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中村哲医師を「守ってくれなかった」憲法第9条

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中村哲医師がアフガニスタンで亡くなった。これについてQuoraで追悼を兼ねて業績を紹介したのだが、その時に「共感を得にくくしてみよう」と思った。この話は「中村さんを殺したアフガニスタンのテロは悪」という結論になりそこから派兵は派兵支援につながりかねないと思ったからである。そこで考えたのが中村さんのクリスチャン性について書くことだった。テーマは実践である。

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ちょうどクリスマス前の待降節シーズンなのだが、このシーズンは新しい希望を持ちながら4週間待つというキリスト教徒にとっては特別なシーズンである。たまたま小中学校がミッションスクールだったのでこの辺りの感覚は楽しい思い出として残っている。

中村さんは西南学院出身のクリスチャンであり「施しの実践をした」という意味ではとても殉教的な意味合いが強い亡くなり方をした。もともとハンセン病の治療のためにアフガニスタンに赴いたということなのだが、聖書を読んだこととがある人なら「癩病治療」がキリスト教の実践だということに気がつくはずだ。

普通の人は「感染るかもしれないから」といって近づかず、司祭たちも「神に背いたから病気になったのだ」などと言って見捨てていた。だががイエス・キリストは躊躇せず彼らにも接したとされる。

ところが中村さんはここからアフガニスタン全体について考えるようになり、自らNGOを立ち上げ支援活動を始める。その愛はキリスト教だけでなくイスラム教徒にも及び、モスクまで建てたそうだ。これが評価されてマグサイサイ賞などを受賞している。また上皇陛下夫妻も心を寄せておられ、今回も弔意をお伝えになられたということである。

おそらくホリデーシーズンのイルミネーションやクリスマスケーキのバイト買取問題について語るより、キリスト教の分け隔てない無償の愛の実践について語ったほうがクリスマスの精神が理解しやすい。と同時にこの人が殺されて苦しい最後を遂げなければならなかったということに言葉にならない割り切れなさを感じてしまう。

中村さんは護憲派だったそうで、Quoraでも「憲法第9条は彼を守ってくれなかった」と揶揄する質問がたった。わが党派が勝つことだけに夢中になっている人は平気でこのような発言をする。一旦聖書から中村さんを見ているので、これが「キリストは自分の奇跡で自分を救えなかったではないか」という人々の言葉にも重なる。

そもそも、キリスト教を理解しないで民主主義の天賦人権や法治国家を理解することもまた難しい。例えばペロシ下院議長がトランプ大統領を非難する言葉に「トランプ氏の行いは、大統領職への誓い、国家安全保障、選挙の品位を裏切るものだ。誰も法律を超越することはできない」がある。(訳は東京新聞

日本人は法律は人間が解釈することができるし、群衆として空気で圧力をかけて影響を与えられるという世界だ。だが、キリスト教世界では法は「人の上」に置かれている。実はこれは神の代わりとして扱われているのである。つまりペロシさんが「誰も」といった場合は「私も他の誰も」という意味がある。これは絶対神がいない日本人には肌感覚で理解できないだろう。

おそらく信念に基づく実践の重要性も極めてキリスト教的な概念だ。

中村さんが亡くなったのは事実である。そして憲法第9条が彼を救わなかったのもまた確かなことだろう。憲法第9条というのはもともと単なるお題目であり信仰心がなければそれを維持することはできないということだ。「戦争に負けたが国際社会に復帰させてください」とお願いをした時の「誓い証文」に過ぎないので守られなければ単なる文字の羅列でしかないのである。

憲法第9条に反対する人たちは「軍隊を持って強くなれば世界に尊敬してもらえる」という見込みを持っている。ところがこれも周囲が納得してくれなければ単なる絵空事に過ぎない。中村さんの実践を嗤う人は尊敬される国を作ることはできないだろう。

おそらく出来るのは軍事的経済的に恫喝することだけだがそれは受け入れられない。安倍政権の外交が周辺国から軽んじられているのはそれが実践を伴わない言葉だけのものであると見透かされているからだろう。安倍首相の友達はお金を貰う時だけ「安倍さんは友達だ」と呼ぶトランプ大統領だけである。

重要なのはどちらも実践を伴わなければ虚しい「議論のための議論」になってしまうということである。護憲派であっても憲法の平和主義遂行のために条文を変えるという議論をしなければならないということになる。だが、そのためにはまず国際貢献という実践が重要だ。条文から先に変える憲法議論などそもそもありえない。

博愛というのは容易いのだが実践が伴わなければ単なる偽善と言われるかもしれない。信念と愛の実践を伴った行動だけが説得力を持つ。だから中村さんの死は世界に衝撃を与えた。護憲派にせよ改憲派にせよキリスト教徒であるにせよないにせよ「実践があってこその評価だ」ということをこの出来事から学ぶべきだ。

ところが日本人はここから実践の大切さを学ぶことはなさそうである。政権よりの新聞はおそらく彼が護憲派であったという「都合の悪い」ことを隠して報道するだろう。産経新聞はほんのりとアフガニスタンテロへの憎しみをほのめかす。だが東京新聞も政権批判と結びつけてしまっている。

どうしても日本人は実践よりも党派の勝ち負けを優先してしまうのである。

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