このところ少し機嫌がいい。なぜならば閲覧数が続けて伸びているからだ。主に伸びている記事は3つある。この季節になると立ち泳ぎのやり方に関する記事の閲覧が伸びる。星の王子様事件の件で糸井重里さん関連の記事が伸びている。なぜ糸井さんがこれほど叩かれる様になってしまったのかはよくわからないが、とにかく検索してくる人が多い。最後に、サマータイムの記事が面白いほどに伸びている。この手の記事は瞬間的に三倍くらいの伸びを記録することはあるのだが、たいていはすぐに忘れられてしまう。しかし、サマータイムの記事だけは恒常的に二倍の伸びを記録していて面白い。時事系の記事は地層の様に堆積してその時々の世論を映し出すという面白い特徴がある。
サマータイムの記事が伸びているのは「検討すらすべきではない」と書いているからだろう。つまり、それほど検討すべきではないという人が多いということになる。イデオロギーとは関係がないのでネトウヨが擁護するということもない。新聞の世論調査では賛成派が多いようなので、自民党はこの法案を強行する可能性があり「面白いことになるかもしれないな」と期待が持てる。だが、この一見取るに足らないサマータイムでこれほどの大騒ぎになるのはどうしてなのだろうか。
サマータイム議論は愚策である。森元首相の「思いつき」に過ぎず、メリットはないのに強行すれば膨大な作業が必要になる。高齢者が健康を害することもあらかじめわかっている。ヨーロッパでは廃止論も検討されているという。これはあまり政治に関心がなかった人たちに「安倍政権はうんざりだ」と考えさせるのに十分である。
安倍首相は今は何も政治的発言をしたくない。政治的な議論をすると石破氏との政策論争になってしまい不利だからである。このことが安倍首相が選ばれる理由を端的に示している。世論は何も考えたくないのである。石破氏の申し出は「問題を国民につきつける」ことになり、国民には支持されないであろう。特区が私物化され、文書が書き換えられ、嘘をついた官僚が復権しても怒る人が少ないのは、国民が「どうせ日本には未来はないので、ちょっとした嘘や不正は仕方がない」と思っているからだ。そして多くの人は、口に出しては言わないが、かつてはちょっといい思いもしたし不正が起こっても自分だけはうまく立ち回れば良いと考えているのではないだろうか。
だが、サマータイム議論は違っている。これは「国民の一人ひとりが早起きを強制させられる」という政策だ。官僚たちはどうにかして「サマータイムをやるべき理由」を探し出してくるはずである。が、まともな人が賛成に回ることはなさそうだ。エコノミストの永濱利廣さんは新聞にサマータイムの経済効果を7500億円と発表して炎上してから、公式見解としてサマータイムは不確実性が高いと意見を修正した上にテレビで「反対です」と表明したようだ。世論の反応をみたのだろう。いわゆるリフレ派の経済学者には財務省に恨みがある人や履歴に問題がある人が多く経済理論としては邪道だ。憲法議論も主流派は集団的自衛権を認めておらず、政府に協力する人たちは主流とは言えない。それでもこうした政策や主張が国民から黙認されたのは、国民の多くが「社会他国家などという難しい問題は自分には関係がない」と思っているからである。
だが、サマータイムは違っている。オリンピックは「勝手にやってくれている分には涼しい部屋でエアコンでもつけながらテレビ観戦と洒落込もう」という気分になる。金メダルが出たときだけ大騒ぎすれば気分もよいだろう。そのために道路が封鎖されたり、早起きを強制されることになる様なことは避けたい。オリンピックなどのスポーツの醍醐味は「少ない費用負担で気分が良くなる」ところにある。
安倍政権はその無能さゆえに何もしないことで国民から支持されてきた。しかし、それは同時に国家的なプロジェクトができなくなっている、ということに多くの人は気がついていない。この政治と国民の間にある「冷たい関係」が現代日本の特徴だと言えるのだが、顕在化はしない。日本人は表向きは同調的な「いい人」であることを好むからだ。例えば子育て世代は子供を作らなくなった。協力したくてもできないからである。だが、それを表立っては言わない。さらに女性は子供を生まなければならないという政治家の発言に火がついたごとくに反対する。これは「協力を依頼された」のではなく「強制された」と感じるからであろう。
サマータイム議論がどうなるかはわからないが、国家的な行事であるオリンピックを成功させるためには様々な協力が求められるはずである。そして、協力を求められるたびに国民は「強制された」とか「命令された」と不快な気分になるはずだ。そこで「やらない理由」を探してやれば、それが受け入れられることになる。つまり、テレビはサマータイムをやらない理由をたくさん探し出してきて放送すれば視聴率が稼げる。もちろん政府の公式見解が出てしまえばテレビは忖度して放送をさし控えるが、次から次へと同じ様なことが起これば、それは政権へのうっすらとした不満となって蓄積するだろう。
この状態で憲法議論ができるならやってみればいいと思うが、秋が過ぎる頃にはそれどころではなくなっているのではないだろうか。国民は結局「誰がやったか」しか見ていない。つまり何かと強制してくる「嫌な」自民党の主張には反発するはずである。
それが、いい具合に熟成されたところで参議院選挙がやってくる。来年の夏だそうである。なんとなく来年の楽しみができた気がする。
後になって思い返した時に「自民党が最終的に政権を失ったきっかけはサマータイムだった」ということになりかねないわけだが、なぜそうなったのかが説明できなくなっている可能性はある。この予想が当たっているかはわからないのだが、もし当たっていたとしたらそれは政府と国民の間にある「冷たい関係」が影響しているのだろう。