小泉進次郎衆議院議員が遅まきながら石破支持を表明した。これで向こう三年間干されるかもしれないというリスクがあり、いっけん合理的な選択とは思えない。今回はこれについて考えてみたい。
今の日本は「安倍なるもの」が蔓延しており、マスコミもうんざりしていたのだろう。その毒を解消する薬、あるいは一服の清涼剤として期待されていたのが小泉ではないかと思う。その期待に応えるべきなのか、それともスルーすべきなのかという点に思案のしどころがある。
安倍晋三支持に回ると、安倍首相に取り立てられる可能性が高くなる。だが、ただではポストは転がってこない。そのためには「利用価値が高くある」必要がある。
安倍晋三の利用価値が高かったのは、北朝鮮の拉致問題でスターになったからなのだが、大した外交成果をあげられるはずもない新人議員は外交以外の方法を使う必要がある。その代表が杉田水脈議員だ。今の政治に興味を持っている人はヘイトに関心を持っているから、杉田のような発言が商品価値を持つことになる。それは裏返すと「それ以外の人が政治から距離を置いている」ということになる。
この「普通の人たちが距離を置いた感じ」を小泉は意識しているのではないだろうか。総裁選挙が終わった後のインタビューで、小泉は「政局は闘争なので何でもありだ」としたうえで「記者の目を見て噛みしめるように」感想を語った。つまり「記者の入ったことを一旦飲み込んで自分の頭で考えた上で」語ったわけである。これが期せずして(あるいは意識的なのかもしれないが)安倍や石破と全く違っている。安倍はあらかじめ記憶した発言を壊れたレコーダーのように繰り返すだけだし、石破の口癖は「ですから……」である。つまり、今の政治家はマイクの向こう側をあまり気にしていない。だから有権者が彼らの言葉に関心を示さないのだ。
安倍首相に取り立てられるということは安倍の嘘にお付き合いしなければならなくなるということを意味する。ここから先は過去6年間の嘘の記憶と結びつけられることになる。現在を高く得る必要がある人はそれでも突き進んでゆく必要があるのだが、未来のある人間にとっては明らかに損な選択である。加えて、政策について勉強する時間がなくなる。実経験に乏しい世襲政治家は決して本で政策について学ぶことはできないのだから、できるだけ多くの人や政治的課題に出会う必要がある。それが政治家のその後を決める「根」になる。
小泉進次郎には「非主流派」のつもりで投票したら「期せずして流れが変わり」スターになってしまう可能性があった。すると「安倍・杉田」コースを歩むことになる。政治家としての「根」がないままで、周囲が「実」を期待するようになる。安倍晋三は手品のようにいろいろな「実」を取り出しているが根っこがないのでどれも嘘になってしまう。杉田水脈にはそもそも根を張る時間さえない。次々と炎上案件を探してきては周囲の期待に応える必要があるだろう。新潮45は今回商業的に成功してしまったので、出版社はもっと過激な次を求めるはずだ。
これを踏まえて、安倍首相が嘘の政治家になるきっかけになった安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密を思い出してみよう。政治家の家に生まれたというだけで政治家になってしまった一人の青年の話だ。営業にセンスがあり、性格も明るく、仕事も面白くなりかけていた3年目に父親に呼び戻されて秘書になった。政治から離脱した兄を除いた二人の兄弟はそれぞれ「岸家」と「安倍家」の後継になるのが当然とされていた。
世襲の政治が悪いとは言わないのだが、この後が悪かった。当時、金権自民党の権威は地に堕ちており結局は村山富市をいただいた社会党政権に参加する。「誇りある自民党」の議員が長年のライバルであった社会党にひれ伏したのである。その後も離脱者や政党の組み替えが相次ぎ自民党の内部は安定しなかった。
バブル崩壊期の政治課題は金融機関対策だった。ゆえに政策課題の中心は金融だった。ところが金融の政策通と呼ばれるためにはそれなりの基礎知識が必要である。「沈黙の仮面」には「政策新人類になれなかった若手時代」という項目がある。経済を勉強したことがなかった安倍議員はここで政策通になれなかった。ある議員は安倍から「おい。金融ってそんなに儲かるのか」と声をかけられ苦笑いするしかなったという。つまり安倍議員はなぜ金融政策が重要なのかということを理解できなかった。
結果的にはバブルの後処理は十分に行われなかった。安倍政治の基本にあるのは、左派へのルサンチマンと専門屋についてのルサンチマンだろう。つまり偉そうに上から目線でいろいろ言ってくるのに具体的には何も解決できない人たちに対する恨みである。だがこの恨みも必ずしも根拠のないものとは言えない。実際に成果があげられなかったからである。
金融問題では仲間に加われず、その後の社会保障の問題もうまくまとめることができなかった、と本は分析する。だが、その代わりに仕方なく取り組んだ「外交問題」がたまたま当たってしまったことでスターに祭り上げられることになった。
本来なら10年程度の「雑巾掛け」を済ませたら、大臣などを務めて組織のマネジメント経験を積む必要がある。しかし拉致問題でスターになっていた安倍議員は政務次官すら経験せずに、幹事長と内閣官房長官に抜擢された。岸信介と安倍晋太郎という有名政治家の血筋に連なり「スター性」があったからだ。実はこの状況が小泉進次郎に似ている。
安倍が当時打開したように見えたのは、長年動かず問題さえ認識されていなかった北朝鮮問題の拉致問題である。変化を嫌う日本人だが、誰かが簡単に何かを打開してくれるヒーローにも期待している。拉致被害者を悪の帝国から救い出した安倍は人気政治家になった。周囲も「次世代ヒーロー」を育てるつもりで多少の演出をしたのかもしれない。だが、それは同時にその嘘に自分が飲み込まれしまうリスクを負うということでもある。そして安倍はその罠にはまり、現在もう一つの「絶対に成功できそうもない」北方領土の問題で失敗しつつある。
現在小泉が背負わされようとしているのは「嘘にまみれた政治状況を一発逆転して打開すること」である。現在の政治に欠けているのは「対話」だ。嘘はシナリオを必要とするので対話ができない。記者たちは明らかに「小泉のように対話してくれる政治家が流れを変えてくれたら面白いのになあ」と思っているのではないだろうか。現在の政治記者はジャーナリストではなくシナリオライターでありマーケターなのだ。
父親である小泉純一郎は選挙の顔として安倍晋三を使い潰した。つまり小泉純一郎は人を育てなかった。悪意があったというよりはそのような余裕がなかったのかもしれない。使い捨てについては次のような記述がある。
事実、森は幹事長人事からそう日をおかずに腹心の国対委員長・中川秀直を通じて小泉に強く、クギを刺している。
「安倍くんの使い捨てだけは絶対にしないでもらいたい」
小泉の性格をよく知る森は、ピンチに立たされた安倍が泥まみれになって小泉からポイ捨てされる事態を強く警戒していた。田中真紀子の例もあった。
「田中真紀子の例」については田原総一郎と森元首相の対談に詳しい。選挙で応援してもらうのと引き換えに外務大臣にしたのだが、気に入らない人をいじめたりとやりたい放題だったためにマスコミに叩かれた。最終的に野上事務次官と対立し国会答弁に支障をきたすようになると首相は庇いきれなくなり、国会審議を正常に戻すという名目で「電撃解任」してしまったのである。小泉純一郎は大蔵畑であり外交には興味がなかったのではという観測もあるそうだ。
ではなぜ小泉はこのような手段を使ってまで闘争に勝とうとしたのか。この元にあるのが「保守本流」と「保守傍流」の対決である。保守本流は経済大国日本を作ったのは現実的な対応をしてきた自分たちであるという自負があり、そもそも論を唱える人たちを傍流と蔑んできた。
本流の創始者である吉田は吉田学校を作り官僚を政治家として取り立てた。ここから田中角栄のような型破りな例外は除いて、政策通ではあるが軟弱な議員が増えた。彼らは党内闘争のような「みっともない」ことよりも政策を語れる政治家になりたかったはずである。この保守本流に「既得権にしがみつく造反者」というレッテルを貼ったのが小泉純一郎である。政権を取ると刺客を送り彼らを一掃し、彼らの既得権益である郵政を「ぶっ壊し」た。
古い日本の伝統文化を知っている貴族が「細かいことはわからないが腕は立つ」武士にやられたようなものかもしれない。
「保守傍流」と揶揄された人たちは真正保守を名乗ったそうだ。彼らが反対しているのは憲法ではない。憲法を作り自分たちを「保守傍流」と蔑んでいた吉田派の人たちである。安倍晋三議員は自身が政策についてよくわからなかったこともあり、真正保守の仮面を身につけてゆき、吉田茂を「アメリカに阿ったみっともない政治家」と蔑む意味で「みっともない憲法」と呼んだのであろう。岸信介が憲法改正の勉強会を作ったことを評価する人もいるのだが、当時の制憲過程に関われなかった人たちが吉田に反発して作ったのだという人もいる。つまり作り方や作った人たちが気に入らないという気持ちがあるのである。
ただ、小泉進次郎がこの対立を「受け継がなければならない」という理由はない。
現在の安倍首相の嘘は国民の要請である。不安は解消したいが変わりたくないという声に応えている。だがその副作用として嘘や隠し事が横行する。国民は変わりたくないので「嘘だけが洗い流されてくれないかな」と思うようになる。Twitterを見ているとこのことがよくわかる。石破の政策を読んだこともなさそうな人が「石破頑張れ」と応援したり、小泉進次郎は臆病なのでけしからんと言っている。多分、誰かが政権についたら途端に「石破けしからん」とか「小泉は口だけだった」と罵り始めるだろう。単に淀んだ空気に耐えられないと言っているのである。
マスコミもこれに加担している。「小泉進次郎が流れを変えた」というヘッドラインを一文を欲しがってる。明日の仕事がそれで済むからだ。もっとひどいところは杉田水脈論文を掲載して部数を稼いでいる。政治家にヘイトを言わせることで金儲けをしているのである。その一方で白頭山に登ったムンジェイン大統領と金正恩委員長の写真はほとんど取り上げられなかった。現実に何が起こっているのかをつぶさにみるということを忘れているのだろう。世界情勢というシナリオ作りには日本のマスコミは関われない。その意味ではみんな映画監督や脚本家になりたいのだ。
こんな状況下で「祭り上げられそうになった人」がためらうのは当然と言えるだろう。小泉進次郎にとって幸いだったのは、その虚しさを知っている人が身近にいたという一点だけなのではないだろうか。つまり、小泉純一郎が「ああはなるな」と言っているのではないかと思う。
小泉進次郎が成功できるかは、今どんな根を張れるかにかかっている。そのためには時間と養分が必要だ。問題はその土壌に養分があるかということになるのかもしれない。