安倍首相はなぜ<嘘つき>なのか

徳知政治について考えている。もともとのきっかけは「安倍首相は徳のない嘘つきの政治家なのか」という疑問から始まった。この質問には需要があるようだ。と「安倍首相や小池百合子東京都知事は嘘つきやサイコパスである」というタイトルを立てると「読み込まれる時間」が全く異なっていることがわかるからである。全体的に安倍政治が容認されている一方で「これには我慢できない」と感じている人が増えているのだろう。

だが、今回実際に調べるのは「論語」である。小倉紀蔵という京大の先生の書いた「新しい論語」というテキストを使うので、興味のある人はぜひお読みいただきたい。この本を読んで論語は考えているよりも面白いテキストだったのかもしれないということだった。人権について知りたい人はキリスト教の哲学を一通りおさらいしておくべきだと思うが、保守政治を語る人は論語を読むべきだと思うし、知らないともったいないとさえ思った。ただしこれは論語が面白いというより小倉さんの論語解釈が面白いのかもしれない。

もともとは論語を中身を原典を読まずに手っ取り早く理解するという目的で手に取ったので最初はがっかりした。小倉先生が「これまでなかった論語の解釈をするぞ」という意気込みで書かれており、興奮気味に「これまで誰もこんな解釈をしたことがない」と書いているからである。

変な印象をつけたくないのであまり多くは言及すべきではないのだが、論語の「儀礼」の精神はむしろロックフェスや古代ギリシャの演劇祭に近いもののように思える。「動作」そのものよりもその中で生まれる一体感のような「感覚」が重要なのだというのである。

小倉先生は第三の生命という言葉を使っている。肉体的な生命を第一の生命としているのはわかるのだが、宗教的に拡張された生命を第二の生命としており、それを越える(あるいはそれとは違った)という意味で第三の生命という言葉になっているのだが、個人的には宗教であるキリスト教の世界観にそれほど違和感はないので「第三の」はしっくりこなかった。つまり、宗教的な体験とそれほど違いはないように思える。

キリスト教は教会の活動がすべてだとして聖書を一人歩きさせることを許さなかったのだが、孔子の主張はテキストが一人歩きして様々に解釈されるようになる。そこで「先生や国のいうことを聞いて死んでゆきなさい」というような道徳が生まれることになった。現在のいわゆる保守の人たちのいう「日本の国柄」というのは集団のために犠牲になれというメッセージと、その国柄は保守の人たちだけが知っているのでとにかく自分に仕えなさいというメッセージが組み合わされたものだが、もちろん孔子のもともとの主張にはこのような意図はなかったのではないかと思われる。ただし、そう曲解されても仕方がないようなテキストは残されている。

まず基本的なところを押さえておく。前回までのエントリーでは徳と仁の違いがよくわかっていなかったのだが、徳の中に仁・義・礼・智・信という五つがあるそうだ。孝悌はこの四つの徳目には入っていない。この構成も旧約聖書に昔の価値観が入っていることを考えると理解しやすい。例えば同性愛は旧約聖書では忌避されるべきものだと考えられているのだが、更新された現在の教会ではずいぶん許容されている。当時の社会常識としては当たり前だったものが、もともとの精神を殺してしまうこともあるのではないかと思う。

小倉さんの説によると、孔子が徳と考えた仁は人と人との間に立ち現れる「何か」なのだという。孔子のいた魯国は周の儀礼をよく保存していた地域なので各種の儀礼を通じて先祖や社会との間に一体感を感じていたのだろうというのである。経験的に感じられるものであり明確に定義はできないので、弟子があれこれ「仁」の定義を探ろうとするが孔子は周囲に明確な答えを与えなかった。

キリスト教ではこの徳目を「愛」と呼んでいるが、中国語での愛は個人的な感情であって、公共や社会とつながる「仁」の方が高尚だと考えていた。仁は言葉の成り立ち上、人と人との間にあらわれる「何か」を意味している。人間の中にあるものとされ、果物の核のことも仁と言ったりする。

この定義のないものを追い求めるのが儒教の基本的な実践である。一生を通じて「人の徳とはなにか」ということを学ぶのである。

学したことを時々習う。これは説(たの)しい。友達が遠くからやってくる。これも楽しい。人が知らなくても慍(いきどお)らない。これが「学ぶ」ことである。

「学」は調べたり情報を集めたりすることを意味するようで、習とは実際に練習してみることを意味するようだ。また、思いついても学しなければ危ういし、学しても思わなければ何もわからないと言われているので、単に「こうかなああかな」と思っていてもあまり意味はないということになっている。つまり、思いついたことを調べ、時々練習するということを繰り返して、徳の核心に近づいて行くのが儒教の学習なのである。

この本には出てこないのだが「智」という別の徳目も「口から出てくる矢が曰れる」ことを意味するようで「ズバリ本質をついた発言をする」という意味のようだ。つまり智はたくさんのことを知っているということではないようである。中国人が学んで実践することについてかなり細かい区分けをしていたことがわかる。

この本によると君子にはいくつかの意味合いがあるとしている。一つは学習を通じて「徳」について考える人たちである。儀礼の実践もこの学習の中に含まれるのであろう。もう一つは巧言令色な人たちである。これは当時の事情がわからないと理解できないと、小倉は主張する。

孔子はもともと山東省魯国の郷党社会の一員だった。母親は巫女だったそうである。民間習俗とされる地方の礼には詳しかったが、周の儀礼をよく保存する魯国の朝廷儀礼には詳しくなかった。しかし自ら学問に勤しみ「礼の専門家」であるとして朝廷に出入りするようになる。そこで様々なことを一から聞き直して礼を知識化してゆく。最終的には3000人ほどの教団になり周国の礼を保存してゆくようになった。周は都市の氏族社会の連合体だったのだが、やがて争うようになり、最終的には統一国家としての秦に取って代わられた。

つまり、立派な人を意味する君子には三つの意味があることになる。旧秩序の中で地域の王となれる資格を持った元々の意味の君子がいる。孔子はこの君子ではない。また、競争社会になり見た目がよく言葉が巧みな(今の言い方をするとコミュ力の高い)君子が現れていた。しかし、孔子はこうした人たちには「仁は鮮(すく)ない」として、儀礼の意味を考えながら実践してゆく君子像を作ろうとしたのである。

孔子がどう「仁」を定義付けたのかということを離れると、社会が生き生きとするためには政治家や統治者と庶民の間に「生き生きとした一体感」が必要であるとおくことはできる。すると、安倍首相は日本のトップリーダーなので「君子」的であることが望ましいということになる。優れたリーダーのために「頑張ろう」と思える時に社会に一体感が生まれるからである。ただ、もう一つおかなければならないのは「グローバル化」との関係である。グローバル化した社会で必要とされるリーダー像はまたこれとは異なっている。

周という中心国家は弱体化しており氏族社会が崩壊に向かっていた。もともと周の権威の元に地方の貴族的な有資格者がいてそれを「君子(立派な人)」と呼んでいたらしいが、混乱した実力社会に入りつつあったので「容姿がよく言葉が巧みな人」が取り立てられる傾向があった。これが「巧言令色」である。巧言令色な人には仁が鮮(すく)ない(鮮には鮮やかという意味と稀であるという意味があり、それがどう関係しているのかはよくわかっていないようである)と言っている。しかし、結局勝ったのはグローバリストだった。「秦国」という国家ができ、都市国家の集合だった周の社会はなくなってしまったからだ。

この状況が今の日本に似ているからこそ「論語は面白い」と言えるし、魯国の状態を今の日本に重ね合わせて小倉さんの論語解釈があると言える。

例えば運動会の時に苦労して一つの行事を成し遂げる。時には徹夜もして一生懸命に頑張った。多少の失敗もあったがみんなの間に笑顔が浮かんでいる。この感覚はいずれ消えてしまうだろうが連体感として一生残るであろう。「人と人との間に立ち現れる」ものというのは容易に想像ができる。これを政治に展開すると「一体感がある政治」という理想像が見えてくる。

だが、「みんなの運動会」であるはずの東京オリンピックにはこのような連体感はない。全ての行動が搾取と疑われて、イベントを私物化しているのではないかという疑いを持たれている。この冷めた感覚は「オリンピックを私物化」したい人がたくさんいるから生まれるのかもしれないのだが、そもそも「イベントを通じて一体感を味わおう」という感覚が古臭いのかもしれない。

この辺りがはっきりしないので「自民党的」な人が政治やイベントに触れるとそれはことごとく生き生きとした感じを失ってしまう。少なくとも(小倉さんが主張する)孔子的な仁とは異なっている。安倍首相は真剣な議論には正面から答えず、ご飯論法で議論を歪め、黙って官僚の書いた文字を抑揚のない調子で読んでいる。これは「生き生きとした政治」に恨みがある人が、政治から生き生きとしたものを殺している姿である。安倍首相は仁という徳目を殺すことを毎日実践しているのだ。

だが「仁ある政治」を復活させるべきかどうかはよく考えて合意する必要がある。本当に政治や社会に一体化した「あの感じ」は必要なのだろうかということである。

仁とはいきいきとしたものなので、言葉がうまく理路整然と周りを納得させられる巧言令色な人たちの間にはあまり見られない。つまり孔子は古くからあった伝統的な儀礼などのなかに定義ができない「仁」という生き生きとしたものがあると考えたのだろうというのが小倉の説である。つまり巧言令色とは合理性だと言える。周の後継国家になった秦国は、行政単位を整え、法令や度量衡制度を統一した。こうして世界を合理的に統一しようとした。儀礼を通じて何かが立ち現れるのを待つのではなく、合理性で世界を理解しようとしたことになる。ただ、人間は完全に合理的な世界には耐えられない。必ず言葉で割り切れないものが残るからだ。小倉さんの本には書かれていないが、儒教が生き残ったのはこうした事情があったからかもなのしれない。

これまで安倍首相は「空である」という論を展開してきたつもりなのだが、仏教的には「空」は最終解脱地点なのでこの定義はふさわしくなさそうだ。東洋にはゼロを表す言葉が二つある。一つは空でありもう一つは虚である。虚はもともとあった場所に何もなくなってしまったことを意味するそうだ。廃墟などという使われ方をする。安倍首相は折に触れていろいろなことをいう。しかしその言葉は「かつては意味を持っていたのだろう」が「今は虚しい」ものが多い。

官僚の書いた文章に感情が乗らないのもその中身に興味がないからだろう。目の前の問題や相手の苦境には一切関心がなく、未来への危機意識もない。やりたいことを問われると憲法改正と答える。しかし、憲法改正をして何をやりたいのかがさっぱりわからない。「戦後レジームからの脱却」とか「中国の脅威」とか「おじいさんに言われた」などと言っているが、何が本心なのかもさっぱりわからない。

「嘘」は口からでた虚を意味する。文法的には意味があり、かつては実を伴っていたかもしれないが、今は誰の心も動かさないということになる。安倍首相は嘘の政治家だという本当の意味は、この人の言っていることに実がないからであり、それが「社会を信じているすべての人」を苛立たせるのである。そして安倍首相の嘘を信じる人たちは「社会や公共」という私を越えたものを重んじず、すべては私物化の対象であると確信しているからこそ、安倍首相を指示できるのだろう。

孔子の目指したものが人々の間に時折立ち現れる生き生きとした何かであったかどうかは一冊の本を読んだだけでは確認のしようもないわけだが、少なくとも安倍首相という現象は「生き生きとしたもの」をかたっぱしから殺してゆくという意味で君子の対極にあるということが言える。そして、そうした人こそリーダーとしてふさわしいと言っている自民党はすでに終わっており、そういう終わった党にしか国家をまとめられないほど、我々の社会は行き詰っているということになる。

安倍首相のような虚の政治家が跋扈するのは、我々が村落社会に住んでいてある程度の一体感を感じていた社会を抜けて、巧言令色が支配する社会に移行する途中だからなのかもしれない。つまりどうしていいかわからなくなってしまっているのかもしれない。ただ、合理性が支配する社会ができたとしても「割り切れないもの」は残るので徳治の重要性は変わらないものと思われる。

安倍首相はなぜ空洞の国で独裁者と呼ばれるのか

Twitterで安倍首相は独裁者だというタグを見つけた。これを見てちょっとした違和感を覚えた。日本は基本的に強いリーダーシップを好まず、安倍首相にも強いリーダーシップは感じられないからである。

安倍首相が独裁者と呼ばれる理由を考えると、背景にある現在の日本のマインドセットがわかる。ここで「日本人」のと書かなかったのは、このマインドセットが変化するからである。どのように変化するのかということを観察すると「ここから抜け出すにはどうしたらいいか」や「それが適切な戦略なのか」が見えてくる。これまで民主主義と東洋思想という観点から国の統治について考えてきたのだが、いったん答えが見えるとこうした思想体系についての分析はあまり意味を持たなくなる。

実際に日本人は原理原則にはあまりこだわりがない。このブログの閲覧履歴を見ると、ニュースのディテールをまとめた記事は熱心に読まれるが、東洋的な長幼の序について書かれた記事はあまり読み込まれなかった。日本人は、周りがどう行動しているかは気にするが、原理原則にはあまり関心を持たないのである。どう逃げるかが重要であり誰と逃げるかは重要ではない社会なのだ。

これはこれまでの観察とも合致する。日本には個人の良心に基づく民主主義も、中国の哲学をもとにした保守政治も存在しない。東洋的な保守政治は強いリーダーが徳を持って政治をするのが伝統なのだが、そもそも日本には強いリーダーシップはない上に、いわゆる保守という人たちも「天賦人権はおかしい」というばかりでそれに代わるリーダーシップを提示しないことからそれがよくわかる。保守を名乗る人はそう言っておけばこの状況から自分だけは逃げ切れると考えているにすぎない。

実際に日本が1000年の歴史をもっていようが、100年の歴史をもっていようが、自称保守の人たちにとってはどうでもよいことなのである。だから彼らは科学的根拠の全くない神話を持ち出して「日本には長い歴史があるのだから個人には意味がない」というばかりである。彼らはどうやったら自分だけが逃げ切れるかということを熱心に考えているにすぎない。

この状態で東洋思想や西洋哲学について調べてみてもあまり意味はない。実際にやってみると「自分は博識である」と披瀝したい人が熱心に「自分が知っていること」を語りだす人が少なからず出てくる。これも彼らの世界観を投影して他人に押し付けていてマウンティングしようとしているだけで、実際には哲学や思想について語っているわけではない。「価値観が共有されない」ことに苛立ちを覚える人はおらず、自分だけが知っていると語りたがることから、問題解決ではなくマウンティングが主目的であるということがわかる。

今回の北海道の地震と台風21号の事後処理で、安倍首相が力強いリーダーシップを発揮して復旧に全力を尽くすように見える絵作りが行われている。しかし、安倍首相が最も関心を寄せているのは総裁選挙である。安倍首相は細かいことには興味がないが地位には強いこだわりを持っている。やりたいことはないがなりたいものはあるという人である。

これを見た一部の人たちは、NHKを独裁国家の国営放送のようだと非難しているのだが、やりたいことがないのに独裁者になれるはずはない。だから独裁者というのは周囲が作り出した幻想にすぎないのだ。中にはなりたいものがあるのだからやりたいこともあるのだろうと思う人もいるかもしれないが、もしやりたいことがあればもう実現しているはずである。

安倍首相の像が作られたものであるということは役割分担を見てもわかる。例えば関西空港が止まったことに対して謝るのは関西空港の人たちだが再開を発表したのは安倍首相である。つまり成果を安倍首相に集めることで「力強いリーダーシップ」を偽装しているのだ。産経新聞社は高らかに「安倍首相が死者は16名である」と語ったと報道しているのだが、実際には間違いだった。しかしこれを謝罪するのは菅官房長官である。「ぼーっと生きている」普通の日本人は安倍首相に任せておけば日本は大丈夫だと考え、それがごまかしである(実際に嘘のつきかたはかなりあけすけだ)と考えている人には嘘つきの独裁者に見えるのだ。

安倍首相の嘘は大勢の人たちに支えられており、それ自体が嘘である。何もやりたいことのない嘘つきを中心に据えることで、自分たちは責任を追求されなくて済むと考える人が多いのだろう。逆に周りの人たちは「議論」が起きて抜本的な解決策を模索されると困る。議論をすると課題に向き合わなければならなくなるからだ。この点、石破茂は危険である。内閣を中心に会議体を作って経済政策を行おうとしているのだという。ロイターから引用する。

経済戦争や金融市場の不安定化に対応するため日本版NEC(国家経済会議)を創設するとした。地方創生のため、「創生推進機構」を設立し、官庁や企業の地方への人材移転を掲げた。専任大臣を置く形での防災省の設置も盛り込んだ。

乱立している会議体を整理すると公言しているのだが、会議体が乱立しているのは関係者たちを満足させて責任の所在を曖昧にすることが目的である。問題解決ではなく利権の確保が問題なのだから「余計なことはしないでくれ」と思うのも当たり前なのではないだろうか。

特に小池百合子の乱を経験した東京出身の自民党関係者は石破の「危険性」をよく知っているはずだ。東京自民党は小池百合子に既得権益層であると名指しされて壊滅させられたという苦い経験をしている。そして、こうした「名指し」が単なるパフォーマンスであり問題を解決しないこともわかっている。

小池百合子はよそ者で女性というアウトサイダーであるがゆえに、既得権を攻撃して世論を味方につけるしかなかった。一方で、東京都民は彼女が「総裁選にも出た保守本流の政治家」に見えたのだろう。よそ者が権力を握るためにはインサイダーであり破壊者というイメージを持たれるしかないのだが、これは以外と狭い道である。小池はそれをやってのけたという意味では稀有な戦略家だった。

だが、これは彼女が得意とするイメージにすぎず、実際には自民党が持っているはずの政策ブレーンなどは利用できなかった。「小池党(たしか名前があったはずだが忘れてしまった)」が増えても政治経験がなく、ブレーンも怪しい人のようだ。つまり、彼らが実際に会議体などを作ってしまうと、利権が攻撃されて「めちゃくちゃ」になってしまう上に、新しくできた会議体も結局は何もできない。これで大きくこけたのが民主党政権である。素人が政治に手を出した上に未曾有の災害も起きてしまったので収拾がつかなくなり改革は3年で頓挫した。民主党政権はイメージから実務の党になろうとして破綻したが、小池都政は「政治は所詮イメージ」という徹底した思想に貫かれており未だに破綻していない。破綻が起こるのは実際に何かをしてしまった時である。オリンピックの期限が迫り、豊洲市場が運用を開始すれば問題が噴出するはずなので、そこで彼女の4年間が何だったかがわかるだろう。

逆に安倍首相は「やりたいことがない」からこそ、利権集団のまとめ役として「利用しがいがある」ということになるだろう。安倍首相には日本を統治する意欲はないので「憲法というおもちゃ」を与えて、強いリーダーであるというイメージに酔わせておけばよい。適当にやり過ごして3年が過ぎれは、その時のことはその時考えればよいということになる。もっとも利権集団が憲法を「おもちゃ」と考えているのは、書かれているものはいかようにでも解釈すればよいから実質的な意味はない考えているからだ。これが本当にそうなのかは誰にもわからないが、少なくとも平和憲法はそのように運用されてきた。

いずれにせよ、日本には細かな利権集団がたくさんあり「力強いリーダー」を祭り上げることによって外から干渉されることを防いでいる。これが日本が和を強調する国に見える基本的な原理だ。そして本当に強いリーダーシップが登場すれば、協力しない(あるいは表面的に協力する)ことで干しあげて潰してしまうのである。

だから安倍首相が周りの協力で強いリーダーに見えるとしたら、それはすなわち安倍首相がリーダーにはとてもなれないということが共通認識としてあるということを意味する。石破茂の人当たりがよいのはあまり人望がない(ゆえに周りに取り込まれていない)人が権力を奪取するために人当たりをよく見せているということを意味する。石破はその意味ではリーダーだが、多分類型としては「小池型」のリーダーだということが言えるのではないだろうか。

「不正」や「嘘」というと自動的に安倍首相が思い浮かぶ

面白いニュースがあった。石破茂総裁候補が「正直・公正」というスローガンを封印するかもしれないと言ったそうだ。党内で「今の総裁に批判的である」という批判がでたからだそうだ。

「正直、公正」は、学校法人「森友学園」「加計学園」の問題を念頭に石破氏が安倍晋三首相(63)の政治姿勢を批判したと受け止められている。しかし、自民党内では石破氏を支持する参院竹下派からも「個人的な攻撃には違和感がある」(吉田博美参院幹事長)という不満が出ていた。

だが、立ち止まって考えてみると「受け止められている」だけで、安倍首相を批判したものではない。にもかかわらず安倍首相が想起されており批判だと見なされてしまうという点にこの記事の真の考察点がある。

第一に自民党の中でさえ「安倍首相は嘘つきである」という認識が広まっており「正直」といっただけで首相批判が想起されてしまうということだ。このような組織でガバナンスが効くはずはない。自民党の中には嘘が蔓延し内部から崩壊することになるだろう。

次に、自分の内心に従って良心的な政治をするという当たり前のことですら自民党では「忖度」が必要ということだ。つまり、自民党はそれほど萎縮しているということである。

さらに、自民党の政治は支持されていると考えている野党が自民党に擦り寄ろうという気配もある。先日も玉木雄一郎という立憲民主党の議員が「老人に最低賃金は当てはめるべきではない」という極論を述べてネットで袋叩きにあった。長谷川豊という維新の候補者が暴論を振りかざすのも杉田水脈議員の「成功体験」を念頭に置いているのではないかと思う。これも彼らが「自民党のデタラメな政治に擦り寄りたい」という気持ちの表れなのなのだろう。

自民党の萎縮は「この先国が衰退してゆくであろうから、自分たちは今の政権にしがみついていなければならない」という恐怖心から来ているのだろう。自民党のガバナンスが内部から崩壊しても政権にい続けるとすれば、日本の有権者の多くがもはや政治になんら関心を持っていないか、嘘に依存しなければ維持可能ではないと考えているからなのだということになる。

こうした萎縮したマインドが蔓延した国で意欲にみちた経済運営ができるはずはない。その意味では今度の自民党の党首選はなんらかの意味での「最後の自民党総裁選挙」になるのかもしれない。

安倍首相の嘘を懲らしめるためには野党はどう動くべきか

今回は交渉をテーマに書くのだが、ちょっと気が進まない。自分自身は交渉ごとが下手で「話し合うくらいならもう関係を維持できなくてもいいや」などと思ってしまうからである。戦略を立てるのが得意ではないのでゲームも苦手である。そんな人が交渉について書くのであまり説得力はない。

今回テーマは森友・加計学園問題の追求なのだが、なぜ「交渉」がテーマになるのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれない。実は野党は有権者との交渉に望んでいるのだが、振り向いてもらえないために代わりに首相を追求している。これが森友・加計問題が進展しない理由なのである。

野党は「首相の関与を認めさせる」ゲームをしているが、これは実は彼らが求める結果には繋がらない。これが唯一にして最大の失敗の原因だ。しかも、最初から着地点がバレているのでうまく攻められないのである。


加計学園の問題と日大のアメフト部の問題を絡めて考えている。「そのままでは勝てそうにないという見込みがあると反倫理的行為が蔓延する」共通点があるとQUORAに書いたところ「アメフトが反倫理的だというのはわかるが、安倍首相が反倫理的だというのはなぜか」というコメントが入った。

この疑問に答えるために、公平性に注意しながらかなり長い文章を書いた。内部の人たちにとっては正義のための戦いであっても外の人がどう思うかはわからないという筋である。公平性を担保しないと「反政府側に偏っている」と思われて支持が得られなくなるというところに今の政治議論の難しさがある。日本人は集団の規則に従わない人をかなり嫌うのだと思った。

誰がどう考えても、あったものをなかったと言ったり、文書をごまかすことはよくないことだ。それでもニュートラルさを装わないと納得してもらえない。アメフトだと気軽に「嘘だ」と言えるわけだから、やはり権力に対する遠慮があるのだろう。「明らかな嘘」があっても、実は野党というのは最初からかなり不利な立場にある。

このことからわかるのは「国会」というステージで首相の嘘を暴くのは難しいということである。

野党の人たちは「首相が嘘をついているということが知られていないから不支持が広がらないのだ」と考えているようだ。そこで執拗に安倍首相に様々な攻撃をしかけている。しかし、すでに国民は安倍首相が正直であることに何の期待も持っていない。野党に政権を渡してしまうと「また大変なことになる」と思う人が多く、さらに普通の人は体制側に疑問を持ってはならないというマインドセットがあるので、野党の追求には支持が集まらないのだろう。

政権側は撤退ゲームを行っている。つまりあるボーダーラインを決めて<事実>を組み立てている。今回は財務省と愛媛県から新しい文書が出てきたことが問題になっているのだが「本筋には影響がなかった」と言い張るつもりのようだ。何か隠したいから文書を隠蔽したわけで、これはおかしな言い訳である。ゴールポーストは動いていて「明確な証拠がない限りごまかし通す」ということになっているので、いくら攻撃しても得点につながらないのだ。

野党側は安倍政権が作ったルールと安倍首相が置いたゴールの元でゲームを行っている。フィールドも敵地(アウェイ)である。これでは勝てそうにない。つまり、野党が勝つためには彼らが得意なゲームを設計しなければならないのである。

与党側も撤退戦なのだが、実は野党側も不毛な「言った言わない」でしか政権を追い落とすことができないと思い込まされている。追い詰めても相手は「ご飯戦法」で議論をすり替え、ゴールも動かす。そうして「絶対に勝てない戦い」を強いられている。

では、こうした状態を解決するにはどうしたらいいのだろうか。何か参考にできるものはないかと考えたところ北朝鮮とアメリカの「ディール」が思い浮かんだ。ディールは、あらゆる機会を捉えてゲームを作り出すところにその妙味がある。

トランプ大統領と金正恩委員長の間での交渉は決裂したとも言われており、実際に会談が実現したとしても非核化は難しいだろうと予想されている。日本人からみると「トランプ大統領は負けた」と思われても仕方がないゲームである。だが、これは日本人が最初から高めのゴールを設定して、そこに到達しなければ負けだと認識してしまうからである。

だが、実はトランプ大統領は負けていないという観測がある。トランプ大統領の目的は北朝鮮がアメリカに攻撃できないようにすることであるという。北朝鮮も核兵器の保持を既成事実化すればよい。つまり、交渉を始めて「ICBMさえ放棄させてしまえば」北朝鮮とアメリカにとってはWin-Winなのだ。文在寅大統領にとっても北朝鮮との間にパイプができれば独自に経済交渉などができるし、核兵器を持っていたとしても突発的な攻撃も防げる。これもいわばWin-Winである。つまり、彼らは意図的に衝突なりコンタクトを起こして「ディール」を作ることで何かをゲインするという方法をとっている。

と、同時に実際のどの程度のことを獲得できればいいのかということは最初から明かさないし、そもそも手持ちのカードを最初から全て見せるようなことはしない。だから相手もゴールを動かしてゲームを撹乱することができない。

実は野党の中でこの戦略をとっている政党が一つだけある。それが共産党だ。共産党は時々新しいデータや文書を出してくる。多分内部に協力者がいるのだろう。だが、それは表に出さない。会議の場で新しい情報が出たから、もう少し慎重に審議をしなければなりませんねといって相手を追い詰めて行く。彼らは完全にゲームを掌握しているわけでもないが、すべての手の内を見せているわけではない。共産党がこうしたゲームができるのは共産党を信頼している人が館長の内部にいるからだろう。彼らは彼らが得意なゲームを戦っていることになる。

この戦法をとるのであれば「最終ゴール」である安倍首相への攻撃はやめた方が良いと思う。それよりも周りにいる人たちを避難して相手に高めのゴールを吹きかけた方が良い。例えば加計学園や財務省など攻撃できる人たちはたくさんいるし、さらに言えば国会ではなく法廷闘争でも構わない。国会であれば安倍首相に守ってもらえるという人でも、別のステージで「守られないかもしれない」と思えば心理的な揺さぶりができるし、中には口を破る人も出てくるだろう。そこで、おもむろに本来の目的を遂行すればよい。

さらにテレビを通じて論戦をすることもできる。スタジオに与党議員を呼んで安倍首相の無茶な理論を繰り返し説明させれば良い。これを証明できないと「自民党の議員の質が問われる」とすればよいのである。そのうちネトウヨ議員が出てきて人権を無視するコメントなどを出してくれれば「追加ボーナス」だ。安倍首相の人格ではなく、自民党議員一般の資質を問題にすれば良いのだ。

さらに、獣医師会をいじめるというゲームも考えられる。加計学園で獣医学部は需要があるということがわかったのだし、新潟と京都はやりたいと言っているのだから総理の強いリーダーシップのもとでこの二校も作ってやればよい。すると獣医師会は慌てるだろう。そこで「加計学園は特別なのか」と言えばよい。

日本人がこうした交渉をやりたがらないのは「そうまでして勝ちたくない」と思う上に同質性が高く「政治というのはこうやって行うべきだ」という同意と思い込みが強いからだろう。しかしルールを設定して戦うことは「ルール無視の無法」とは違っている。ぜひ積極的に勝てるゲームを作るべきなのではないかと思う。

加計学園問題 – 嘘が嘘を呼ぶ

2015年4月2日に会議があったかなかったかで大騒ぎになっているのだが、あまりにも細かすぎていったい何が問題になっているのかがさっぱりわからなくなってしまった。加計学園は継続開削の対象なのでそれなりに追いかけているつもりだが、それでもしばらく目を離していると何が起こっているのかがわからなくなってしまう。今回の騒ぎの原因は首相が2017年1月21日まで「知り得る立場にいたのだが知らなかった」と言ったことが「嘘だったのではないか」ということが問題になっているようだ。これが嘘だとすると安倍首相と加計理事長の間に収賄の容疑が生じるとのことである。

この件は幾重にも「嘘」が積み重なってできているのだが、国民の間にはすでに一定の「真実」ができあがっているように思える。みんなが何を思っているかということが真実なのであって、実際に何があったのかというのはそれほど重要ではない。だがこれを言葉にしてみることは実は重要だ。意外と曖昧さが残っているのである。

加計学園の理事長と首相は昵懇の中である。同時に、加計学園は今治市との間で新しい学校を作りたいという計画もあった。しかし、関係省庁が反対し石破大臣も越えられそうにないハードルを設置したので首相に口利きを依頼した。首相は柳瀬秘書官を使って省庁に圧力をかけると形勢が逆転し、加計学園は獣医学部を作る事に成功した。

ところが、曖昧さも残る。加計学園がいつ獣医学部を作ろうと決めたのかはよくわからない。また最初に加計学園が今治市に話を持ちかけたのか、それとも安倍首相が積極的に制度を作って加計学園を応援したのかもわからない。また選定過程にも曖昧さがある。つまり、今治市が加計学園と政府を仲介したのか、それとも加計学園が今治市と政府を仲介したのかがよくわからないのである。

うろ覚えの知識では、戦略特区制度では地方自治体が事業者を選んで選定が進むことになっていたと思うのだが、調べてみるとこれについて明確に書いている資料は意外と少ない。国家戦略特別区域会議というものを開催するらしいのだが、これの主催者が誰なのかがよくわからないのである。

別の知識では首相が強いリーダーシップを発揮して岩盤規制を打ち破ることになっているのだが、首相がどこで力強いリーダーシップを発揮したのかはよくわからない。そもそもなぜ首相が力強いリーダーシップを発揮しなければ物事が進まないのかもわからない。

さらに同じ業種の戦略特区をいくつ作るのかということもよくわからない。今回は京都と新潟が落とされたようだということになっているが、この特区は地域を決めてから事業者を選ぶようになっているとすると新潟と京都は今治の件には関係なく特区を立ち上げればよい。今治プロジェクトが走っている間は新潟は同じようなプロジェクト提案をしてはいけないというルールはないはずだ。なぜ首相が力強いリーダーシップを発揮する特区制度をブロックするために別の大臣の作った基準が発動しうるのだろうか。考えてみると、なんらかの裏事情の想定を使って追加説明を加えないと特区制度そのものがうまく説明できないのだ。

つまり「あるべき姿」が何だったのかがよくわからなくなっており、従って何が嘘なのかもよくわからないという状態になっている。だが、攻撃する方もされる方もあまりそのことには興味がないようで、しきりに誰が嘘をついたとか嘘をついていないとか言い合っている。有権者も「嘘つき探しゲーム」に熱中しているようだ。

いずれにせよその意味では官邸が嘘を吐き続けるのは実は当然だ。ゴールは「加計学園の今治プロジェクトは決まり通りに行われた」ということを証明することなのだが、その途中で曖昧な意思決定が行われている。そこでそれに合わせてつじつまを合わせようとしているうちに誰もが大混乱に陥っている。するとどこかが整合しなくなる。この場合切り捨てられるのは中央から遠い人たちなので、彼らが文章を持ち出して「自分たちは正しい報告をした」と言いだして騒ぎが大きくなり、もはや収集がつかない状態だ。

この原因になっているのは首相の「力強いリーダーシップ」という嘘である。首相のリーダーシップがどのように発揮されたのかがよくわからないので。首相秘書官の関与もよくわからなくなっている。誰もが首相は日本で一番偉い人だからなんとかしてくれるのだろうと思っているのだが、実は何もしていないし監督もしていないということがわかってしまった。

加計理事長は2015年2月25日に加計学園理事長と安倍首相が会ったというのが記憶違いだったといっている。これは少なくとも加計学園が事業主体であり国も関与していると主張していることになる。関係としては「国」→「加計学園」→「地方自治体」である。柳瀬秘書官の説明でも「国」→「加計学園」→「地方自治体」ということになっている。加計学園が連れてきた専門家が「新しい獣医学部」について熱心に語ったことになっており、地方自治体はいたのかいなかったのかよくわからなかったことになっているからである。だが、実際には国は地域を設定してから事業者を決めることになっているはずである。いったいどっちが正しいあり方だったのだろう。

加計学園は今治市に96億円の支援を要請している。この支援自体は学校が認可されたら行われるということなので県や市の説明責任には直ちに影響はない。しかしながら実際には工事は先行して行われておりそのためにはお金が必要だったはずだ。加計学園が自己資金ですべての工事費用を調達できているのなら問題はないわけだが、加計学園には借金があり銀行からお金を借りていたはずである。つまり「まだ認可されるかはわからない事業」が担保になってお金を借りていたことになる。首相の関与には担保価値があるのである。すると「首相がいいねと言っていた」と誰かがほのめかしていたとしたら、その人は詐欺行為を働いていた可能性が高い。理事長がこれを主導していたとしたらこれは学校ぐるみの詐欺行為だし、別の人が主導していたとしたら加計理事長は使用者としてこの人を特定して告発する責任がある。

プロセス通りに許認可をしていたとしたら開学は間に合わなかったはずだ。すでに提案が間に合わないといって降りた学校があることがわかっている上に、認可が降りるかどうかまだわからない状態で借金もしなければならない。このような提案ができる事業主体はない。

もともと、戦略特区は外国に対する利益供与として設定されたという話がある。日本市場は監督官庁の既得権保護のために閉鎖的な空間になっている。アメリカが自分の国のルールで事業を展開しようとした時省庁の関与が邪魔になる。そこで首相が関与して省庁の既得権を排除しようとしているというのである。外国への利益供与のために国内産業が犠牲になることを一般に「売国」という。

嘘の追求はそれなりに続けていただいても構わないと思うのだが、野党になるのか後継の自民党の首相でも構わないのだが、この制度の問題を洗い出して問題点を国民に説明すべきだろう。背景にある問題は首相の「お友達の要求を叶えていい格好がしたい」という首相のわがままだ。ただ、実際にプロジェクトを進めようとすると臆病になってしまう上に、お友達が何をやりたがっているのかを理解しようという気持ちもないので、状況が大混乱する。この制度を温存している限り同じようなことが度々繰り返されることになるだろう。

嘘つきの安倍首相が教えてくれること

玉木雄一郎議員が予算委員会で「安倍首相は嘘つきだ」と指摘して議会が騒然とした。安倍首相は「人を嘘つき呼ばわりするということはそれなりの証拠を示さなければならない」という。だが、安倍首相が嘘をついていないなどという人はもう誰もいないだろう。

首相官邸で今治市職員が面談をした時のメモが流出している。かなり具体的なことが書かれており全くでたらめだとは考えにくい。その上、愛媛県知事はわざわざ記者会見を開いてメモを書いた人を確認したと表明している。

安倍首相は常々「人を嘘つき呼ばわりするならそれなりの証拠が必要だ」とうそぶいてきた。証拠が出てきたのだから今度は安倍首相側が「反証」する責任が出てきたということになる。しかしながら、安倍首相側は反証ができていない。柳瀬唯夫首相秘書官(当時)は記憶がないと言っており、安倍首相は柳瀬唯夫首相秘書官(当時)がなかったといっているのだからそれを信頼していると言っている。官邸側が明確な否定ができない理由は二つ考えられる。いろいろなことを隠蔽しすぎて何が現実なのかがわからなくなっているか、それとも実際に今治市の職員を呼びつけているかのどちらかである。

一方の当事者である今治市・愛媛県側は具体的な証拠を出してきているのだが、もう一方は記憶がなく記録も残っていないと言っている。どちらを信頼すべきかという話になるのだが「具体的な記録と記憶を持っている側」が正しい可能性が高い。加えて、安倍官邸は「首相の関与」を隠さなければならない動機があるが、愛媛県側には話を隠蔽する必要はないように思える。

状況は変わり始めている。太田理財局長は枝野議員とのやり取りで森友学園側の弁護士とのやり取りをほぼ認めてしまっている。枝野さんは「口を割らせる」ようなことはせず、淡々と話を進めていた。太田さんは「首相の顔色を伺って名前は出せないが、かといって隠そうとも思っていない」ということになる。太田さんは多分官邸の「チーム隠蔽」が怖いのだろう。怖いから彼らのストーリーには逆らわないが、かといって言われていないことはやらないという姿勢が見受けられる。彼らは法的には当事者なのだが、実際には官邸というアンオフィシャルな人たちの指示で動いている。

「チーム隠蔽」は総理(首相の側近は「首相」という言葉を使わないのだそうだ)のご意向を背景にかなり強引なことをやっていたようだ。今回の隠蔽の筋書きを書いているのは彼らなのだろう。首相秘書官が玉木議員にヤジを飛ばすというシーンがあった。秘書官らの「本当に国を動かしているのは自分たちだ」という思い上がりがある。彼らにとっては議会というのは単なる小うるさい追随機関であり「黙って俺たちのやっていることを追認すればよいのだ」と考えているのではないだろうか。モラルやルールよりも首相の意向の方が大切なのだということがわかる。

こんな中で別の本音も見られた。決済文書をいちいち見ていないと言い放った官僚がいた。それについて感想を求められた麻生財務大臣は「そういうこともあるでしょうね」と追認した。

これに対する財務省・太田充理財局長の答弁はこうだ。

「本人に確認しました。『責任はありますが、正直に言うと、そこまでちゃんと見ていなかったので、覚えてませんでした』というのが、彼の正直な発言です」

彼らはまた別のポジションにいる。彼らは「オフィシャルな意思決定権者」であると同時に「傍観者」でもある。

これらのことからいろいろなことわかる。

  • 日本ではリーダーが暴走を始めるとそれを止めるのは難しくなる。しかし、リーダーが機能不全に陥ったからといって国全体が機能停止することはない。なぜならば実際の意思決定はアンオフィシャルな現場の権限のもとに行われているからである。そしてリーダーは細かいことは知らず、むしろ暴走を追認する立場にある。
  • 実際に暴走しているのはリーダーではなくリーダーの権威を背景にしたチームだ。彼らはモラルやルールを無視する傾向がある。モラルやルールよりも自分が所属している集団の影響力を重要視するからだろう。今回の非公式のチームは「官邸」と呼ばれており、経済産業省という経験を共有した人たちの集まりのようである。彼らは次第にアンオフィシャルな意思決定ルートを形成しようとするのだが法的な権限がなく、かつ実際の意思決定はアンオフィシャルな「現場の権限」によって運営されている。そこで、次第に圧力を強めて行く。彼らはアンオフィシャルなので法的な責任を負わないし、チームで動くので誰がどんな意思決定しているのかよくわからない。しかし、彼らの使用者であり黙認者は細かいことを知らないので、こちらも法的な責任は取らない。
  • 一方でオフィシャルな意思決定ルートは単に非公式な決定を追認するにすぎない。そう期待されているし、実際にそうなっている。彼らは形式上の責任をとるとされているが、実際には何も知らないし何も決めていないので何もしない。
  • つまり、最終責任者、公式の意思決定者、非公式の意思決定者は情報と責任を分担しあっており、誰も責任を取らない。後になって情報を追ってみても何もわからないのは責任が上手に分散しているからである。

責任が分解されているので状況がわかりにくい。そしてこうした状況を作っているのは安倍首相である。ある時は官邸の意思決定者として振る舞い、別の時には公式の意思決定者として答弁するので話が複雑化している。しかし実際にはどちらも情報を持ってはいない。そして情報を持っている人には意思決定もしないし権限も持たない。この使い分けは憲法議論でも行われている。昨日の答弁では憲法について自民党総裁として答えていた。左派野党にはお答えできないと言っているのでダブルスタンダードなのだが安倍首相にとっては単なるゲームなのだろう。この立場の使い分けが国会を混乱させているという認識はないようだ。

今回の件からわからないのは「実際に国会議員が権限に基づいて組織マネジメントをしようとするとどうなるか」ということだ。これが顕著に弊害として現れたのが民主党政権だ。官僚が切り捨てられるリスクを冒してまでも自民党政権を守ろうとするのは多分「それでも意思決定に直接介入してくる民主党政権よりマシだ」と考えているからだろう。今回は小野寺防衛大臣がため息をつきながら「自衛隊が日報を隠蔽しようとするような習慣は民主党政権時代になんとかしてくれていれば起こらなかったのではないか」とほのめかしていたのだが、おそらくはごまかしではなく彼の実感であったという気がしてならない。それほど一次情報を「編集」する文化が横行しているのかもしれない。一次情報にこそ本音が隠されているからだ。

首相が複数の新聞で嘘つき呼ばわりして何も決められなくなっている国で誰もそのことを心配したりはしない。日本人は「リーダーは本質的に何もしないし何もできない」という合意形成があることになる。つまり、誰も何も決めないし何も決められないのが日本なのである。「文書」はもともと何の意味もない公式な意思決定の過程を記録しているにすぎないので特に重要な意味を持たない。一方で重要な意味を持っているのは一次資料である個人のメモである。

前回の寺子屋の議論で日本人はゼネラルマネージメントを学ばないと書いた。日本の企業で総合職が最初にやらされるのは議事録の作成である。議事録をまとめるに当たって重要なのは「何を残し、何を捨てるのか」を体で学ぶことである。つまり欧米のマネージャーたちが問題解決の方法を学んでいる同じ時期に、日本人は調整を学んでいるということになる。

面白いのは(真面目に政治を見ている人には面白くないかもしれないが)これが決めたがる民主党政権の揺り戻しとして起きているということだ。決めることは権力の源泉であると同時に官僚にとってはやりがいだったのだろう。これを奪われそうになり3年にわたって抵抗した結果、民主党政権は自滅した。この経験から官僚組織は様々な手段を使って安倍政権を支えることにしたのだろう。だが、その結果として首相の意向を背景に暴走するチームが生まれて手に負えなくなった。

こんな中自民党は文書管理のチームを作ったそうだ。一次情報が掌握できれば官僚組織が掌握できる。これを行っているのが次期首相候補の岸田さんのチームであるというのは興味深い。しかしながら、官僚は一次情報が権力の源泉であるということを理解しており、なおかつ一次情報を手放して政治家に意思決定を任せると政府が混乱することはわかっている。これが上手く行く可能性は高くなさそうだ。

ということは今の政府は「実際に何が起こっているのか」を十分に把握しないままで混乱している可能性が高いという推測もなりたつ。

安倍さんの嘘と抑止力という安全神話

安保法制を巡って、当初安倍首相は2つの事例を挙げて「これは日本人を守る法案だ」と説明してました。ホルムズ海峡の機雷掃海と朝鮮半島(とおぼしき外国)から退避する邦人の保護です。
ホルムズ海峡の事例はしばらく前に取り下げられました。イランとアメリカが関係を修復したために、ホルムズ海峡に機雷がまかれる可能性がなくなったからです。これについで、朝鮮半島から退避する邦人を保護するという事例でも、集団的自衛権が行使できるかどうか怪しくなってきました。(東京新聞 – 米艦防護の条件めぐり 防衛相、邦人乗船「絶対でない」
この朝鮮半島の件には予兆がありました。先だって安倍首相は「朝鮮半島で有事が発生しても日本には重大な影響がない」という趣旨の発言をしたのです。ちょうど北朝鮮が準戦時状態に入っており、朝鮮戦争の可能性が出てきたために「日本が朝鮮戦争に巻き込まれるかもしれない」という議論を怖れたのかもしれません。これを聞いてネトウヨの人たちは「日本は韓国を見放す宣言をした」と大喜びしました。しかし、朝鮮戦争が有事でないならば、半島から邦人が逃げてきても集団的自衛権は発動できないことになってしまいます。
では、なぜ根拠のない集団的自衛権を通す必要があるのでしょうか。それはアメリカを防衛するためです。伝わってくる情報は断片的ではありますが、いくつかの事例があります。一つは安倍首相が訪米時に「北朝鮮がアメリカにミサイルを撃ってきたら、迎撃してあげる」という約束をしています。もう一つはアーミテージ元国務副長官がNHKへのインタビューで語った「日本周辺でアメリカ人を守るため自衛隊員も命を懸けるという宣誓なのだ」という台詞です。
アーミテージ氏のいう自衛隊の米軍護衛は、平時であれば特に国会の承認などが要らないことが民主党の質問で分かっています。平時からなし崩し的に緊張状態に陥る可能性があります。
ここから分かるのは「邦人保護」とか「国益を守る」というのはあくまでも国内向けの説明であって、本当の目的ではないということです。本当の目的はアメリカの保護なのです。
明らかに安倍首相は嘘をついているのですが、この文章の目的は安倍首相の嘘を非難し日米同盟など守る必要がないと主張することではありません。むしろ、安倍さんの嘘が日米同盟と自民党を危機にさらす可能性が懸念されます。
善意に解釈すると、安倍首相はアメリカを喜ばせようと考えて米国向けに「日本はアメリカを守る国になる」と宣伝し、日本人が心配すると思って「たいした事は起こらない」言っていると考えることができます。
何事もなければ、この2つは矛盾なく両立します。ところが、いったん何かが起こるとどちらかを満足させられなくなるでしょう。アメリカの圧力を怖れて内閣が有事を宣誓すると自衛隊に多くの死傷者がでて、国内世論が動揺する可能性もあります。一方、国内世論の動揺を怖れて内閣が知らないふりをすると、裏切られたと感じたアメリカ政府は日本に有形無形の圧力をかけるでしょう。もしかしたら、それは危機が去った後も続くかもしれず、日米同盟の空洞化が進む可能性もあります。すると、日本人は日米同盟への疑問を募らせるようになるでしょう。
この構図は原発に似ています。日米同盟が強固ならば何も起きないという「抑止力論」はつまりは、原発の安全神話と同じことなのです。法案が成立すれば、政府には有事の想定を「なかったこと」にしようとする圧力が働く事になると思います。
いったん事故が起こり国民保護の大義がなかったと国民が気づけば、国民世論は一気に「集団的自衛権行使反対」に傾くはずです。原発事故後に原発への反対世論が一気に進んだのと同じです。
事故後、原子力発電所の再開の判断は原子力規制委員会に丸投げされました。内閣への風当たりを避けたものと考えられています。しかし、安保法制では有事の判断をするのは内閣なので、日米双方からの圧力をまともに受けるものと思われます。逃げ場はありません。事故の際に地元への対応に追われるのは自民党と公明党の議員たちでしょう。
政権を賭してまでアメリカを守る覚悟があるとすれば、それはそれで立派な態度だと言えるかもしれません。しかし、安倍政権は本当にそこまでの覚悟があって、この法案を通そうとしているのでしょうか。