日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

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障害者雇用の水増しについて考える

障害者雇用の水増しについて考える。当初は社会が余裕をなくした結果切断処理が横行した結果「障害者雇用を水増ししていた」というお話を考えて記事を読み始めた。

だが、思い込みで記事を書くのはよくないなと感じた。最初に「ああ、思い込みだな」と思ったのは慣行は義務化当初の42年前から続いており、最近の世相を反映したものではないということがわかった時だった。もともとの全員の社会参加という理想を忘れ「単に数をあわせておけばいいんでしょ」と捉えられていたということである。1970年代には障害者の社会参加は今よりも遅れており「とても通勤して仕事をさせることなどできない」と最初から切り離していた省庁が多かったのだろう。そしてそれが現在でも続いているということになる。そうなると「切断」は昔から行われており、最近は「切り離された人」が声をあげられるようになったことでそれが表面化しているということになる。

この慣行が明るみに出たのは財務省が厚生労働省に問い合わせをしたからだそうだ。つまり、意図的に隠蔽したものがリークされたという類のものではない。財務省が5月に問い合わせをしたということなのだが、当時財務省は国有地の払い下げやそれに続くセクハラ問題などで揺れていた。これ以上隠蔽を疑われたら何を言われるかわからないという不安な気持ちと「麻生大臣は何もしてくれないだろう」という諦めから問題を早々に放出したのだろう。ところが蓋を開けてみるとこれは財務省だけの問題ではなく、どの省庁もやっていたことだった。そしてそれに対して官庁を所管しているはずの政治家たちは何もするつもりがなく何もできないのである。

一部の新聞はこれを政権批判に絡めようとしている。森友加計学園問題で「隠蔽」が話題になっているので、それをほのめかすことで「隠蔽している」という印象を与えることは可能なのだろう。東京新聞は「調査が10月に先送りになる」と言っている。総裁選挙への影響を避けた判断なのだろう。

実際に自浄作用が期待できるかどうかはわからないのだが、拙速に調査して「なかったこと」にするよりも、じっくりと調査したほうが良いのではないかと思う。いずれにせよ、一連の文書改竄問題とこの問題はリンクさせないほうがよさそうだ。

菅官房長官は年内に数合わせをするか雇用計画を出せと言っているようだが、これも問題があると思う。とにかく批判されたくない官庁は今度は拙速な数合わせに走ることになる。つまり「障害者手帳を持っているなら誰でもいいから動員しろ」ということになりかねない。いっけん良いことのように思えるかもしれないが「障害者」でひとくくりにして、戦力としてはみなさず単に統計上の数字としてしか見ていないというのがそもそも差別的である。麻生大臣は「障害者手帳の取り合いになりかねない」と発言しているそうである。

麻生太郎財務相は28日の記者会見で、「障害者の数は限られているので、(各省庁で)取り合いみたいになると別の弊害が出る」と指摘。(毎日新聞

毎日新聞はこの辺りを丁寧に書いている。実際の雇用現場では限られた予算で目標を達成しなければならないので、一人ひとりの適性をみて苦労しながらリクルーティングをしているという。数合わせ的な制度が問題だとしているが、これは当事者たちにとっては当たり前の指摘だろう。生まれながらにして、あるいは病気や事故にあった人が障害者という「箱」に入れられて一律で「処理」される制度がまともなはずはないのだが、これがおおっぴらに行われているのが現代の日本なのである。

真の問題は多分障害者雇用とは関係がないところにあるのだろう。毎日新聞の別に記事では、健常の責任者が数字を合わせるために「自分も数に入れておけ」と指示したという話が出てくる。このことから査察という「村の外から」の目がなければ何をやっても良いという文化が42年間も温存されているということだ。辻褄合わせの文化が政治によい影響を与えるはずはない。

日経新聞は故意かそうでないかを問題にしている。日経らしい無神経さだ。故意の人もいただろうし、無関心だったという人もいただろう。だが問題は本人たちが自発的に「このままではいけないから状況を改善しよう」と思わなかったという点だろう。これまで調べようともせず、制度の目的も理解しなかったことのほうが問題である。故意にやったと言い出す人はいないはずで、10月の調査でも「知らなかった」とまとまる可能性が高いのではないかと思う。

問題は多い一方で、この問題には評価できる点もある。財務省が「まずい」と気がついたところだ。世間の苛烈な非難にさらされたからこそ「隠し事はためにならないな」と感じたのだろう。さらに、問題が起きても首相は官僚を「切断」するだけで責任は取ってくれないということが身にしみてわかったのではないだろうか。今後財務省が身を挺して政治家をかばうことは減ってゆくのかもしれない。

そうなると今後も官庁から様々な問題が放出されることになる。すると大臣たちは「なぜそんなことになったのかわからない」と首をかしげるばかりで、いままでお任せ政治が横行したことがじわじわと露見することになる。さらに政治家のライバルを封じ込めることしか頭にない首相はそもそも表にすら出てこない。誰がどう見ても「全くガバナンスが効いていない」ということがわかるわけで、多分これは安倍首相が交代するまで変わらないのではないだろう。

つまり、こうした状態だらだらとが3年続く可能性がきわめて高いわけだが、この状況に有権者国民がどれだけ耐えられるかは疑問である。自民党政権が今回この問題を軟着陸させることができたとしても空いた穴はふさがらないのではないだろうか。

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逆に感動を与えてもらったという言葉の違和感についてまったりと考える

昨日24時間テレビについて考えたので、その続きとして「逆に感動を与えてもらった」という言葉が持っている強烈な違和感について考える。この言葉のポイントは「逆に」である。

まず「感動」という言葉を処理してみる。もともと感情が動いたことを意味する言葉だが、どうもスポーツでは別の使われ方をしている気がする。例えば甲子園で熱中症になりながら野球をする人たちを見て「感動した」という人たちがいる。野球以外は何もせず、青年の美しさをすべて捨て去って坊主頭で球を追い続ける人たちに使われるようである。また、年始のマラソンや駅伝を見て「感動した」という人たちもいる。これも全てを投げ打って合宿生活を送るやせ細った人をみて「感動した」と言っている。

この二つに共通するのはどちらも「全てを投げ打って何かをしている」という点にある。全てを犠牲にしている限りは自分たちには襲いかかって来ないしライバルにならないという安心感がある。彼らが意識しているのは集団に対する貢献であり、逆に個人の記録についてはあまり重要視されないという点も見逃せない。オリンピックの個人競技に感動したという人もいるが、あれも全てを投げ打ってオリンピックのメダルを日本という国に捧げたというところに意味がある。つまり、個人が全てを投げ打って集団に勝利を捧げる姿をみて「感動した」と言っているのだ。そして、その集団の中になぜか「感動した人」が含まれるのである。

苦労しているのは選手だが勝利の感覚を味わうのは観客である。つまり自分の犠牲なしに相手が犠牲を払って勝利を捧げるのをみることを「感動」と言っていることになる。実は先日見た「チャリティ」の切断と同じように、選手を切断して対象物として楽しむのが「感動」の正体なのである。

これは、映画を見たり本を読んだりしてで心が動かされて何か内心に変化があったという「感動」とは趣が違っているのだが、内心を持たない人が本を読んだり映画を見たりして心が動くということはありえない。中には両方の「感動」を持っている人もいるだろうし、どちらか一つの感動しか持っていない人もいるだろう。

こうした意味での感動は日本ではよく使われる。中には「感動を与える」ことを生業にしている人もいる。彼らが用いるのが「逆に感動を与えてもらった」である。感動を与えるのだから、普通の人たちに対して優位に立ってはいけないという特徴がある。感動を与えるスポーツ選手や芸能人は憧れの対象ではなく「普通の人たちの下位にいる」存在なのだ。

そこで、被災者を支援した人が「逆に感動を与えられた」などいうことがある。もちろんそういう人ばかりではないが、自分たちの芸能人としての評価をあげたい人たちがマスコミを引き連れてボランティアに出かけることがある。彼らが使う「逆に」は「助けてあげるというおこがましい気持ちではなく結果的に勇気付けられました」という謙遜として機能しているのだが、実際には「普段は感動を与えている」側の人間が「逆に」感動を与えてもらったという意味合いもある。

ここでは感動を「搾取」と見ている。ひけらかしにボランティアに訪れる芸能人は、被災者を利用して自分を大きく見せているという意味で搾取をしていることになる。彼らは被支援者と自分を切断している。

ここまで「感動は搾取である」ということを書いてきたので「ずいぶん皮肉めいている」と感じる方も多いのではないかと思う。例えば「美しい日本」という言葉で日本社会の問題点や過去の歴史的な過ちを隠蔽することがあるように、感動も臭い消しのように用いられることが結構多いのである。例えて言えばトイレの芳香剤のように気楽なものなのだ。そして、このメンタリティはかなり浸透している。多分日本だけの現象でもないと思う。

こうした気持ちはかなり根強く当たり前にあるので、搾取感情が表にでないことが多い。最近江川紹子さんがこういうツイートをした。普段から真摯かつまじめな気持ちでジャーナリズムに取り組んでいる人なのでなんら悪気はないと思うが、このツイートには問題が多い。

なんとなく感動的な良い文章のように思えるのだが、名前や顔立ちが日本人的でなくても日本国民であるという人は大勢いるし、その人がその外見や属性ゆえに他の人と違って「多様性」に尽くさなければならないということはない。もしそうだとしたらそれは「普通の日本人以上の義務を他人から勝手に負わされている」ということになる。

そもそも、選手は日の丸のために頑張っているわけではなく、個人として可能性を追求したいだけかもしれない。最近のスポーツ選手が「自分の可能性を試したい」と言わないのは、スポーツが各種の補助金を得ているからだろう。このため「税金を使っているのだから世間の常識(実は自分の思い込みのことだが)に逆らってはいけない」などと言い出す人が大勢いるのだ。

普段はこうした欺瞞を攻撃するであろう江川さんでさえ、自分が理想とする多様性を相手に写し込んで、それが実現することに勝手に「感動」してしまっている。ただ「それはさ搾取ですよね」などと指摘しても何を言われているかすらわからないのではないだろう。そこにはほのかな違和感が残るだけである。

外国人が言われて嫌な言葉に「日本人でもないのに日本人らしいわね」という言葉がある。日本人はこれを褒め言葉だと思うかもしれないのだが、言われた方は「でも所詮外国人でしょう」と言われていると感じることがあるからだ。切断されて対象物として扱われることによる疎外感は「外国人」として社会から二級市民として扱われた経験のある人しかわからないかもしれない。しかし、頑張ってもインナーサークルに入れないというのはかなりの絶望感を生む。

日本人は「する」よりも「なる」を好むので、自分の理想形を目の前にすると「これがあるべき姿なのだ」と勝手に感動してしまうことがある。実は単なる他人の対象化なのだが、それを感動だと錯誤してしまうのだ。

なかなかわかりにくい「感動」だが、簡単なテストもある。感動の対象物が自分のやりたいことを言ったり権利を主張したりした時に「嫌な気持ちがする」としたらその感動は搾取の言い換えであろう。対象物として切断しているはずのものが競争者になってしまう。すると「対象物として利用できるはずだった」という期待することで腹が立ってしまうのだ。このようにして我々は割と自動化された形で「誰が利用できて、誰がライバルになるか、そして誰が敵なのか」ということを判別して生きているのである。

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ローラさんのバッシングと24時間テレビ

タレントのローラが叩かれている。拠点をロスアンジェルスに移したあと、インスタグラムでセレブっぽい発言を繰り返しているのがその理由のようだ。ローラは環境破壊問題に興味を持ちユニセフに1000万円寄付をすると主張している。

これについて、アメリカではセレブが「ノブレスオブリージュ」を果たすのが一般的だが日本は村社会なのでそれが理解できないのだろうという論評を見た。これだとそれほど面白みもないので特に論評する価値はなさそうだが、考えてみると少し面白い視点が見つかった。それが「日本人とチャリティ」についてである。24時間テレビが叩かれていることもあり、改めて考えてみることにした。

かつて、日本にもユニセフに寄付をしたり大使として協力するという芸能人がいた。ユニセフに貢献している有名人は黒柳徹子アグネス・チャンが有名である。最初は日本の芸能人は憧れの対象だったがいつしか下に見られる存在になったという枠組みのお話を考えた。

だが、1980年代のアグネス・チャンについて調べているうちに基本的な構造自体はそれほど変わっていないということがわかってきた。そこから見えてくるのは、どうやら日本人は社会貢献や改革にはそれほど関心がなく自分のマウンティングのために利用する対象物としてみているというあまり直視したくない現実である。

香港出身のアグネス・チャンはそれほど日本語がうまくなかったので少し侮られていた。子供をつれて職場復帰したことで一部の女性の妬みを買いいわゆる「アグネス論争」が起こった。妬んだのは独身の「お姉さん」やフェミニズム運動を苦々しく思っていた「お姉さん」である。論争が起きたのは1988年のことだったそうだがこの公開いじめのような状態が2年も続いたという。今でも子連れで通勤すると「子供を自慢しているのか」とか「迷惑になる」などというネガティブな感情が生まれることがあるが、それはバブル崩壊前の時代も同じだったということになる。また「女性を攻撃するのが女性」という構造も変わっていない。

このときにアグネス・チャンを叩いた林真理子は結婚していなかった。子供がない女性が子供を産んで「充実した生活を手に入れた」ことが恨まれたという側面があるのだろう。林真理子はその後1990年に見合いで結婚し1999年に出産したそうだ。よく女性の敵は女性と言われる。その実態は村社会型のマウンティングなのではないかと思う。似たような属性のちょっと優れた人を妬むのである。

男性がことさら子連れの女性を嫌わないのは、男性の方が優れているからではなく子連れの女性がマウンティングの対象にならないからだろう。代わりに「生産性が下がるから職場に連れてくるのは遠慮してほしい」などということはあるかもしれない。男性同士での競争がマウンティングになっているからである。

アグネス・チャンが叩かれなくなったのは彼女がマウンティングの対象ではなくなったからだろう。彼女はこの経験を活かしスタンフォードで教育学の修士号を取得する。テーマは日本とアメリカの格差である。このこと自体はあまり問題にならなかったし議論にもならなかった。アメリカで英語で博士号を取られてしまうと「負けは明白」なのでマウンティング材料として利用できないからである。

ローラの構造もこれに似ている。「生意気だが少し知性が足りない」といういわゆるおばかキャラとして失礼な言動が許されていた。今まで下に見ていた人が「セレブ気取り」になると嫉妬心を持つ人が多いのだろう。自分より下に見ていた人が「上にいる」と感じることで負けた感覚を持ってしまう訳である。さらに環境問題は人類全般が加害者なので「可哀想な人に施してあげる」という従来のチャリティ感が通用しない。これがローラが炎上した理由であろう。

では黒柳徹子は自身が飛び抜けているから嫉妬されないのだろうか。それも違うような気がする。黒柳さんは継続的にユニセフの活動をしており、日本人としては唯一の国際大使である。自己顕示欲だけでチャリティを継続的に続けることなどできないのだから、彼女には強い意志があるはずである。だが、黒柳さんは同時に日本の状況をよくわかっており、日本では「セレブっぽい」訴求の仕方はしない。

最近、24時間テレビが問題になっている。障害者を可哀想なものとして社会から切断した上で感動のための対象物にしている。そればかりか出演者は高額なギャラまでもらっているようだ。24時間テレビに違和感が出てきたのは、障害者本人たちがテレビに登場したりパラリンピックで活躍したりして、普通の人とそれほど違わない(つまり感動のための切断された対象物ではない)ことが分かってきたからだろう。黒柳さんの活動で評価されるのは「世界の発展途上国にいる可哀想な人たち」を助ける活動である。これも切断されている。こうした人たちを日本に受け入れようという人は誰もいない。こうした「可哀想な人」を置くことで、自分は施しを与える側の人間なのだという比較優位の感情が得られる。

例えばユニセフのハガキなどをもらったら大げさに感動してあげなければならない。送った方は「私はいい人だ」と思われたいからやっている場合が多いからである。

日本人にとって福祉とは切断された対象物に対する施しであって、社会の一員として共に生きてゆくための活動などではありえない。こうした感覚の差は村社会と社会の違いを良く表している。社会ではそれぞれができうる限りの貢献をするのが当たり前だ。セレブは成長のための目標でもあるので、セレブとして成功した人がリーダーあるいはロールモデルとして社会貢献することになんらの違和感はない。つまり、社会という共通の枠組みがあり「共に生きている」という感覚がある。たとえそれがポーズや自己顕示であったとしてもその建前は守られる。

だが、村社会には共通で管理する社会はない。村社会はそれぞれ利権を確保して成り立っているのでできるだけ損を出さないようにしながら、よその村のことは黙っているというのが掟である。施しが肯定されるのは、施しの対象が村から切断され対象物として「安心して利用できる」場合だけである。さらに自分たちが加害者になっているという環境破壊の問題などは直視することが許されない。それは自らを貶める自虐的な行為になってしまうからだ。

<普通の>日本人は「施しの対象」になることを嫌う。社会から分断されて発言権を奪われてしまうからである。生活保護は権利だが「社会参加権の放棄」とみなされてしまうのはこのためである。これまで切断してきたからこそ切断されることを恐れるのだということになる。だから高齢者は既得権益を手放さない。国会議員は対象物である福祉と自分の老後の問題を分けて考え「年金だけで暮らせるはずなどないではないか」と囁きあう。

24時間テレビの場合には、施しを与える側の人たちは24時間テレビの利権を分配してもらえるのだが、障害者にはギャラは支払われない。彼らは見世物としての地位にあまんじるべきであって、決して利権に関与してはいけないという暗黙の了解があるのだろう。チャリティ番組と言いながら極めて残酷で差別的な宣告だが、日本ではこれがおおっぴらに許されてしまうのだ。

今の時点ではローラさんがこのマウンティング型村社会から離脱したのかはわからない。芸能プロダクションの問題に片がついたとされた2018年の4月には世界的二有名なIMGに「所属する予定」とされていた。しかし、WikipediaにもIMGにもローラさんの記述はない。ローラさんがアグネスチャンのように突き抜けるとバッシングの対象からは抜けるが、マウンティングのために「セレブっぽさ」を利用したとすれば逆に日本の村社会に喰われることになるだろう。

ここから日本人がチャリティーをマウンティングの機会と捉えていることは明白なのだが、よく考えてみるとなぜ日本人がこれほどまでに比較優位によるマウンティングにこだわるのかはわからない。普通であるということだけでは優位性や満足感が生まれないので、絶えず自分の位置確認をしたがるのだと考えてみたりするのだが、もっと自動化された構造があるのかもしれないと思う。あまりにも普遍的に日本人の間に蔓延している思考形式だからである。

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三食ごはん(旌善編)の村はどこにあるのか

最近AbemaTVで2014年から2015年に放送された三食ごはんを見ている。人気になったシリーズのオリジナルでまだ荒削りな部分が目立つ。厳しい環境の中に追い込まれた芸能人が田舎暮らしをそれなりに楽しんだり、俳優仲間との交流を楽しむ様子が面白い。特にイ・ソジンはこの番組でバラエティータレントとしての才能を開花させた。

この番組を見ていると、江原道という行ったこともなければこれから行くこともないであろう地域に住んでいるような気分になる。なんとなく場所を知りたくなり旌善郡の場所を調べてみた。

旌善郡はオリンピックの開催地で鉄道や高速道路が開通した平昌郡の南隣の山向こうにある。最近ではオリンピック関連施設の存続の是非がニュースになることがある。中央日報によると旌善郡にもスキーリゾートを開発したがあまりうまくいっていないようである。

ソウルからは高速道路を東に向かって終点近くで降りる。国道35号線を南下し42号線に乗り換えると旌善邑に行き着く。ここら旌善郡の中心地のようである。ソウルからは清涼里駅から観光電車がでているそうだ。ソウルからの所要時間は3時間から4時間で、地理的には東京から群馬の山沿いか新潟あたりが近いイメージかもしれない。

米で有名な新潟とは異なり、旌善の名物はソバととうもろこしで農業にはあまり向いていない土地のようだ。番組の中にも「もともとは流刑地だった」とか「農業の専門家にもあまり良い土地ではないと言われた」というエピソードが出てくる。日本でも有名になったウォンビンの出身地としても知られているという話もある。旌善邑はイソジンらの買い出しで多く登場し、夜関門を買った市場もドンシクの金物屋もこの街にある。

ところが三食村を探そうとすると途端に難易度があがる。最初のヒントはエピソードの中にでてくるトンネルだ。トンネルの名前で検索すると旌善邑の南東に伸びる59号線につながるバイパストンネルがあるのがわかる。さらに韓国語で玉筍峰(江原道)で検索すると大体の場所もわかった。59号線からデチョンギルという道がでており、この奥に玉筍峰民泊とハヌルセッコム(空色の夢)民宿という二つの民泊がある。どうやらハヌルセッコムの方がロケで使われた施設のようである。奥さんが教育庁に勤めている人が貸したという話がでてくる。Googleマップの航空写真を見ると今でもテギョンが作ったハート型の畑が残っているのがわかるのだが、指摘されないと探せないだろうなあと思う。旌善の中心地からは5kmくらいしか離れていない。

韓国語で玉筍峰民泊を検索すると「テレビのロケ地に行った」というブログがいくつかあるが、人が大勢押しかけているにもかかわらず特に見所がなくがっかりしたという感想が多い。航空写真をみると、あの石でできた橋も確認できる。近くでウォンビンが結婚式を挙げたというブログがあったので、テレビ局はウォンビン経由でこの場所を知ったのかもしれないなと思う。

番組の現代は삼시세끼である。漢字はよくわからないが、三試三食の意味ではないかと思われる。試行錯誤という意味合いがあるのだろう。イ・ソジンはこの番組と「花よりおじいさん」で新境地を開きバラエティに進出した。旌善編では不満タラタラで田舎暮らしなんかしたくないと言っていた彼だが、この後「海辺の牧場編」などの続編にも出演しているようだ。この番組の中でチェ・ジウとお似合いだという話になっていたがチェ・ジウはその後一般人と結婚した。芸能ニュースの中に「3年間付き合っていた」という話が出てくるので、この番組への出演の前後には付き合っていたことになる。イ・ソジンがあまり結婚したくなかったのではという憶測記事も見つかった。

日本では全く知られていないが脇役として有名なキム・グァンギュは2017年に夜関門というお茶のCFに登用されたという。番組の中の地味な姿とは打って変わってノリノリで夜関門のお茶のCFソング(なぜか「開けゴマ」という題名の歌である)を歌っていた。かなりの年配のように見えるが実は1967年生まれであり、1971年生まれのイ・ソジンとそれほど年齢は違わない。俳優になる前には釜山でタクシー運転手をしていたという苦労人だそうである。

日本でも有名な2PMのテギョンはこの後兵役に就き現在服務中である。これまでいた事務所を離れて俳優の個人事務所に移籍したようだ。2019年まで兵役が残っているそうだが、この後順次2PMのメンバーが兵役に入りメンバーが完全に戻るにはしばらく時間がかかる。中でドラマの準備をするシーンが出てくる。Assembryという国会を舞台にしたシリアスドラマだったが視聴率はあまり良くなかったようである。

韓国のバラエティ番組は面白いなと思ったのだが、放送局はケーブルテレビなどを中心にした局であり韓国としても新しいスタイルだったようだ。アメリカのサバイバル番組を韓国風にアレンジしたのか「罰ゲーム」のような趣があるのだが、特に脱落者がでるわけでもなくゲストは「嫌になったら帰って良い」というゆるさがある。

さらに、韓国の伝統的な食文化がわかって面白い。割となんにでも唐辛子とニンニクが混ざった「タレ」と呼ばれるものがでてくる。また、年長者を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、年配者を「先生」と呼んで尽くすなど日本とは違った文化が見られる。年齢による上下関係とは別の関係性も見られる。キム・グァンギュはイ・ソジンからヒョンと呼ばれているのだが「マンネ(末っ子)」として使われるという年齢によらない序列もでてくる。

すでに大御所感が漂い、ソウル出身でニューヨークへの留学経験もある「都会派」のイ・ソジンの乱暴な言い方が嫌味にならないのは裏表がなくちょっとした優しさも見せてくれるからだろう。また年配者には尽くしておりテキパキと動いているので「単に嫌な人」にならないのである。

イ・ソジンのバラエティの才能を見出したナ・ヨンソクPDについてはすでに調べている人がいた。KBS出身でケーブルテレビに移って数々の番組をヒットさせた凄腕だそうだ。イ・ソジンと言い合いをするシーンが度々でてくるが1976年生まれで年下なのだという。

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「不正」や「嘘」というと自動的に安倍首相が思い浮かぶ

面白いニュースがあった。石破茂総裁候補が「正直・公正」というスローガンを封印するかもしれないと言ったそうだ。党内で「今の総裁に批判的である」という批判がでたからだそうだ。

「正直、公正」は、学校法人「森友学園」「加計学園」の問題を念頭に石破氏が安倍晋三首相(63)の政治姿勢を批判したと受け止められている。しかし、自民党内では石破氏を支持する参院竹下派からも「個人的な攻撃には違和感がある」(吉田博美参院幹事長)という不満が出ていた。

だが、立ち止まって考えてみると「受け止められている」だけで、安倍首相を批判したものではない。にもかかわらず安倍首相が想起されており批判だと見なされてしまうという点にこの記事の真の考察点がある。

第一に自民党の中でさえ「安倍首相は嘘つきである」という認識が広まっており「正直」といっただけで首相批判が想起されてしまうということだ。このような組織でガバナンスが効くはずはない。自民党の中には嘘が蔓延し内部から崩壊することになるだろう。

次に、自分の内心に従って良心的な政治をするという当たり前のことですら自民党では「忖度」が必要ということだ。つまり、自民党はそれほど萎縮しているということである。

さらに、自民党の政治は支持されていると考えている野党が自民党に擦り寄ろうという気配もある。先日も玉木雄一郎という立憲民主党の議員が「老人に最低賃金は当てはめるべきではない」という極論を述べてネットで袋叩きにあった。長谷川豊という維新の候補者が暴論を振りかざすのも杉田水脈議員の「成功体験」を念頭に置いているのではないかと思う。これも彼らが「自民党のデタラメな政治に擦り寄りたい」という気持ちの表れなのなのだろう。

自民党の萎縮は「この先国が衰退してゆくであろうから、自分たちは今の政権にしがみついていなければならない」という恐怖心から来ているのだろう。自民党のガバナンスが内部から崩壊しても政権にい続けるとすれば、日本の有権者の多くがもはや政治になんら関心を持っていないか、嘘に依存しなければ維持可能ではないと考えているからなのだということになる。

こうした萎縮したマインドが蔓延した国で意欲にみちた経済運営ができるはずはない。その意味では今度の自民党の党首選はなんらかの意味での「最後の自民党総裁選挙」になるのかもしれない。

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なぜ国民民主党はこの日本から消える必要があるのか

もともとこのエントリーは携帯電話料金について書くつもりだった。しかしこれを書いている途中で玉木雄一郎議員の以下のツイートを目にしてタイトルを変えることにした。国民民主党はうんざりなので、はやく視界から消えて欲しいと思ったのである。

国民民主党というのは基本的に自民党に入れてもらえなかった人たちの寄り合い所帯である。もともと日本人には良心というものがないのでイデオロギーの持ちようがない。彼らの目的は自分たちをなんとなく立派な政治家っぽく見せることだった。内心に由来する良心がないので発言は一貫しておらず、つねにふらふらしており、その時の「かっこいい」思想に寄生したがるという悪癖がある。さらに内心がないので、自分が言っていることが現在の状況にあっているのかを考えるスキルも意欲もない。だから「最低賃金以下でも働ける」などという暴論が平気で出てくるのだろう。本人のスレッドを読んだが「ベーシックインカムも整備するので考えは変えない」という。誠に救い難い。

では、なぜ最低賃金以下の労働というのが危険な暴論なのかということを説明して行きたい。すでに分析したように日本は発展途上段階から成熟国段階に入りつつある。だが、発展途上の「稼いで溜め込む」という固定観念から抜け出せていない。そこで成人病のような状態になっているのだと分析した。お金は溜め込むのではなく流す必要があるのだが、誰かが不安から溜め込み始めると「囚人のジレンマ」のような状態になり、社会全体の功利が低下するのである。

具体的には企業が資金を蓄積しすぎており外から新しい価値観が入れられないことが問題になっている。さらに「自分たちの将来は危ういのではないか」という気持ちも持っている。そこで新しいサービスを積極的に受け入れる人たちにお金が回らない。このことでさらに市場が冷え込むという悪循環に陥っている。

例えば日本の企業はオリンピックを支えるために十分な資金を持っている。これをなんらかの形で労働市場に流せば、新しい(一見無駄に見えるだろう)サービスが生まれ、それを享受する人たちも育つ。オリンピックはお祭りであり、こうした無駄が許容される。このようにすれば日本は成熟国のお手本になれるのではないかと考えた。この考えが「無謀」に見えるのは無駄遣いが悪だと思われているからなのだろうが、それならオリンピックのようなお祭りをやるべきではない。さらにみんなはお金を使って欲しいが自分だけは溜め込みたいというのは「囚人のジレンマ状態」を加速させる。みんながお金を流さないのに自分だけは使ってしまうと結局使ったお金が戻ってこないからだ。

このことがよくわかる議論がある。正確には議論の中から抜け落ちているポイントに日本が成長できない理由が隠されていると思う。それが携帯電話である。

菅官房長官が唐突に「携帯電話の料金はもっと下げられる」と言いだした。普段は安倍官邸が何かを言いだすと決まって「反対」の声が出るのだがこの件に関しては反対の声は上がっていないのだが、何か裏があるのではないかと疑う人もいる。

この時期に言いだしたのは消費増税を控えていて「経済への悪影響を減らしたいから」というもっともらしい観測もあるようだがどうも後付めいている。人気があまり上がらずに根強いアンチのいる安倍政権で民衆が騒ぎ出さないように「政治への期待」を高めておきたいという理由があるのではないだろうか。企業をいじめて政府支出がない改革を誘導するという意味では極めて下劣なやり方ではある。実際に菅官房長官の発言で3大キャリアの株価が下がったわけだから訴えられても文句は言えないように思える。擁護論の中には国民から電波という資源を借りているのだから儲けすぎてはいけないという社会主義者のようなことをいう人もいる。普段左派を攻撃しているはずの立場の人が平気でこういうことを書けるのだから、やはり日本人には良心というものがないのだなということがよくわかる。

だが、実際にはこの問題の肝は別のところにあるようだ。携帯電話料金を下げると日本の経済は縮小する。ところが、この「縮小のマインドセット」が日本国中に染み渡っておりこれに反対する人が出てこないのである。

日経新聞は面白いことを書いている。世界では携帯電話会社がコンテンツを提供しており、そのコンテンツを利用する際の通信料を取らなくなっており携帯電話料金だけを比較しても仕方がないというのである。日本人が「携帯電話料金がさがらないかなあ」と思っている時「面白いコンテンツを見ることができないかな」と思っている国もあるのだ。

これは産業が垂直方向に移動していることを意味している。昔は単に移動手段だった車はいつしか何処かに遊びに行くための手段になった。このようにして製造業から始まった産業はいつしかサービス産業化し最終的には遊興などを含めた「コンテンツ」に注目が集まるようになる。タイヤ会社がミシュランガイドを出すようなものである。携帯電話もかつては連絡手段だったのだが、いつしかSNSのような自己表現の場になり今ではテレビのようなコンテンツ産業になりつつある。

日本は「オリンピックのようなどうでもいいイベント」もできなくなっているのかと思う人もいるかもしれないのだが、実はオリンピックが扱えないというのはとても重要なことだ。つまり、楽しみを扱えないということを意味している。だから日本はオリンピックというと「体育館が建てられてひょっとしたら高速道路も伸びてくるかもしれない」ということになる。築地の問題もその典型だ。伝統産業やコンテンツ化した築地をわざわざ高層マンションに変えて自分たちだけで儲けようとしているのだ。

ところが、いやいや長時間働いている日本人はこの「楽しみ」のビジネスをうまく扱えない。とてもそんな余裕がないからだろう。それどころか自分の地位や生活が今後どうなるのか不安で仕方がない。日本はお金持ちの国になったが預金通帳を毎晩取り出しては「明日はどうなっているのかわからない」と震えている国なのである。

つまり、実際にやるべき議論は「携帯電話料金がいくら下げられるのか」という話でも「携帯電話の値段に政府が介入すべきなのか」という話でもない。「どうやったら新世代のプラットフォームを使って新しい商売ができるのか」ということであり「成功した芽を枯らさないように移植して海外に持って行くことができるのか」という議論であろう。ところが消費市場が不安で冷え切っているのでまずそこを温めるところから始めなければならない。

そのためにはまず「今後の生活に不安がなくなる」ということがとても重要である。だから高齢者が働きたいと言ったら最低賃金以上を稼げるようにしなければならないのは当然である。問題になるのはむしろ体調にあった時間で働けることなのだろうが、これは高齢者に限ったことではない。子育て世代でも柔軟な時間設定は促進されるべきである。

ところが玉木雄一郎という議員は「大変だ大変だ」という悲観論にどっぷりはまっている。しかも党としての人望もないため「日本はマインドセットを変えるべきだ」という議論を主導することはできない。

さらに玉木議員は本当は自分は「生産性の高い選ばれた人間である」と思っているのだろう。ベーシックインカムに最低賃金以下の労働を組み合わせるというのは障害者雇用と同じ考え方である。つまり「労働力として早くに立たない半人前の人を企業様に使っていただくには給料を安くするしかない」と高齢者を侮っている。日本にはこうした「生産性神話」があり「障害者もみんなと同じようには働けないのだからせめて社会参加させていたけるように最低賃金以下でも働け」という差別的な法体制がある。これを国会が主導するのは彼らが選民思想をもっているからだ。これは普通でないというレッテルを貼られた人たちに「自分は半人前で生産性がないののだが、社会参加させていたけるなら仕方がない」というスティグマを生み出す。こうした思想を煮詰めて行くと杉田水脈議員のようになる。要するに「普通でない人は生産性がないから大きな顔をせずに世間の片隅で申し訳なさそうに生きて行け」という思想だ。玉木議員はこれを高齢者に広げようと画策しているのである。

こうした性根を持った人は政界から早くいなくなるべきだと思う。国政政党としての国民民主党は消え去る運命なのだろうから別に放置しても構わないと思うのだが、こういう思想を持っている人が国会に議席を持っているということ自体がとても腹立たしい。

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時代にあったオリンピックにするためには参加者に破格の給料を支払うべき

今回は、現代にあった東京オリンピックについて考える。前回のオリンピックは日本が戦後復興の最初のフェイズを終えていよいよ成長過程に乗ろうというときに始まった。このためには海外からの投資が必要だった。東京オリンピックは投資を呼び込むための起爆剤になり、東名高速道路や東海道新幹線などが整備された。今回のオリンピックは成長が一段落して次のフェイズをどうしようというときに行われるオリンピックなので、その姿は前回と大きく異なっているはずである。

結論からいうと、東京オリンピックは些細な仕事をたくさん作り出して破格の給料を支払うオリンピックにすべきである。できれば日本の将来を牽引する職種にお金を支払うべきなのだが、今のおじいさんたちに目利きはできないので、とにかくなんでもいいから仕事を作って給料をばらまくべきである。「成果を気にせずにお金をバラまける」機会はほとんどない。

リベラルあるいはポピュリズムだという非難がありそうだが、実は、経済学的な理由がある。今の日本は努力してこれを成し遂げる必要があるのである。


前回までは石破茂が首相になれないということを起点に日本の立ち位置について考えた。石破茂には日本を成長させるアイディアがない。ただ、アイディアを持っていないのは石破だけではなく、立憲民主党にも、国民民主党にも安倍首相にも成長のアイディアはない。だから「建設的な討論」が起こらない。

そこでなぜ成長がないのかを考えた。まず、成長がある国について観察し「海外からの投資を呼び込む」ことが新しいアイディアの導入につながるのだとした。皮肉なことに海外からの投資を呼び込むということはすなわち国にお金がないということを意味している。そこから考えると日本はお金があるから経済が成長していないという、我々の肌感覚とは全く違った仮説が得られた。

そこで経済の発展段階について調べたところ、被投資国から投資国になるというステップがあることがわかった。だが、発展段階が長いので、投資国がそのまま永続的に投資国でいられるのか、それとも再び成長を初めて被投資国に戻るのかということは必ずしも明らかではないようである。

加えて蓄積したお金は「成人病」を引き起こすことがある。例えば、オランダは資源が発見されたことで通貨の価値が上がり製造業が圧迫された。そこでワークシェアリングを通じて分配政策を見直した。つまり、国が豊かになると、却って経済的な被害を被る地域や階層が出てくるのである。

このことはマクロに仮説ができる。ある大企業に投資を行うセクションと実務を行うセクションがあるとする。成長市場に投資する投資セクションに比べて、成熟市場を相手にする国内セクションの効率や生産性が低いのは当然のことである。企業はこの二つを比べて国内から投資を引き上げてゆく。だから、成熟投資社会では国内の給料が下がるのだ。日本での経済活動が停滞すると税が得られなくなる。企業も国も教育投資をしなくなるので、それでなくても停滞している成長点が壊死してしまうのだろう。

人間は長い間飢餓の時代を生きてきたので「食べ物があったら食べよう」と考える。しかし栄養が過多になると肥満が起こる。肥満は運動不足と結構の停滞を起こす。日本はどうやら豊かになったことで同じ状態に陥っているのではないだろうか。

だからなんらかの機会を作って企業が蓄えた資金を放出しなければならない。とはいえ資本主義国では政府が強制して企業に出資させることなどできないのだから、このような祝祭を積極的に利用すべきなのだ。

つまり日本は「少し痩せる必要があり、オリンピックはその良い機会である」と言える。国内に給与が行き渡れば消費は活発になる。老人ではなく現役世代が消費を活発にすれば、それが探索活動となり次世代につながる成長点が探索される。

前回のオリンピックでは「壊れたものの修復も終わったし、空腹もなんとかなってきたので、さあこれから稼ぐぞ」というオリンピックだった。だから、オリンピックは海外からの投資を呼び込むためのきっかけとして利用された。だが、今回はフェイズが違っているので、同じことをやろうとしてもうまく行かないのは当然である。

現在の日本は紆余曲折はあったものの、これまでの働きが実を結びそれなりの成果が出たというフェイズに入っている。普段から社会のネガティブな問題にばかり着目しているのでとてもそうは思えないかもしれないのだが、当時最先端だった「平和主義」や「自由通商」というイデオロギーをいち早く取り入れて繁栄することができたという感謝を世界に向けて示すべきではないかと思う。

オリンピックは経済学的に見てもその配当を国民に配る機会にすべきなのである。

だが実際には、ボランティアの募集に支障が出るから夏休みに授業はするなとか、会場にエアコンがつけられないとか、銀メダルに使う銀が足りないというような「けち臭い」話に終始している。これは内部留保をためて成人病になった企業のメンタリティが飢餓の時代のままであることを示している。だが、このまま飢餓の思い出に支配されたまま太り続けると「あなた死にますよ」とみんなが言ってやらなければならない。

今の日本に足りないものがお金ではないというのは明白である。市場にいくらお金を流しても使ってくれる人がいないのが問題なのだ。ここはお願いをして「お金を使ってもらう」べきだということになる。ボランティアではなく、個人単位のプロジェクトにお金を使うようなれば、日本型のオリンピックは先行国モデルとして今後のよい手本になるだろう。残すのは時代遅れのサマータイムや箱物などの「レガシー」ではなく、次世代の「才能」であるべきなのだ。

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おじいさんの国日本はその後どうなるのか

先日来、石破茂が首相になれないという現象を起点にして、日本は成長しない国になったということを観察した。日本人はこれを受け止めて「諦める必要がある」というのが最終的な結論だった。つまり、一生懸命に労働することが素晴らしいという価値観を諦めるか、それでも頑張りたい人は韓国のような先進発展途上国に行くべきだと提案した。

アンチの人があまりこのブログを読むことはないだろうが、これをTwitterなどで主張すれば「自虐史観だ」と攻撃される可能性がある。日本人がダメな民族だからこうなったと捉えられかねないからである。だが、この現象はある程度普遍的に起き得るのではないかと考えた。つまり、韓国が優秀だから成長しているわけでも日本がダメだから成長しないわけでもないのではないかと思う。

これについて考えられる良いモデルはないかと探してみることにした。韓国が「お金集め」を動機にして新しい価値観を受け入れていることを観察したので、日本の対外債務に着目した。なお一言で「成長」といってもその方式は一様ではない。かつての大英帝国のように経済圏を拡大して成長を目指す国もあるし、イノベーションでも成長は起こる。

日本は海外にお金を貸す債権国になっている。このため新しい価値観や技術を受け入れて成長する動機がない。自前でなんとかなってしまうからである。だが、国内に投資機会もないので地方は潤わない。そして若い人たちが学習してもそれを活かせる場所もない。つまり格差が固定化される。この記事を書いている時に、日本では博士号や修士号を持つ人たちが少なくなっているという毎日新聞の記事が話題になった。先進国では一人負けなのだそうだが、未来に投資をしなくなったのは日本が老齢化しているからだろう。

そこでいろいろ検索してみると「成熟した債権国」とか「未成熟の債権国」という議論があることがわかった。どうも「国際収支発展段階説」というモデルがあるらしい。この中で日本がどの段階に入るのかということが話題になっているようである。2014年に日本は「成熟した債権国」に入ったという話を見つけた。いろいろな説があるようだが、バブル崩壊と同時に未成熟な債権国になり、リーマンショックあたりで成熟した債権国になったという説をいくつか見つけた。

その一方で、安倍政権時期に入ってから純資産は減少している。これは取り崩しを意味するので「再建取り崩し国」になっている可能性もあるし、円の価値が減少したことによる一時的な現象なのかもしれない。

日本は債権国であるという事実を取り出して「政府がいくら国から借金をしても大丈夫なのだ」という人がいるが、それとこれとは別の議論なのだそうだ。

日本が長く成熟した債権国でい続けるためには投資スキルを獲得して「賢い運用」を心がける必要がある。しかしこの状態を永遠に続けるわけには行かない。その時に「次の段階」にはいるわけだが、その時にはまた新しい飯の種が必要になる。この記事ではアメリカは先行してこの段階に入っていると言っている。アメリカはシェールガスの輸出国になりつつある。

昔稼いだお金の利子でやって行けると聞くと良いことばかりのようだが、今の日本を見ているとそうでないことがわかる。実経済に対する意欲が失われてしまうからである。お金持ちになると人は堕落する。かつて、オランダ病と言われる状態があった。天然資源を輸出するだけで外貨が稼げてしまうので実態経済が停滞したという現象である。ノルウェーのようにこれを未然に防いだ国もある。国が資金を管理して未来への投資に優先的に割り当てるのである。ちなみにオランダではオランダ病が克服できず最終的に「ワークシェアリングで痛みを分かち合う」という合意がなされるまで不況が続いた。Wikipediaのワッセナー合意のエントリーに詳しい説明がある。オランダがこの病気を克服できたのは民主主義が発展していたからである。もともとスペインの植民地から独立したオランダは自治の歴史が長かった。アフリカの国の中には天然資源をめぐって争いや政治腐敗が横行して成長の階段から転げ落ちてしまう国が多い。

中国はまた別のやり方をしている。彼らも海外債務を持っている債権国なのだが一帯一路政策をとり海外への投資をしている。つまり独裁を強化して強いリーダーシップを生み出し生き金を使うことで段階が成熟することを防いでいる。中国は国内投資が一段落したのでこれを海外展開しようとしているのだろう。しかし、このやり方は先進国とあまりにも違いすぎており、やがて「文明の衝突」を引き起こす可能性があるのではないかと思われる。

あまり投資に慣れていない日本人は貯まった金の使い方がよくわからないのだが、中国人は本能的に金が溜まりすぎると経済活動が停滞するということ知っているのかもしれない。この記事によるとこのため中国は「債務国」の段階にとどまっている。前回韓国の例を見たのだが、債務国の企業は海外投資を呼び込んで積極的にビジネス展開するので活力が失われない。つまり日本は老齢化により「取り崩し」段階に入りつつあるが、中国は時計の針を遅らせることで債権国になることを防いでいるのだとも言える。日本はオランダのように通貨高にはならなかったのだが(一説には人工的に抑えているとも言われている)がそれでも経済が老化し始めているのである。

ドイツも債権国なのだが、このPDFを見るとこれまでは移民が賃金を周辺国に還流させることと観光によってドイツ人がお金を使うことで黒字を減らしてきたようである。しかしこの流れは滞りつつあり「ドイツの一人勝ち」が生まれている。これはドイツにとって良いことのようだが、周辺国の不満を生んでいる。また急速に移民がなだれ込むことにより「極右」にラベリングされる政党が伸長し民主主義に危機が生まれている。だが、本当の問題は債権国状態が恒常化することにより、結果的に経済が「おじいちゃん」になることなのかもしれない。まだその兆候は現れておらず今後を注目したい。

ここまでを見る限り「成熟した債権国」でい続けることはあまりいいことではないようだ。カネ余りは成人病のような状態を作り出すからである。日本では未来と地方をしめころしつつある。現在の日本は国内に投資できる機会が減っている。このため地元経済や子育て世代にはお金は回らない。しかし企業はお金を抱えていて海外への投資を行っている。地元経済や子育てにお金が回らないので政府は借金をしてその穴埋めをしているという状態になっている。

新しい人たちや周辺部にチャンスがないので、結果的に経済がシュリンクしてしまうのだ。このままでは新しい経済段階を登り始める前に肝心の成長点が国から消えてしまっているということになりかねない。我々は構わないのだが子孫にたいへんにハンディを負わせることになるだろう。

やがてはまた新しい発展段階を登り始めるのだが、その前にとても子供を育てられる環境ではなくなり大学教育が根本から破壊されている可能性もある。そうなれば国としては終了である。数世代ののちに蓄えを使いつぶした後でどこかの国に吸収されることになる。そうならないようにするためには、まず政治家が現状を冷静に見極めた上で対策を講じる必要がある。アメリカのように新しい資源が発見されるということがないのなら、投資で集まったお金を優先的に未来や地方に投資するか、経済圏獲得のために外国に積極的に投資して権益を確保するというやり方があるのではないかと思うのだが、他にも方法はあるのかもしれない。

自民党の安倍氏・石破氏によると日本の最優先課題は憲法第9条を変えて70年以上前の清算をすることのようだ。確かに大切な課題なのだが、実際にはバブル期以降経済のフェイズが2つか3つ進んでおりまずその対応を急ぐ必要がありそうである。だが自民党には選挙対策本部はあっても経済シンクタンクはなくビジョネアーもいないので、国の方針を決める議論ができない。かつては中央省庁がこの役割を担っていたのだろうが、今では霞ヶ関で村を形成しており国全体のビジョンを策定する能力を持った人はいないのかもしれない。

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成長はどこから来るのか

前回は石破茂について考えた。石破さんは首相になれる見込みがない。それは石破さんが国を成長させるアイディアを持っておらず、石破さんの周りにいる人たちも国を成長させるアイディアを持っていないからだった。

では、安倍首相のほうがよいのかとか、立憲民主党のほうがふさわしいのかという話になるのだが、そもそも安倍首相にも国を成長させるアイディアはない。安倍首相は日銀がうまいことをすれば僕らは何もしなくていいといった人だけの人であり成長を起こすアイディアは一切持っていない。立憲民主党もそれは同じようである。立憲主義が徹底されたからといって国民が豊かになることはない。

するとここから導き出される結論は簡単である。日本には成長の芽がないのだ。

では成長はどこから来るのか。韓国のジャニーズ事務所のようなところが株主に向けてプレゼンテーションをしているという動画を見つけたのでそれを観察してみたい。JYPは韓国で第二位のプロダクションである。あまりハンサムではないこの人が現役の歌い手兼プロダクション社長だ。バナナが好きなゴリラというあだ名がついているそうだが人気のあった歌手であり、韓国のHIROさんみたいな人である。

彼は英語で投資家に向けてプレゼンテーションをしているのだが、そのやり方は完全にアメリカ風である。英語が流暢なだけでなく投資家にビジョンを訴えかけるというやり方もアメリカ文化の影響を受けている。在米経験はあるようだが経営学などでアメリカに留学した経験はないようだ。それだけ広くアメリカ式の資金調達方法が浸透しているのだろう。

彼が掲げるビジョンは4つある。事業部制を採用し成長スピードを加速させること、ローカリゼーションを行いグローバル化を目指すこと、自社を音楽工場のようにすること、従業員のワークライフバランスを重視して生産性を向上させることである。

中でも注目すべきなのは「グローカル」マネージメントの輸出である。もともと海外のマーケットに韓国人のアーティストを輸出してきたのだが、今度は日本人だけからなるユニットを日本で売り出すという。これまでアーティストの海外進出を手がけていたのでノウハウそのものを輸出しようとしているのである。これが成功するとJYPはジャニーズ事務所などと競合することになる。日本ではTWICEが成功しつつあるので、この目論見も決して無謀なものではないだろう。

このようにして韓国のエンターティンメントは明確にアメリカ流の経済成長を志向しており、成果が出ている。日本語がペラペラの韓国人アイドルをテレビで見ることも増えたし、アメリカでは防弾少年団が韓国語のままビルボードにランクインした。

プレゼンテーションの中でもっとも注目すべきなのは従業員のワークライフバランスについてである。韓国では左派寄りのムンジェイン政権がワークライフバランスの充実を訴えている。最近は最低賃金を大幅に上げることに成功したもののそれが約束通りでなかったとして謝罪している。これをみると国民の生産性を上げるために「国を挙げて労働者のやる気を出させようとしている」ことがわかる。多くの日本人が羨ましく思う姿ではないだろうか。

だが、これも「リベラルな人権派が理想を追求したから起きた」わけではなさそうだ。つまり、韓国人は外国から投資を受けるために外国風の価値観を国内に浸透させようとしているのである。製造業はまじめさと効率性が重要だったのだが、サービス産業は居心地の良さを求める。

ではなぜ韓国ではこのようなことが起こるのか。日本は戦後すぐに製造業を中心とした企業文化をアメリカから輸入したのでサービス業にうまく適応できなかった。良い品質についての関心は高いが、スピードと多様性に対応できないし、居心地の良さが新しいサービスを呼び込むということが本質的に理解できない。韓国のほうが「OS」が新しいので成功しやすい。日本では製造業が他の「堅苦しい」労働文化が残っていて、サービス産業を充実させるのに「残業して長い時間働けば良い」と考える人が多い。確かに製造業ではラインを長く稼働させればよりおおくのネジやクギを生産できるが、クリエイティブ型のサービス産業ではアイディアの源泉が枯渇してしまう。

韓国は、お金のでもとにあわせて企業文化を作り変える必要がある。そこで「ワークライフバランス」が重要になるのだろう。つまり、ワークライフバランスは福利厚生というよりも投資家向けのアピールの色彩が強いということになる。結局は「理想」ではなく「お金」なのである。

ジャニーズ事務所のような旧型のエンターティンメント企業はテレビ局を抑えてネットへの露出を抑制することで、自社の利権は確保することができるだろう。しかし、テレビ局も事務所も内向きになりどんどんつまらなくなってゆく。ネットで面白い番組がいくつもでてきているので、若い人ほどテレビを見なくなるはずだ。すると、テレビはますます老人のものとなり過疎化が進むだろう。これまで嫌という程見てきた「村落の過疎化」現象である。

しかし、ジャニーズ事務所は成長する必要がない。テレビ局という利権が約束されているのでわざわざ海外に出かけて行く必要はないし、多分内部留保を蓄えており、銀行からお金を借りる必要すらないだろう。つまり、ジャニーズ事務所はキャッシュカウ型で安定しており新規の投資も新しい技術の確保も必要ない。だから日本は引きこもってもなんとかなってしまうのである。

一方韓国の若者は成功すれば世界に出ることができるが、恐ろしい競争に勝ち抜かねばならない。オーディション番組が流行しているのだが、ものすごい才能を持った人たちが競争で振り落とされてゆく。

これは多分多くの日本の企業で起きていることだ。利権に見合った仕事さえしていればいいので「わざわざ成長する必要」はないし「IT投資をして仕事を効率化する」必要もない。キャッシュカウが死ななければイノベーションは起こらない。日本はキャッシュカウを延命させることで過疎化を起こしている国だということになる。

新しい企業文化が入ってこない理由は他にもある。

最近トルコの経済が停滞している。アメリカと対立しており新興国マネーの引き上げが起こっているようだ。この新興国の中には韓国が入っている。韓国は「海外マネーを取り入れて成長している」国である。一方日本は債権国になっていて「お金を貸す側」になっているので、新興国マネーの影響を受けて経済が停滞するということはない。これがGDPでは見えない「先進国」と「発展途上国」の違いである。多分、歴史的な経緯から作られた差異であろう。

発展途上国は経済成長の余地が大きい上に、海外マネーを取り入れる必要性から新しい経営理念や価値観が入って来やすい一方で日本は過去の蓄積があり贅沢さえ言わなければそこそこの暮らしができる。最悪生活保護を配ってもそれなりになんとかなってしまう国になっている。ところが、何もする必要がないので、設備投資は更新されず、IT革命は起こらず、従業員の給料も上がらず、福利厚生も向上しないということになっている。

だが、発展途上国には固有の問題がある。政情が不安定化すると投資家が一斉に引き上げてしまうので一気に不況に陥る。トルコは今その状態にあり、それに引き込まれて南アフリカやアルゼンチンでも通貨安が起きたという話がある。

ここから発想を飛ばしていろいろな考察ができるのだが、まず最初にやらなければならないのは日本はキャッシュカウを殺してでも再び成長を目指すべきなのかという議論である。もともと長期安定志向の強い日本人には到底受け入れられそうもない政策だが、これは定常化(つまりゼロ成長)を意味する。

安倍政権を支持する若い人は「民主党になったら就職不安が起きる」という一方で、もう日本は成長しないからその状態になれるべきだというと「老害だ」と言って憤慨する。だが、ここまで見てきたようにこの二つは実は同時には成り立たない。目の前の就職不安を解消するためには既存の企業に生きていてもらう必要があるが、これは確実に成長を阻害している。だが、これを乗り越えることはできないだろう。

国が成長しないということは「新規の労働(平たく言えば頑張り)」が意味を持たないということになる。今まである蓄積で生活したほうが良い世界である。言い換えればアパート経営者の生活ということになる。資産で生活できると言えば聞こえはいいが、電球を取り替えたりという「メンテナンス」の毎日を送りながら、頑張っても収益は増えないという世界である。冗談抜きで「保守はメンテナンス」ということになってしまう。新しいことをやりたいと考えるとまだ住めるアパートを壊す必要があるのだが、その途端に収入の道が途絶えてしまうのだ。

「老後型」の国では労働も新しい技術も大した価値を持たないので、価値観を大幅に変える必要があるだろう。

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