ざっくり解説 時々深掘り

時代とともに移り変わるべき大嘗祭

令和に代替わりして初の新嘗祭である「大嘗祭」が行われた。Twitterで島田裕巳さんが大嘗祭を経ない天皇は「廃帝」とか「半帝」と呼ばれたと言っていたので「例外を除いては大嘗祭をやってきたのだろう」と思っていた。ところが調べてみると大嘗祭はずいぶん長い間中止されていたようである。大嘗祭ができなかったのは天皇家が徴税権を失ったからと考えられる。徴税するためには税を収めるネットワークが必要だが、日本は内戦状態にありでこれが壊れてしまったのだろう。応仁の乱以降江戸時代まで復活しなかった。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






まず半帝と呼ばれたのは仲恭天皇だった。仲恭天皇というのは後付けの名前だそうだ。幼没した安徳天皇も行っていないのではないかと思ったのだが、平清盛のバックアップで行われたようである。この安徳天皇の大嘗祭からその意味合いがわかる。つまり日本人にとっての税とは神社への供え物と同じなのである。税を収める理由が天皇しかないので、その天皇に変わって「税を徴収してあげる」というのが日本の統治者の理由付けになっているということになる。

大嘗祭はかなり政治的な意味合いを持っている。日本の政治は合理的なルートで理解されてこなかったということになる。神の子孫を怒らせれば神を怒らせることになる。当然災いが降りかかるのだが神の代理以外はそれを鎮めることができない。現人神信仰である。信仰がなんとなく現実的な統治や徴税と一緒くたになっている時代が長かったということだ。第二次世界大戦までその状態は続きやがてアメリカから「カルト扱い」されて政治から無理やり切り離された。

1466年に最後の大嘗祭が行われその後中断した。復活したのは江戸時代のことだそうである。産経新聞だけを読むと「江戸幕府が天皇家に対するスポンサーシップを示すために大々的に行ったのでは?」と思える。安定の産経トリックである。

当時の幕府は、国内統治に儀礼を重視しており、1687年、東山天皇の大嘗祭の挙行を認めた。続く中御門天皇の即位の際には行われなかったが、その次の桜町天皇から現代まで続いている。

天照大御神から伝わる重要祭祀「大嘗祭」はこのように行われる

ところがWikipediaには全く違った話が書かれている。江戸幕府は二重権威を嫌い大嘗祭の復活を嫌ったが、上皇が江戸幕府の管理から外れて強行したということになっている。これをみると霊元天皇が天皇家の権威を示すために東山天皇を使って権威付けのために復活させたのではないかと思える。

貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)へ譲位し、太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いたことに加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇が同様のことを行うことを許す考えはなかった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。

霊元天皇(wikipedia)

この霊元天皇の話を知ると、このタイミングで秋篠宮皇嗣殿下が2018年11月に「私費でやりたい」といった意味も違ったものに感じられる。27億円という政府の天皇家に対するスポンサーシップが却って政治的に利用されかねないという危惧もあるのだろう。秋篠宮の「身の丈」が何だったのかというのは今でも議論の対象になっているが、善意に解釈すれば現行憲法で切り離された徴税権(つまり統治)の議論には触れず、国の安寧を祈るという古代の役割に専念したいという気持ちの表れなのかもしれない。つまり現行憲法によって統治原則は合理化されたのだから、天皇家は合理的ではない「気持ちの部分」だけを担当したいのだということになる。これは上皇陛下が統治時代になさってきた「象徴天皇制」のあり方と一貫するものがある。

ただこのメッセージを政治側が受け取ったとは思えないし、おそらくは理解もされなかったのではないかと思う。彼らは天皇権威を利用することだけに関心があり、おそらくは祭祀の存続には全く興味がないだろう。一部の識者は、最後の男系男子が定年するくらいまでは引き伸ばせるのでは?などと言い出しているそうだ。

江戸時代には天皇家の行事として簡素に行われていた大嘗祭だが明治に入って「天皇中心の世の中を作る」という決意のもと大掛かりなものになってゆく。実際に大掛かりなものが行われたのは大正時代からなのだそうだが、昭和でも大々的に行われやがて天皇権威が軍部の正当化に利用されるようになった。今でも天皇権威を背景にして統治者気分に浸りたい人たちがたくさんいる。秋篠宮の提言はそうした思惑にかき消されてしまった。一方日本人も大嘗祭について深く考えることがなくなった。マスコミでは「古の謎の儀式」と大嘗宮の豪華さにばかり注意が集まっていた。つまり天皇家を生きて変化しつづける伝統でなく、歴史や文化遺産の領域に押し込めてしまったのである。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です