氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。

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ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか

ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。




これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。

小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。

まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。

次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。

これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。

すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。

  • 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
  • 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。

この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。

さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。

これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。

一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。

この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。

ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。

だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。

さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。

おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。

だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。

最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。

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Whataboutism(お前はどうなんだ主義)とアメリカ

トランプ大統領の治世下でトランプ大統領を支えてきた人たちの景気が悪くなっているという。ITと金融は絶好調だそうだがエネルギーと製造業(製鉄や自動車)などは落ちているという。日経新聞が伝えている。




これが何を意味するのかはよくわからない。ジリ貧の産業がトランプ大統領に頼ったとも言えるし、トランプ大統領の保護主義的な政策がうまく行かなかったんだとも考えられる。つまり単純にトランプがかかわったから悪くなったとは言えない。因果関係は明らかでないがおそらくは「動的に」相関しているという感じである。

この構図は日本でも見られる。日本では地方ほど自民党を応援してきたが地方振興策はうまく行かず一極集中が続いている。「自民党を応援しなければ賃金が上がるかもしれない」という層の人たちが熱心に支持しているということもある。つまり、政治が評価できない人ほど政治に依存し、依存すればするほど経済は悪くなる。だが依存を始めた経済はそのままその政治にしがみつき説得を試みる人たちを攻撃し始める。

こういう人たちが使う手法が論点のすり替えである。日本ではブーメランと言われる手法だ。

日本経済のみならず経済は高いところから低いところに水が流れるように動いていると考えてみよう。この流れは国際的なものであり、おそらく国単位の政治では変えることはできないのだろう。日本では東京でありアメリカではITと金融に当たる。構造が変えられないとすれば、我々ができることは実は水の流れに逆らわずに泳ぐことだけなのかもしれない。

トランプ政権は「その水の流れを変えられる」と言っている。安倍政権はすでに変えたと主張した。だが、おそらくそれは本当ではない。

では、対抗勢力はどうなのだろうか。対抗勢力なら水の流れは変えられるのか。アメリカの民主党は金融とITに制限をかけると言っているそうだ。

一方、野党・民主党の左派候補は巨大IT企業の解体や、銀行・証券の分離など金融規制強化を迫る。現在は好調なハイテク・金融業だが、政治と無縁ではいられない。

「失速」トランプ4業種 保護政策でも雇用・利益減少

さらに色々考えてみて「政治=浮き輪論」というのを思いついた。

長い間泳いでくると疲れて溺れそうになってくる人が出てくる。それを助けるのは政治の使命である。ところが政治は浮き輪を選択的に投げる。つまり受け取れる人と受け取れない人が出てくる。だから人々は政治をちらちらと眺めている。浮き輪を受け取った人は岸に泳ぎ着いたら休んで再び泳がなければならない。だが実際には浮き輪に捕まって泳ぎ方を忘れてしまう。政治は泳ぐ力を奪っている。だが「浮き輪」が悪い訳ではない。単に使い方が間違っているのだ。

だが、アメリカ民主党の方は「順調に泳いでいる人がいるから、彼らの重りを乗っけよう」と言っている。つまりみんなで溺れようと言っているのである。さらに候補者が乱立して罵り合っている。日本の民主党はさらにひどい。党内が分裂して政党が消えてしまった。

ただ「浮き輪のたとえ」では細かなところがよくわからない。さらにアメリカの製造業が置かれている状況を見てみよう。かつて花形だった航空機産業である。

例えば最近ボーイング社が生産停止を発表した。当然工場は閉鎖され仕事を失う人が出てくる。ボーイング737MAXが事故を起こしたが、そのあとの対応ができなかったらしい。2019年4月には生産体制がずさんになっていたという記事も出ていた。業績を優先するあまり製造現場の管理がずさんになる。だがその被害を受けるのは結局製造部門の人たちである。

ボーイング社がなぜ競争力を落としたのかはわからないが、おそらくトランプ大統領のせいではない。経営陣も製造現場の人たちも政治に依存するのだろうがそれは一時しのぎにしかならない。お互いに協力も自助努力をしなくなった業態は価値を生み出せなくなりますます落ちてゆくことになる。

最近トランプ大統領は宇宙軍を立ち上げた。実際の脅威にはなっていないのだが、おそらく航空機産業を助ける効果はあるに違いない。そしてそれは端的に言って税金の無駄遣いでもある。

一方のロッキード・マーチン社も政治に頼っている。最近F35が問題になっている。政治力に頼って日本に割高の戦闘機を買わせているようだが「多少競争力がなくても政治が買ってくれる」と考えれば彼らは自助努力をしなくなるだろう。

日本でどのようなことが起きているのかはわからないが、日本でもおそらくは様々な業態の人たちがお互いに話し合うのをやめて「魔法のような解決策」を政治に期待するようになるのだろう。ただ、それが何なのかということは近すぎてよくわからない。

政治に頼って泳ぎ方を忘れた人たちは、明らかに無理とわかる解決策に頼ることになる。するとその浮き輪を巡って不毛な議論が盛んになる。

主要英語辞書が今年の言葉を発表した。環その中にwhataboutismというものがあった。日本語で検索すると、批判を受けた人が「別の問題を持ち出して」「お前こそどうなんだ!」と非難することをwhataboutismというそうである。日本でも政権が批判されると「ブーメランだ」と攻撃仕返し、結局何も解決しないことがあるが、アメリカでは最近トランプ支持の人たちが使うようになったそうである。現実を見たくないしみられないという人が増えているのである。

そういえば日本でも「ご飯論法」というのが流行った年があった。解決策を見つけられなかった人たちがお互いを罵りつつ浮き輪を奪い合うということが、おそらく日本でもアメリカでも起きているのだろう。

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安倍政権批判でページビューが稼げなくなった2019年

最近安倍政権の批判ものを書いてもあまりページビューが伸びなくなった。かといって野党に書いてもそもそも反応がない。これはどういうことなんだろうか?と考えた。




もともとこのブログは読んだ本の感想などを書いていた。今でもその名残が残ってていて初期の頃は食パンなどについての記事が残っている。最初は「日本が成長を目指すためにはイノベーションを加速すべきだ」などということを書いていたのだがさっぱり読まれなかった。権威がある人の正解しか読まれないのだろうと思っていたのだが、おそらくは成長やイノベーションそのものに需要がないのだろう。そのうち「政治」について書くとページビューが伸びることがわかった。この間に数年経っている。

この時点でわかったのは「キレイゴト」を信じている人はいなくて、ひたすら誰かを非難したい人が多いということだった。食パンの記事が2008年のことであるが、エントリーを見返してみたら、政治について書くようになった時にはすでに民主党政権は終わっていた。民主党政権の失敗で語られることがない側面だが今の日本人はおそらく成長や変革には興味がない。つまり民主党のいう改革には需要がなかったのだ。

ところが安倍政権がこうした鬱屈を総括しないまま政権に返り咲いたことで政権への反発心に需要が生まれる。結局、矛盾や将来不安を民主党政権に転嫁しただけだったからだ。

安倍政権は改革の失敗の後に生まれた政権である。本質的には日本は何も変わらなかったのだが、民主党の改革を非難することで安倍政権に関する批判をかわした。

最初にデタラメが露呈したのはアベノミクスの三本の矢だったのだが、集団的自衛権に関する議論ではさらなるデタラメが横行した。これがだいたい2014年のことである。アメリカの要求に対して自国の立場を説明するのに疲れた安倍政権が勝手に憲法解釈を変えてしまったのである。

さらにアベノミクスも総括されないままでデタラメがエスカレートしてゆく。単に日銀に国債を引き受けさせることを経済政策と言っていたのだが成長戦略は不発なままだった。ところがそれを反省しないで新三本の矢と言いだした。これが2015年である。これは企業・消費戦略(という名のバラマキ)を医療・子育てなどの福祉に拡大させますよというものだった。のちにこれが消費税論議と結びつけられ高等教育の無償化につながってゆく。

2016年には森友学園問題が露呈した。首相夫人と親密な関係にあった学校法人が2013年頃から国有地の価格について法外な要求をしていたことが明るみに出たという事件だった。これが露見すると政府は野党側にまともな説明をしなくなった。2017年になると首相と親密な関係にあるお友達だけに戦略特区を使って新しい獣医学部を作ってあげようとしたということがわかり国会審議が滞った。

もともとデタラメな経済政策でバラマキの原資を増やし問題を先送りにし、デタラメな憲法解釈で国会を翻弄し、そのあと身内優遇が露呈すると今度はまともな説明をしなくなった。次第に官僚の資料や記憶がなくなったりすることが増えていった。だが国民は怒らなかった。

国民が民主党政権に期待したのは自分たちが変わらずとも官僚の悪事が暴きだされれば問題が解決すると民主党が約束したからだ。安倍政権が支持されたのは「民主党が言っていたことは全部嘘で問題などなかった」と言ってくれたからである。

この間、割と安倍政権について文句を言っていればそれなりにページビューを稼ぐことができた。人々の間に「かつて機能していた政治」という記憶がありそれがあからさまに否定されてきて腹を立てたのだろうと思っていた。だが、おそらくそれは違っていたのではないかと思う。厳しい言い方をすれば偽りの改革心を持っていたことも認めたくないし、それが破綻したことも認めたくなかったのだろう。だが心配することはない。誰も自分では動きたくない。その姿勢は一貫している。

安倍政権のデタラメぶりはますますひどくなっている。だが、それは有権者の期待に全力で答えているだけの話である。つまり誰も変わりたくないのだが衰退は現実なので、誰かがごまかさざるをえない。安倍政権とはつまりそういう現象である。

今回のIRの件などを見ているとさらに利権獲得のためにはなりふり構わぬ権力闘争が起こっているのだということがわかる。だが安倍政権に対する怒りは収まりつつあるようだ。つまり国民は「政治がこの程度にデタラメでも自分たちの暮らしに影響はない」と知ってしまったのだろう。

だが皮肉なことに安倍政権は内部から崩れつつある。選挙で負けるかもしれないという恐怖心だけが自民党を一つにしていた。その重しはないとなると政治家たちは好きなように権力闘争を始めるのだ。

ということで次のネタを探さなければならないのだが、おそらく鍵は「正解」にあるのだろう。安倍政権に7年間怒り続けてきた人たちは政治には正解がありそれが安倍政権によって乱されたことに怒っていた。だが次第に正解がないことはわかりつつある。つまりもともと政治というのはデタラメなものなのである。人々が自分たちの正解を模索しようということにはならないだろうからしばらくはこのデタラメな情報をどう読んで行くかという指針が求められるはずである。

おそらく人々が自身の正解を模索し始めるのはそのあとになるのではないかと考えられる。

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IR関連の逮捕劇は安倍後を見据えた与野党再編の闘争の始まりである

IR関連で秋元司議員が逮捕された。現職国会議員が逮捕されたのは10年ぶりだなどと言っていた。このニュースを聞いているといろいろわからないことが出てくる。そこで陰謀論を導入してみることにした。こういう根拠のないことは普通の政治系コラムではできないだろうという自信はある。陰謀論を検討すると見えてくることがある。それは中国の力を利用して政権を取りたいという人たちの影である。つまりIRは実は本質ではないのである。




陰謀論に入る前に、IRの認識を確認しておきたい。やはり多くの政治家には「ギャンブル」と捉えられている。政治家たちは「日本が成長するには合理的な判断を狂わせてお金を搾り取るしかないと考えているのだ。だから日本の成長戦略の柱は資源でも製造業でもない。人を育てて科学技術立国でやってゆくなどと思っている政治家はいない。だからIRが政治闘争を生み出すきっかけになる。オリンピックで偽りの一体感を演出した後は賭け事で搾り取りたい。まさに「売国的退廃思考」であるという印象を持つ。

安倍政権が仕掛けた派閥闘争である

秋元司議員は二階派である。ここでこれが自民党の派閥争いなのではないかという仮説が成り立つ。だが相関図がわからない。二階派は安倍+菅派と東京都で小池百合子都知事の擁立を巡って対立関係にある。安倍+菅派は岸田派と広島で対立していて、二階派・岸田派・安倍+菅派は福岡で麻生派と対立しているところもある。地方で内戦状態になっていると言える。

安倍政権が仕掛けたというシナリオもいったん崩れたかに見えた。秋元さんが逮捕されてから別の議員の関係先にも捜索が入ったからだ。勝沼栄明前議員はもともと中国との関係を重視する二階派だが。白須賀貴樹議員は細田派でありつまり安倍首相のお膝元である。つまり、派閥抗争であれば二階派だけが捜索され細田派は無傷でなければならない。

窪田順生さんという人がダイヤモンドオンライン上で、安倍・麻生派閥が菅・二階派閥に対して仕掛けたという説を「噂だけどね」と唱えている。窪田さんはもともと写真週刊誌のライターさんのようだ。つまり、ここでは官邸に安倍さんに近い人たちと菅さんに近い人たちが別々に存在するということになっている。田崎史郎さんはなぜか自信ありげに「秋元さんはいかにもやりそうな人だったが細田派の議員は歯医者さんでお金には困っていない」と言っていた。

実際に秋元さんの時には入念に情報が出ていたが、今回の捜索は突然だった。「一応改めたが何も出てこなかった」という儀式かもしれない。今後の展開が注目される。

中国とアメリカという図式

これとは別の見方がある。それは中国企業に日本政府からお金が渡るのを阻止したい人たちがいるのではないかという見方だ。

東京地検特捜部が出てくると「脊髄反射的に」アメリカとの関係が噂される。

東京地検特捜部がよく知られているのが田中角栄元議員の「粛清」である。もともとロッキード事件はアメリカの議会で暴露された話からはじまっているが東京地検はロッキード社を捜査することはできなかった。田中角栄は「サウジアラビアと直接交渉しようとした」ことでアメリカの虎の尾を踏んだといわれたそうである。これもダイヤモンドオンラインで窪田順生さんが書いている。窪田さんは陰謀論の類が好きなのかもしれないし、他に書ける人がいないのかもしれない。

東京地検特捜部の前身は隠匿退蔵物資事件捜査部だそうだ。戦争で儲けた資金が政界に流れるのをGHQが止めた。そしてGHQは自分たちの息がかかった人に資金提供し現在の政治体制が作られている。東京地検特捜部は最初から政治的な存在だったのである。

最近では西松建設事件などが記憶に新しい。この時は二階ルート(自民党側)・小沢ルート(民主党側)などと言われた。この時も「特捜部が動いたということは彼らがアメリカに潰されたのだろう」などと噂された。

安倍後を見据えた与野党再編

この話をノンフィクションライターの空想だろうと一蹴できない情報がある。野党側を中村喜四郎がつないでいるという。中村喜四郎さんといえば建設大臣当時に逮捕された事件が記憶に残る。この事件は、金丸信自民党副総裁の疑惑が発端になっていて、建設大臣・茨城県知事・宮城県知事・仙台市長が逮捕されたそうである。中村さんは建設大臣だった。

自民党を離党したまま二階派に所属していたのだが、なぜかここを離れて野党の一員になっている。そこで共産党を巻き込んで野党共闘に動いていたという。この動きはウィキペディアに書いてあるのだがなぜ二階派を離れて野党に行ったのか合理的な説明はない。

ここに「二階さんが中国利権を背景に野党を巻き込んで親米自民党に対抗する勢力を作ろうとしている」のだという陰謀論を導入するとすらすらとよみとけてしまう。つまり、野党再編は中国の影響力を背景にした自民党の権力闘争だと読み解けばいいのだ。中村さんが「本当の意思を隠して共産党を含む野党に接近している」と置けば面白いスパイ物が作れる。

安倍政権は中国との関係を重視していて中国の国家主席を国賓として招く予定である。これは明らかに自民党の中にいる「親中国派」への気配りだろう。中国も安倍さんが気に入っていて今回の成都での会談の際も文在寅大統領と格の違いをつけて(文在寅さんは大統領なので本来は首相よりずっと格上だ)厚遇したそうだ。この関係を橋渡ししたのが誰かはわからないが、親中国派の人たちの国内での活動は一定の成果を見せていると見ていいだろう。

だが自民党の中にこれが気に入らない人たちもいる。「ネットで活躍の人たち」が抗議文を送るのはまあ可愛い活動だが「ガチな」人たちもいる。つまり対日工作だというのだ。

IR利権の一部を中国に渡すとなれば、アメリカの人たちの機嫌を損ねるのに十分な条件が整っているということになる。中村さんの動きと合わせて考えると、与野党再編を背景にして「二階さんと小沢さん」という組み合わせも考えられる。つまりアメリカを背景にした人たちと中国を背景にした人たちの争いである。

今回の件で習近平さんへのお土産は一つ減ったと見ていいだろう。

長期停滞という環境で安倍政権は少なくなった利権を分け合おうとしてきた。ところがカジノという(彼らにとっては本物の)利権が出てきたことで本来の性質が覚醒したのかもしれない。安倍政権は意外と危ない橋を渡っているといえる。

このことから政治家の人たちは権力闘争というギャンブル要素が強い世界を生きているのだということがわかる。賭けに使われているのは我々の生活で、彼らがチップのようにやりとりしているのは有権者一人ひとりの票なのだ。

やはりIRは中止したほうがいいと思う。

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政治的中立性とは

先日「Quoraは政治的に中立か」という質問を見つけてずっと気になっていた。似たような質問に「中立な新聞が読みたい」というものがある。前提として政治情報というのは中立でなければならないという思い込みがあるらしいのだが、この「中立」にどうにも違和感がある。最近、早稲田大学の近藤孝弘教授が書いた「日本の若者の「政治ぎらい」と〈政治教育〉の深い関係」というエントリーを読んで違和感の一部が解けたような気がした。中立ではなく正解だとわかったのだ。つまり「どの新聞が正解ですか」と聞いているわけである。




ワイマール共和国は民主主義を受け入れない人たちに支えられた民主主義国家だった。その失敗から学んだ西ドイツの教育現場では政治に意見を持って議論参加することが要求されるようになった。つまり西ドイツでは民主主義という制度を学ぶだけでは民主主義は機能しないと考える。また、政治について学ぶ政治教育と政治議論は分けて考えられる。

そんな中で生まれたのが、対立する問題は対立する問題として扱うべきだという「ボイテルスバッハ・コンセンサス」である。Wikipediaから参照した。

  1. 圧倒の禁止の原則。教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2. 論争性の原則。学問政治の世界において論争がある事柄は、授業においても議論があるものとして扱う。
  3. 生徒志向の原則。生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない。

この二番目と三番目にあるように「教師は対立点を紹介し生徒に意見を持つべきだと促す」というのがドイツ流だそうだ。教師が自分の意見をいう場合もあり、意見が片方に傾いたとき対立意見を言ってみることもあり、対立点を提示するファシリテータとして機能することもある。先生がどう対処するかは場合によって異なるのだが、先生もまた意見を持っている。つまりそれぞれが意見を持っていることが期待されそれらの意見を公平にあつかおうとするわけである。

ところがこうした伝統がない東ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)のようないわゆる右翼ポピュリスト政党が「教員が自分たちの政党に批判的な政治的意見を持つこと」に対して否定的な見解を示すことがあるという。先生は偏っていて「政治的な中立性を損なっている」というのである。

この文章から読み取れるのは、政治的な中立性はドイツでも期待されてはいるが、それは日本とは異なっているということである。日本では意見が分かれる問題は「あえて触れない」という同調性が重んじられることが多い。つまり中立な意見というのが「みんなと同じ意見だ」と理解されている可能性がある。つまり世間一般の正解を中立と言っているのである。

西ドイツ領域ではそれぞれが意見を持っているのは当然であり、それは偏りではなく主体性と位置付けられる。一方AfDに代表される東ドイツでは日本と同じように自分たちの意見が中立でありそれに逆らう意見が「偏っている」とみなされることがある。東ドイツは長く社会主義を経験している。指導政党の意見が「ドイツの正解」だった時代が長い。

日本人が「政治的に中立な意見が聞きたい」という場合、正解が知りたいと考えることが多いのではないかと思う。例えば、原発設置には反対の声も強いが実際に存在している。そこで日本人は「どっちが正解か」ということを知りたがる。中立な意見が読みたいというのは誰かが決めてくれた正解が読みたいというのと同じことだ。世の中の趨勢が原発維持であればそれに従っておくのが無難である。逆に原発反対を表明してしまうと「変わった人」と見なされて世間から浮いてしまう可能性がある。

現在の新聞は右と左にわかれていてお互いに対立しているように見える。正解がないという状況に戸惑いが生まれて「みんなの正解が知りたい」と考え「政治的に中立なメディアはどこですか?」と聞いくるのだろうと理解できる。正解のメディアがあればそれを読んでそれと同じことが言いたいのだろう。

これはおそらく「世の中が戦争礼賛に傾けば自らも戦争を礼賛する」という態度につながる。毎日新聞が戦争を礼賛し朝日が戦争支持に転じる。そこでみんなが戦争を支持しているということになり、日本は第二次世界大戦に突入していった。

ドイツにも同じような経験があり民族の虐殺にまで発展している。ドイツは「みんなの意見に従うこと」は危険だと考え政治議論を教育の一環に取り入れているのだろう。主体的な意見を持つと偏っていると罰せられる傾向が強い日本では、自分で考えた意見を持っている人ほど「自分は孤立した少数派なのでは」と考え萎縮してしまうかもしれない。ネトウヨは自分で意見を考えられないがゆえに「自分は正解の側にいる」と考えてしまう。極めて不当なことだが政治的リテラシが低い方が却って自信を持ってしまうといういびつな環境だ。

一方、自分で考えた意見を固着させた人は過度な攻撃性を身につけてしまうことになるだろう。自分の意見に予防線をはり少しでもそれに異議を申し立てる人がいればアレルギー的に攻撃する。護憲派や原発反対派にはその傾向が強いように思える。いわゆる世間が見る攻撃的なリベラルの姿だが、そこにあるのはある種の病化した被害者意識だろう。少数派だが正解と信じる人たちの末路である。

すべての人間は偏っていて政治な正解などないということに気がつくまで、日本では誰かが正解を提示してくれるまで日本は三層に分かれたままだろう。

  • 政治に関わるのはやめておこうと考え、正解に飛びつく人
  • 被害者意識を募らせる少数派
  • 多数派の意見をコピペして少数派を攻撃する人

誰も主体者として関与する人がいない政治は魂が死んだ巨大な生き物に過ぎない。ただ単に食べ物を求めて右往左往するようなグロテスクな姿を晒して、他人を批判する咆哮を上げ続けるのである。

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「安倍政治の終わり」が長引く理由

安倍政権を見てきて「末期症状が出てきたなあ」と思うのだがそれが何なのかよくわからない。つまりなんとなく終わりの始まりのような気がするのだがそれがどんな終わり方をするのかわからないのだ。おそらくキーになるのは国民の主体者意識だと思う。




インドについて観察していて「分割統治」というコンセプトを見つけた。これは安倍政権にも使えるなあと思った。安倍政権は大臣ポストを一気に握ることで派閥の分割統治をしていたと言える。

  • 派閥に一年ごとの利権としてのポストを配布する。ポストは一年ごとなので植民地は作れない。
  • 官邸主導という名目で官僚の人事権を召し上げる。これにより官僚に新しい植民地を作らせないようにして官邸の方を向かせる。

意図してこの方法に向かったとも思えないのだが常に官邸に目を向けさせるというのはよいやり方だったのだろう。だが、おそらくはこれが機能しなくなっているのではないだろうか。それは安倍政権には統治能力と意欲がないということがバレてしまったからである。おそらく安倍首相にはもうやりたいことがない。単に首相をやめるにやめられなくなっているだけである。

そして安倍後の自民党は大混乱するだろう。

ことの発端は加計学園である。加計学園は「獣医学部を新しく作る」という許認可権をめぐる問題だった。官僚が握っていた許認可を政治が直接やろうとしたのだ。官僚は国会に対して説明責任を追わないので今までこれが政治問題化することはなかったのだが、官邸と内閣府が主導(学校は文部科学省の管轄であり獣医は農林水産省だが特区は内閣府の特区担当大臣が主管する)したことで政治問題化した。

ここから話が複雑化する。これまではポストという名誉だったのだが、これからは利権という札束の話になる。日本人は実体があるものに強く反応する。そして歯止めが利かなくなる。

カジノリゾート(一般にIRなどと言われる)はおそらく総合保養値地域整備法(リゾート法)の失敗を念頭にして利権を限ったのだろう。獲得した人たちは今後建設利権がもらえるし、うまく行けばそのあとも儲けられるかもしれない。儲からなければ損は公共に押し付ければいい。

だが、IRはポストのように入れ替えはできない。つまり派閥に勝者と敗者が固定してしまうのだ。さらには二階派の議員が獲得の見込みもないのに中国企業と組んで検察沙汰を起こす事態にも発展した。

さらに文部科学行政でも問題が起きていることがわかった。文部科学省は利権のない行政だと思われていたが、どうやら下村博文さんの元で入試が利権化が進んでいたようだ。公明党の都政での協力を当て込んで便宜供与まがいのことが行われていた可能性もある。官僚から利権を奪って官邸で管理しているはずがいつの間にか管理不能になっていた。

さらに東京都知事の問題でも揺れている。安倍官邸は小池百合子を嫌っているが、二階幹事長はこれ見よがしに小池さんと会ってみた。安倍さんが小池さんを容認したという噂まで流したらしい。安倍さんが「自民党都連は勝てる候補を見つけられないらしい」と二階さんに言われて曖昧に笑っただけなのだが、それを「事実上の容認だ」と騒ぎ立てたのである。テレビやスポーツ紙が面白おかしく記事に仕立てている。

このことは「そういえば別の場所では菅さんと二階さんが対立していたなあ」とか「岸田さんと菅さんも対立していたなあ」とか「麻生さんも地元の福岡で誰かともめていなかったっけ?」という記憶を呼び覚ます。どうやら地方を舞台に統治不能な状況が加速しているようである。

このことには二つの意味があると思う。

一つは自民党が「単なる大臣ポストだけでは満足せず実際の旨味を求めはじめてる」ということである。つまり地方の飢餓を背景に欲求が拡大している。今まで我慢していた分なんでも食べたくなってしまうのだ。小池さんの話からわかるのは、おそらく安倍首相は統治意欲をなくしているのだろうということだ。「官邸」という軛から解放された人たちは利権獲得に向けてなりふりかまわず走り出す。

もう一つわかることがある。特に地方が国の救済(つまり利権)なしに立ち行かなくなっているということだ。利権化の対象になっているものを見ると次のようになる。

  • オリンピックや万博などのイベント
  • 震災復興(これは被災者の救済には当てられず公共事業の言い訳に使われている)
  • ギャンブルを含む「リゾート」
  • 教育

これを素直に見ると日本からまともな産業(製造業やサービス業)が消えているのだろうなあということが予測できる。この中では教育だけが全国規模なのだが、これに手をつけたのは(以前にも書いたが)種籾に手をつけたという意味でとても危険である。日本人は未来のことが考えられなくなっている。今お腹いっぱいになればいいし、いくら食べても食べ足りない。裏返すとアベノミクスの掛け声の裏側で地方はお腹を空かせて我慢してきたのである。これから先その反動が「財政出動」という名前でやってくる。

政治家に監督されていた官僚は自分で利権領域の拡大はできない。このため自分が獲得した利権領域と長く関わる必要があり搾取して弱らせることまではしなかった。寄宿者ではあっても比較的悪い寄宿ではなかったのだ。

さらに悪いことに安倍官邸自体が「もう管理は不可能だろう」と諦めている様子もわかる。二階幹事長が「小池さんで行きましょう」と詰め寄ってもノーと言えない。とはいえ東京都連も決定打になるような候補者を連れてくることができない。しかしこれは氷山の一角でしかない。地方でも同じようなことが起きていて「バトルロワイヤル」状態だ。

政治家は本質的に価値の創造はできない。つまりどこかで誰かが作ったものを奪ってきて別の人に配るということになる。価値の創造をすると奪われる可能性があるが、政治家と仲良くすれば分配してもらえるかもしれないとなると、誰も価値の創造をしなくなるだろう。そして政治家は党派争いに夢中になっていて、目の前にあるものを全て食べてしまう。

実はこの話はテストとしてQuoraで下書きしたのだが、そこでは書かなかった文章がある。やみくもに増殖してやがて寄宿先を弱らせて行くものをよく「ガン細胞化している」という。つまり政治はガン細胞化しているのである。

免疫は有権者の常識的な判断だが、おそらく日本人の政治的免疫力は相当落ちているのだろう。こうなると日本の将来は暗い。つまり長期的に衰退してゆくしかなくなってしまうのである。

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国民民主党は何に負けたのか

国民民主党が共産党との協業を模索しているという。安倍政権を打倒するために協力するというのだ。それに関連して「玉木代表と志位党委員長がピアノで協業した」というニュースが入ってきた。玉木さんは演歌を演奏したようだが志位さんはショパンだったという。浮世離れした感じだなあと思った。この協業は失敗するだろう。浮動票を掴めないからだ。浮動票とはつまり大衆のことだ。




調べてみたら志位さんには実業経験がない。純粋培養の共産人なのである。四街道の出身で千葉高校から東大に進み、東大でオルグされそのまま共産党に入ったという。Wikipediaでは国会議員の前職は「党職員」と書いてあった。共産党のような左翼は労働組合の人たちが中心に運営していると思っていた。「ショパン好き」というところからインテリゲンチュア(知識階層)という言葉が浮かんだ。つまり上層部の人たちはおそらく世間を知らない。

ちなみにSNSでも活躍している小池晃さんは医者で職業経験がある。小池さんはナンバーツーの書記局長だそうである。患者と接した経験があればSNSでもそれなりの説得力のある発言ができるだろう。

政治家の貴族主義というと自民党のことがよく頭に浮かぶ。典型的なのは麻生太郎さんである。祖父が偉大な宰相吉田茂であり天皇家の外戚でもある。アメリカ英語が汚いということでイギリスに「転校させられた」というセレブっぽい逸話も有名だ。ちなみに麻生さんは職業経験があるが、実際には経営者として家業を継いでいるだけであり世間一般のいう職業経験ではない。このため麻生さんは「経営経験ない政治記者よりも経済がわかっている」という自負があるようだが、実際には家業に過ぎない。それが彼の独特の「浮世離れ感」につながっている。ラーメンの価格が分からなかったという逸話が有名である。麻生さんは自らの経歴に負けて首相の座から引き摺り下ろされた。

面白いことに共産党というのは自民党と同じ「純粋培養の方がえらい」という自民党の「反世界」のようだ。副委員長まで調べてみたが「職業経験」がある人がほとんどいない。ほとんどがなんらかの団体の職員出身なのである。

民主党は珍しく職業経験のある人が多い政党だった。自民党のように既存の利権集団に支えられてもおらず、かといって公明党のように宗教が支えているわけでもない。そうなると自分で稼いで生計を維持する必要があるということなのだろう。枝野さんや菅さんのような市民運動上がりの人が主流になっている。全体をつかんでいるわけではないのだろうが、一応市民社会とのパイプがある。

ところが、国民民主党の代表と代表代行までを見るとこれがない。三人のうち二人が財務省出身である。大塚さんだけが日銀出身であり「やや実務経験」がある。副代表まで見ると鉄鋼会社や新聞記者の経験のある人がいる。意外と労働組合の出身者がいないんだなあと思った。支援団体を持っておらずなおかつ実業経験がある人も多くないということがわかる。少なくとも彼らが地方組織を持っているとは思えない。つまり、彼らは支持基盤がないがゆえに別の寄宿先を探さざるをえなかった人たちなのである。共産党は自前で新聞を売っており寄宿先にはなり得る。だが先行きはあまり明るくなさそうだ。高齢化していて新しい共産主義者を獲得・開発できていないからだ。

おそらく、国民民主党議員が最初に見つけた寄宿先は大規模企業・公務員・教員の労働組合だったんだろうなあと思う。だが、そうした人たちとどういうわけか折り合うことができず、かといって利権集団と妥協もできなかった。そうして最後に相手にしてくれたのが赤旗という基盤を持っている共産党だったことになる。だが実際の共産党は大衆にアピールしようとしてショパンを弾いてしまうような浮世離れした人たちだった。国民民主党は枯れてゆく運命なのだろうなあと思う。あとは自前でYouTubeファンを獲得するしかないが、官僚出身の人が無理して大衆派を気どるチャンネルは見ていて痛々しい。

ちなみにこういう時は自民党出身の重鎮に頼れば良いと思い小沢一郎さんの履歴を調べてみたのだが、大学卒業後弁護士を目指して院に進みそのまま父親の急逝で地盤を継いでいる。山本太郎は民衆と話ができるので外に出てしまった。おそらくそれは正解だったのだろう。

もっとも政治家たちが世間とのつながりがないというのは悪いことばかりではない。下手に実業経験がある人の中には大衆扇動の才能を発揮する人が出てくる。政治家がほとんど浮世離れしているので我々は政治家に扇動されにくいのだ。

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原理主義化する多神教社会 – 日本とインドの共通点

前回はインドについて調べた。「インドはヒンズー教徒が多数を占める国でマイノリティとしてイスラム教徒がいる」と書きたくなるのだが、どうやらそんな単純なものでもないらしい。インドは多様な言語を話す人々が暮らしている多神教社会で「ヒンズー神」という統一された神様がいるわけではない。




この点は日本にとても似ている。日本にも神道という統一された宗教は実はない。つまりすべての神道が天照大神を信仰しているわけでは実はない。

インドと日本の決定的な違いは言語環境にある。北部と南部は人種的にも異なっている。そもそも、ムガル帝国以前は南部と北部は別の国だったようである。ヒンズー教はもともと北部の宗教(バラモン教とも)が土俗化したものようだ。だがこの北部の宗教もヴェーダという経典はあってもまとまった宗教ではなかったようである。実に複雑で多様な宗教なのだ。

おそらくはアラブ世界も同じような社会だった。アラブ人という統一された民族集団があったわけではなく多神教社会だった。カアバ神殿も多神教寺院が元になっているという。

アラブ世界はイスラム教によって統一され、エジプト人など周辺の民族を巻き込んで「アラブ語を話す人々」としてのアラブ人が生まれる。日本人が信仰してきた宗教の総体が神道だったとすれば、イスラム教を信じる人たちがアラブ人を作ったという真逆のことが起きている。ヨーロッパが全てラテン語を話し「ローマ人」などと呼ばれる感覚だ。ちなみにローマ+分割統治で検索するとローマ帝国は領域を分割統治したらしい。権限を分けてお互いに差別感情を与えたようだ。だから現在のヨーロッパには多様な民族集団がいる。

イスラム教が統一するまでの時代は「ジャーヒリーヤ」と呼ばれており、統一された政治勢力はなかったという。またエジプトなどはアラブ世界ではなかったわけだから、エジプト以西の北アフリカは後からイスラム教が広まることによってアラビア語を受け入れてアラブ人に同化したことになる。

アラブ世界は多神教を捨ててイスラム教に統一されたのだがインドはそうではなかったと書きたくなるのだが、それも間違っている。例えばイギリス統治の直前にはムガル(モンゴル)帝国がありその宗教はペルシャ経由でもたらされたイスラム教だったようだ。ムガル帝国はインドを統一して支配したのでインド世界はイスラム世界だった。そして支配者はモンゴル人だった。もともとチンギス・ハンの次男チャガタイの後裔が作った国なのだそうだが、ペルシャ化してインドを支配することになる。

ムガル帝国は配下にいる非イスラム教徒を同化しなかったようである。外来勢力なので現地の勢力と仲良くする必要があった。例えばアクバルは寛容な宗教政策で知られている。そのあとのアウラングゼーブは厳しい同化政策で知られているそうだが、その頃から内部崩壊が始まった。完全に消え去ってイスラム化する前に支配者たちが崩れてしまったのである。それに目をつけたのがイギリス人だ。

イギリスもインドのキリスト教化を進めず分割統治した。少数派に転落したイスラム教徒やヒンズーの諸勢力と個別に連携することでお互いに協力できないようにしてしまったのである。現在でもこの火種が残っていて、今回の騒動につながっている。

ヒンズーが一つでないならすべての勢力がモディ首相を支持しているわけではないのかもしれないなあと思ったのだが、別の記事を見つけた。

NHKはモディ首相が反イスラムを煽っているという様子を紹介している。ヒンズー教の寺院を立ててやりたいが野党が反対していると言って煽っているのだそうだ。安倍首相が国家神道という本来は存在しない新興宗教的な神道に後援されているのに似ている。つまり「寺院を立ててやりたい」ということは、彼らはすでに伝統的なヒンズー教から切り離されているということを意味しているわけだ。ちょうど日本でも日本の伝統から切り離された人たちがネット保守のいう「国体」に吸い寄せられているのと同じような図式である。彼らの神殿は靖国だ。

多神教が変化に弱く一神教的な宗教に移行する途中経過といえるのかもしれない。そしてそれを促進するのが国家という装置なのだ。だが、かつての一神教国家が宗教の統一を意識的に加速したのと違い、インドでも日本でもその動きは無自覚で不完全なものである。

いずれにせよ、でっち上げた敵とでっち上げた伝統を使って政治的に無知な人たちを惹きつけるというのは以外と昔からあるよくある手法なのかもしれない。人は伝統から切り離されても何かに頼りたいものなのだ。

インドの状況を見ていると一神教的な理念を受容しないままに民主主主義世界に編入されてしまった国がこれまでの伝統に回帰することもできずかといって一神教的な民主主義(つまり天賦人権というのはキリスト教の後継宗教なのだ)も理解できないというような構図が見えてくる。おそらく日本ももう少し穏やかな形ではあるが似たようなことが起きているのかもしれない。

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日本人はなぜニュースが読めないのか – インドのニュースを例に挙げて考える

今回考えるトピックは「なぜ日本人がニュースを読めないか」である。読んでいただくとインドの政治混乱についてもわかるという一粒で二度美味しい仕上がりになっていると感じる人もいるだろうし、ラインが二本あって複雑だと感る人もいるかもしれない。




インドのデモで警官の発砲による死者が出た。Quoraの政治スペースでは解説記事が二本出たのだがなんとなくわかりにくかった。そこでそれを書き直したのだが、その過程で前の二人がわからなかったのが何なのかが見えてきた。

このニュースではいくつかのことが起きている。だがこれだけを見ても実はよく意味がつかめない。

情報が足りない上に思い込みもある。Quoraには中国と民主党系の野党(あるいはリベラル一般)が嫌いな人たちが一定層いる。そこで香港のデモへの関心が極めて高い。リベラルは香港のニュース学生紛争の影を見ている。これが天安門事件への視点を作り、香港につながっている。そして多くの日本人はリベラルが主導するマスコミへの敵対心がある。リベラルがマスコミを支配しているという思いがあるからだ。そこで彼らはマスコミが香港の民主派に肩入れするのを苦々しく思っているのだ。

マスコミを敵視する人たちはSNSという舞台で自分たちの歌を歌いたい。また最近では中国人の参加者も増えており中国を非民主的で遅れた国であると指弾する日本人に一泡吹かせてやりたいい人たちが出てきている。彼らに取ってもSNSは主戦場である。香港デモを敵視する人は中国も嫌いなので、今度はウィグルの話を持ち出して中国人を怒らせる。こうして議論は新しい視点を提供しないままたいてい泥沼に陥る。昔から日本の政治議論に見られる「朝生シンドローム」である。

彼らは例えば「インドでも警官とデモ隊がぶつかって死者が出ているのになぜ国際社会はそれを非難しないのか」とか「イスラム教徒が暴徒になっても問題は解決しないから民主的に議会で混乱を収めるべきである」という主張をしたい。だが、インドのデモはそれだけでは語れない難しい面がある。

  • インドは中国と対立しており、つまりアメリカや日本などとは潜在的な同盟国である。インドは中国と違って民主主義国のはずだ。
  • 政府がネットを遮断してまで民衆を鎮圧するという政府のやり方にも抵抗を感じる。それは中国と同じやり方に見える。

よく森の思考・砂漠の思考などと言われるが、日本は森の中から木々や山の位置を頼りに情報を処理している。おそらく多くの人は一生を同じ森で過ごし、同じ森を見ている人たちとだけ暮らす。森を一生出ないので風景が変わると情報が読み取れなくなってしまうのである。インドのニュースはもう「お手上げ」である。

情報が混乱して見えるようで関連ニュースを探してみようというところにまでは行き着かないらしいが、実はこんなことが起きている。

  1. インドでは国民会議に対抗するヒンズー至上主義のインド人民党を率いるモディ首相が2014年に政権を取った。国民会議はガンジーの子孫がリーダーになり、成長の恩恵を受けない地方の票を奪還しようとしたがなぜか成功していない。
  2. 最近になってジャム・カシミール州(イスラム教徒も多い)の自治が剥奪され、東部のアッサム州でもイスラム教徒を中心に190万人の市民権が剥奪されようとしている。イスラム教徒は民主主義的な手続きで弾圧されている。
  3. 最近近隣三ヶ国(パキスタン・バングラディシュ・アフガニスタン)から流れてくる非イスラム教の人たちの市民権を取りやすくする改定が行われた。これは直接の原因ではなく実はきっかけだった。ここで反発が表面化し暴徒を伴ったデモに発展した。

ここまでくると一応の流れが理解できる。ここでは森を出て高いところに登って新しく情報を探っている。ニュースの場合は「経緯」だし社会学だと「仮説」になる。だが「山に登って全体を見てやろう」と思わない人たちは再びわかっているところ(政局だったり韓国や中国への蔑視だったり)に戻ってしまう。地図は事実ではなく情報を処理するための共有の視点に過ぎないのだが、森の人たちは事実と地図の区別がつかない。だから、森にとじ込もって地図のない議論を再び始めてしまうのである。

一度地図を持つとあとは検索エンジンが解決してくれる。情報はいくらでもあるのだ。

例えば、BBCはインド政府のファクトチェックをやっている。パキスタンやバングラディシュで非イスラム教徒が迫害されているというような事実はないそうだ。つまり、モディ首相らが「イスラム教徒は邪悪」というプロパガンダを展開している可能性が高い。

ここから「なぜインド政府はそんな首相をしなければならなかったのか」ということを想像してみると、おそらく国民会議派との間でヒンズー教徒の取り合いが起きているのではないかという仮説が立てられる。

この仮説はアメリカの民主党と共和党の対立から持ってきた。今のところはトランプ大統領が「Make America Great Again」という単純なフレーズで白人層を魅了している。また保守党と労働党もイギリス人の誇りを取り戻したいという人たちを取り込むためにBrexit住民投票を行った。インドでも全く同じ構造が見られるわけだ。民主主義が最後に頼るのは単純な道徳感情とマジョリティの差別意識だ。

ところが今回の件はこれでは終わらなかった。別の方からコメントをいただいた。アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーが首相時代の1990年代に一度インドとパキスタンの間の緊張感が高まり国内でも社会不和が起きていたそうである。コメントを元に調べてみると「アヨーディヤ判決」という記事が見つかった。国内がかなり荒れたようだし、国民会議派は現実的な解決策を示せなかった。

ヒンズー至上主義者に危険を感じたインドでは国民会議でもヒンズー至上主義者でもないシク教徒の首相が出たりしてバランスを取ってきたのだが、今また至上主義者のモディ首相が政権を取り、案の定国内不和を引き起こしたということがわかる。

インドは一般的にカーストと呼ばれる職業集団や人種集団が入り混じったグループが複雑に分かれておりこれを一枚岩に仕立てておくのがとても難しい。コメントをくれた人が指摘していたのは「民主主義が導入されるはるか以前からの社会的構造が背景にある」というインド独特の難しさである。インドでは西洋流の民主主義が成り立たない。中流市民階層が存在しないからだ。

だが、こうしたコメントが出てくるのは「ある程度の歴史観」を提示した後である。つまり、概念的な整理をして地図のようなものを作る人はいないのだが、情報を付け加えたい人はたくさんいるということになる。彼らは彼らで「自分の森からでないまま間違った歴史認識を押し付けてくる人」たちを嫌っている。だから自分の知識を披瀝することがほとんどないようである。別の視点を提示しても受け入れてもらえないからだろう。

日本人がニュースを読めないのは情報がないからでも知識のある人がいないからでもない。おそらくは共有のために地図を作ってみようという発想がない。それができない理由も簡単だ。実はお互いが別の森に住んでいるという認識そのものが持てないのだろう。

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