徳知政治について考えている。もともとのきっかけは「安倍首相は徳のない嘘つきの政治家なのか」という疑問から始まった。この質問には需要があるようだ。と「安倍首相や小池百合子東京都知事は嘘つきやサイコパスである」というタイトルを立てると「読み込まれる時間」が全く異なっていることがわかるからである。全体的に安倍政治が容認されている一方で「これには我慢できない」と感じている人が増えているのだろう。
だが、今回実際に調べるのは「論語」である。小倉紀蔵という京大の先生の書いた「新しい論語」というテキストを使うので、興味のある人はぜひお読みいただきたい。この本を読んで論語は考えているよりも面白いテキストだったのかもしれないということだった。人権について知りたい人はキリスト教の哲学を一通りおさらいしておくべきだと思うが、保守政治を語る人は論語を読むべきだと思うし、知らないともったいないとさえ思った。ただしこれは論語が面白いというより小倉さんの論語解釈が面白いのかもしれない。
もともとは論語を中身を原典を読まずに手っ取り早く理解するという目的で手に取ったので最初はがっかりした。小倉先生が「これまでなかった論語の解釈をするぞ」という意気込みで書かれており、興奮気味に「これまで誰もこんな解釈をしたことがない」と書いているからである。
変な印象をつけたくないのであまり多くは言及すべきではないのだが、論語の「儀礼」の精神はむしろロックフェスや古代ギリシャの演劇祭に近いもののように思える。「動作」そのものよりもその中で生まれる一体感のような「感覚」が重要なのだというのである。
小倉先生は第三の生命という言葉を使っている。肉体的な生命を第一の生命としているのはわかるのだが、宗教的に拡張された生命を第二の生命としており、それを越える(あるいはそれとは違った)という意味で第三の生命という言葉になっているのだが、個人的には宗教であるキリスト教の世界観にそれほど違和感はないので「第三の」はしっくりこなかった。つまり、宗教的な体験とそれほど違いはないように思える。
キリスト教は教会の活動がすべてだとして聖書を一人歩きさせることを許さなかったのだが、孔子の主張はテキストが一人歩きして様々に解釈されるようになる。そこで「先生や国のいうことを聞いて死んでゆきなさい」というような道徳が生まれることになった。現在のいわゆる保守の人たちのいう「日本の国柄」というのは集団のために犠牲になれというメッセージと、その国柄は保守の人たちだけが知っているのでとにかく自分に仕えなさいというメッセージが組み合わされたものだが、もちろん孔子のもともとの主張にはこのような意図はなかったのではないかと思われる。ただし、そう曲解されても仕方がないようなテキストは残されている。
まず基本的なところを押さえておく。前回までのエントリーでは徳と仁の違いがよくわかっていなかったのだが、徳の中に仁・義・礼・智・信という五つがあるそうだ。孝悌はこの四つの徳目には入っていない。この構成も旧約聖書に昔の価値観が入っていることを考えると理解しやすい。例えば同性愛は旧約聖書では忌避されるべきものだと考えられているのだが、更新された現在の教会ではずいぶん許容されている。当時の社会常識としては当たり前だったものが、もともとの精神を殺してしまうこともあるのではないかと思う。
小倉さんの説によると、孔子が徳と考えた仁は人と人との間に立ち現れる「何か」なのだという。孔子のいた魯国は周の儀礼をよく保存していた地域なので各種の儀礼を通じて先祖や社会との間に一体感を感じていたのだろうというのである。経験的に感じられるものであり明確に定義はできないので、弟子があれこれ「仁」の定義を探ろうとするが孔子は周囲に明確な答えを与えなかった。
キリスト教ではこの徳目を「愛」と呼んでいるが、中国語での愛は個人的な感情であって、公共や社会とつながる「仁」の方が高尚だと考えていた。仁は言葉の成り立ち上、人と人との間にあらわれる「何か」を意味している。人間の中にあるものとされ、果物の核のことも仁と言ったりする。
この定義のないものを追い求めるのが儒教の基本的な実践である。一生を通じて「人の徳とはなにか」ということを学ぶのである。
学したことを時々習う。これは説(たの)しい。友達が遠くからやってくる。これも楽しい。人が知らなくても慍(いきどお)らない。これが「学ぶ」ことである。
「学」は調べたり情報を集めたりすることを意味するようで、習とは実際に練習してみることを意味するようだ。また、思いついても学しなければ危ういし、学しても思わなければ何もわからないと言われているので、単に「こうかなああかな」と思っていてもあまり意味はないということになっている。つまり、思いついたことを調べ、時々練習するということを繰り返して、徳の核心に近づいて行くのが儒教の学習なのである。
この本には出てこないのだが「智」という別の徳目も「口から出てくる矢が曰れる」ことを意味するようで「ズバリ本質をついた発言をする」という意味のようだ。つまり智はたくさんのことを知っているということではないようである。中国人が学んで実践することについてかなり細かい区分けをしていたことがわかる。
この本によると君子にはいくつかの意味合いがあるとしている。一つは学習を通じて「徳」について考える人たちである。儀礼の実践もこの学習の中に含まれるのであろう。もう一つは巧言令色な人たちである。これは当時の事情がわからないと理解できないと、小倉は主張する。
孔子はもともと山東省魯国の郷党社会の一員だった。母親は巫女だったそうである。民間習俗とされる地方の礼には詳しかったが、周の儀礼をよく保存する魯国の朝廷儀礼には詳しくなかった。しかし自ら学問に勤しみ「礼の専門家」であるとして朝廷に出入りするようになる。そこで様々なことを一から聞き直して礼を知識化してゆく。最終的には3000人ほどの教団になり周国の礼を保存してゆくようになった。周は都市の氏族社会の連合体だったのだが、やがて争うようになり、最終的には統一国家としての秦に取って代わられた。
つまり、立派な人を意味する君子には三つの意味があることになる。旧秩序の中で地域の王となれる資格を持った元々の意味の君子がいる。孔子はこの君子ではない。また、競争社会になり見た目がよく言葉が巧みな(今の言い方をするとコミュ力の高い)君子が現れていた。しかし、孔子はこうした人たちには「仁は鮮(すく)ない」として、儀礼の意味を考えながら実践してゆく君子像を作ろうとしたのである。
孔子がどう「仁」を定義付けたのかということを離れると、社会が生き生きとするためには政治家や統治者と庶民の間に「生き生きとした一体感」が必要であるとおくことはできる。すると、安倍首相は日本のトップリーダーなので「君子」的であることが望ましいということになる。優れたリーダーのために「頑張ろう」と思える時に社会に一体感が生まれるからである。ただ、もう一つおかなければならないのは「グローバル化」との関係である。グローバル化した社会で必要とされるリーダー像はまたこれとは異なっている。
周という中心国家は弱体化しており氏族社会が崩壊に向かっていた。もともと周の権威の元に地方の貴族的な有資格者がいてそれを「君子(立派な人)」と呼んでいたらしいが、混乱した実力社会に入りつつあったので「容姿がよく言葉が巧みな人」が取り立てられる傾向があった。これが「巧言令色」である。巧言令色な人には仁が鮮(すく)ない(鮮には鮮やかという意味と稀であるという意味があり、それがどう関係しているのかはよくわかっていないようである)と言っている。しかし、結局勝ったのはグローバリストだった。「秦国」という国家ができ、都市国家の集合だった周の社会はなくなってしまったからだ。
この状況が今の日本に似ているからこそ「論語は面白い」と言えるし、魯国の状態を今の日本に重ね合わせて小倉さんの論語解釈があると言える。
例えば運動会の時に苦労して一つの行事を成し遂げる。時には徹夜もして一生懸命に頑張った。多少の失敗もあったがみんなの間に笑顔が浮かんでいる。この感覚はいずれ消えてしまうだろうが連体感として一生残るであろう。「人と人との間に立ち現れる」ものというのは容易に想像ができる。これを政治に展開すると「一体感がある政治」という理想像が見えてくる。
だが、「みんなの運動会」であるはずの東京オリンピックにはこのような連体感はない。全ての行動が搾取と疑われて、イベントを私物化しているのではないかという疑いを持たれている。この冷めた感覚は「オリンピックを私物化」したい人がたくさんいるから生まれるのかもしれないのだが、そもそも「イベントを通じて一体感を味わおう」という感覚が古臭いのかもしれない。
この辺りがはっきりしないので「自民党的」な人が政治やイベントに触れるとそれはことごとく生き生きとした感じを失ってしまう。少なくとも(小倉さんが主張する)孔子的な仁とは異なっている。安倍首相は真剣な議論には正面から答えず、ご飯論法で議論を歪め、黙って官僚の書いた文字を抑揚のない調子で読んでいる。これは「生き生きとした政治」に恨みがある人が、政治から生き生きとしたものを殺している姿である。安倍首相は仁という徳目を殺すことを毎日実践しているのだ。
だが「仁ある政治」を復活させるべきかどうかはよく考えて合意する必要がある。本当に政治や社会に一体化した「あの感じ」は必要なのだろうかということである。
仁とはいきいきとしたものなので、言葉がうまく理路整然と周りを納得させられる巧言令色な人たちの間にはあまり見られない。つまり孔子は古くからあった伝統的な儀礼などのなかに定義ができない「仁」という生き生きとしたものがあると考えたのだろうというのが小倉の説である。つまり巧言令色とは合理性だと言える。周の後継国家になった秦国は、行政単位を整え、法令や度量衡制度を統一した。こうして世界を合理的に統一しようとした。儀礼を通じて何かが立ち現れるのを待つのではなく、合理性で世界を理解しようとしたことになる。ただ、人間は完全に合理的な世界には耐えられない。必ず言葉で割り切れないものが残るからだ。小倉さんの本には書かれていないが、儒教が生き残ったのはこうした事情があったからかもなのしれない。
これまで安倍首相は「空である」という論を展開してきたつもりなのだが、仏教的には「空」は最終解脱地点なのでこの定義はふさわしくなさそうだ。東洋にはゼロを表す言葉が二つある。一つは空でありもう一つは虚である。虚はもともとあった場所に何もなくなってしまったことを意味するそうだ。廃墟などという使われ方をする。安倍首相は折に触れていろいろなことをいう。しかしその言葉は「かつては意味を持っていたのだろう」が「今は虚しい」ものが多い。
官僚の書いた文章に感情が乗らないのもその中身に興味がないからだろう。目の前の問題や相手の苦境には一切関心がなく、未来への危機意識もない。やりたいことを問われると憲法改正と答える。しかし、憲法改正をして何をやりたいのかがさっぱりわからない。「戦後レジームからの脱却」とか「中国の脅威」とか「おじいさんに言われた」などと言っているが、何が本心なのかもさっぱりわからない。
「嘘」は口からでた虚を意味する。文法的には意味があり、かつては実を伴っていたかもしれないが、今は誰の心も動かさないということになる。安倍首相は嘘の政治家だという本当の意味は、この人の言っていることに実がないからであり、それが「社会を信じているすべての人」を苛立たせるのである。そして安倍首相の嘘を信じる人たちは「社会や公共」という私を越えたものを重んじず、すべては私物化の対象であると確信しているからこそ、安倍首相を指示できるのだろう。
孔子の目指したものが人々の間に時折立ち現れる生き生きとした何かであったかどうかは一冊の本を読んだだけでは確認のしようもないわけだが、少なくとも安倍首相という現象は「生き生きとしたもの」をかたっぱしから殺してゆくという意味で君子の対極にあるということが言える。そして、そうした人こそリーダーとしてふさわしいと言っている自民党はすでに終わっており、そういう終わった党にしか国家をまとめられないほど、我々の社会は行き詰っているということになる。
安倍首相のような虚の政治家が跋扈するのは、我々が村落社会に住んでいてある程度の一体感を感じていた社会を抜けて、巧言令色が支配する社会に移行する途中だからなのかもしれない。つまりどうしていいかわからなくなってしまっているのかもしれない。ただ、合理性が支配する社会ができたとしても「割り切れないもの」は残るので徳治の重要性は変わらないものと思われる。