今は憲法改正より文書管理の方が優先度がずっと高い

朝日新聞が面白おかしく「石破氏、憲法審査会で指されず激怒 発言機会与えられず」という記事を書いている。内容は「当ててもらえないと激怒した」というだけで、いったい何について議論したのかが書かれていない。いずれにせよ、議論ではなく村のいざこざだけに興味がある日本ならではの報道と言って良いだろう。






NHKの報道を読むとさらに「なぜ内容が書けなかったのか」ということだけがわかる。自民党はとにかく首相がうるさく言っているから首相が言っている通りの憲法改正案を出したいのだろう。去年、趣旨説明が終わっている。審議して遅滞なく採決し結論を出すのが国会の責任だとの発言が載っている。これに対して野党はCM規制をしろという話をしている。論点が内容に入るのを避けたいのだろう。議論そのものを避けたい野党は「審議拒否」を言い出した。どちらも議論を避けている、というより石破さんを除いては議論できるだけの知見をもっていないのかもしれない。

自民党にとって憲法は「安倍さんのおもちゃ」扱いになっているのだろう。会社でいう社長のペットプロジェクトだ。社長のペットプロジェクトなのだから結論は「社長これはすばらしいですね」というものにしかならないし、それが取締役会としては正解である。

本来憲法というのは「目的」があり、その目的のために何をするのかという筋立てになるはずである。だが日本の政治家はこの目標立てができない。

現在の日本国憲法をみっともないと非難する声があるが、アメリカ版の草案を読むと「封建主義と神国主義」を除去するという目的があったことがわかる。アメリカは憲法を通して日本を理解可能な国に改造しようとしたわけである。戦争に負けた日本はその懸念を受け入れることで世界秩序に復帰しようとした。ある意味極めて実務的な目的を持った憲法だったのである。

ところが今回にはこうした共通認識がない。

石破さんがどんな思想的な背景を持っているのかはわからないが、改憲派が国民を正攻法で説得しなければならないという説のようだ。意見を言うということは「誰かが反論する可能性が出てくる」ということを意味する。変えることそのものに不安が出てくる可能性もある。誰からも嫌われたくないというのが自民党の不安なのだろう。公明党は多分もっと深刻で池田大作の言っていたことと違うとして離反する人が出てくるはずである。

だが、石破さんの目的がわからないというのは「これまで説明してこなかったから」ではなく「もともと石破さんにそれができないから」なのではないかと思う。石破さんや今の自民党の政治家に何が足りないのかは石破さんを見ていても見えてこない。

折しも海軍で戦争経験がある中曽根康弘元首相がなくなったそうだ。改憲論者だったそうだが、戦争の国家的背景と実情の両方を知っている最後の首相だった。たぶんこの辺りが日本の戦後総括と憲法改正ができる最後の世代だったのかもしれないと思う。

中曽根元首相の回顧録を読むと、部下に指示をして手計算で石油の分配をしたそうである。田中内閣の通産大臣だったのだが、指示が出せたということは自分で計算の方法を知っていたということになる。つまり何をやらなければわからないかという実務がわかっていれば指示が出せるということになる。

安倍政権が文書を隠すのは安倍首相が実務を知らないで答弁をしているからだ。そしておそらく石破さんも彼のライバルたちもこのような国家マネジメントの実務の経験はないはずである。

おそらくは石破さんは「国民を説得したい」ということで今後数年間は孤立することになるだろう。現在の政権の支持者たちは誰も変わることは望んでいないし、政治家も支持者たちを説得しようとは思っていない。今後、厳しい道が少なくとも数年程度は続くのではないかと思われる。

おそらく憲法改正よりも先にやらなければならないのは行政の正常化である。日本の中枢はこの国がおかしくなっていることに気がつき始めている。

村単位で動く日本の政治は「よその村の事情に立ち入らない」のが礼儀とされる。このため司法村は行政村がやっていることに口を出さない。と同時に行政の文書問題は所詮は他人事である。では、自分ごとだとどうなるか。「裁判記録の破棄はちょっと待つように」という指示を出したという。

Quoraで事情を聞いてみると、請求があって初めて「地方裁判所が勝手に書類を処分しているらしい」ということに気がついたのではないかというコメントがついた。弁護士による新聞記事の抜粋引用である。恣意的に隠したというよりは把握するシステムがなかったということだからこれは統治上の欠陥だろう。意欲や意図ではなくシステムの問題である。IT化への意欲が薄く電子管理の議論が進行していないことも影響しているのかなと思った。政府の統計のごまかしも恣意的なものとそうでないものが混在している可能性がある。

中曽根さんの時代には政府が経済を把握することができた。経済規模が手計算で済むくらいの規模だった上に、中曽根さんのような実務がわかっている首相がいたからである。安倍首相がこのまま続投するにせよ誰かに変わるにせよ国のマネジメントのあり方が全く変わっていってしまっているということに気がつかなければならない。例えば石破さんはグランドデザインは構想できるのかもしれないが実務はわからないはずなので、誰かを頼んでまとめなければならない。だが孤立型の石破さんにはそれができそうにないし、彼に代わってそれができる意欲のある人も見当たらない。

おそらく憲法をやるよりも文書管理システムを組み直す方がこの国の統治には重要なのではないかと思われるが、かなりの難事業になるだろう。

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国民は野党をピコピコハンマーだと思っている

桜を見る会の疑惑が消えない。消えないどころかどんどん大きくなっていて、ついに反社会勢力が入っていたという話になっている。さらに安倍首相の事務所もスタッフの旅費を支払っていたという疑惑が持たれているようだ。野党は審議拒否を決めたようだ。審議されても自分たちが国民から信任されていないということがわかってしまうだけなので彼らにとっては合理的な判断なのかもしれない。一方、憲法審査会では石破茂議員が「指してもらえなかった」としてご立腹のようだ。






国民はお花見の私物化について倫理的に悪いことだとは思っていないだろう。だが、このところ安倍政権はちょっと調子に乗っている。この辺りでお灸をすえてはくらいの気持ちなのではないだろうか。つまり、野党も石破議員もある意味国民の期待を代弁している。それはピコピコハンマーのようなものだ。叩いても痛くはないが派手な音がするので叩かれた人たちは恥ずかしいというあれである。

第一次安倍政権の時には最終的には安倍首相が政権を放り出して終わった。今回もそんな感じで終わりそうになってきた。前回は郵政選挙で等を放逐された人たちを復党させ、その後閣僚の失言が止まらなくなり、選挙に負けて政権を放り出したという順番だった。だが、今回の刑罰はもっとひどいかもしれない。何も決められないまま放置されてしまうのである。

政権が交代する時には、政党がコンペをした上で政権競争をして変わって欲しいと思う。ところがこういう「べき論」を振りかざしてみても現実はそうはならない。実際に日本の政治には課題があるが、その課題を解決したいという政治家は誰もいないのだ。

それでは日本にはどのような課題があるのだろうか。野口悠紀雄さんが「日本は構造的不況の状態に入った」という記事を出している。「日本経済は「長期的な縮小過程」に入った可能性が高い理由」という記事である。

  • 日本は長期的な縮小過程に入った可能性が高い。一人当たりのGDPが縮小傾向に入ったからである。
  • 原因は「非製造業」の「大企業」が零細企業化しているからである。
  • 金融政策や追加財政出動ではこの問題は解決できない。
  • 構造改革をすべきである。

野口先生はずっと構造改革を言い続けているがずっとスルーし続けられている。日本はもう長い間製造業に変わる牽引産業を探すことができていない。国全体で見ると高齢化が進んでいて新しいサービスを消費する人がいないからかもしれない。

あるいは、生産性が低いままなのはITへの取り組みが決定的に遅れているからなのかもしれない。

ただ、日本企業全体におけるIoT、AI、ロボット、クラウドといった新技術の導入割合は、まだ高くない。昨年の経済白書では、こうした技術のうち1つでも導入した企業の割合は36%にとどまっていると指摘している。

焦点:動き出す流通業界「生産性革命」、AIとロボット連携に広がり

総論として「IT化を推し進めるべきであろう」というような意見が出されることはある。解決策として学校に一人1台のパソコンをおこうという動きも出ている。だが政治家は国民のやる気にアクセスすることができない。「どうせ政治家は好き勝手にやっている」のだから「ピコピコハンマー」で牽制しつつ「我々も好き勝手にやらせてもらおう」という気持ちがあるのだろう。安定の中の停滞である。そしてそれは過去の蓄積に支えられている。海外に債権を持っている日本経済が信任されなくなることはない。おそらくしばらくの間は借金もし放題だろう。

なぜITへの取り組みができないのか。こういう話は総論を聞くよりも街の噂話のほうが実感がこもっていることがあると思う。

最近「何とかペイ」が流行っている。政府が導入を進めているからである。だがマクドナルドで後ろの主婦たちが「戸惑う高齢者が多くバイトの自分たちにもよくわからない」というような話をしているのを聞いた。どうやら何人かの「社員さん」たちは技術にキャッチアップできている人もいるようだが、全体的には全く底上げが進んでいないらしい。ここにも非正規化と高齢化の影響がある。パートの人たちが新しい技術について行く必要はない。時給仕事だからだ。また顧客も高齢化しており新しい技術について行けなくなっている。何か得なことはわかるしやっても見たのだが、今ひとつ乗れないのだ。政府はマイナンバーカードに25%のポイントをつけるキャンペーンをやるらしいのだが、多分レジはますます混乱することになるだろう。

野口悠紀雄先生は「生産性についての議論をせよ」というのだが、国民の間にはまったりとした怠惰感が蓄積している。海外を知る経営者の中には「日本は後進国になった」といって炎上を仕掛けやる気を出させようという人もいる。だが議論にならない。

こうした停滞が背景にあるので、今回の混乱も安倍政権に代わる自民党の政権ができて「ああ、気分が改まった」といって終わりになるはずである。次はおそらくあまりリーダーシップなどと言いださないみんなの意見を聞いてくれるような無難な首相がいいのかもしれない。ちょうど自民党のプリンス安倍さんから何となく煮えきれなさそうな福田さんに代わったのと同じような感じである。

国民が自らの意思で政権・政策選択をするというようなことはこの国では起きない気がする。良い意味でも悪い意味でもそれなりに回ってしまう。そんな中、永田町というのは関ヶ原のようなもので「武将たちが勝手に戦をしているなあ」などと言って遠くから眺めるようなものなのだろう。我々庶民にとって参加するようなものだとはみなされていないのである。ただ、武将たちは時々増長する。だから自分たちに代わって軽くお仕置きをしてくれるピコピコハンマーが必要なのである。

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ウイグルとトルコ世界 – 文明という破壊力

中国の弾圧からなぜかウイグルについて勉強している。ウイグル人とは新疆ウイグル自治区に居住するイスラム教を受容したトルコ系の言語を話す人たちである。人口は1000万人。ただ、ウイグルとかトルコという概念を調べていると日本とは全く考え方が違うことに驚かされる。我々は異なる文明を正しく理解することはできない。そしておそらくそれが今回の悲劇の要因になっている。






まずトルコだが、もともとは東洋系の顔をしていた人たちをトゥルクといっており東洋系の顔をしていない(つまり純粋でない)人たちをトゥルクマーンと言っていたらしい。もともとはオグズと呼ばれる民族集団だったという解説を見つけた。もともとは東洋系だったがコーカソイド系の人たちも多く含まれているらしい。我々が今見ている一番近いのは「アメリカ人」という括りである。英語を話すが白人も黒人も東洋人もいる。ただ、トルコ系には国という括りがない。

オグズの人たちは一旦ペルシャに従ってそこでイスラム教に改宗する。

ウイグルの地域(東トルキスタンとも新疆とも)に住んでいたトルコ系の人たちはウズベグ人と同じ系列の言葉を話すが、ウズベグはセルジューク朝の支配下にあった。セルジューク朝は今のトルコ・ペルシャ・中央アジアに広がる大きな国である。セルジュク・トルコなどと習った記憶があるのだが広く使われていたのはペルシャ語だそうである。

一方でウイグルの人たちはジュンガルの支配を受ける。文字が示すようにモンゴル系だそうである。ジュンガルは満州人(女真族)の清に滅ぼされた。清は女真族の国だがモンゴルも清に服属していたようである。清が消滅すると漢民族が中心の中華民国ができやがて中華人民共和国に代わった。

ウイグルとウズベグは同じような言葉を話すそうだが、昔から国家領域としては別になっている。これを東トルキスンタン・西トルキスタンなどと言ったりするようだ。もともとペルシャ世界でありのちにロシアに支配される地域と、中国の領域にわかれている。清は中国といっても満州人(女真族)・モンゴル人・漢人などの連合体だからやはり世界帝国である。おそらく中央アジアから中国にかけては「人種・民族によらない帝国」というものがあり、言語や宗教などの様々な共通点を持った緩やかなつながりがあったのだろう。ヨーロッパ人が書く歴史にも出てこないし、おそらく漢人にもよくわからない世界である。

よくウイグル人に対する中華人民共和国の弾圧は「民族浄化」と言われる。確かにそう思える。中華人民共和国はウイグル人の墓を破壊してつながりをわからなくするという歴史改竄をやっているようで「土地と人々の繋がり」を絶とうとしているようにも思える。だが、その「消されるべき民族」という意識がそもそも中央アジアには希薄である。ヨーロッパ人が作って中国人が輸入した「民族国家」という概念にこの地域を無理やりあてはめているだけなのである。

調べ物の動機として「なぜ中国西域にイスラムが残ったのだろう」ということが知りたかった。モンゴルが支配していたのなら仏教化してもよさそうだしイスラム教が進展しているのなら他のイスラム教国からの支援があってもよさそうである。しかし、彼らにはそもそも「民族」というまとまった意識はなく、同じ盆地に住んでいる「土地の人」と「よその土地の人」と「異教徒」という意識しかないようである。

ところが強烈な民族意識とおそらく西側に対する被害者感情を持っている漢人が乗り込んできて彼らを弾圧したために問題が複雑になっている。ウイグル人もまた対抗策として「民族意識」というものを形成しつつあるわけだ。

おそらく相互理解は不可能だろうが、にもかかわらず単一の国家を形成しようとしている。だから、中国共産党の試みは失敗するだろうなと思う。中国共産党の悲劇性は自分たちの秩序を資本主義社会の香港と民族意識や国家意識が希薄な中央アジアに広げられなかたという点にあるのだろう。

そう考えながら、ウイグル人弾圧についての文章を読むとまた違った感情が得られる。

11月16日付の米ニューヨーク・タイムズ電子版は、中国の新疆ウイグル自治区で大勢のイスラム教徒(主にウイグル人)が中国共産党の「再教育」キャンプに強制収容されている問題について、弾圧の実態が記された共産党の内部文書を入手したと報じた。それによれば、習近平国家主席はイスラム過激主義について、「ウイルス」と同じようなもので「痛みを伴う積極的な治療」でしか治せないと考えているということだ。

中国は「ウイグル人絶滅計画」やり放題。なぜ誰も止めないのか?

中央アジア的な「自分たちは自分たちである」というあり方と、中国人が考える「自分たちの秩序の外にあるものは危険なので干渉地域をおかなければならない」という思想は折り合いそうにもない。となると中央アジア性というのはウイルスではなく本質である。ゆえにこれを消し去ることはできない。それでも無理をしてやっているとついには暴走して外国の介入を招くことになるのである。

我々はつい「イスラム」と括ってしまいたくなるのだが、アラブ的なイスラムとは全く異質な感じがする。中央アジア人はアイデンティティの拠り所としてイスラム教は利用するのだがおそらくそれ以上のものではないのではないかと思える。

我々は異質な文明を理解するためには恐ろしく貧弱な道具でてしか持っていない。中国は理解できないものを取り込んだということはおそらくわかっているのだがそれが何なのかを理解できない。だから「体制破壊のテロ」という名目で処理しようとしているようだ。一方、ウイグルの人たちもおそらく自分たちが何者なのかということはうまく説明できないのではないか。異質な文化を取り込むことによって自らが変わらなければならないとしたら、その破壊力はおそらくテロと同じことになるだろう。

中国政府は、宗教と過激主義がテロの脅威に結び付くことが実際にあることを利用して、大勢の無関係の人々の身柄拘束を巧妙に正当化している。テロ対策の専門家であるコリン・クラークは8月にスレート誌への寄稿の中で、中国がアメリカの「対テロ戦争」という言葉を都合よく取り入れて、独裁体制を正当化しているようだと指摘していた。

中国は「ウイグル人絶滅計画」やり放題。なぜ誰も止めないのか?

「文化」というのは恐ろしいものである。我々は自分たちの文化をおそらくきちんと他者に説明することはできないし、相手の文化を受け入れることも難しい。その断層では必ず何かが起こるだろう。

おそらくこうしたことを見ると「文明の衝突」を思い出す人もいるのではないだろうか。ハンティントンなら何と考えるのだろうかと思って検索しようとしてふと気がついた。サミュエル・ハンティントンはすでに亡くなっているのである。ハンティントンはイスラム世界を一つに分類しているのだが、おそらくは中央アジアとアラブ世界は全く異なる。やはりハンティントンならどう分析したのかが知りたいがその望みが叶うことはないだろう。

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ウイグル人を救いたいのか自分たちのために利用したいのか – イギリス政府のウィグル介入

Quoraの政治系の人たちが大好きな話題がいくつかあるのだが「中華人民共和国が人権弾圧をやっている」というのもそのうちの一つである。政治系のスペースでは長い間「中国はこんなひどいことをやっているのに取り上げないのは独裁ではないか!」という投稿が続いていた。






ところがこのニュースに大きな展開があった。BBCなどの大手のメディアが伝えたのである。中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」 公文書が流出というタイトルが付いている。この記事によると中国政府はかなり組織的にウイグル人の同化政策を行っているらしい。さらに重ねて「中国はウイグルに監視団を受け入れるべきである」というイギリスの申し出が報道された。これでウイグル問題の解決はより難しくなったのだろうなあと思った。

ウイグルというのは中国の西側に住んでいるトルコ系の言語を話す人たちの総称である。モンゴロイド系の人たちやトルコ系の言葉を話すようになったイラン系の人たちを含む概念で人種的背景が異なった人たちを含んでいるようである。この地域がモンゴル系に支配された時にモンゴル化しなかった人たちというような緩やかなまとまりであり、必ずしも日本人が考えるような民族集団ではなさそうだ。言語的にはウズベグ語と近いそうだが、ウズベグ人にもモンゴロイド系の顔の人とコーカソイド系の顔の人たちもいる。あの地域にはそういうイスラム教徒が多く暮らしている。

政府の指示に従って「手先」になる人たちが冷酷になってゆくというのは、ヨーロッパのユダヤ人迫害にもよく見られた現象だ。万能感を抱く人が大勢いるのだろう。だが背景にあるのはある種の被害者意識のようである。中国側の言い分はこんな感じである。

「西側には、そうした事実を完全に無視して新疆について中国を熱心に中傷している人々がいる。彼らは、中国の国内問題に介入し、新疆における中国のテロ対策を妨げ、中国の順調な発展を妨害する口実を作ろうとしている」

「中国はウイグル自治区に国連監視団受け入れよ」 英が要求

もともとイギリスは貿易のために清に言いがかりをつけて香港を奪った歴史があり、さらにチベット人の保護国(ブータン)を作ってインドとの緩衝地帯を作っている。いわばかつての当事者である。EU離脱に揺れる中外に目を向けたいという政府の思惑もあることだろう。これが中国の反発を招くのは必至だ。

とはいえ、このBBCの記事を読むと中国政府がいかに残酷なことをやっているのかということもよくわかる。あまりにもナチスドイツのやり方と酷似しているのでヨーロッパ人がこれを受け入れることはないだろう。本来の優先順位はまずウイグル人を救うことだが、大国の思惑が優先され彼らの事情は結局後回しになってしまう。国を持たないクルド人などと同じような運命をたどりつつあることになる。

当事者救出を第一に置くのであれば「主体」と「行為」を分けて考えなければならない。「中国が悪い」「イギリスもひどい」ではいつまでたっても問題は解決しない。日本もヨーロッパの移民問題には過敏に反応していて入管ではかなり非人道的なことが行われているようなので「罪のない国だけが石を投げろ」といっても、そんな国はない。ゆえに本来は「人権蹂躙行為」が問題なのであって「中国政府の良し悪しは問わない」とすべきだろう。だが、そうはならない。

中国は民主主義国ではないので選挙などの民主的な動きで住民を説得することはできそうにない。香港のような狭い領域ですら混乱しているのだから、ウイグルに自治と民主主義を認めるということはできそういにない。共産主義者には「住民の良心に託して国を運営してもらう」というような概念自体が理解不能だろう。

一旦弾圧に手を染めてしまえばもう行き着くところまで行くしかないという絶望的な状況があるように思える。ついには国内問題ではなくなり西洋諸国が知るところになった。これは日本が拡大する過程で周縁を巻き込んで行きやがてコントロールを失っていった状況によく似ている。つまり、一旦手をつけたことは「周囲とぶつかって破綻するまで続く」ということである。日本の場合は第二次世界大戦の敗戦と国の灰燼化だったのだが、中国がどうなるかはわからない。

BBCはこれを国際的なジャーナリストの集まりであるICIJから得ているようだ。ICIJには共同通信と朝日新聞も協力関係にある。国際的に不正を暴いて行こうという行為はリベラルだと見なされる。日本だけでなくいろいろな地域で「リベラルは反体制的である」という反発がある。中にはインテリ層への反発から反リベラルに傾く人も多い。

スペースでは「中国に親和的な共同通信がこれを取り上げたのは驚いた」というコメントがあった。リベラル=反日=親中国という図式ができているのだろう。共同通信は最近反安倍政権で割と無理筋な記事も出しているのでなんとなく言いたいことはわかるのだが、中国が関連すると冷静な判断ができない人が増えていることがわかる。

ICIJはパナマ文書をめぐる調査報道も行っている。大物政治家も絡んでいると言われたが、ところがこれをみて「資本主義の転覆を図ろうとしている」と思った人はいないはずである。ところが中国になると、中国政府の不正=中国の負け=崩壊という図式が作られてしまうのである

中国と旧西側先進国はライバル関係にあり、この状況が国際政治に利用されるのもまた明白である。イギリスの場合はおそらく国内政治の矛盾を外に向けるためにも使われるのだろう。結果的にウイグル人をどうやって救出するのかという議論にはならず、彼らの人権は放置されてしまうのである。

それがわかってもなお我々は「誰が正しくて誰が悪い」という議論から抜けられないのだ。

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中国は日本には攻めてこないのだが……

どういうわけか「中国はなぜ日本に攻めてこないのか」というエントリーが人気である。改憲派の人たちが日本再軍備の理由付けに使われるので逆にこれを否定したい人も多いのだろう。ちなみにエントリーの筋は「自由貿易時代では大きな戦争をおこすのは合理的ではない」という極めて当たり前のことが書かれている。






中国が日本に攻めてくることはないだろうが、覇権化を進めているのもまた確かなことである。特に沖縄にある米軍基地は目障りだろうなあと思う。これは現象だけを見ると否定のしようがない。だがよく考えてみると「覇権化してどうしたいのだろう」という疑問も湧いてくる。

覇権化というのはかつて西洋が目指した支配の方法なのだが、やがては覇権の維持にお金がかかるので持て余して撤退してゆく運命にある。現在はアメリカが撤退フェイズにある。そして撤退した後に生き残るのは国際協調の枠組みである。ということはここから連動した疑問が出てくる。日本はこの中国の「覇権化」の動きにお付き合いすべきかという問題で、その答えはおそらく「否」である。日本は現在の体制を守るために注力したほうが合理的である。それが何であれ日本はその体制を主導する側の国だからだ。そしてその資格を手に入れるためにかなりの犠牲を支払っている。

世界にはすでに覇権国となったアメリカ・自分たちの枠組みを世界に輸出したヨーロッパ・それを受け入れた日本という先行国と、その枠組みに挑戦する中国・ロシアという後行国がある。アメリカが撤退傾向にあるのでその権益を奪いたいというのが後行国の望みである。

最近では銅資源を持つブーゲンビルの独立運動に中国が介入しているのではないかというニュースがあった。さらに見て行くと、ソロモン諸島も最近中華民国(台湾)と断交したことがわかる。ソロモン諸島とブーゲンビルは地理的には一体なのでこの辺りに中国が野望を持っていることがわかる。ソロモン諸島の島を丸ごと租借しようとして騒ぎになっているというニュースも見つかった。地方政府が勝手に了承してしまい、中央政府が慌てて否定したという話だ。

地理的なことがわかると面白くニュースが読める。実はバヌアツにも中国が軍事拠点を作ろうとしている噂がある。ソロモン諸島・バヌアツと結ぶと、その先にはニュージーランドがある。つまり、ニュージーランドから見るとあの辺りはアジアに至る補給路になっているのである。ソロモン諸島から西側に入るとオーストラリアに至る。オーストラリアとニュージーランドが中国の動きにことさら神経質になるのは中国が自らの「補給路」に並々ならぬ関心を持っていることがよくわかっているからであろう。かつて世界貿易のために西欧諸国が拠点づくりを競ったのによく似ている。

じゃあ、他の航路にもそういう国があるんじゃないか?と思って調べてみると、モルジブの事例が出てきた。モルジブは中国と中東を結ぶ通路にある国だ。中国に一体いくら借りたのかわからないそうである。

中国のやり方はあまりにも直裁的でちょっとゾッとする。アメリカのように民主主義を操作しようというようなまどろっこしいことはせずお金で買おうとするのである。

「あれはまさに請求書だった。32億ドルという金額だけが記載されていた。衝撃的だった」とナシード氏。「単なる会話ではなく、文書を突きつけられた。はっきりと、あなた方はわれわれにこれだけ借金があると告げていた」

焦点:中国に一体いくら借りた、小国モルディブの困惑と警戒

モルジブの国民は中国を警戒しはじめており親中派の大統領が2018年に負けたそうだ。逆にスリランカでは親中派の大統領が勝っているという。

この話は中国を核にして書いているので日本人の頭の中には自動的に文脈ができてしまう。保守と呼ばれる権威主義の人たちは現体制=アメリカ友達=中国は敵という図式で見るだろうから、日本は軍事力を強化して中国を制裁すべきだという意見になる。逆に反政権=反軍備の人たちは「これを利用して再軍備を許してはならない」と息巻くので、中国の野心をほのめかしただけで「お前は改憲派だろう!」と攻撃の対象にすることだろう。

中国の野心が何をきっかけに生まれたものかはわからない。アヘン戦争で領土をもぎ取られた経験のある中国はもともと西洋中心の秩序に懐疑的だっただろう。中国人は「それでも商売のためには一旦この秩序を受け入れるしかない」と思っていた可能性が高い。まずは彼らの懐に入って成功し、そこから見返してやろうと考えても不思議ではない。発展途上国が債権国になってゆく過程で通る道と考えても良いかもしれない。

中華人民共和国は国内の市場化に成功したわけだから、次は彼らを支持する国を作って国際的な基盤を確かなものにしようと考えたのだろう。資源確保が楽になれば経済的な戦争に勝つことができる。伝統的には朝貢を受けていた国なので「経済的な見返りを与えて従わせる」というようなことをやりたいのだろうが、やはり劣化版コピーしか作れないようである。急進的な経済援助は軋轢も生み反中国暴動が起きている国もある。皮肉なことに旧列強が各地で経験した暴動をわざわざお金を出して買っているのだ。

この「資源・エネルギーをめぐる国家間競争」という見方はきわめて20世紀的な考え方だ。一国で覇権を取るよりも「一流主権国家」という名誉クラブに入ったほうが有利なはずなのだ。しかし中国はここには入れない。一流クラブの一員になるためには民主主義というバッジを手に入れなければならない。これは、ウィグル人を「同化しよう」とする中華人民共和国には絶対に得られないバッジである。かねがね噂レベルでは広がっていたが、ついにBBCなどがこの件を伝え始めた。これも皮肉なことだが日本が周縁地域を扱いかねて最終的に世界秩序とぶつかったのに似ている。ヨーロッパにイスラム移民が入り込んでいるのをみて共産党上層部が脅威を抱く気持ちはわかる。だが、やり方としてこれが受け入れられることはないだろう。

日本人は物事を分析的に捉えない上に「いいとこ取り」をしようとする傾向がある。そこで「自由貿易的世界」を志向しながら、覇権国家として中国と張り合おうとしており、アメリカを引きとめようとしてアメリカの二国間ディールにはまるというまさに悪循環に陥っている。

憲法第9条の問題も根底にアメリカ依存と中国への対抗心という感情論があるのだが、これは国民をどこにも連れて行かないだろう。国際貢献のために軍事力を整理する必要があるという議論ならまだしも、中国に対抗して韓国の鼻を明かすために自衛隊を軍隊にしたいというのならそれはやめたほうがいい。

特に天賦人権を否定して民主主義を返上したいという人は「あのキラキラ光るバッジ」の意味を考え直したほうがいい。民主主義はたんなるバッジかもしれないのだが、お金では買うことができないバッジである。日本の場合は戦争に負けて手に入れたバッジでもある。

日本はそろそろこの問題を整理した上でしっかりとしたビジョンを提示できるリーダーを新しく決めたほうがいいと思う。ただQuoraでの議論を見ていると国民レベルで整理が進むことはおそらくないだろうと思う。いずれにせよ、お花見の名簿も管理できないのに時代錯誤の憲法改正を熱望する安倍政権の役割はもう終わったと思う。

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ブーゲンビル独立投票

日本は資源のない島国だが、稲作信仰を持った単一民族化したことで西洋諸国に占領される事なく独自の国家を形成する事ができた。我々はそれを当たり前の事だと思っているが世界にはこれが当たり前でない地域もある。オセアニアに新しい独立国ができるかもしれないそうだ。場所はパプアニューギニアの外れにあるブーゲンビル島である。「新国家誕生なるか? パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州で住民投票開始」という記事が伝えている。このブーゲンビルの事例を見ながら日本について改めて考えたい。






有権者は20万人だそうだが800箇所の投票所で2週間かけて選挙を行うそうだ。インフラがあまり整っていないことがわかる。地理的にはソロモン諸島の一角だが島内には様々な言語がある。語族に分けただけでも4語族があるそうだ。

もともとブーゲンビル島を含むニューギニアはオランダ・ドイツ・イギリスの植民地だったが、第一次世界大戦のあとにまとめられてオーストラリアの委任統治領になった。ニューギニア島の西側はオランダ領を経てインドネシアに併合された。東側は自治州を経て1975年に独立する。ところが1988年にブーゲンビルで独立要求が起きた。ブーゲンビル島で金や銅が産出するからである。銅はニューギニアの貿易量の40%を占めていた時期もあるそうだ。この配分を巡って騒ぎが起こるのは当たり前の事である。2001年に和平協定が結ばれ自治権が拡大し続けこの度「独立投票」まで来た。

記事を探すとブーゲンビル島はソロモン諸島と結びつきが強いが銅利権を守るためにニューギニアに編入されオーストラリアが介入して独立を阻止しようとしていたという話が見つかった。20万人がこれに対抗できるはずもないのだからブーゲンビル側にも多分介入した人たちがいたのだろう。

日本は資源はないが域内に「民族的な結びつき」がありそこから産業をおこす事ができた。ところがブーゲンビル島・ニューギニアにはこうした「民族」という概念がない。にもかかわらず資源が出ることで外国の介入を招くという構造になっている。

パプアニューギニアはまだ貧しい国(レベルとしては最貧国ではない)なので自前での資源開発はできないだろう。また域内には相互に意思疎通できない多数の言語集団や民族がいて彼らの独立騒ぎに発展しかねないという懸念があるそうだ。これは主要民族が自らの言語を「国語化」してインドネシア人やマレーシア人という民族を作ろうとしたのに比べると「民族国家化の失敗」と言えるかもしれない。民族ができないという事は民族資本ができないという事でもある。そこで外国を頼る事になってしまう。

当然そこに目をつける国もある。中華人民共和国が太平洋地域に展開したがっている。太平洋にはもともと台湾(中華民国)と仲が良かった国が多いのだが、台湾からの断交も続いている。さらに中国との関わりを拒絶したツバルのような国もある。中国の戦略はインフラ開発の資金を提供し提供先の国を外交的に取り込んでゆくというものである。この地域にはそれに依存する国と警戒感を持つ国という二つのグループができているようだ。アメリカとの間に軍事協定(コンパクト)を結んでいる国があり、どうしても米中対立の最前線になってしまうのである。

太平洋地域はアメリカと中国という覇権国家同士の争いの最前線になっていると言われているのだが、それはかつてのような軍事力による対立ではない。資本・外交・軍事などを一体化させた構想になっている。世界規模の自由貿易時代にこうした旧世代型の国家総動員体制が生まれるというのも不思議な話だ。

確かに世界では覇権争いが起きているのだが、どちらかというと軍事力というより総力戦になっている。誠に残念なのだがお花見の名簿も管理できない政府では太刀打ちできないのではないかと思われる。だが一応関与を継続しようという気持ちはあるようで1億円の無償資金援助をして選挙に協力しているのだそうだ。現在の安倍政権には戦前型の国家総動員体制に憧れる人たちが大勢いて「中国に対抗したい」という意識があらわれているのかもしれない。

こうして民族なき独立国家が生まれるかもしれない。その地域にある資源を自分の影響下に収めたいと考えている国があるのだ。

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蓮舫議員の電話番号が民間業者にリークされるという「事件」

花見ゲートが新しい展開を見せている。はっきり言ってうんざりしているので「なぜ政府はネタを提供しているのか」と腹立たしい思いもある。しかも、よりにもよって蓮舫議員に。だが、この件を追って行くと政府・内閣府が明らかにパニックに陥っていることがわかる。パニックの怖さは「やっていいことといけないことの違い」がわからなくなることである。内閣府が議員の個人情報を第三者に漏らしたとすれば大問題だが、やっていいことと悪いことの違いがわからなくなっているということだろう。政府の無政府状態こそが安倍政権の集大成と言える。あとはこの状態がいつまで続くかということである。そしてそれは国民の審判にかかっている。






それはある唐突なTweetから始まった。

よくわからないのだが、飲食物を提供する会社のCEOから電話がかかってきたという。携帯電話の番号は伝えていないそうだ。また別のTweetからCEOの奥さんが安倍昭恵夫人と懇意にしていたということも分かった。蓮舫議員は内閣府とこの問題について協議を始めており、質問内容を知っているのは内閣府のごく限られた人たちだけだったと主張している。

Tweetからわかるのはここまでである。だが背景が全くわからない。

まず、CEOがこの問題について蓮舫議員に連絡を撮ってきたのかがわからない。「内部情報を提供」というわけでもないのだろうから「追求をやめてくれ」という話だったのかという気もしてくる。ニューオータニは炎上状態になっているのでそれを恐れたのかもしれない。協力した歌手ケイ潤子さんの元にも取材がいったようだ。過去も、安倍政権は守られても周辺の人たちはひどい目にあってきている。例えば籠池理事長夫妻なども世間からは袋叩きにあった。

一方で、蓮舫議員がなぜこの時点でこれを公にしたのかもわからない。話を聞きに行って「業者からしか取れない情報」を取っても良かったはずである。この時点で「漏洩した!」と騒いでしまっては内閣が「漏洩はなかった」という証拠固めができてしまう。このことから蓮舫さん側も「意外だ」というあまり冷静でない気持ちがあったことになる。

蓮舫さんが「気持ちが悪いな」と思った気持ちはわかる。蓮舫議員のTweetを見て行くと、そもそも蓮舫議員が求めていたのは公文書でありその公文書の先にある業者の諸事情ではない。つまり業者を追求するつもりはなかったのである。

このことから内閣府の人たちが「蓮舫さんがうるさく突いていてバレたら世間から君たちが叩かれるぞ」とほのめかしたのではないかという気もしてくる。逆に「俺たちでは内閣府の不正は言い出せないから業者発だということにしてくれないだろうか」と頼んだのかもしれない。だが、実際に何があったのかはわからないし今後それがわかることもないだろう。

これがニュースになっているのだが、Twitterなしでこれを見ても何がなんなのかさっぱりわからない。なので「なんだかよくはわからないが政府(内閣)が何か後ろ暗いことをやっているんだろうなあ」くらいの印象で終わってしまう。政府も信頼されないしかといって安倍政権が壊れることもないというとても宙ぶらりんな状況になっている。自民党が信頼されていないことは当事者にもわかっていて国民投票法案改正の先送りも決まった。

実は情報情報漏洩は事前にも起きている。森裕子議員の質問内容が漏れたとされており、地方創生大臣が「事実なら責任を取る」と明言したが結局この時もうやむやになってしまったようだ。ただこの時は「政治で飯を食っている」人が漏洩先だった。つまり玄人同士の喧嘩だったのだ。

森さんの件の背景を調べたら時事ドットコムの記事が見つかった。もともとは意味があるルールだったのだろうが形骸化が進んでいるようである。内閣の側にも説明しようという気持ちはなさそうだし、野党の側もチェックしてよりよい制度にしようという気持ちはない。国会議論は与党から見ると宗教儀式だし野党から見るとゲームなのだ。

  • 事前通告は紳士協定。
  • 形骸化していて直前に伝えることで失言を狙うゲームのようになっている。
  • 十分な対応時間が取れないと官僚の働き過ぎにつながる。
  • 質問内容が事前に漏れて世間から反発されれば野党の質問者が萎縮するだろう。
  • 政府関係者から漏れたとすれば公務員の守秘義務違反になる。

時事ドットコムは書いていないが、口裏合わせの必要が増えており、また関係者も多岐にわたっている。政府関係者が安倍事務所の尻拭いのために言い訳作りに奔走させられていることもわかる。森さんの時も内閣府だった。もともと各省庁の寄せ集めだろうから「内閣府という組織に守られている」という安心感もないのかもしれない。いろいろな意味で官邸主導の弊害を感じる。もともと機動力を高めたいという気持ちで始まった官邸主導だが、日本人の持っている文化的背景(OS)ではうまく動かないのである。

戦略特区はその後ろ暗さから入念に準備をして突っ込まれないようにしていたのだろう。だが「花見くらい大目に見てもらえるだろう」という気持ちがあったのかもしれない。これも日本人が考える「晴れの日にはパッとやりたい」という文化的背景から説明ができる。だがそれは通らなかった。

いずれにせよ安倍政権に協力してくれる業者は減ってゆくだろう。何かあれば大きな災難に巻き込まれてしまうからである。そして有権者がこの政権を変えようと思わない限りこの類にパニックはしばらく続くのではないかと思われる。

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イスラエルにみる強いリーダーシップの失敗と日本への応用

イスラエルが大変なことになっている。3度目の総選挙をやるそうだ。右派のリクードと青と白がどちらとも安定的な過半数を取れず組閣ができなかった。二回やってもダメだったのでまた総選挙をやるという。






イスラエルと日本には奇妙な一致点がある。つまりイスラエルの事例は日本の政治を分析するためのフレームワークを提供してくれるのである。日本の場合は党派性に支配されていて冷静な議論はできないのだが、イスラエルは外国なので幾分冷静に判断ができる。

もう一つの共通点は「イスラエルの政治制度は強いリーダーシップを志向しない」という点だ。選挙制度が一院制の比例代表なので巨大政党ができにくいという特徴がある。イギリス統治時代からある制度を基にしているようなのだが「イギリスの陰謀」ではないようだ。イスラエル議会はクネセトと呼ばれるのだが、多様な人たちが少数政党を作って話し合う。内閣も多数決だという。イスラエルは世界各地からきたバックグラウンドが異なるユダヤ人によって作られた国家だ。そんな国をまとめるにはいろいろな人たちの貢献が必要だったということなのかもしれない。

ところが、独立後に国づくりに貢献した旧世代のシモン・ペレス首相がパレスチナ系の反発を抑えられなくなった。その反動として強い首相であるネタニヤフ首相が誕生した。もともとあったアラファト議長との融和路線が否定され対立に転じたわけである。当時ペレス首相はノーベル平和賞も取っているのだが、その数年後には首相の座をネタニヤフさんに奪われてしまった。

イスラエルでは首相公選制が敷かれたようだが、今はなくなってしまっている。政治制度を操作しても強いリーダーを社会が扱うことができなければその制度はやがて設計した通りに暴走しだすということになる。もう少し詳細に考えれば制度と文化がマッチしないと暴走するということになる。そしてたいていの場合、文化が当事者たちに意識されることはない。

途中経過を見ていないのでなんともいえないのだが結果的にはネタニヤフ首相は汚職容疑が何度もささやかれるようになり、疑惑を追及されないためには首相でい続けなれけばらなないということになった。これが返って閣内協力者の離反を招き膠着状態に陥った。日経新聞によると「在職中の起訴は初めて」なのだそうだ。

日本の場合も経緯は違っているが実は同じような道をたどっている。もともと自民党というのは派閥の共同体である。つまり強いリーダーを作らず派閥ごとの譲り合いで首相を決めていた。ところが自民党が国民からの支援を失うと内部がまとまらなくなり一部の派閥は外にで別の派閥は他派閥の利権を奪うような動きに出るようになる。こうして「多数派の融和」が「決められない弱腰である」と評価されるようになると、強いリーダーシップが求められ戦後初の安倍首相が誕生した。

保守傍流を勝利に導いたのは小泉首相なので安倍首相はその受益者ということになる。さらに官邸主導型の政府を作り一定の成功を収めた。

最初こそ調子よく見えていた安倍首相だが次第に無理な政権運営が目立つようになる。国会答弁は嘘だらけになり資料も隠される。最終的に行き着いたのが「花見騒動」だが実は何でもよかったのだろう。あまりにもわかりやすい形で彼らのお友達優遇が可視化されてしまったので大騒ぎになっている。冷静に見ていると安倍首相が好き放題しているというよりお友達が暴れているようだ。安倍首相はどちらかというと「私の内閣の統制が取れていない」という感じになっている。最近では菅官房長官すら疲れていて、自身が問題を否定した後に官僚が肯定する答弁をするというように無茶苦茶になっている。

有権者の一部も野党も政権は取れない。だから自分たちのやりたいことはできない。その代わりに彼らが一番やりたいこと(憲法改正)をやらせないという「意地悪戦略」は使える。これが我々の日本社会が持っている文化的コードである。日本人は意地悪による縛りあいに慣れており、強いリーダーには慣れていない。私たちの作ってきた「政治主導」というプログラムは意地悪が好きという文化的OSに乗って、実は設計どおりに動いている。

  1. 危機
  2. 強いリーダーシップ
  3. 反発
  4. 膠着

文化コードが違う韓国では対立が永遠の報復合戦に発展する。韓国の場合は朝鮮民主主義人民共和国と対峙するという危機から強い軍事政権が作られ、その反発から出てきた革新勢力が10年ごとに政権を分担するというような感じになっている。政権を取った側が強い検察力を使って相手権力の残滓を破壊するというようなことが延々と繰り返される。さながら二つの王朝の報復合戦である。南米でも保守軍事系政権と革新系政権が永遠の報復合戦を繰り広げるということはさほど珍しくない。

日本にも首相公選制の議論がある。経済的な衰退と中国の台頭が危機意識になっていて、反動として力強いリーダーを望むのだろう。官邸主導や政治主導というのもその一環だったのかもしれない。ただこの制度はたとえ導入されたとしても政治的膠着を作るだけだろう。強いリーダーに権力を委託するという習慣がない社会における強いリーダーは軋轢をうむのだけなのである。日本には協力をして一つの大きな塊を作ろうという文化的背景がないからなのだろう。

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学校に一人一台のパソコンは必要か

自転車の修理をしていて新しい理論を思いついた。植物の生育にチッソ・リンサン・カリが必要なように、物事を体得するためには4要件が必要であろうという画期的新理論だ。






あるいは他の誰かがすでに提唱しているのかもしれないが、別に同じことを新たに思いついてもよかろうと自分を無理やり納得させている。「自転車の話」で思いついたのは3つだったのだが新しい要件を加えた。

  • アローワンス
  • サポート
  • リソース
  • モチベーション

さて、理論ができるとそれを使って問題を解いてみたくなる。そこで学校にPCを一人一台置こうという政府の提案について考える。Quoraで出されていた問題である。

この問題を考えると「政府はまたNECやFujitsuあたりと組んで利権拡大を狙っているのでは?」などと疑って、それに添った回答を書きたくなる。そこで「反対!」となってしまうのである。だが、実際にはどうなんだろうか。理論を使って検証してゆく。

今回の理論を使うと「リソースは多いほうがいい」ので一人一台PCをおいたほうがよく、それは「壊れても構わない程度のものである」ことが好ましい。アローワンスを確保するためである。実際にはイギリス製のワンボードのPCが進化していて3,000円程度で手に入れられるものも出ている。ChromebookとAppleが教育PC市場を争っているという話もあり、実は意外と品揃えが良い市場だ。

旧来のパソコンの授業は課題を提示して「これをやってみましょう」というものだろう。言われた通りに組んで行って「あら動いた!」「あら良かった!」ということになるはずだ。これで「プログラミングをこなした」として次に進んで行くわけだ。

しかし、プログラミング実務は「正解がない」ものを組んでみて「動かない」といって直すところから始まる。最初から動くプログラムはほぼないと言って良い。つまりロジックを考えるところよりも間違い探しのほうが仕事量としては多い。だからデバッグをやったことがないプログラマーは現場で早くに立たない。

この間違える体験をするためには「思いついた時」に「思いついたこと」を試せる環境が必要である。だから個人が使える端末があったほうが有利なのであり、それは安価に手に入る。最近は3,000円から4,000円程度で使えるパソコンが出ている。5ドルコンピュータという触れ込みで作られたラズベリーパイというコンピュータがそれである。ラズベリーパイはソフトウェアだけでなくハードウェアも実習で組みたてることができる。

このフレームでは「リソース」は一人一万円程度(ちょっと多めに取った)のパソコンで、アローワンスは「まあ壊してもなんとかなる程度の気楽さ」である。

ところがここに一つ足りないものがある。それがサポートだ。やる気のある生徒(このやる気だけは外から操作できない)は自分でプログラミングを考えてやってみるだろうがプログラミングを壊してしまったり、あるいは環境を壊してしまうこともあるだろう。これを修復できる「適度なアドバイス」ができる大人=先生が必要なのだ。ただ、現在の教育現場の現状を見ていると、そもそも時間が足りず、さらにプログラミング知識(Linuxを直せる程度の知識が必要)を持った教員もいないのではないかと思う。

実はパソコンにお金をかけるのではなく教員養成にお金をかけたほうがいい。だが、これが実現しない。企業と政治家が儲からないからである。つまり人に投資しても見返りがないから投資しないというのが日本の大問題なのだ。

実際には支援する先生が足りずに「そんな面倒なことをするな」とか「言われたことだけをやっていればいいんだ」ということになりがちだ。生徒は失敗ができないのでコンピュータについて十分に学ぶことができない。これは日本の政治議論が荒れる原因にもなっている。失敗しながら学級運営を学ぶ余裕がないので自治経験がない学生が大量に排出されてしまうわけである。日本の教育が「自分で考える人材が育てられない」理由は先生に余裕がないからだ。生徒目線に立つと「支援」が少ないのである。

感情論を排して問題を分析するのは実に簡単なのだが、多分日本の政治はもうここまでたどり着けないだろう。今の日本の教育制度で育った人たちが自分で考えるのは無理である。

頭の中に「とにかく教育を利権化しなければならない」というある種の必死さがある。また、国産メーカーも個人にパソコンを売るのを諦めているので「国の力でなんとか教育現場に浸透したい」と思っている。いわば「教育版桜を見る会」ができてしまうわけである。桜を見る会で問題だったのは「不満も溜まるがリソースは常に足りなくなる」ことだった。恐る恐るこっそりと私物化をするのでどうしても出し惜しみが生じるのである。おそらく誰も満足しないシステムになってしまうのだろう。

「パソコンを一人一台」というのは政府のIT教育に対するコミットメントとしてはいいと思うのだが、経済にも政治にも余裕がない。そこで「確実に搾り取るためにはどうしたらいいか」というような議論になる。却って教育現場を疲弊させ国の競争力をそいでしまうのである。アローワンスのない社会はアローワンスのない議論をうみ、それが社会の余裕をなくす。アローワンスの縮小再生産である。余裕のない社会は余裕のない子供を育て、それが余裕のない政治家と有権者になって社会を蝕むのである。

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自転車修理と政治

Twitterの政治議論にうんざりしており「議会政治の終わりだ!」みたいなことばかりを書いている。と同時に「そんなことばかりを書いていても意味がないんじゃないか」とも思う。そんななか自転車を修理していて「政治議論に足りないのはこれだな」と気がついたことがある。今日はそれについて書きたい。






定式化するとポイントになるのは次の3点だが、なんのことだかわからないと思う。

  • アローワンス(余裕)
  • 適切なサポート(支援)
  • リソース(資源)

自転車を放置してある。1年ほど前にパンク修理をしたのだがまたチューブが破れてしまったようだ。やってもやっても壊れるので、ついに嫌になって放置してしまった。半年ほど乗らなかったのだが気になって仕方がない。ついに意を決してパンク修理をしようと思った。そこで取り出していろいろ調べているうちにブレーキケーブルが切れてしまった。

気持ちも切れた。

インナーをブレーキにかませてやる。あまりやり直しをしすぎるとかしめたところが弱くなるそうである。

Vブレーキを外し「もう捨ててやる!」と思ったのだが、まだなんとなかるかもしれないと思っていたのだろう。一応自転車屋に話を聞きに行った。

不安な面持ちで見積ってもらった。「全部で8,000円ほどかかる」という。捨てるのは1,000円だそうだ。不安になるのは自分で自転車の仕組みがわからないからである。全部自転車屋の言い値になってしまうのでいちいち不安になるうえに、まだなんとかなるのではと思ってしまうのだ。

失敗したら捨てればいいんだからまずはやってみようと思った。車輪を外すことから始めたのだが、これすら一人で自分でできないと思っていた。レンチが必要だったが簡単に外れた。「ああ簡単に外れるんだ」と思った。ただ、道具は必要だ。

さらに運もよかった。次に対応してくれたのは店長さんが良かったのだ。「インターネットを見ればなんでもできちゃいますからね」などと口は悪かったが、必要なことはちゃんと教えてくれたのである。ただ「素人だしわからなくてもいいや」と思われたのかあまりしつこくは言わなかった。後から考えると「口数は少ないが必要なことだけ教えてくれる」人はとても重要だった。

劣化したアウターを持って行くと自転車屋で切ってからアウターをつけてもらえるので、アウターを持参すること。これは古いアウター。

外したタイヤチューブを持って行くと、チューブ代は1000円だと言われた。劣化するとパンクしやすくなるそうだ。まあ当たり前の話ではある。まあ1,000円くらいなら出してもいい。

持って行ったワイヤのカワを見せると、ワイヤー(内部・インナー)と外のカワ(アウター)を合わせて700円だと言われた。アウターワイヤーは一定の長さに切って終端子をつけてもらわなければならない。これはサービスでやってくれるそうだ。

最初に見積もられた時には「うーん、自分でやるのは難しいかなあ」などと言われたのだが、とにかく最初から持って行けばよかったのである。さらにインナーは最後に自分で切ってキャップをつけなければならないという。ネットでは専門工具が必要と書かれていたが「ペンチでも切れますよ」という。

インナーに取り付けるキャップ。これがないと次第にワイヤーがほつれてくるそうだ。
先に切ってしまうとアウターに通らなくなるので、まず通してから切ってキャップをかしめる。「ワイヤーはためらわずに切ってください」と言われた。ためらってバラバラになるとキャップがはめられなくなる。

口数の少ない店長のアドバイスは言っていることがさっぱりわからない。できるところまでやってみてできなかったら相談してみようと思っていた。

ところが通してみたら意外とすんなりと通った。Vブレーキも変えなければならないと思っていたのだが、つけてみたらなんとか使えるようである。

さらにアドバイスが要所だけを押さえていることもわかった。ペンチではやはり切るのが難しい。だんだん切り口がほつれてくる。それでも思い切ってやることでほつれを最低限に抑えた。そうしないと終端キャップがはめられなくなるのである。

多分、ここまで書いていて自転車を知っている人は「何を言っているのだ」と思うのではないかと思う。それくらい簡単なことである。しかし、やってみなければイメージすらわかないことが多い。自転車屋がいろいろ言っている注意点の意味はさっぱりわからなかったのだが、やっているうちに「ああ、これね」とわかることが多かった。最初のお兄ちゃんは「特にVブレーキはバランスの取り方が難しい」と言っていたのだが確かに難しい。Vブレーキの部品もバネがダメになっているので替えたほうがよさそうである。とにかく外し方・付け方と費用はわかった。

ここでまとめると次のようになる。

  • やったことがないと不安になる。不安になると疑心暗鬼になる。しかし、やると失敗する可能性があるので「失敗してもいい自転車」が必要だ。
  • ネットだけでは全ては解決できない。経験を積んだ支援者が必要だが、口うるさくいろいろ言わない人のほうがいい。
  • さらに必要最低限の材料と工具が必要である。つまりリソース(お金)が必要だ。

自転車は完璧には修理できなかったので「意味がない」のかもしれないのだが、どういう仕組みになっているのかということはわかった。

それとは別に、何でも「リソース・サポート・アローワンス」が重要なんだなということに気づけたと思う。つまり、失敗しても誰かがなんとかしてくれるという環境で必要なリソースを割り当ててもらいながら自分でトレーニングしないと技術を習得することができないし、情報も評価できないということである。

例えば、自分で組織をマネジメントするなどというのは技術の中では一番難易度が高い。日本は効率的な学校運営の観点から生徒・児童に自治的な活動をさせない。課外活動でマネジメントを学ぶ子もいるだろうが、最近は忙しすぎて失敗もできないために全くマネジメントを学べないまま大きくなる子供がたくさんいるはずである。つまり、リソースも援助も少ない状況にあり、そもそも失敗ができない。

そんな中で人々は氾濫する情報に曝される。世の中には政治課題に関する話題・評価・意見が溢れている。まったく自治経験がないのに情報だけがたくさん降ってくれば、それは不安になっても当然だなあと思った。そして、その不安から怒り出す人も多いのだろう。定年退職して「部下がいます」くらいの人の中にも政治的定見のない人は多い。日本人がいかに組織マネージメントと縁遠い暮らしをしているということがよくわかる。効率のなのものとにとにかく何もさせない社会なのだろう。

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