており「安全保障環境が一夜にして激変するような事態」はなかったことにしたいという気持ちが働いているのだろう。これを照らし合わせると、総裁選挙の安倍・石破「議論」がいかに空疎なものだったかがわかるだろう。実は、自衛隊の名前がどうこうと言っている場合ではなかったのだ。

この威圧が成功したので、合意はアメリカに有利な内容になっている。アメリカは国内基準で韓国にピックアップトラックを売り込めるようになった。また韓国は鉄鋼関税の適応は免れたが代わりに輸出量を7割に抑えるように内容が変わった。トランプ大統領はこれを中間選挙の宣伝材料に使うつもりなのだろう。Bloombergの記事では「全く新しい協定」と自画自賛している。一方で韓国は議会の反発を恐れてなのか「改定」と説明した。

 トランプ大統領は24日、米韓FTAは内容を若干修正したものというより「全く新しい協定」だと述べた。一方、文大統領は通訳を介して、米韓両国はFTAを「改定」したと語った。

トランプ大統領はロシアゲートでかなり追い込まれている。中間選挙で共和党が負ければ議会からの追求が激化しかねない。すると弾劾されて二期目はおろか逮捕されてしまうという最悪の事態さえ予想される。今回もロシアゲートの調査担当者の任命権者の司法省副長官人事を巡って大騒ぎが起きている。(BBC)情報が錯綜しており「大統領の弾劾を狙っていた」とか「自分から辞めると言ってきた」とか「クビにしようとしているのだ」とか「辞める裏には危険な罠がある」などという異なる情報が飛び交っている。はっきりしたことは木曜日にわかるそうだが、トランプ政権がもはや正常な状態にはないことだけは確かだ。

ここから、アメリカが防衛を一種の他国へのサービス産業のように位置付けているということがわかる。もはやアメリカの世界戦略の一環という理解はされていないのだ。前回の防衛議論の時に小川和久氏が「日本はアメリカの世界戦略に貢献している」などと主張していたが、その主張がむなしく感じられる。小川さんが持っているチャンネルでは「日本が貢献している」ことになっているのかもしれないのだが、トランプ大統領は取引の材料としか思っていない。民意に基づいて実際に国を動かしているのはトランプ大統領なのだ。さらに、トランプ政権はもはや長期的な視野に立ってアメリカの国益を計算するような心理状態にない。とりあえず中間選挙が乗り切れるのか程度のことで頭がいっぱいになっているのだろう。

日本の安全保障環境は大きな曲がり角にあるのだが、国内でこうした議論は見られない。安倍首相には政治的なビジョンはなく、石破さんも原理原則にこだわるばかりだ。だから、アメリカの要求を丸呑みするか、経済産業省の役人たちが官僚的ないやらしさで事態をごまかすくらいの事しかできないのではないかと思う。また、マスコミもこのことは伝えないだろう。

Newsweekの記事には「日本と明暗」と書かれているので「韓国に勝った」と無邪気に喜ぶ人もいるだろうが、置かれている立場はそれほど韓国とは違いがない。また経済的に追い込まれた韓国はロシアとの経済協力に走りかねない。中央日報には造船不況により韓国経済は極東での活路を模索しているという記事があった。つまり、韓国が追い込まれれば中国やロシアとより緊密に結びついてしまうという新たな危険が生まれているのだ。

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実は危険だった石破茂総裁待望論

今回の自民党総裁選挙を見ていて面白いなと思ったことがあった。実は日本の憲政は危機的状況にあったのだが、誰もそのことに気がついていないように見えたからである。憲政の危機とは、1945年の前の数年間あったような議会制民主主義の停止の危機である。

重要なのは、危機があったという事実ではなく、その作られ方である。日本の政治危機は特定の狂った独裁者から生まれるわけではなく、集団思考による思考停止で生じるのである。それは大政翼賛会の作られ方を見ているとよくわかる。大政翼賛会も「勝ち馬に乗り遅れるな」という焦りが生んだ自己保身的な作られ方をしている。

Twitterは石破待望論で溢れていた。民主党を応援していたがあの人たちはダメそうだという空気が広がっていて、それでもとにかく安倍でなければなんでもいいという雰囲気があるからだろう。これが集団思考の最初の兆候である。つまり、目の前になんらかの危機があり「それさえ脱出できるならあとはなんでも構わない」と考える人が出てくると、社会から理性が失われて集団思考が起こりやすくなるのだ。ナチスドイツの場合、最初の兆候はソ連の革命勢力だった。共産主義が広がってきて大変なことになるのではという空気をヒトラーは利用したのである。

石破茂は憲法改正にあたって「緊急事態条項」を入れることを主張している。緊急事態条項とは東日本大震災などを想定して、地震があった時に内閣の権限を強化することを狙ったといわれる条項である。問題点は「地震など」となっているところである。つまり、全てが明確に規定されているわけではないので国会の2/3が「これが緊急事態だ」と決めれば緊急事態になってしまうのだ。東京新聞に自民党案が出ている。だがこれには仕方がない面もある。豪雨災害などが増えており何が危機的状況になるのか誰にもわからない。だから憲法に全てを書き込むことはできない。

この件について石破が何を意図しているのかということは議論にあまり関係がない。もしかしたら本当に地震の時に「ああ必要だな」と痛感したのかもしれないし、ロスチャイルド家に操られていて国を売ろうとしているのかもしれない。

ただこの「など」は結果的には大きな危険をはらんでいる。例えば、多数派を握っているが行き詰ってしまった議会多数派が「議会を解散したくない」と考えた時、適当に「緊急事態」をでっち上げて国会議員の任期を延長するということができてしまう。例えば、ポピュリズム的な政策で選挙で大勝した政権が破綻しそうになるとする。選挙をすると負けが確定しているわけだから、国会議員は保身を図ることになるだろう。そこで「今回の選挙は体制転覆を狙った敵勢力がしかけている」として、国会議員の任期を「無制限」にすることが憲法で保障されることになってしまうのである。

安倍政権の傍若無人ぶりから想定して、緊急事態条項を悪用して「総理大臣や官邸が暴走するのではないか」と懸念する人が多いと思う。しかし、内閣が法律を作ってもいずれかの時点で国会から追承認を得なければならないので、この心配は少ない。

そもそも日本人は明確なリーダーシップを取りたがらないので、あからさまな独裁者が出てきて全権を掌握した上で悪事を働くというようなことは考えにくい。あの安倍総理ですら、面倒なことは諮問機関などを作って他人の口から言わせている。むしろ考えられるのは、集団が自分たちの既得権益を守るためになりふり構わず暴走するという姿である。誰も責任を取りたくないが、今の地位を失いたくないという理由で暴走するのである。

石破はこの緊急事態条項で私権の制限を主張している。これも地震などの緊急事態にはしかたがないのではないかと思われるのだが、国会議員の保身に使われた場合のことは想定されていない。ポピュリズム的な主張で多数を形成した与党の政策が破綻し、野党が反対をする。このままでは選挙は避けられそうにない。そこで緊急事態を宣言し国会議員の任期を無期限にした上で、テロリスト(つまり野党のこと)を盗聴してもよいという政令を作り、それを追加承認するということが考えられる。

選挙がないのだから国会議員の地位は永久に保障される。めちゃくちゃな法律を乱発してももう誰も止められない。説明責任などという言葉は急速に死語になってしまうだろう。そして選挙が遅れれば遅れるほど事態は悪化してしまい、最終的には国民の暴動を招くか、外国とぶつかることになるだろう。軍事的にというより経済的に封鎖される可能性の方が高い。国を潰すのに核兵器は必要ない。国際世論の協調と経済封鎖で簡単に国は潰れるのである。

自民党の多数派が考えているのは議席の安定的な確保である。だから、彼らは熱心に「各県に一人以上の国会議員をおける権利」や「緊急事態時の任期の保障」などを求めている。彼らの頭の中にあるのは選挙のことだけである。彼らもまさかポピュリズム的な政策で国を滅ぼしてやろうなどとは思わないだろう。

ここでなぜ石破が「私権の制限は絶対に入れてくれ」と主張しているのかがわからない。議会側は「会期延長さえ通れば国民を説得しやすい方が良い」と考えているからである。考えられる可能性は、安倍首相への対抗である。今年の初め頃には「安倍よりも右派である」というポジショニングで自民党内部の支持者を増やそうとしていたのかもしれない。

石破にも地震をきっかけに日本を乗っ取ってやろうなどという気持ちはないだろうと信じたい。だが、議員の関心を引くために身分保障の観点から緊急事態条項と参議院の制度改革を持ち出したとすれば、結果的にそれが「想定外の事態」を引き起こしかねない危険があった。

もう一度議論を整理すると、次のような可能性が浮かんでくる。東日本大震災の時に「ああ、この地震の時に選挙があったらえらいことだなあ」と思った議員がたくさんいるとする。彼らは選挙を避けたいと考えて割と気軽に「憲法に書き込めばいいんじゃないか」と考える。どうせ憲法は変えられそうにないのだからいうだけ自由である。もしかしたら「地震の怖い映像をCMで無尽蔵に流せば納得してもらえるかも」くらいのことは考えた人がいるのだろう。そこに原理・原則主義の傾向の強い石破さんが出てきて「私権が制限されるような強い権力がなければ地震は乗り切れない」と考えてそれを主張し、安倍首相よりも「力強いリーダー」を志向したいという理由で「緊急時の私権制限」も入れろと宣伝している。

だが、結果的には「国会議員たちが自己保身のために国会の無期延長を決め」て「自己保身のためにポピュリスト的な政策を乱発」する余地が出てくる。しかし、国民はこのことに全く気がつかなかった。石破が総裁になる見込みはなかったので、誰も真剣に石破提案を吟味しなかったし、安倍以外だったら誰でもいいから早く変えろという空気も蔓延していた。たいてい憲法改正議論の危険性に最初に気がつくのは野党支持の人たちだが、今回はある意味「眠っていた」のだ。

幸いなことに石破は「総裁選挙に負けたら殺される」という程度の強い危機感を持っていなかった。例えば韓国のように大統領の権限の強い国ではライバルも必死になるので自然とポピュリズムが生まれやすくなる。もし、石破が政治的に殺される覚悟で選挙戦を戦っていたらもっと違ったことが起きていた可能性もあるだろう。

その意味では今回の総裁選は「ごっこ」で終わったことが国民には幸いしたと言えるだろう。小泉進次郎のいうような「武器のない戦争」ではまだないということである。

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新潮45を葬り去るのは実は簡単なのではないか

新潮45の問題を考えているうちに、これはヘイトではなくいじめなのではないかと感じた。クラスの中から誰かを抜き出したうえでその特徴を取り出して「劣っているもの」とラベリングする。そしてその人から正規のメンバー権を奪って嬲り続けるのがいじめである。いじめの特徴の一つに仄めかしがある。いじめられているということを仄めかしつつも決してそれを認めないのである。

今回の件は一見すると同性愛者嫌悪のような体裁になっているが、劣っているものを置いておいていたぶり続けるという意味ではヘイトというよりいじめに近い構造を持っている。だから、いじられた側は異議の申し立てはしても、あまり感情的な対応はしない方が良い。

では、真正保守と自称する人たちは、なぜいじめを繰り返す必要があるのかというのが次の課題になるだろう。この課題を解くためには安倍政権を見るのが手っ取り早い。

安倍政権は日本の政治で唯一生き残った政治勢力である。彼らは党内では政策には詳しいが闘争にはあまり熱心でなかった保守本流を駆逐した。彼らは公家集団になっていて実は大したことはなかった。実際に、かつて彼らを保守傍流と見下していた人たちは石破一派を除きすべて屈してしまった。情けないことに次の首相の座を恵んでくれないかと安倍政権に媚を売る人まで出てきた。

自民党は対外的には理想主義を掲げる左派を駆逐した。社民党は政権を取った段階で変節したとみなされ支持を失い、そのあとに出た民主党政権は日本の統治に失敗して自滅してしまった。6年もの間彼らは失敗の総括ができておらず、未だに分裂したりくっついたりしたりを繰り返している。

ゆえに安倍政権は勝利に酔い、思う存分彼らが理想とする政治に邁進すればよいはずなのだが、それができていない。国民は積極的に安倍政権を支持しているわけではないし、兵隊にと雇った議員たちは失言や舌禍事件を繰り返し引き起こして暴れまわっている。支持してくれてありがとうと振舞ったカツカレーは食い逃げされ、変な右翼思想にかぶれた幼稚園経営者や地方で学校経営に失敗しつつある友達がすがり付いてくるという具合になっている。とても勝った集団とは思えない。

憲法改正ももともとは保守本流だと威張っていた人たちが勝手に決めたのが気に入らないというようないい加減な動機で動いているに過ぎない。民主党政権下で自民党有志に憲法改正草案を話あわせたところ「選挙で負けたのは国民がバカだからだ」国民の基本的人権を制限しようということで話がまとまった。今回も「既得権益を守るために県に必ず一つは議席を確保すべきだ」という話になりつつあり、統治機構をどう改革し、そのためにどう国民を説得しようという議論は全く出てこない。首相本人でさえ「とりあえず憲法が変えられるなら自衛隊という名前を憲法に載せればいいや」と言い出している。

政治にやりたいことがないのと同じように、保守論壇にも実はやりたいことがない。ある人たちはとにかく偉そうにしている左派が気に入らなかった。そして別の人たちはとりあえず食べてゆくためにどこかの論壇で認められる必要があった。ゆえに、自称保守の人たちは絶えず敵を作り出してはそれをあげつらっている。最初の仮想敵は共産主義だったが、共産主義は実質的になくなってしまったので、中国や韓国を攻撃するようになった。そのうち民主党が敵になり、彼らが標榜していた「コンクリートから人へ」を攻撃するようになる。この「人」に当たるのがいわゆる拡張された人権である。

安倍政権が勝ったわけだからそれを支えた論壇も官軍側である。やっと自分たちの時代が来たのだから官軍らしく理想の政治を語り周りを説得すればいいと思う。しかし、彼らはそれをしない。盛り上がるのはホモやオカマには人権がないといった程度の話だけであり、ホモに人権を渡すなら痴漢だって大手を振って電車に乗っていいはずだという中学生でも恥ずかしくて書けないようなことを書いて喜んでいる。そして、それを日本で最も古い文学アーカイブスを持った会社がサポートしているという惨憺たる状況なのだ。

スポーツにもいじめの構造がある。いじめの側に立つかいじめを黙認した人はたいてい過去に勝った人だ。しかし勝利というのは実は儚い。オリンピックに出場して金メダルを取ったりチャンピオンシップでチームを勝利に導いたとしても注目されるのはほんの一時のことである。彼らが引き続き注目を得続けるためにはオリンピックで勝ち続けなければならない。だからなんでもやる。そしてその「なんでも」が社会の規範とぶつかったとき炎上が起こるのだ。

スポーツでは「勝った」という成果よりも、なぜ勝てたのかというプロセスや競争を通じて成長すること自体が大切である。だが競争が自己目的化されてしまうとそれがわからなくなる。そしてなんでもいいからとりあえず勝たなければならないとなった時に社会の規範とぶつかってしまう。

実は安倍政権も同じように破綻しつつある。ロシアの大統領は公開討論の場でわざわざ安倍首相の顔を潰して見せた。よっぽど腹が立ったのだろうが、その気持ちはよくわかる。中国やロシアは民主主義が十分に発達していないのでいつでも政権が打倒される危険性がある。そのためには本当に勝ち続けなければならない。彼らは経済成長を目指してなんでもやろうという覚悟を持っている。

あの北朝鮮ですら「核兵器開発」は体制維持のための必死の策であり、それをどう利用しようかということを現実的に考えている。だから「放棄」を仄めかしつつそれを延期させようとしている。

その真剣勝負の場所に安倍首相はヘラヘラとでかけていった。「おいしいところだけ食べさせてください」というわけだ。しかし、安倍首相が裏で中国の悪口を言っていることも、インドやオーストラリアに働きかけて「一緒に封じ込めましょうよ」とふれ回っていることも知られている。公開討論の場で殴られなかっただけでも、安倍首相は感謝しなければならないだろう。

当初この話は様々な村落的な行き詰まりを構造的に分析するようなものになるはずだった。その線で何回か書き直したのだが、いつも最後の所で行き詰ってしまう。「で、構造が分かってどうするのか」と思ってしまうのである。

行き詰って立ち寄った本屋でダイエットの本をたくさん見た。最近のダイエット本は売るのに苦労しているようだ。体の痛みがなくなるとか、痩せるとか、頭が良くなると言った具合に動機付けのワードがタイトルについているものが多い。実際に痩せてみれば気持ちが良く健康にもなれるし、外見を自分でコントロールできるのは楽しいのになと思った。

ダイエット本が売れ続けるのは痩せたことがない人がたくさんいるからなんだろうなと思ったところで気がついた。「他者をいじめる本」がなくならず、政治が嘘をつき続けるのは、多分鏡に映った自分の姿が気に入らないからなのだろう。写真を加工したり鏡を歪めれば当座はしのげるだろうが、やっぱり嘘は嘘なので、次の嘘を探さなければならない。

つまり、こうした嘘の構造は「これは嘘なのだな」と認識したら、それ以上深掘りしても意味はなさそうだ。それよりも自分たちが変わるための第一歩を踏みだすべきだろう。多くの人たちが「自分たちは変われた」という実感を持った時、新潮45のような雑誌も安倍政権のような嘘の政権は世間から忘れ去られてしまうのではないかと思ったのである。

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「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」について考える

先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。

新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。

前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。

今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。

この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。

もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。

さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。

ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。

これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。

巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。

最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。

スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。

スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。

新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。

今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。

女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。

新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。

さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。

いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。

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新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて騒ぎになっている。会社としては最初は人権に配慮してやってきたしこれからもやって行くとしていたのだが、騒ぎがテレビに取り上げられるようになると休刊を決断した。

これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。実際に休刊に対しては「言論封殺だ」という批判もでていて、却ってこうした主張が地下化しかねない。

ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。AbemTVの取材によると、社長の発言なのに「甘くなったのではないか」と他人事のように書かれている。実際には新潮社という会社があるわけではなく、雑誌や文芸という村がなんとなく共存していた様子がうかがえる。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。このヘイトは、一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想に基づいており、これが周囲の価値観とぶつかるのは時間の問題だった。朝日新聞によると、編集方針が変わる前から新潮45に執筆をしていた小田嶋隆は「あまりに唐突な方針転換で、このまま無事では済まないと、ある程度予想していた」という。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

編集者一人ひとりの心情を察するとこれを指摘するのはためらわれるのだが、この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの一連の発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきだ。しかし、誰もそれをせず、結果的に新潮45はLGBTの人々を「生産性がない」と蔑んだ。中には傷ついた人たちもいたはずだが、最後まで誰もLGBTの人に謝罪をすることも、なぜこうしたヘイトが放任されたのかを説明する人もいなかった。これが集団思考の恐ろしさなのである。

新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だったのだろう。経営は積極的にこれを推進したのではイカもしれないが、結果的にこれを許容した。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。

ただ、現在の佐藤隆信社長の経歴を見ると東京理科大学を卒業して電通経由で新潮社に入ったことがわかる。この斎藤イズムがどの程度経営に浸透していたのかということは実はよくわからない。社内の俗物志向に取り込まれてしまった可能性もあるが、遅まきながら廃刊を決断したことから、社内の「専門家集団」に経営的な指示や指摘ができなかっただけなのかもしれないとも思う。

他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。そして社長は「それはダメなのだ」と指摘できない。佐藤社長がよそから入ってきた「外様」であり、村生まれの「文芸人」や「ジャーナリスト」ではなかったからなのかもしれない。

巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。誰一人として責任を撮ろうともしない人たちが、読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

さらに、これも言いにくいことだが、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られる。村の人たちは別の村だとみなしているかもしれないが、外の人はそうは見ない上に、実はお互い二利用し合っている。今回の社長のコメントでも「文芸出版社」を名乗っているのがその現れである。新潮45は「廃刊に近い休刊」として逃げてしまえばいいが、結果的に文芸部門が突きつけられている残酷な課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っていることになる。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。しかし、文芸がこれを脱却できないというわけではない。

松山の俳句集団の夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。文芸にはこうした生き残り方もある。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないのではないか。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけ。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。

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