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高齢者に席を譲らなければならないのはなぜか

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QUORAに「高齢者に席を譲らなければならないのはなぜか」という質問が掲載されていた。たいていの人はお年寄りは弱者なので席を譲らなければならないと書いていた。なんとなく当たり前に感じられるかもしれないのだが、実は違うのではないかと思った。

先日来保守思想について書いている。東洋の思想体系で高齢者を敬わなければならないのは長幼の序が社会秩序の基礎になっており、上司に忠義をつくして親には孝行しなければならないからである。目上を尊重するというイデオロギーを徹底させて社会の安定を図るのが東洋的な統治システムの根幹なのである。東洋で高齢者に席を譲らなければらないのは、高齢者が弱いからではなく敬われるべき存在だからだということになる。だから本来は優先席でなくても高齢者や先輩に席を譲るべきなのだということになるだろう。

よく考えてみると西洋の電車に優先席があるのは全員参加型の社会を目指しているからである。主に障害を持った人が利用することが前提になっているようなのだが、「個人がそれぞれにあったやり方で社会貢献ができる」ような社会の実現が優先席設置の目的であり、かわいそうな障害者に憐れみと施しをするために席が作られているわけではない。日本型の優先席の議論からは「普通ではないかわいそうな人に施してやる」という日本的な考え方が、誰かが教えたわけでもないのに社会に浸透していることがわかる。

ただ改めて調べてみて(とはいえ原典に当たるのも面倒なのでWikipediaを見ただけなのだが)意外なことも分かった。忠孝という概念とは別に孝悌という概念がある。孝行は親にたいして行うべきものであり年長者一般を敬うことをといって区別するらしい。基本になっているのはあくまでも忠孝である。どちらも固定的な社会集団に対する序列を前提としており、社会という広い概念はあまり考慮に入れられていない。西洋のダイナミックな社会とはまた違った集団についての概念があることがわかる。

Wikipediaの関連項目を見ていて、この忠孝・孝悌という考え方は現在の日本ではかなり否定的に扱われているようだと思った。年長者に尽くす義務はあるのだが、年長者には何の義務もない片務的なものとして扱われおり、搾取という印象が強いようである。考えてみると老人は既得権益にしがみつき権利ばかりを主張している。電車の例えでいうと、高齢者は尊重されなければならないと威張り散らして2/3を優先席にして若者を排除した上で威張って座っているようなものだ。床では子供達が「疲れたよ」と泣き叫んでいても「自己責任だ」と切断したり「うるさいから黙らせろ」と恫喝するようなことがまかり通っているということになる。このような状態で高齢者に席を譲れなどいっても炎上するのがオチだろう。

年功序列を前提にすると「公平」という概念を使えないので別の原理で説明するしかないのだが、子供達が泣き叫ぶ電車が正常な状態であるとは思えない。

東洋哲学位は「仁」や「徳」という考え方がある。特に政治には徳がなければならないとされている。徳は自発的に持つもので誰かから強制されるものではなく、したがって徳がなかったとしても罰則はない。ただし君主が徳を失うと天命が改まって革命が起こるというような考え方はある。誰からも管理されないということは保護も得られないということなので滅ぼされても文句は言えないのである。

いずれにせよ子供達が疲れてぐずっていれば「席を譲ってあげなさい」と年長者が「指導する」というのが東洋的な社会のあり方なのだということになる。そのためには年長者には徳のある謙虚な振る舞いが求められる。

韓国のバラエティ番組をみると長幼の序はかなり厳格に守られている。弟や妹は年長者のいうことをよく聞き尊敬もしている。これは視聴者がそのような価値観を肯定しているからなのだろう。だが、年長者もただ威張っているだけではダメで兄弟を代表して交渉を行ったり、心配りをして弟・妹たちが困らないようにしてやるといった配慮が必要であるばかりではなく、優れた技量を持って尊敬されなければならないといったような一定のプレッシャーがあるようだ。つまり、忠孝も孝悌もは片務的な概念ではないのである。

もちろん、財閥の娘や息子たちが従業員にパワハラを繰り返して最終的に訴えられるというようなニュースも聞かれるので、やはり忠孝に仁徳で応えなければという理想論がかならずしも守られているわけではないということはわかる。だがやはり理想とされるのはお互いに尊敬されるという徳のある社会である。

だがこの「徳」が何を示しているのかがよくわからない。東洋哲学では信頼が通貨になっておりこれが保たれた状態を「社会に徳がある状態だ」と考えているところまではわかる。西洋はそもそもこのような信頼がなくても世の中が成り立つことを理想としている。だからこそお互いに契約をしてそれを適時見直す「説明責任」という言葉が存在する。そして「徳のない社会」がどんなものかもわかる。

現在の安倍政権は資料を提示せず、嘘をつき、話をごまかして正面から答えない。すなわち「徳を失っている状態だ」と考えられる。彼らがそのように傲慢に振る舞えるのは「徳を失うと天から追放される」という切実さを忘れており、もともと選ばれた人間だからどのように振舞っても良いのだと考えているからなのだろう。

いずれにせよ東洋的な価値観を遵守するつもりは彼らにはないようだ。にもかかわらず「日本では西洋型の人権はふさわしくない」と言っており、同時に「ルールは俺たちが決める」とも言っている。ある意味とても無邪気に振舞っている。この無邪気さの裏には日本型の権力構造の曖昧さや優しさがあるのだろう。

日本には個人が社会全体の責任を取るという強いリーダーシップは生まれなかった。外敵が少なかったので外からの強い敵に対峙する必要がなかったからだろう。このため中心には空洞があったとする説が幾つか見られる。

徳川幕府中心の体制だとは言っても実経済の担い手は「藩」であって、権威の中心である天皇には実権がなかった。いったい誰が責任者になっているのかが極めてわかりにくい状態である。状況は明治維新期に入ってからも変わらなかった。昭和天皇には戦争を始めたりする権限はなく、原爆を落とされて初めて「戦争をやめたい」と意思表明することになった。基本的には集団統治であり、誰か一人が責任をとることが巧妙に避けられている。

現代の保守がいう「日本に天賦人権という考えは馴染まない」という言い方は東洋的なイデオロギーである徳治政治を持ち出せば正当化できないことはない。だがこれには「徳の実践」という義務が伴う。実際に戦前から戦後すぐの政治家たちは東洋哲学に詳しい学者と親交があり徳についても学んでいたようだ。戦後公職追放された安岡正篤は吉田茂に陽明学を基礎とした帝王学を教えていたという。陽明学は孔子などの中国古典を再認識した学問体系なのだそうである。だが、吉田茂らは孫の世代にはこれを引き継がなかったようだ。孫の世代は新しい民主主義という価値観を学ぶだろうと思ったのかもしれないが、彼らはそうしなかった。

前回「現在の保守には核がない」と書いた。では核は何かというと「信頼をもとにした社会作りの理論化と実践」である。それがなくなるときに天は怒り狂って権力者を放逐してしまうのだが、実際に起こることは自己保身からそれぞれが好き勝手なことを始めるというガバナンスの崩壊である。今回は概念だけなので具体的なことには触れないが、政治やスポーツの世界ではこのガバナンスの崩壊が起きており問題になっている。

現在の保守と呼ばれる人たちは切断による自己保身を目指しているだけであり、基底には社会を変えられなかったという「諦め」があるので、徳という概念を使って社会建設をリードするという気概を持ちにくいのだろう。そして、それは革命という形で一気に噴出する場合もあれば、日本のようにそれぞれがバラバラに振る舞いだして収拾がつかなくなるというような見え方もする。信頼という通貨もなく契約も信用できない社会ではそれぞれが「自己責任」で保身を図るしかないからである。

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