今日のタイトルを色々と考えたのだがなかなか良いものが浮かばなかった。考えがまとまっていないからだろう。言いたいことは単純で、日本人の政治に対する態度は所属を満たすものから、ファッションに変わらなければならないのではないかというものである。政治的な意見を持つことで所属欲求を満たすことはできるが問題を解決するのには向いていない。
このところ杉田水脈問題について書きながら、洋服の整理をしている。もともとファッションには興味がなかったので自分なりのスタイルがない。最近ではユースドの洋服店があり驚くような値段で色々な洋服が変える。そこで手当たり次第に洋服を買っていたために一体何を着ていいかわからなくなってしまったのだ。すべての洋服を棚に並べたり在庫管理のシステムを試作したりしたのだがどうもうまく整理できない。「ここにある洋服をすべて着ることはできない」ことには気がついているので「適正な量」に減らしたい。だがどう減らしていいかわからないのである。
こうしたことが起こる裏には、例えば細身のジーンズで作れるカジュアルな格好とスーツで作るかっちりした格好といういくつかの「ライン」があるからだ。あるジャケットを買うとそれに似合うパンツを選ばなければならない。こういうやり方をしてゆくと洋服の数が爆発的に増えてしまうのだ。普通はこういう服の選び方はしないだろう。「似合う服」からそれなりのスタイルを作ってそれを広げてゆくはずである。
このブログでファッションについて書いても仕方がないのだが、ここで政治について面白いことを考えついた。SNSの発達で政治情報が手に入れやすくなった。ところが色々な人が色々な政治情報を発信するために、このユースドの洋服と同じようなことが起きているのではないかと思ったのだ。雑多な情報が雑多なまま漂っている。これをいくら集めみても一つの像が結ばれることはない。自分なりの見方をすれば良いというのは簡単なのだが、そもそも政治について考えたことがない人にとってそれはとても難しいのではないかと思う。ある程度年齢がいった人は偏見も込みである種の政治的態度というものが決まっている。だから、それを補強したり疑問を呈したりすれば良い。ところが、最初からSNSに接触して政治情報を集めだした人は、初めから混乱した状況に接触することになる。
特に問題だと思うのが政治の二つの言語である。日本は戦後民主主義をアメリカから輸入した。このため文語的な政治とこれまでの日本的な政治の二つの世界を生きている。杉田議論を見ていると「集団には役に立つ人間とそうでない人間がいる」という口語的な政治があることがわかるし、稲田議員を見ていると「憲法のような書かれた約束事に拘泥して柔軟な意思決定ができないのは新興宗教だ」という口語があることがわかる。政治のプロですらそうなのだから、有権者にも口語的な政治があるのではないかと思う。つまり、ある程度スタイルを決めないとどんどんだらしない方に流れていってしまうのである。例えて言えば、西洋流の洋服を「着崩して」できた竹の子族のようなものである。とてもだらしない洋服の着方であり素材の派手さばかりが目立つのだが、要するに着崩しているからである。だが「みんなが着ている」という所属欲求は満たされるので、中に入ると意外に快適なのだろう。
「これは会社にはスーツを着て行きましょう」というのに似ている。日本は戦後民主主義社会に参加するという約束をして国際社会に復帰したのだからこれを守らなければならない。だが、それは実は「スタイル」にすぎないので正当化することはできない。だから田舎から上京した竹の子族(つまりネトウヨ)がやってきて「オラオラ、なんで会社に雪駄と着流しじゃだめなんだ」と言われると言葉に詰まってしまう。
昭和の時代には落合正勝のような人がいて「本来イギリスでは」などと言っていた。だが、これも面倒である。洋服は洋服に過ぎない上にイギリスと日本は気候が違う。にもかかわらず日本人はイギリ人の真似をすべきだろうかなどと思ってしまう。
「民主主義なんかファッションに過ぎない」というと反発する人が多いのではないだろうか。それは民主主義がアイデンティティの一部になっているからだろう。ではなぜ政治的イデオロギーがアイデンティティの一部になるのか。それは、日本人がなんらかの集団に属さなければならず一度属したらその集団の思想を100%受け入れなければならないと感じるからだろう。ただ、政治にそれほどの思い入れがある人はそれほど多くない。そこで多数の人たちからは無視されてしまうのである。昭和の時代には渋カジ派と竹の子族のような二本立てのスタイルがあったわけだが、実際に一番多かったのは「その他大勢」である。
竹の子族保守の人たちは、実際には着物を着ているわけではなかった。自称保守の人たちも本来の日本的な徳に基づいた統治について理解しているわけではないし、かといってフランス流の保守政治に基づいて妄言を繰り返しているわけでもない。彼らが保守と言っているのは口語的な政治に無理やり文語的なスタイルをつけたものに過ぎないと言える。だが、それが集団になると何かおおごとが起きているように見えてしまうのである。日本の政治は竹の子族に支配されているとも言える。
混乱した状況を整理するにはどうしたらいいのだろうか。ファッションに戻って話を進める。ファッション雑誌を集めたり、今までに洋服を着た姿を撮影してみたりして、幾つかのスタイルを作った。全部で30弱のスタイルができた。一つのスタイルは20点以下のアイテムで成り立っている。これを「ワードローブ」などと言ったりする。ワードローブの中には一年中をカバーする(ハーフパンツからジャケットまでを含んでいる)ものもあり、そうでないものもある。これを組み合わせれば、それなりに網羅できるスタイル群が作れる。だが、これも人工的な試みだ。実際に起きたのはファストファッションの台頭である。行き着くところは同じで、ファッションが複数選択可能な単なる「スタイル」になったのである。
ここで重要なのはスタイルはその人自身ではないという点だ。平日にスーツを着ている人が日曜日にグラフィックTシャツやリラクスステテコを着ていても構わない。昭和の人はアルマーニやコムサデモードに所属してたかもしれないのだが、現代人はユニクロやしまむらに所属してはいない。
政治的な主張が複数できたとしても、人は政治的主張に所属する必要はない。例えば自民党の政治が気に入らないからといって立憲民主党に所属しなければならないということはないということになる。問題解決には幾つかのアプローチを複数検討した上でそれらを並行的に提示しても構わない。その方が却って適当なスタイルを選択し問題を解決するのに役立つ。
政治的主張を自分が所属する「家の宗教」と感じてしまうと問題解決は難しくなる。実際はある政治的主張に所属していると感じる人が相手を罵るというとても不毛な状態になっている。罵り合いの一方で実際の政治的問題は何も解決していない。これは人々が政治に所属しているからである。
昭和のファッションには「〜族」という表現があった。原宿には竹の子族や渋カジと呼ばれる人たちがいてお互いに集団を形成していたのである。こうした「所属意識」が消えたのはファストファッションが出てきた結果服がコモデティ化したからだ。ファッションによって所属欲求を満たすことはできなくなったが、代わりに色々なところでふさわしいファッションを選択できるようになった。つまり、所属による政治的主張というのはそれ自体がとても「昭和的」であり、ある種竹の子族的な異様さを持っているのではないかと思う。