反社勢力は定義ができないという閣議決定が出されたそうだ。世の中がめちゃくちゃになってしまうのでは?と思う一方で、騒ぎすぎなのかもしれないとも思う。結局答えは出なかったが、今日はこれについて考えてみたい。
安倍政権の意図は明確である。安倍政権は反社会勢力とされる人たちをお花見に呼び込んでいて被害者も出ていている。被害者たちは怒っているようだ。しかし、反社会勢力認定すると安倍首相の道義的責任が問われることになってしまう。だから「定義ができない」として野党の主張を封じたのだろう。
ところがそんなことをしてしまえば警察も反社会勢力を認定できなくなる。実際にはすでに別の閣議決定で反社の定義ができていてそれに倣う形で各種の指針も出ている。
例えば、蓮舫議員があげていたのが過去の閣議決定に基づいた法務省の指針である。社会が反社会的勢力を排除できるようにガイドラインが設けられている。何が反社会勢力なのかが定義できなくなるとそれを排除することもできなくなる。法務省は企業に対してかなり厳しい反社会勢力排除を要求しているが、結局のところ企業はどうしていいかわからなくなる。さらに警察もある程度の法的根拠があって反社会勢力の排除をしているはずだから「定義ができないなら取り締まりが出来ない」ということになりかねない。
政府が定義を覆してしまえば「世の中に示しがつかなくなる」ということを野党は怒っている。つまり世論がそれほど反応しないのは「政府が規範を示している」という期待がもはやないからだ。政府が信任されていないので野党の反論が力を持たず、従って与党がやりたい放題になるという皮肉な状態が生まれている。
ところが、そう考えなくても「閣議決定は閣議決定に過ぎない」という見方もできる。つまり、内閣は初鹿議員に答えられないと言っただけで「法律についてはきちんとした定義がある」のだも考えられる。つまり「これはこれ」で「それはそれ」というアプローチだ。
ところがこれはまた別の問題を生み出すだろう。野党議員は行政をチェックする役割を担っているわけで、つまり「国民はそんなことは知らなくてもいい」と言っていることになる。何が反社会的勢力かどうかは国が決めるのであり下々は知らなくていいということになる。具体的には警察なり検察なりが定義するのだろう。
- 国民
- 内閣
- 警察・検察
という三つの主体がある。警察(検察)と内閣は知っているが国民は知らなくていいよということなのかもしれないし、内閣も国民は知らないが警察(検察)が適宜判断するというのも薄気味悪い話だろう。政府が警察・検察を独立した主体とみなしているとなれば、警察・検察国家の誕生だ。
Quoraでは法律の専門家に話を聞いてみたのだが回答はなかった。彼らはそもそも「政府性善説=政府は常に正解である」という前提に立たないと公式見解が出せない。ここが法律専門家と政治領域の違いだと言える。おそらく法律家は政府は一貫しているという偽りの前提のもとで今まで通りに法律業務を遂行することになるに違いない。
ただ、現実問題として内閣がめちゃくちゃなことをしても「これは与党と野党の問題である」としてそう大した問題にはならない。何らかの形で別のバランスが取られている。日本政治は相互監視による縛りあいであると考えると、この縛りあいだけが社会が混乱するのを防いでいるのだと考えられる。つまり誰も何も決めれないし何も変えられないから社会が混乱しないのだということだ。
つまり、日本人はそもそも「どうせ何も決めらない内閣の閣議決定などその程度でしょ」と思っていて、原理的なことには対して興味を持っていないのだ。おそらくはこのいい加減さが統治の混乱を防いでいるのだとは思う。この「縛りあい統治」にはダウンサイドがありそうだが、それが何なのかはよくわからない。おそらく政府がどんなに楽観的な未来を叫んでも経済が動かないというのがそのダウンサイドなのだろう。誰も政府のことを信用していないのだ。