なぜネトウヨ的マインドセットは世界から嘲笑されるのか

今回のお題はネトウヨメンタリティは世界に通用するのかというものである。結論からいうとネトウヨ的メンタリティは世界から嘲笑されることになる。大きく分けるとネトウヨが笑われる理由は2つある。

安倍首相がついにアメリカとの間での二国間貿易協定の開始を宣言してしまった。ワイドショーは「とんでもないことになるのではないか」と戦々恐々である。これが日本にとって得になることはないのだろうが、どれほど損になるかはよくわからない。日本は最後の一線を守っているからである。この件は韓国が先行しているので韓国の失敗から学ぶことができる。

韓国は鉄鋼の報復関税を回避するためにFTAの改定を受け入れてしまった。韓国がアメリカとのFTAにコミットしなければならないのは、米軍への依存度が高く経済的構造も日本と比べると単純だからだろう。FTA自体が改訂可能なものになっていたのも問題だった。

日本はFTAのような協定を結んでいない。だから、だらだらと交渉プロセスを長引かせながらトランプ大統領の任期切れまで逃げ切れれば「勝ち」となるだろう。アメリカはすでにこれを見越しており「二段階で成果を受け取りたい」としている(ロイター)のだが、日本はこれに従う必要はない。次の政権を見越した官僚組織も安倍政権には従わないだろう。彼らも長くても3年待ては安倍政権から解放される。

今のアメリカとはいかなる包括的な二国間協定を結ぶべきではないことがわかる。包括的な二国間協定を結んでしまうとアメリカは一方的に攻めてくる。トランプ大統領は選挙で負けると弾劾から逮捕というコースも予想されるので死ぬ気で押してくるに違いない。トランプ大統領の言動は日々その支離滅裂さを増しており、中国を名指しして選挙に介入しているとまで言い出している。トランプ大統領はロシアから支援されて大統領になったという批判があり現在捜査が続いている。そこで民主党は「あのアメリカから仕事を奪っている」中国から支援を受けていると言いたいのだろう。(ロイター)これはネトウヨが「民主党政権も同じことやっていた」と必死で言い張るのにも似ている。

トランプ大統領はアメリカに有利な条件を引き出して「公平でWin Winだ」と喧伝したがる癖がある。これは安倍首相のようなネトウヨメンタリティが自分たちに都合が良いファンタジーを「公平な事実だ」と言いたがるのに似ている。相手に対する共感能力が欠けているという点では共通点がある。

協力を前提として切磋琢磨のための競争がある総体を「社会」とすると、ネトウヨもオルトライトも反社会的である。この反社会的行動は嘲笑の対象になる。トランプ大統領は国連総会で国際社会から嘲笑され、安倍首相はプーチン大統領から突然の提案を突きつけられてニヤニヤと笑ってごまかすしかなかった。どちらも、協力を前提としていない上に自分のやりたいことだけを押し付けようとしたので、拒絶の笑いで歓待されたのである。

彼らは自分がなぜ笑われているかがわからないという点も似ている。トランプ大統領は「自分が笑われたというのはフェイクニュースであって、みんな自分と一緒に笑ったのだ」と言い訳してまた笑われた。安倍首相はプーチン大統領は本気だからあのようなことを言ったのだと言い訳している。

しかし、アメリカと日本には大きな文化的な違いがある。日本人は上下という固定的な関係を前提として関係性を築きたがる。つまり、ネトウヨは安定性を求めている。安倍首相が「ウチ」と「ソト」を分けているというのも同じ動機から来ているのだろう。

だがトランプ大統領は家族以外は信用しない。このように、トランプ大統領もアメリカ社会も安定的な社会構造を作ろうとは思わない。彼らの頭の中には「今利用できる」か「利用できないか」である。利用できるとみなされると賞賛と脅しで揺さぶられる。一方利用できないと中国のように「敵認定」され利用される。賞賛されたとしてもインサイダーになれるわけではない。

安倍首相は「自分が目下になりながらもインサイダーになる」ことをゴールにするのだが、トランプ大統領にはそのつもりはない。だから、関係性を求めて妥協してきたら「もう一押しすればもっといけるのではないか」と考えることなるのだ。

それでもかつては固定的な関係があったではないかという人がいるかもしれない。しかしこれも日本に利用価値があったからである。つまり、共産主義がアメリカ国内にも広がるかもしれない」という恐怖心があり、それを外から守るために東アジアのどこかに基地が必要だった。ただそれだけである。

共産主義の脅威が消え、北朝鮮ともコミュニケーションパスができた今、アメリカが「個々の国と個別に協議することでおいしいところを最大限につまみ食いしよう」と考えるのはむしろ当たり前のことで、実はこのこと自体は驚くことでもなんでもない。

ところが、上下関係を作りたがるネトウヨにはこれが世界の終わりに見える。彼らは自分の中に価値の体系をもっておらず、相対的な体系に依存している。だから体系が崩れると世界が崩壊してしまうのだ。

日本人の中にも「状況が変わったから賢く立ち回ればいいのに」と考える人は大勢いるだろう。だが、世界が終わると思っているネトウヨは「受け入れてくれ」としがみつくことになるはずである。

アメリカは各国をバラバラな状態にして、それぞれからつまみ食いすることを目指している。だが、トランプ大統領はこのバラバラな人たちが団結するという図式は予想していない。アメリカが圧力を強めると、結果的にそれらの国がお互いに協力したりロシアや中国といった別の国と結びつくとは思っていないのだろう。彼らの世界観はエゴ(自己)セントリック(中心)である。例えば韓国を起点として中国やロシアが結びつく図は認知的に理解できないのである。

実はこうした脱アメリカの動きはすでに現れている。前回はFTAで追い詰められた韓国が極東開発に望みを託す様子を観察したがヨーロッパにも脱アメリカの動きがある。どちらも「橋を燃やして」退路を断つわけではなく「バックアップは用意しておこう」という構えだ。

ヨーロッパにはPESCOというEUとは別の防衛の枠組みがある。アメリカがNATOが恫喝しても、別の供えを持っている。日本ではあまり取り上げられないPESCOだが産経新聞の記事を見つけた。

EUをさらに駆り立てるのが、トランプ米政権の存在だ。北大西洋条約機構(NATO)による同盟関係への不安は拭えず、「一国に頼れる時代は過ぎた」(メルケル独首相)との危機感が募る。

一国の運命がかかっているのだからリスクを分散させるというのは当たり前のことである。アメリカはエゴセントリック世界しか見えないが、ネトウヨには関係そのものが見えないという違いがある。ではなぜネトウヨには見えないのか。

安倍首相やネトウヨの人たちのメンタリティは固定的な関係を目指している。前回のエントリーで見たように協力のスキルがなく不安定さに耐えられない。彼らは固定的な関係を作り、対外的にはアメリカに諂(へつら)ってでも内政はアメリカの威光を使って「上」の関係を作りたいと考えているのだろう。しかし、これは結果的に日本が取り得る外交的なオプションを減らし、日本をアメリカとの真っ向勝負に追い込む可能性が高い。

例えば北朝鮮には北朝鮮の政体を維持したい。韓国も朝鮮半島がアメリカのおもちゃにされて核戦争に突入するのを防ぎたい。ドイツはドイツをロシアなどの脅威から守りたい。つまり、彼らは自分たちが何者であるかということを知っており、だからこそそれを保持しようとする。つまり、彼らは自分という起点を持ち、なおかつ自分を起点にしない世界も想像しながら生き残りを図る。

だがネトウヨにはこの起点がないのではないかと思う。彼らは何者でもないからこそ関係性を作ってその中で自分たちを位置づけるしかないのである。そのためには依存する存在と見下すことができる敵が必要なのだろう。つまり彼らは「LGBTより上の自分」とか「アメリカの子分」という関係性で世界を理解しているので、構造が消えると自分も消えてしまうのだろう。

よくネトウヨが日本を破壊するという言い方をする人がいる。これは間違っているのではないかと思う。なぜならば彼らはそもそも自分たちが何者かがよくわかっていない。だからそもそも破壊するという行動に出ることはできない。普通の日本人は「英語が話せるわけでもないし、中国人とも似ていないから多分自分たちは日本人なんだろうな」と思うだけだが、ネトウヨは常に「中国より偉い自分たち」という関係がないと日本人を規定でいないのだ。

この関係を作ってからことを優位に進めようというマインドセットは憲法改正でも破綻しつつある。自民党は公明党と事前に協議した上で憲法改正案を提起しようとしていたようだが、これを公明党に拒否された。公明党は創価学会というはっきりとした総体を持っているのでこれを守ろうとする。彼らが守りたいのは創価学会なので自民党が利用できるときには利用する。憲法改正は保守派同士の内輪揉めなので彼らはそこに一つ線を引いているということになる。(毎日新聞

いずれにせよ、守るべきものがわからないのだから、彼らの行動はいずれは敗北することになる。彼らにできるのは何もしないことと、彼らが考えている世界に浸ってそこから出てこないことだけだ。

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ネトウヨの行動原理としての勝ち負け

新潮45が「廃刊に極めて近い休刊」になった。知れば知るほど出版業界の闇が深いことがわかり憂鬱になる。新潮社も「金儲け」で雑誌を出しているだけなので、経営的判断でうやむやにした方がよいと考えるなら今回の行動も非難できない。

だがライターやジャーナリストにとっては死活問題なので、彼らはこの経緯をきちんと総括すべきだろう。新潮社にとっては文芸もジャーナリズムも単なる商売のための仮面にしか見えないのだが島田裕巳のように「かつてはそうではなかった」と主張する人もいる。もし、これが本当だとすると、日本社会は食べてゆくために大切なものを切り売りしているということになってしまう。また「ビジネスとしてのエコシステムを維持しようとしていた」とするならば、長期的経営視点を失いつつあるということだ。いずれにせよ、このままでは新潮社は相撲協会のような他の閉鎖的村落共同体のように次第に「呆れられ忘れられる」存在になるのではないかと思われる。

そんな中で「これは言論弾圧だ」と騒ぎ出す人たちが出てきた。彼らは言われのない被害者意識を持っているのに、自分たちが多数派になると他の人たちを弾圧し始める。だが、この心理的メカニズムがよくわからない。少数派として多数派から非難される苦痛を知っているのだから、他人に優しくなってもよさそうだからである。メカニズムがわからないと対処のしようがない。

そんなことを考えていたところ、須賀原洋行という人のTweetを見つけた。社会人になってから漫画雑誌は読んでいないのだが、昔大学の部室に置いてあった漫画雑誌に短いナンセンス漫画で名前を見かけたことがある。


この短いTweetはネトウヨ系の人たちが持っているマインドセットをよく表していると思う。ここに「上位・下位」という概念が出てくるからである。人間関係に上と下がある。これを当たり前だと思う人もいるだろうし、なぜ上と下という概念が出てくるのかがわからない人もいるのではないだろうか。個人的にはとても意外だった。

ネトウヨの人たちの行動原理を観察していると、勝ち負けにこだわっていることはわかるのだが、なぜこだわるのかという最後の動機がよくわからなかった。だが、上下という関係を入れるとこれがよくわかる。つまり、集団の中で上の方にいる人ほど意見が通りやすいということなのだろう。

もし仮に「何が正しいのか」が論理や合理性によって決まるのであれば議論が成り立つかもしれないが、そもそも数の多さで決まるのであれば多数派さえとってしまえばよい。選挙至上主義で議会制民主主義の残りのプロセスを無視する安倍政権の姿勢と通じるものがあり、なるほどなと思わされる。言葉にしてみるとバカバカしいほど陳腐だが、誰が偉いかを決めるために選挙を行い、偉い人が全てを決めて良いという世界である。

英語にto influence peopleという言葉がある。日本語では「影響を与える」などと言ったりする。これは自分がロールモデル(規範)になることで相手が従いたくなるような人間になることを意味する。最近ではインスタグラムのインフルエンサーというような使い方もされる。つまり、人々を従わせるには数で多数派を形成する以外にインフルエンサーになるというアプローチがある。

これらは和訳できない英語概念だが、日本古来の伝統では徳をもって規範となるというような言い方になるかもしれない。徳を慕ってやってくるというのは英語的にいえば「影響を受けた」ということになるからだ。ただ、中国系の哲学には孝悌という上下関係もある。ネトウヨは上下関係だけを継承して徳という中核の原理を失ってしまったということになるだろう。つまり内的動機は失われ外的装置だけが残った状態になっている。これを一般的には形骸化とか原理主義化と呼ぶ。

言論封殺を叫ぶ人たちは「勢いで誰かにマウントされた」から自分たちの意見が抑圧されたと言いたいのだろう。だが、逆は成り立たない。つまり自分たちの意見は正義なのだから相手は無条件に従うべきでそれは言論封殺にならない。彼らが朝日新聞を潰してしまえと主張するとき、それは言論封殺には当たらないのである。彼らの頭の中は一貫している。自分たちは常に正しくなければならないということなのだ。

この自分たちは正しいはずなのに勢いに負けているというルサンチマンは、かなり古い類型である。薩長は徳川幕府の統治下で300年近くも「本当は自分たちの方が正しい」と主張し続けていた。また、傍流と決めつけられた人たちも自分たちのことを「真正保守だ」と考え続け、結果的に保守本流を駆逐し、力で押さえつけている。(はてなキーワード)革命を起こす上でもっとも強い動機なのだ。

そもそも、LGBT側が「社会の正解になりたがっていたのか」という問題がある。例えばLGBTが「同性愛のような精神性の高い性的指向こそが崇高なものであって、子作りだけを目的とした動物的な交わりは汚らしい」というようなプラトニック至上主義を掲げればそれは、LGBTを正解と見なすということになるのだろう。LGBTなどのマイノリティが望んでいたのは、自分たちが排除されない社会であり「自分たちが社会の正解になりたい」ということではなかったと思う。つまり、異なる性的な指向性の人であっても「共存できる」社会を目指していた。

これは上下では説明できないのだから、ゆえにこれは議論としては最初からかみ合うはずもなかった。ネトウヨの人たちは部数が20000部に届かない雑誌の中で「LGBTは生産性がない」と叫び、それが新潮社の伝統的アセットの価値を毀損すると判断された途端に潰されてしまったに過ぎない。それでも彼らはその内輪の中でいつまでも自分たちの正しさを主張していたかったのだろう。

なんとなくこうなる理由を考えてみたところ、学校の教育の問題が大きいと感じた。日本人は集団秩序に従って競争することは学ぶが、なぜ競争するのかとかなぜ集団秩序に従うべきかということは学ばない。

例えば運動会をやる前に「なぜ人々は赤組と白組に別れて争うのか」とか「個人競技大会にしてはならないのか」という議論をする学校はない。もしこんなことを言い出せば多分親が呼び出されて「和を乱す」として説教を食らって終わりになるだろう。

これは裏を返せば、誰かを説得するための技術が発展しないということを意味する。また、みんなが競争することを当たり前だと考えているものでなければ協力しないという社会も生み出される。運動会が楽しいのは退屈な勉強よりもマシな行事であり、なおかつ誰でもなんとなく勝てる可能性があるからだ。

学校で学ばなくても目はしの利く人は他人を動かす技術を学ぶわけだが、他人を動機づける技術を持てないネトウヨ系の人たちは「仕組みをととのえろ」とか「地震のときは仕方がないから政府に従え」と主張する。他人を動機付けできないので、他人が否応無しに自分に従う環境を作りたがるのである。

一部の人たちは猛烈に反対するが、批判に加わらない人の方が圧倒的に多い。彼らは声を上げないで遠巻きに「自分が利得を得ない」競争に協力することを避ける。外にいては距離を置き、中では力を出し惜しみすることになる。場合によってはカツカレーだけを食い逃げし、さらに頭の良い人は非公式文書をマスコミにリークして混乱を楽しむ。

こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。

この考察を通じてなぜネトウヨが「マウンティングしたがるのか」ということはわかるし、逆に多数派による少数意見の封殺と勝負へのこだわりを持っている人たちのことをネトウヨというのだなということがわかる。ネトウヨのマインドセットに冒されている人を説得することはできないので、周りから変わってゆく必要があるだろう。一緒になって「どちらが正義か」などと騒いでいても状況はよくならないからである。

今回は「ネトウヨ」を主語にして書いたが、これは例えばリベラルを自称する人たちにも当てはまる。なぜ平和主義を維持すべきなのかを他人に説得できないと、新しい人たちを運動に勧誘できない。だから当時動機付けられた人たちが抜けてしまうと運動が形骸化してしまうのだ。さらに閉鎖的な相撲ではなくルールが公平でチャンスもある国際的なスポーツ(例えばフットボール/サッカー)に人気が集まる。これは、スポーツから政治まで、多くの過疎化した村落的運動体に共通した構造なのではないかと思われる。

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米韓FTA「合意」と日本への影響

ニューヨークで国連総会が行われるのに合わせて米韓FTAが「合意」に達した。これについて日本のマスコミはあまり取り扱わないだろうと思い調べてみることにした。交渉プロセスでは、アメリカの強引ぶりと韓国の「強かさ」が目立つ。だが、重要なのは合意内容ではなくプロセスそのものである。アメリカは経済と防衛をリンクさせようとしている。また米韓両政府は内政問題とこの問題をリンクさせている。内政問題とは端的に言えば選挙である。このためそれぞれの内政の情勢次第では日本や中国を巻き込んで地域情勢が不安定化しかねない。

北朝鮮と韓国は終戦協定に向けて動いている。ムンジェイン大統領は直前に、「核兵器廃絶」が北朝鮮政府内部で規定路線になったと発表した(聯合ニュース)。ただいつも通り時期や方法についてはなんら発表が見られない。これはある意味韓流ドラマが「また来週をお楽しみに」とするのに似ている。だが、この韓流ドラマは「視聴率競争」ではない。失敗すれば、今度は核兵器付きでの朝鮮戦争の再開もあり得るという危険なゲームである。

韓国産業通商資源部は、安全保障と経済が関連していたということを公に認めている。(聯合ニュース

「南北関係と朝米(米朝)関係に変化が予想されるなか、両国が安全保障と通商の両方で安定的かつ緊密に協力することが望ましいとの考えでFTAの改定を進めた」と説明した。

この二番目の記事の最後に「この先は、米国が検討する通商拡大法232条に基づく自動車への高関税賦課で、韓国が適用を受けないよう集中的に働き掛けていくと説明した。」とある。この聯合ニュースの記事だけを読んでも意味がわからないのだが、Bloombergには次のようにある。

ただ韓国の議員らは、米国が韓国製自動車に追加関税を発動させた場合はFTA見直し案を承認しないと述べている。米韓FTA見直し案の批准には韓国議会の承認が必要。

つまり、今回の合意は議会の承認が必要なのであり、議会が承認してくれるかどうかはこの時点では明確になっていない。

この鉄鋼関税は韓国の政財界に大きなプレッシャーになっていた。中央日報の記事を読むと、中国とアメリカがおおっぴらに貿易戦争を始めており「それが韓国に波及するのでは」というプレッシャーがあったことがわかる。結局、韓国は制裁的な鉄鋼関税の対象にならなかったが、代わりに総量を規制されてしまった。中央日報の別の記事は「次は自動車が危ないかもしれない」と危惧しつつも、鉄鋼が守れたと安堵する論調で書かれているが、Newsweekは韓国の鉄鋼業界の不況ぶりを次のように伝えている。

韓国で大きな外交的成果として当初歓迎された米国による鉄鋼輸入関税免除は、今ではその代わりに導入された輸入数量を制限するクオータ制がネックとなり、一部の鉄鋼メーカーの生産能力が半減するまでに追い込まれている。

日経新聞はアメリカの強硬な姿勢を次のように伝える。

改正交渉は今年1月に始まり、わずか3カ月で大筋合意に至った。その過程では、米国が在韓米軍の撤退論や鉄鋼関税の適用を持ち出して韓国に早期妥結への圧力をかける威圧的な姿勢を見せた。

どこまで本気なのかはわからないが、トランプ政権は交渉過程で「在韓米軍を引き上げる」と脅したりしていたようだ。これが実現するかどうかはわからないが、トランプ大統領の「強み」は、これを実際にやりかねないということである。

だが、この一連のことは日本ではニュースにすらならなかった。在韓米軍が引き上げてしまうと在日米軍の意味付けは大幅に変わってしまう。これについて日本が事前通告を受けていたとは考えにくい。

実は日本の防衛にも大きく関わることが経済的な取引の材料に使われており日本は蚊帳の外だったということになる。いずれにせよ、日本人には正常化バイアスが大きく働いており「安全保障環境が一夜にして激変するような事態」はなかったことにしたいという気持ちが働いているのだろう。これを照らし合わせると、総裁選挙の安倍・石破「議論」がいかに空疎なものだったかがわかるだろう。実は、自衛隊の名前がどうこうと言っている場合ではなかったのだ。

この威圧が成功したので、合意はアメリカに有利な内容になっている。アメリカは国内基準で韓国にピックアップトラックを売り込めるようになった。また韓国は鉄鋼関税の適応は免れたが代わりに輸出量を7割に抑えるように内容が変わった。トランプ大統領はこれを中間選挙の宣伝材料に使うつもりなのだろう。Bloombergの記事では「全く新しい協定」と自画自賛している。一方で韓国は議会の反発を恐れてなのか「改定」と説明した。

 トランプ大統領は24日、米韓FTAは内容を若干修正したものというより「全く新しい協定」だと述べた。一方、文大統領は通訳を介して、米韓両国はFTAを「改定」したと語った。

トランプ大統領はロシアゲートでかなり追い込まれている。中間選挙で共和党が負ければ議会からの追求が激化しかねない。すると弾劾されて二期目はおろか逮捕されてしまうという最悪の事態さえ予想される。今回もロシアゲートの調査担当者の任命権者の司法省副長官人事を巡って大騒ぎが起きている。(BBC)情報が錯綜しており「大統領の弾劾を狙っていた」とか「自分から辞めると言ってきた」とか「クビにしようとしているのだ」とか「辞める裏には危険な罠がある」などという異なる情報が飛び交っている。はっきりしたことは木曜日にわかるそうだが、トランプ政権がもはや正常な状態にはないことだけは確かだ。

ここから、アメリカが防衛を一種の他国へのサービス産業のように位置付けているということがわかる。もはやアメリカの世界戦略の一環という理解はされていないのだ。前回の防衛議論の時に小川和久氏が「日本はアメリカの世界戦略に貢献している」などと主張していたが、その主張がむなしく感じられる。小川さんが持っているチャンネルでは「日本が貢献している」ことになっているのかもしれないのだが、トランプ大統領は取引の材料としか思っていない。民意に基づいて実際に国を動かしているのはトランプ大統領なのだ。さらに、トランプ政権はもはや長期的な視野に立ってアメリカの国益を計算するような心理状態にない。とりあえず中間選挙が乗り切れるのか程度のことで頭がいっぱいになっているのだろう。

日本の安全保障環境は大きな曲がり角にあるのだが、国内でこうした議論は見られない。安倍首相には政治的なビジョンはなく、石破さんも原理原則にこだわるばかりだ。だから、アメリカの要求を丸呑みするか、経済産業省の役人たちが官僚的ないやらしさで事態をごまかすくらいの事しかできないのではないかと思う。また、マスコミもこのことは伝えないだろう。

Newsweekの記事には「日本と明暗」と書かれているので「韓国に勝った」と無邪気に喜ぶ人もいるだろうが、置かれている立場はそれほど韓国とは違いがない。また経済的に追い込まれた韓国はロシアとの経済協力に走りかねない。中央日報には造船不況により韓国経済は極東での活路を模索しているという記事があった。つまり、韓国が追い込まれれば中国やロシアとより緊密に結びついてしまうという新たな危険が生まれているのだ。

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実は危険だった石破茂総裁待望論

今回の自民党総裁選挙を見ていて面白いなと思ったことがあった。実は日本の憲政は危機的状況にあったのだが、誰もそのことに気がついていないように見えたからである。憲政の危機とは、1945年の前の数年間あったような議会制民主主義の停止の危機である。

重要なのは、危機があったという事実ではなく、その作られ方である。日本の政治危機は特定の狂った独裁者から生まれるわけではなく、集団思考による思考停止で生じるのである。それは大政翼賛会の作られ方を見ているとよくわかる。大政翼賛会も「勝ち馬に乗り遅れるな」という焦りが生んだ自己保身的な作られ方をしている。

Twitterは石破待望論で溢れていた。民主党を応援していたがあの人たちはダメそうだという空気が広がっていて、それでもとにかく安倍でなければなんでもいいという雰囲気があるからだろう。これが集団思考の最初の兆候である。つまり、目の前になんらかの危機があり「それさえ脱出できるならあとはなんでも構わない」と考える人が出てくると、社会から理性が失われて集団思考が起こりやすくなるのだ。ナチスドイツの場合、最初の兆候はソ連の革命勢力だった。共産主義が広がってきて大変なことになるのではという空気をヒトラーは利用したのである。

石破茂は憲法改正にあたって「緊急事態条項」を入れることを主張している。緊急事態条項とは東日本大震災などを想定して、地震があった時に内閣の権限を強化することを狙ったといわれる条項である。問題点は「地震など」となっているところである。つまり、全てが明確に規定されているわけではないので国会の2/3が「これが緊急事態だ」と決めれば緊急事態になってしまうのだ。東京新聞に自民党案が出ている。だがこれには仕方がない面もある。豪雨災害などが増えており何が危機的状況になるのか誰にもわからない。だから憲法に全てを書き込むことはできない。

この件について石破が何を意図しているのかということは議論にあまり関係がない。もしかしたら本当に地震の時に「ああ必要だな」と痛感したのかもしれないし、ロスチャイルド家に操られていて国を売ろうとしているのかもしれない。

ただこの「など」は結果的には大きな危険をはらんでいる。例えば、多数派を握っているが行き詰ってしまった議会多数派が「議会を解散したくない」と考えた時、適当に「緊急事態」をでっち上げて国会議員の任期を延長するということができてしまう。例えば、ポピュリズム的な政策で選挙で大勝した政権が破綻しそうになるとする。選挙をすると負けが確定しているわけだから、国会議員は保身を図ることになるだろう。そこで「今回の選挙は体制転覆を狙った敵勢力がしかけている」として、国会議員の任期を「無制限」にすることが憲法で保障されることになってしまうのである。

安倍政権の傍若無人ぶりから想定して、緊急事態条項を悪用して「総理大臣や官邸が暴走するのではないか」と懸念する人が多いと思う。しかし、内閣が法律を作ってもいずれかの時点で国会から追承認を得なければならないので、この心配は少ない。

そもそも日本人は明確なリーダーシップを取りたがらないので、あからさまな独裁者が出てきて全権を掌握した上で悪事を働くというようなことは考えにくい。あの安倍総理ですら、面倒なことは諮問機関などを作って他人の口から言わせている。むしろ考えられるのは、集団が自分たちの既得権益を守るためになりふり構わず暴走するという姿である。誰も責任を取りたくないが、今の地位を失いたくないという理由で暴走するのである。

石破はこの緊急事態条項で私権の制限を主張している。これも地震などの緊急事態にはしかたがないのではないかと思われるのだが、国会議員の保身に使われた場合のことは想定されていない。ポピュリズム的な主張で多数を形成した与党の政策が破綻し、野党が反対をする。このままでは選挙は避けられそうにない。そこで緊急事態を宣言し国会議員の任期を無期限にした上で、テロリスト(つまり野党のこと)を盗聴してもよいという政令を作り、それを追加承認するということが考えられる。

選挙がないのだから国会議員の地位は永久に保障される。めちゃくちゃな法律を乱発してももう誰も止められない。説明責任などという言葉は急速に死語になってしまうだろう。そして選挙が遅れれば遅れるほど事態は悪化してしまい、最終的には国民の暴動を招くか、外国とぶつかることになるだろう。軍事的にというより経済的に封鎖される可能性の方が高い。国を潰すのに核兵器は必要ない。国際世論の協調と経済封鎖で簡単に国は潰れるのである。

自民党の多数派が考えているのは議席の安定的な確保である。だから、彼らは熱心に「各県に一人以上の国会議員をおける権利」や「緊急事態時の任期の保障」などを求めている。彼らの頭の中にあるのは選挙のことだけである。彼らもまさかポピュリズム的な政策で国を滅ぼしてやろうなどとは思わないだろう。

ここでなぜ石破が「私権の制限は絶対に入れてくれ」と主張しているのかがわからない。議会側は「会期延長さえ通れば国民を説得しやすい方が良い」と考えているからである。考えられる可能性は、安倍首相への対抗である。今年の初め頃には「安倍よりも右派である」というポジショニングで自民党内部の支持者を増やそうとしていたのかもしれない。

石破にも地震をきっかけに日本を乗っ取ってやろうなどという気持ちはないだろうと信じたい。だが、議員の関心を引くために身分保障の観点から緊急事態条項と参議院の制度改革を持ち出したとすれば、結果的にそれが「想定外の事態」を引き起こしかねない危険があった。

もう一度議論を整理すると、次のような可能性が浮かんでくる。東日本大震災の時に「ああ、この地震の時に選挙があったらえらいことだなあ」と思った議員がたくさんいるとする。彼らは選挙を避けたいと考えて割と気軽に「憲法に書き込めばいいんじゃないか」と考える。どうせ憲法は変えられそうにないのだからいうだけ自由である。もしかしたら「地震の怖い映像をCMで無尽蔵に流せば納得してもらえるかも」くらいのことは考えた人がいるのだろう。そこに原理・原則主義の傾向の強い石破さんが出てきて「私権が制限されるような強い権力がなければ地震は乗り切れない」と考えてそれを主張し、安倍首相よりも「力強いリーダー」を志向したいという理由で「緊急時の私権制限」も入れろと宣伝している。

だが、結果的には「国会議員たちが自己保身のために国会の無期延長を決め」て「自己保身のためにポピュリスト的な政策を乱発」する余地が出てくる。しかし、国民はこのことに全く気がつかなかった。石破が総裁になる見込みはなかったので、誰も真剣に石破提案を吟味しなかったし、安倍以外だったら誰でもいいから早く変えろという空気も蔓延していた。たいてい憲法改正議論の危険性に最初に気がつくのは野党支持の人たちだが、今回はある意味「眠っていた」のだ。

幸いなことに石破は「総裁選挙に負けたら殺される」という程度の強い危機感を持っていなかった。例えば韓国のように大統領の権限の強い国ではライバルも必死になるので自然とポピュリズムが生まれやすくなる。もし、石破が政治的に殺される覚悟で選挙戦を戦っていたらもっと違ったことが起きていた可能性もあるだろう。

その意味では今回の総裁選は「ごっこ」で終わったことが国民には幸いしたと言えるだろう。小泉進次郎のいうような「武器のない戦争」ではまだないということである。

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新潮45を葬り去るのは実は簡単なのではないか

新潮45の問題を考えているうちに、これはヘイトではなくいじめなのではないかと感じた。クラスの中から誰かを抜き出したうえでその特徴を取り出して「劣っているもの」とラベリングする。そしてその人から正規のメンバー権を奪って嬲り続けるのがいじめである。いじめの特徴の一つに仄めかしがある。いじめられているということを仄めかしつつも決してそれを認めないのである。

今回の件は一見すると同性愛者嫌悪のような体裁になっているが、劣っているものを置いておいていたぶり続けるという意味ではヘイトというよりいじめに近い構造を持っている。だから、いじられた側は異議の申し立てはしても、あまり感情的な対応はしない方が良い。

では、真正保守と自称する人たちは、なぜいじめを繰り返す必要があるのかというのが次の課題になるだろう。この課題を解くためには安倍政権を見るのが手っ取り早い。

安倍政権は日本の政治で唯一生き残った政治勢力である。彼らは党内では政策には詳しいが闘争にはあまり熱心でなかった保守本流を駆逐した。彼らは公家集団になっていて実は大したことはなかった。実際に、かつて彼らを保守傍流と見下していた人たちは石破一派を除きすべて屈してしまった。情けないことに次の首相の座を恵んでくれないかと安倍政権に媚を売る人まで出てきた。

自民党は対外的には理想主義を掲げる左派を駆逐した。社民党は政権を取った段階で変節したとみなされ支持を失い、そのあとに出た民主党政権は日本の統治に失敗して自滅してしまった。6年もの間彼らは失敗の総括ができておらず、未だに分裂したりくっついたりしたりを繰り返している。

ゆえに安倍政権は勝利に酔い、思う存分彼らが理想とする政治に邁進すればよいはずなのだが、それができていない。国民は積極的に安倍政権を支持しているわけではないし、兵隊にと雇った議員たちは失言や舌禍事件を繰り返し引き起こして暴れまわっている。支持してくれてありがとうと振舞ったカツカレーは食い逃げされ、変な右翼思想にかぶれた幼稚園経営者や地方で学校経営に失敗しつつある友達がすがり付いてくるという具合になっている。とても勝った集団とは思えない。

憲法改正ももともとは保守本流だと威張っていた人たちが勝手に決めたのが気に入らないというようないい加減な動機で動いているに過ぎない。民主党政権下で自民党有志に憲法改正草案を話あわせたところ「選挙で負けたのは国民がバカだからだ」国民の基本的人権を制限しようということで話がまとまった。今回も「既得権益を守るために県に必ず一つは議席を確保すべきだ」という話になりつつあり、統治機構をどう改革し、そのためにどう国民を説得しようという議論は全く出てこない。首相本人でさえ「とりあえず憲法が変えられるなら自衛隊という名前を憲法に載せればいいや」と言い出している。

政治にやりたいことがないのと同じように、保守論壇にも実はやりたいことがない。ある人たちはとにかく偉そうにしている左派が気に入らなかった。そして別の人たちはとりあえず食べてゆくためにどこかの論壇で認められる必要があった。ゆえに、自称保守の人たちは絶えず敵を作り出してはそれをあげつらっている。最初の仮想敵は共産主義だったが、共産主義は実質的になくなってしまったので、中国や韓国を攻撃するようになった。そのうち民主党が敵になり、彼らが標榜していた「コンクリートから人へ」を攻撃するようになる。この「人」に当たるのがいわゆる拡張された人権である。

安倍政権が勝ったわけだからそれを支えた論壇も官軍側である。やっと自分たちの時代が来たのだから官軍らしく理想の政治を語り周りを説得すればいいと思う。しかし、彼らはそれをしない。盛り上がるのはホモやオカマには人権がないといった程度の話だけであり、ホモに人権を渡すなら痴漢だって大手を振って電車に乗っていいはずだという中学生でも恥ずかしくて書けないようなことを書いて喜んでいる。そして、それを日本で最も古い文学アーカイブスを持った会社がサポートしているという惨憺たる状況なのだ。

スポーツにもいじめの構造がある。いじめの側に立つかいじめを黙認した人はたいてい過去に勝った人だ。しかし勝利というのは実は儚い。オリンピックに出場して金メダルを取ったりチャンピオンシップでチームを勝利に導いたとしても注目されるのはほんの一時のことである。彼らが引き続き注目を得続けるためにはオリンピックで勝ち続けなければならない。だからなんでもやる。そしてその「なんでも」が社会の規範とぶつかったとき炎上が起こるのだ。

スポーツでは「勝った」という成果よりも、なぜ勝てたのかというプロセスや競争を通じて成長すること自体が大切である。だが競争が自己目的化されてしまうとそれがわからなくなる。そしてなんでもいいからとりあえず勝たなければならないとなった時に社会の規範とぶつかってしまう。

実は安倍政権も同じように破綻しつつある。ロシアの大統領は公開討論の場でわざわざ安倍首相の顔を潰して見せた。よっぽど腹が立ったのだろうが、その気持ちはよくわかる。中国やロシアは民主主義が十分に発達していないのでいつでも政権が打倒される危険性がある。そのためには本当に勝ち続けなければならない。彼らは経済成長を目指してなんでもやろうという覚悟を持っている。

あの北朝鮮ですら「核兵器開発」は体制維持のための必死の策であり、それをどう利用しようかということを現実的に考えている。だから「放棄」を仄めかしつつそれを延期させようとしている。

その真剣勝負の場所に安倍首相はヘラヘラとでかけていった。「おいしいところだけ食べさせてください」というわけだ。しかし、安倍首相が裏で中国の悪口を言っていることも、インドやオーストラリアに働きかけて「一緒に封じ込めましょうよ」とふれ回っていることも知られている。公開討論の場で殴られなかっただけでも、安倍首相は感謝しなければならないだろう。

当初この話は様々な村落的な行き詰まりを構造的に分析するようなものになるはずだった。その線で何回か書き直したのだが、いつも最後の所で行き詰ってしまう。「で、構造が分かってどうするのか」と思ってしまうのである。

行き詰って立ち寄った本屋でダイエットの本をたくさん見た。最近のダイエット本は売るのに苦労しているようだ。体の痛みがなくなるとか、痩せるとか、頭が良くなると言った具合に動機付けのワードがタイトルについているものが多い。実際に痩せてみれば気持ちが良く健康にもなれるし、外見を自分でコントロールできるのは楽しいのになと思った。

ダイエット本が売れ続けるのは痩せたことがない人がたくさんいるからなんだろうなと思ったところで気がついた。「他者をいじめる本」がなくならず、政治が嘘をつき続けるのは、多分鏡に映った自分の姿が気に入らないからなのだろう。写真を加工したり鏡を歪めれば当座はしのげるだろうが、やっぱり嘘は嘘なので、次の嘘を探さなければならない。

つまり、こうした嘘の構造は「これは嘘なのだな」と認識したら、それ以上深掘りしても意味はなさそうだ。それよりも自分たちが変わるための第一歩を踏みだすべきだろう。多くの人たちが「自分たちは変われた」という実感を持った時、新潮45のような雑誌も安倍政権のような嘘の政権は世間から忘れ去られてしまうのではないかと思ったのである。

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「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」について考える

先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。

新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。

前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。

今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。

この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。

もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。

さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。

ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。

これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。

巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。

最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。

スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。

スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。

新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。

今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。

女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。

新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。

さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。

いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。

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新潮社には不買運動ではなくスポンサーへの抗議で抵抗すべし

新潮45が杉田水脈議員のバッシングを擁護する文章を載せて騒ぎになっている。会社としては最初は人権に配慮してやってきたしこれからもやって行くとしていたのだが、騒ぎがテレビに取り上げられるようになると休刊を決断した。

これも「言論の自由」の一環でありこの発言を封殺することはできない。実際に休刊に対しては「言論封殺だ」という批判もでていて、却ってこうした主張が地下化しかねない。

ただ、「一つの雑誌が思いつきでやっているわけではなく新潮社の経営陣の意図だという観測が主流になりつつあるようなので、新潮社そのものが許容されるのかという点は議論されるべきだろう。AbemTVの取材によると、社長の発言なのに「甘くなったのではないか」と他人事のように書かれている。実際には新潮社という会社があるわけではなく、雑誌や文芸という村がなんとなく共存していた様子がうかがえる。

新潮社が議論の対象になるのは多くの人が若い時に新潮文庫で文学を学んだからだろう。つまり新潮社はこうした人々の思い出を人質にとって、あまり根拠のないヘイトを撒き散らしているということになる。このヘイトは、一部の人たちが勝手に他人の価値を決めて良いという極めて傲慢な思想に基づいており、これが周囲の価値観とぶつかるのは時間の問題だった。朝日新聞によると、編集方針が変わる前から新潮45に執筆をしていた小田嶋隆は「あまりに唐突な方針転換で、このまま無事では済まないと、ある程度予想していた」という。

もう一つこの件でわかったのは、他人の人権を踏みにじることで喜びを感じる人が社会に一定数いるという現実である。津田大介のTweetからも新潮社が意図的にこうした意見を取り扱っていることがわかる。つまり、それが売れるという現実があり、私たちは無条件で人権が守られるという幻想を捨て去るべきである。

編集者一人ひとりの心情を察するとこれを指摘するのはためらわれるのだが、この件でもっとも許し難いのは文芸部門の存在である。杉田水脈議員の発言に反対の立場だったようであり、Twitterでの一連の発信が話題になった。一部で不買運動が起きているのだが「新潮社にも良心的な人がいるのだから、不買運動はやりすぎなのではないか」という人が出てくるのはそのためである。

しかし、このヘイト擁護が経営者の意思である以上、新潮社は文芸を含めて不買運動の対象になるべきだろう。もしそうでないとするならば経営者は「それぞれの雑誌の判断だ」と逃げの姿勢を示さずはっきりとこれについて語るべきだ。しかし、誰もそれをせず、結果的に新潮45はLGBTの人々を「生産性がない」と蔑んだ。中には傷ついた人たちもいたはずだが、最後まで誰もLGBTの人に謝罪をすることも、なぜこうしたヘイトが放任されたのかを説明する人もいなかった。これが集団思考の恐ろしさなのである。

新潮社はもともと新聞に対抗して「新聞が扱えない金や女」を扱うことで俗物的な人々を引きつけてきた歴史がある。新潮45の路線はこれを引き継いでさらに過激にしたものである。高齢者にはもはや女と金を追求するような欲は持てない。そこで出てきたのがこのヘイト発言だったのだろう。経営は積極的にこれを推進したのではイカもしれないが、結果的にこれを許容した。

この新潮45がここまで大きな存在になったのは週刊新潮を作り俗物主義を定着させた斎藤十一の影響が大きいようだ。Wikipediaの斎藤十一のセクションは、体が弱く吃音もあった人が戦後の左翼的な世論に反発して保守思想を強めたというような筋立てで書かれている。

ただ、現在の佐藤隆信社長の経歴を見ると東京理科大学を卒業して電通経由で新潮社に入ったことがわかる。この斎藤イズムがどの程度経営に浸透していたのかということは実はよくわからない。社内の俗物志向に取り込まれてしまった可能性もあるが、遅まきながら廃刊を決断したことから、社内の「専門家集団」に経営的な指示や指摘ができなかっただけなのかもしれないとも思う。

他人の権利を蹂躙してもよいという現代の保守思想の背景をみると、このひ弱さを持つ人が左翼思想に反発して強大な権力を思考するようになるという類型がよく立ち現れる。安倍晋三にも同じような軌跡があった。斎藤は1997年まで新潮社で影響力を持ち続けたということなので、現在の経営者たちもそのような人に取り立てられた人たちなのだろう。今回も形ばかりの謝罪で逃げ切ろうとしているようだが、この姿勢も今の政治とそっくりである。何が悪かったかということは決して言わないし、謝罪もしない。世間を騒がせたから「受け取られ方が悪かった」ということなのだろう。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

株式会社 新潮社

代表取締役社長 佐藤隆信

それでも斎藤十一は「自分たちも俗物であるのだから、俗物的な記事を書くのだ」と考えた様子が見える。つまり、ギリギリ社会に共感意識を持っていたということになる。ところが今の新潮45は「自分たちは正義と権力の側に立つ人間であり」その立場から相手の存在価値をさばいて良いのだと考えているのだろう。そして社長は「それはダメなのだ」と指摘できない。佐藤社長がよそから入ってきた「外様」であり、村生まれの「文芸人」や「ジャーナリスト」ではなかったからなのかもしれない。

巷間漏れ伝わってくる杉田擁護の文章を見ていると「よくは知らないが」と切り離した上で「彼方の出来事」を冷笑的に語っている。誰一人として責任を撮ろうともしない人たちが、読み違えたのはこの「切り離されそうになっている人々」が実は多いということだ。レイプや痴漢を擁護することによって女性全般まで敵に回してしまった。

さらに、これも言いにくいことだが、新潮社の文芸は「俗物志向」に食べさせてもらっているという苦い事実がある。文芸では食べて行けないからであろう。しかしながら俗物志向側にも一定のメリットがある。つまり文芸を置くことで「新潮社は文化的な会社なのだ」という印象が得られる。村の人たちは別の村だとみなしているかもしれないが、外の人はそうは見ない上に、実はお互い二利用し合っている。今回の社長のコメントでも「文芸出版社」を名乗っているのがその現れである。新潮45は「廃刊に近い休刊」として逃げてしまえばいいが、結果的に文芸部門が突きつけられている残酷な課題は「他人の人権を蹂躙してでも、自分たちだけはきれいごとをいって生き残りたいか」という問いである。

例えば事実上の売春行為が蔓延するようなナイトクラブで昔からの伝統芸を守っている人たちが囲ってもらっているようなものである。ナイトクラブ側は店の外での行為を黙認しつつ自分たちは「伝統的な技能者を抱えているから老舗でございます」と言っていることになる。

新潮文芸部は「文句」は言っても中からの改革は求めなかった。つまり「自分たちだけは違う」と言いたいのだろう。果たしてそのような文芸に芸術としての価値があるだろうか。それどころか文芸セクションは「炎上芝居」の片棒を担いでいるのではという観測すら出ている。確かに根拠はないが、文芸編集部Twitterの発信のタイミングをみると頷ける話である。

「世間の関心を得られない文芸が生き残るためにはそれでも仕方がない」という見方もできるのだが、逆に商業的に文芸が生き残る上でも壁になっているのではないかと思う。しかし、文芸がこれを脱却できないというわけではない。

松山の俳句集団の夏井いつきは俳句甲子園というイベントの仕掛け人の一人である。俳句甲子園は「俳句の普及」を目指した大会である。夏井は次のように語っている。

「単純な俳句大会ではダメだと思ったの。5人対5人の団体戦で、俳句のよし悪しを議論するのが絶対に譲れないラインでした。高校生にとっては、議論を通じて泣いたり、笑ったりすることが大事だと思ったのね」(夏井さん)

俳句にイベント性を持たせるということは観客を意識しているということだ。つまり俳句を閉ざされた文芸からスポーツのように観客のいるものに昇華させようとしている。これは俳句が売れなかったところから生まれた工夫なのではないかと思う。文芸にはこうした生き残り方もある。

きつい言い方なのかもしれないのだが、俗物主義とそれが劣化したヘイトに依存している限りいつまでも「どうせ誰にもわかってもらえない」文芸からは脱却できないのではないか。

一部では不買運動が始まっているようだ。本屋の中には「新潮社の本をおかない」というところも出始めているようだ。これはこれで構わないと思うのだが、新潮社が個人の買い手に依存していない以上、効果は限定的なのではないかと思う。

こうなると別の圧力の掛け方をした方が良いだろう。新潮社の雑誌に広告を出している会社に働きかけて不買運動を起こすことがそれにあたる。冒頭に述べたように、新潮社は経営的な観点から「ヘイト」で商売をする権利はある。しかし、消費者としても、新潮社の姿勢を応援する企業からものを買わない自由はあるわけ。

スポンサーの中にはオリンピックに関連しているところもあるという。このままでは世界の恥をさらしていることになる。

いうまでもないことだが、これはLGBTだけの問題ではない。国や社会が勝手に「誰が価値のある人間か」を決めて、それを一人ひとりに押し付けようとしている社会に住みたいかということだ。杉田議員はこの価値観を押し付けたい人たちの先兵になっていて、新潮社はそれに加担している。そして文芸セクションは、意図しているかどうかは別にして新潮社があたかも「良心も」持っているように偽装するための装置になっている。

新潮文庫は大正3年に創刊され日本ではもっとも歴史の古い文庫なのだそうだ。純文学好きな人は必ず1冊くらいは新潮文庫を読んだ経験があるはずだ。彼らは間接的にヘイトに加担することで、人々の大切な思い出を踏みにじっている。これを許すか許さないかの判断は一人ひとりが行うべきだろう。

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小泉進次郎はなぜためらったのか

小泉進次郎衆議院議員が遅まきながら石破支持を表明した。これで向こう三年間干されるかもしれないというリスクがあり、いっけん合理的な選択とは思えない。今回はこれについて考えてみたい。

今の日本は「安倍なるもの」が蔓延しており、マスコミもうんざりしていたのだろう。その毒を解消する薬、あるいは一服の清涼剤として期待されていたのが小泉ではないかと思う。その期待に応えるべきなのか、それともスルーすべきなのかという点に思案のしどころがある。

安倍晋三支持に回ると、安倍首相に取り立てられる可能性が高くなる。だが、ただではポストは転がってこない。そのためには「利用価値が高くある」必要がある。

安倍晋三の利用価値が高かったのは、北朝鮮の拉致問題でスターになったからなのだが、大した外交成果をあげられるはずもない新人議員は外交以外の方法を使う必要がある。その代表が杉田水脈議員だ。今の政治に興味を持っている人はヘイトに関心を持っているから、杉田のような発言が商品価値を持つことになる。それは裏返すと「それ以外の人が政治から距離を置いている」ということになる。

この「普通の人たちが距離を置いた感じ」を小泉は意識しているのではないだろうか。総裁選挙が終わった後のインタビューで、小泉は「政局は闘争なので何でもありだ」としたうえで「記者の目を見て噛みしめるように」感想を語った。つまり「記者の入ったことを一旦飲み込んで自分の頭で考えた上で」語ったわけである。これが期せずして(あるいは意識的なのかもしれないが)安倍や石破と全く違っている。安倍はあらかじめ記憶した発言を壊れたレコーダーのように繰り返すだけだし、石破の口癖は「ですから……」である。つまり、今の政治家はマイクの向こう側をあまり気にしていない。だから有権者が彼らの言葉に関心を示さないのだ。

安倍首相に取り立てられるということは安倍の嘘にお付き合いしなければならなくなるということを意味する。ここから先は過去6年間の嘘の記憶と結びつけられることになる。現在を高く得る必要がある人はそれでも突き進んでゆく必要があるのだが、未来のある人間にとっては明らかに損な選択である。加えて、政策について勉強する時間がなくなる。実経験に乏しい世襲政治家は決して本で政策について学ぶことはできないのだから、できるだけ多くの人や政治的課題に出会う必要がある。それが政治家のその後を決める「根」になる。

小泉進次郎には「非主流派」のつもりで投票したら「期せずして流れが変わり」スターになってしまう可能性があった。すると「安倍・杉田」コースを歩むことになる。政治家としての「根」がないままで、周囲が「実」を期待するようになる。安倍晋三は手品のようにいろいろな「実」を取り出しているが根っこがないのでどれも嘘になってしまう。杉田水脈にはそもそも根を張る時間さえない。次々と炎上案件を探してきては周囲の期待に応える必要があるだろう。新潮45は今回商業的に成功してしまったので、出版社はもっと過激な次を求めるはずだ。

これを踏まえて、安倍首相が嘘の政治家になるきっかけになった安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密を思い出してみよう。政治家の家に生まれたというだけで政治家になってしまった一人の青年の話だ。営業にセンスがあり、性格も明るく、仕事も面白くなりかけていた3年目に父親に呼び戻されて秘書になった。政治から離脱した兄を除いた二人の兄弟はそれぞれ「岸家」と「安倍家」の後継になるのが当然とされていた。

世襲の政治が悪いとは言わないのだが、この後が悪かった。当時、金権自民党の権威は地に堕ちており結局は村山富市をいただいた社会党政権に参加する。「誇りある自民党」の議員が長年のライバルであった社会党にひれ伏したのである。その後も離脱者や政党の組み替えが相次ぎ自民党の内部は安定しなかった。

バブル崩壊期の政治課題は金融機関対策だった。ゆえに政策課題の中心は金融だった。ところが金融の政策通と呼ばれるためにはそれなりの基礎知識が必要である。「沈黙の仮面」には「政策新人類になれなかった若手時代」という項目がある。経済を勉強したことがなかった安倍議員はここで政策通になれなかった。ある議員は安倍から「おい。金融ってそんなに儲かるのか」と声をかけられ苦笑いするしかなったという。つまり安倍議員はなぜ金融政策が重要なのかということを理解できなかった。

結果的にはバブルの後処理は十分に行われなかった。安倍政治の基本にあるのは、左派へのルサンチマンと専門屋についてのルサンチマンだろう。つまり偉そうに上から目線でいろいろ言ってくるのに具体的には何も解決できない人たちに対する恨みである。だがこの恨みも必ずしも根拠のないものとは言えない。実際に成果があげられなかったからである。

金融問題では仲間に加われず、その後の社会保障の問題もうまくまとめることができなかった、と本は分析する。だが、その代わりに仕方なく取り組んだ「外交問題」がたまたま当たってしまったことでスターに祭り上げられることになった。

本来なら10年程度の「雑巾掛け」を済ませたら、大臣などを務めて組織のマネジメント経験を積む必要がある。しかし拉致問題でスターになっていた安倍議員は政務次官すら経験せずに、幹事長と内閣官房長官に抜擢された。岸信介と安倍晋太郎という有名政治家の血筋に連なり「スター性」があったからだ。実はこの状況が小泉進次郎に似ている。

安倍が当時打開したように見えたのは、長年動かず問題さえ認識されていなかった北朝鮮問題の拉致問題である。変化を嫌う日本人だが、誰かが簡単に何かを打開してくれるヒーローにも期待している。拉致被害者を悪の帝国から救い出した安倍は人気政治家になった。周囲も「次世代ヒーロー」を育てるつもりで多少の演出をしたのかもしれない。だが、それは同時にその嘘に自分が飲み込まれしまうリスクを負うということでもある。そして安倍はその罠にはまり、現在もう一つの「絶対に成功できそうもない」北方領土の問題で失敗しつつある。

現在小泉が背負わされようとしているのは「嘘にまみれた政治状況を一発逆転して打開すること」である。現在の政治に欠けているのは「対話」だ。嘘はシナリオを必要とするので対話ができない。記者たちは明らかに「小泉のように対話してくれる政治家が流れを変えてくれたら面白いのになあ」と思っているのではないだろうか。現在の政治記者はジャーナリストではなくシナリオライターでありマーケターなのだ。

父親である小泉純一郎は選挙の顔として安倍晋三を使い潰した。つまり小泉純一郎は人を育てなかった。悪意があったというよりはそのような余裕がなかったのかもしれない。使い捨てについては次のような記述がある。

事実、森は幹事長人事からそう日をおかずに腹心の国対委員長・中川秀直を通じて小泉に強く、クギを刺している。

安倍くんの使い捨てだけは絶対にしないでもらいたい

小泉の性格をよく知る森は、ピンチに立たされた安倍が泥まみれになって小泉からポイ捨てされる事態を強く警戒していた。田中真紀子の例もあった。

「田中真紀子の例」については田原総一郎と森元首相の対談に詳しい。選挙で応援してもらうのと引き換えに外務大臣にしたのだが、気に入らない人をいじめたりとやりたい放題だったためにマスコミに叩かれた。最終的に野上事務次官と対立し国会答弁に支障をきたすようになると首相は庇いきれなくなり、国会審議を正常に戻すという名目で「電撃解任」してしまったのである。小泉純一郎は大蔵畑であり外交には興味がなかったのではという観測もあるそうだ。

ではなぜ小泉はこのような手段を使ってまで闘争に勝とうとしたのか。この元にあるのが「保守本流」と「保守傍流」の対決である。保守本流は経済大国日本を作ったのは現実的な対応をしてきた自分たちであるという自負があり、そもそも論を唱える人たちを傍流と蔑んできた。

本流の創始者である吉田は吉田学校を作り官僚を政治家として取り立てた。ここから田中角栄のような型破りな例外は除いて、政策通ではあるが軟弱な議員が増えた。彼らは党内闘争のような「みっともない」ことよりも政策を語れる政治家になりたかったはずである。この保守本流に「既得権にしがみつく造反者」というレッテルを貼ったのが小泉純一郎である。政権を取ると刺客を送り彼らを一掃し、彼らの既得権益である郵政を「ぶっ壊し」た。

古い日本の伝統文化を知っている貴族が「細かいことはわからないが腕は立つ」武士にやられたようなものかもしれない。

「保守傍流」と揶揄された人たちは真正保守を名乗ったそうだ。彼らが反対しているのは憲法ではない。憲法を作り自分たちを「保守傍流」と蔑んでいた吉田派の人たちである。安倍晋三議員は自身が政策についてよくわからなかったこともあり、真正保守の仮面を身につけてゆき、吉田茂を「アメリカに阿ったみっともない政治家」と蔑む意味で「みっともない憲法」と呼んだのであろう。岸信介が憲法改正の勉強会を作ったことを評価する人もいるのだが、当時の制憲過程に関われなかった人たちが吉田に反発して作ったのだという人もいる。つまり作り方や作った人たちが気に入らないという気持ちがあるのである。

ただ、小泉進次郎がこの対立を「受け継がなければならない」という理由はない。

現在の安倍首相の嘘は国民の要請である。不安は解消したいが変わりたくないという声に応えている。だがその副作用として嘘や隠し事が横行する。国民は変わりたくないので「嘘だけが洗い流されてくれないかな」と思うようになる。Twitterを見ているとこのことがよくわかる。石破の政策を読んだこともなさそうな人が「石破頑張れ」と応援したり、小泉進次郎は臆病なのでけしからんと言っている。多分、誰かが政権についたら途端に「石破けしからん」とか「小泉は口だけだった」と罵り始めるだろう。単に淀んだ空気に耐えられないと言っているのである。

マスコミもこれに加担している。「小泉進次郎が流れを変えた」というヘッドラインを一文を欲しがってる。明日の仕事がそれで済むからだ。もっとひどいところは杉田水脈論文を掲載して部数を稼いでいる。政治家にヘイトを言わせることで金儲けをしているのである。その一方で白頭山に登ったムンジェイン大統領と金正恩委員長の写真はほとんど取り上げられなかった。現実に何が起こっているのかをつぶさにみるということを忘れているのだろう。世界情勢というシナリオ作りには日本のマスコミは関われない。その意味ではみんな映画監督や脚本家になりたいのだ。

こんな状況下で「祭り上げられそうになった人」がためらうのは当然と言えるだろう。小泉進次郎にとって幸いだったのは、その虚しさを知っている人が身近にいたという一点だけなのではないだろうか。つまり、小泉純一郎が「ああはなるな」と言っているのではないかと思う。

小泉進次郎が成功できるかは、今どんな根を張れるかにかかっている。そのためには時間と養分が必要だ。問題はその土壌に養分があるかということになるのかもしれない。

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民主主義が根元から腐り始めている国 – 日本

今日は、制度を変えれば全てがうまく行くのではないか、という見込みについて書く。多分それは間違っていると思う。ではなにが問題でどうすれば良いのかというのが次の疑問になる。

先日、QUORAで「選挙区の区割り」についての質問を二つ見つけた。一つは「選挙区の区割りが地域別なのはどうしてか」という質問だった。一度答えを書いたが「気に入らない」と言われた。どうやら「地域で割り振ると地域エゴが出る」という思い込みがあるようで、それに沿った答えを書いて欲しいのだろう。疑問のふりをして実は答えが決まっているという人はそれほど珍しくない。

地域で割り振らないとしたら大選挙区制(結局比例代表単独制度と同じことになる)にするか、別の区割りを考える必要があるのだが、そのような制度を採用している国はない。では、何が問題だと思っているのか。一応コメント欄で聞いてみたが答えはなかった。これもよくあることだ。

これとは別に「年齢別に割れないか」という質問があった。質問文は「この制度はよい制度でしょう」という含みが感じられた。老人の要求ばかりが取り上げられて、若者や生産年齢の人たちの要求が伝わらないというフラストレーションが背景にあるのだと思う。。

両方に共通する思いは「今の政治は何かうまくいっていないが、なにがうまくいっていないのかよくわからない」という苛立ちだろう。そこで、選挙制度を変えれば意見が通るようになるのではないかという考えが生まれるのだろう。

だが、こうした考え方には賛同できない。いくつかの会社で同じようなことをみたことがあるからだ。

社長に就任すると組織や会議の構成を変えたがる会社がある。つまり組織という制度を変えれば何かが変わるのではないかと思うのだろう。「営業部」とか「マーケティング部」などを作るとお互いに責任を押し付けあって物事が進まないことがある。そこで、責任の所在を明確にするために事業部を作って競わせようと考える経営者は多い。だが、組織を変えても当事者意識は生まれない。そこでインセンティブ制度などを導入すると却って嘘が蔓延したり、自己保身から新しい挑戦をしなくなる。問題は「社員一人ひとりの意識なのだ」とわかった頃には取り返しがつかないことになっている。

日本の選挙制度は戦後大きく入れ替わっている。中選挙区はお金がかかるからいけないという理由で現在の小選挙区制に改められた歴史がある。しかし、お金がかかるからというのは表向きの理由であって、実際の理由は別のところにあった。「党内派閥を潰したい」という内向きの動機と「目障りな中小政党を潰したい」と外向きの思惑だった。思惑通りにことは運んだわけだが、二大政党制のような制度は生まれず、党内からもアイディアが上がらなくなった。

最近では、与党の政治家が野党の政治家に「中からでは声があげられないからなんとかしてくれ」とお願いすることもあるそうだ。党内で意見が言えないなら高いお金をかけて送り出している意味はないのだから、国会の定数は1/10くらいにした方が良いのではないかと思う。

冒頭の「選挙制度から地理区分をなくしたらいいのではないか」という説については、気乗りはしなかったものの、やはりリクエストがあるのだから調べてみようと思った。全国区だけしかないという選挙制度をとっている国はなさそうだ。

人工的な区割りで思いついた国が一つだけあった。人種・収入別に分けてしまえばよいわけである。過去にそういう国があった。選挙の区割りだけでなく国まで作ったのである。

南アフリカ共和国は白人を優遇して黒人を支配していた。これが人種隔離政策であるとして国際的な避難を浴びるようになると白人は「国から黒人を追い出してしまえばよいのだ」と考えるようになる。天然資源は自分たちで独占し、劣悪な土地に黒人たちを移住させた。こうした国々は「バントゥースタン」と呼ばれ国際的な避難の対象になった。差別が固定化されたことで住民たちの怒りを買うことになり、結局は白人政権は打倒されたという。

人工的な枠組みを決めるのは権力者なので、権力者に都合のよい制度が生まれるのは当たり前である。だから非伝統的な選挙区割りはあまり良い結果を生まないのだろう。

そもそも国とは何なのだろうか。それは「自分たちの未来を一緒に決めて行こう」と決意した人たちの集まりである。政治は選挙で終わるわけではない。むしろ議会を作って話し合いをすることが重要なのである。もちろん現在の小選挙区制度が良いとは全く思わないのだが、実際の問題は意欲の低下なのである。

実際に「もう一つの枠組みでは無理だ」という地域は出始めているのだが、たいていの場合それは「格差による分裂」によって起こる。格差が広がっているカリフォルニア州はすでに一つの地域としてはまとまれなくなっており2018年11月には住民投票が予定されている。またヨーロッパでも先進地域(税金を多く払っている)と後進地域(保護の対象になっている)の間に対立があり、一部には独立運動がある。

だが、日本にはこうした対立が少なくとも表立っては存在しない。日本で顕著なのは意欲の低下である。安倍首相は虚構の成功に引きこもってまともに現実を見なくなったし、石破候補も実際には経済をよくする具体的なアイディアを持っているわけではない。

世間を知らずに政治家になるしかなかった人たちが集まって政治闘争だけを繰り返しているうちに「自分たちにはどうせ何もできない」という自己認識を持つに至ったように思える。そしてそれを支えるのは無関心だ。民主党に政権を任せてみたが結局何も変わらなかったという諦めを持っている人が大勢いるのではないだろうか。

足元では「制度に何か欠陥があるのではないか」と考える人たちが出始めており、彼らは「自分たちの気持ちが政治に反映されていない」という不安を感じている。こうした人たちが現在の政治状況を肯定的に捉えるとは思えない。

カリフォルニアやヨーロッパでは表向きにはいろいろな分裂運動が起こっていて政治状況が安定しないように見える。しかしそれは民主主義という根がしっかりあるからこそ起こる動きである。日本では地上部は立派で安定しているように見えるのだが、実際には根が腐っている。多分、枯れる時には一瞬で枯れるはずである。そうならないようにするためには土を耕して空気を送りこむしかない。

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安倍晋三・世襲が作った嘘の政治家

先日来「なぜ安倍首相は嘘をつきつづけるのか」ということを考えている。そんな中、安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密という面白い本を見つけた。記者は共同通信で長く安倍首相近辺を取材されていた方のようである。インサイダーではないので安倍賞賛にはなっていないが、かといって反発する目的で書かれたものでもなさそうである。

この本には安倍晋三という個人の虚言癖についての記述が多いので、その筋の人たちからは「反日」というレッテルを貼られているようだ。特に宿題をやっていないのに「やった」と嘘をついたという話が有名で、ネットで「安倍首相の嘘」で検索をすると簡単にこの話を見つけることができるというのも安倍信奉者の怒りを買っている。

ただ、本を読む限りでは反安倍と呼ばれるほどの内容にはなっていない。そしてこの本を読むとなぜ安倍晋三が嘘つきになったかということよりも、どうして嘘つきが首相にまで上り詰めたかということに構造的な問題があることがわかる。構造的な問題を作ったのは小泉純一郎である。ではなぜ小泉が自民党をどうぶっ潰したのかということが次の問題になるだろう。

もともと岸信介と安倍寛という政治家の孫として生まれた安倍晋三は特に父親の愛情を知らずに育った。安倍晋太郎は生後80日で両親が離婚しており母親には会えず、家族をどう愛していいかわからなかったという記述がある。安倍晋太郎も父親を早くに亡くしており、政治的には岳父である岸信介からの影響を受けている。親の愛に恵まれなかった晋三は岸信介のおじいちゃん子として育つのだが、三男が岸家に養子に入ったために岸信介から政治的な思想を引き継ぐことはなかった。安倍晋三は岸信夫が養子だということを知っていたようだが、岸信夫は長い間その事実を知らなかったそうだ。

普通に読めば「政治家の家ってそうだよな」と思えるのだが、改めて考えてみると不思議な点がある。家業が優先され、家庭が本当に教えるべき父親の役割がないがしろにされているのはなぜなのだろうということだ。日本の「イエ」は密室になっていて、父親がどのように子供の内的規範を作るのかという点がとてもぞんざいに扱われている。男は家の外のことで忙しく、子供にかまっている暇はないので、日本の子供は父親の存在を知らずに過ごすことになる。

石破茂は厳しい母親の影響を受けて育ち、慶応大学在学時には弁論大会で一位の成績も取っている。しかし安倍晋三にはそのような経歴すらない。周囲の働きかけと政治的な思惑があり神戸製鋼に入社するが周囲は腰掛けとして扱った。そして海外の営業先開拓の仕事に面白みを感じかけたころに父親から秘書の話をもちかけられて、反抗しつつも秘書になってしまう。一方石破茂も父の急逝に伴って銀行を3年で辞めている。

冒頭で「必ずしも安倍晋三を貶めるないようになっていない」と書いたのだが、それには理由がある。第一に、安倍晋三が中身がないまま政治家になった裏には親にまともに愛してもらえず、特別扱いしてもらっていたおじいちゃんも弟に取られるという事情があるというようにかなり同情的に書かれている。

もう一つ好意的に扱われている箇所がある。腰掛けのつもりで入った会社で面白い仕事を見つけた時期があったのだという。もし安倍晋三を貶める目的で書かれたほんならば削除されていたかもしれない項目だ。人柄も明るく周囲は「アベちゃん」と言って可愛がったそうだ。製鉄所の現場では気難しいブルーカラーの人に頭を下げなければならないのだが、海外営業では大きなプロジェクトを獲得した経験もあるのだそうだ。安倍青年の性格が営業向きであったことは間違いがなさそうであり、必ずしもダメな坊ちゃんが政治家になったから失敗したというような話ではないのだ。

安倍晋三には安倍晋太郎の秘書だった時代が10年弱あるのだが「安倍家の出自についてはあまり触れたがらず、岸の血筋ばかりに言及する」というところからわかるように、愛情を注いでくれなかった上に無理やり秘書にした父親には一定の反発があるようである。一方で尊敬する岸に政治的な薫陶を受けているわけではない。

この断絶についてはあまり細かな記述がない上に、当時の政治的状況がわからないと「意味が取れない」箇所が多い。日本は戦前・戦中体制を否定する過程で中国的な思想や政治哲学を忘れてしまう。当時の思想を持った人たちも根こそぎ公職から追放されてしまったからである。さらに、当時の先生や教授などのインテリ層には「革新」と呼ばれた左派の影響が強かった。この影響から「左派が嫌いだから」という理由で保守を名乗った人が多いのである。このため日本で保守を名乗る人の中には「思想的な根がない」人が多い。

この根のなさを語る材料の一つとして入れられていると思えるのが映画監督のエピソードである。安倍晋三少年は映画監督ごっこが好きだったそうだ。映画監督になりたい人には二種類がある。一つは映画が好きな人であり、もう一つは人に指図するのが好きな人だ。この本では安倍晋三少年は「人に指図したかったから映画監督ごっこが好きだった」というほのめかしがある。つまり、やりたいことがあったから政治家になったのではないというほのめかしになっているのだろう。

さらに、安倍晋三新人代議士は政治家になってから急ごしらえで西部邁らの薫陶を受けるのだが、西部は高校まで政治的な意識がなく在学中に学生運動的な左派に遭遇した後で反発を感じ保守に転向したという経歴の評論家である。中国の政治史や思想史に影響を受けた「正当な保守」という感じでもなさそうだ。

いわゆる現在保守と呼ばれている人たちは戦前から続く中国史の影響を受けた伝統的保守とは異なっている。もちろんこれが悪いとは言わない。しかし、日本の思想史や政治史は「中国との距離」で決まるようなところがあり、代替する思想的なバックボーンがない。よく言えば包摂的に何もかも受け入れてしまう優しい土壌であり、悪く言えば背骨がない。

この本には書かれていないのだが西部邁の経歴の出発点は東大内部の闘争になっている。西部邁は保守界隈では評価されたが、東大で中沢新一を助教授に推挙しながらも通らず不満を持ち東大を辞職している。また安倍も議員になった当初から権力闘争に巻き込まれる。

学内対立に失望した西部邁が評価を得るのは「朝まで生テレビ」のような言論の鉄火場だった。同じように安倍晋三が衆議院議員になった時代は自民党が政権を失いかけていた混乱の時代であり、まとまりのない保革合同が横行していた。この本の後半では実務経験をあまり持たないままで幹事長や官房長官に祭り上げらえる様子が書かれている。

かつて自民党が安定して支持を受けていた時代には順番に経験を積ませてから人材を育てるようなパスがあったはずなのだが、小泉純一郎は目先の選挙を優先し人を育てるようなことはしなかったようだ。また、郵政民営化に反対したというだけの事情で仲間を切ったりもした。「自分の頭で考えられる」優秀な人材がいなくなったら、あとは準備のできていない人で埋めるしかない。こうして小泉は郵政で自分のいうことを聞く政治家を国会に多く送り出し、重要ポストに「準備のできていない」政治家を充てた。

政治家の家に生まれたというだけで、何のために政治をやりたいのかわからないままに政治家になった人が混乱の中で実績を積まないままに押し上げられる。じっくりとブレーンを育てるような時間は持てなかっただろうことは容易に想像ができる。

石破茂の方が安倍晋三よりマシという話が出回っているが、石破茂もまた父親が急逝し3年で銀行を辞めさせられている。2人とも腰を据えた社会人経験はないので、経済的なアイディアが出てくる可能性は極めて薄い。実経済への共感もなく、世襲でやりたいこともなく、さらに議員になった当初から党内の権力闘争や政党の分裂などを経験した政治家にまともな政策立案などできるはずはない。

しかしながら、バブルの崩壊により企業も同じような状況にあった。銀行は信頼できず、生き残るためには正社員を削減して非正規労働に割り当て流しかなかったという時代である。さらに「朝まで生テレビ」や「TVタックル」がメインストリームの政治討論番組になったことからもわかるように政治思想や哲学の面でも「短い時間でどうアピールできるか」というTVポリティックスが横行していた。SNSもなかったのでテレビで垂れ流された情報はそのまま印象として定着してしまい、検証する時間もその材料もなかった。今考えると恐ろしい話だが、各種新聞を読み比べることも検証記事を読むこともできなかったのである。

改めて考えるとバブル崩壊後、日本ではいろいろな分野で「砂漠化」が進行していたことがわかる。世襲が必ずしも悪いというわけではないと思うのだが、世襲政治が成り立つのはそれを支える人たちが実力主義で登ってくるからである。社会が全体的に砂漠化してしまうと、世襲政治は単なる嘘つきの集まりになってしまう。そして安倍も石破もその構造の中の一つにすぎないということになり。どちらが選ばれても自民党の衰退は避けられないだろう。

ただ、この本には書かれていない残酷な続きがあると思う。

安倍や石破に中身がないのは「実社会での経験」も「政治の統治の経験」もないのにいきなり権力闘争に巻き込まれたからであろうと分析した。安倍の場合は明らかに小泉純一郎が使い潰している。だが、小泉はそれでも構わないと思ったのではないかと思う。息子の小泉進次郎は決して政争には近づかず雑巾掛けに徹していることから、大切な息子には「使い潰されるな」と教えているのではないかと思うのだ。

つまり、安倍は使い潰されたが大切な息子にはお前はそうなるなと言っていることになる。安倍の父親は志半ばで亡くなっており、石破の父親も早くに亡くなっている。彼ら二人には「本当に大切なこと」を教えてくれる存在がいなかったのだ。

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