最近安倍政権の批判ものを書いてもあまりページビューが伸びなくなった。かといって野党に書いてもそもそも反応がない。これはどういうことなんだろうか?と考えた。
もともとこのブログは読んだ本の感想などを書いていた。今でもその名残が残ってていて初期の頃は食パンなどについての記事が残っている。最初は「日本が成長を目指すためにはイノベーションを加速すべきだ」などということを書いていたのだがさっぱり読まれなかった。権威がある人の正解しか読まれないのだろうと思っていたのだが、おそらくは成長やイノベーションそのものに需要がないのだろう。そのうち「政治」について書くとページビューが伸びることがわかった。この間に数年経っている。
この時点でわかったのは「キレイゴト」を信じている人はいなくて、ひたすら誰かを非難したい人が多いということだった。食パンの記事が2008年のことであるが、エントリーを見返してみたら、政治について書くようになった時にはすでに民主党政権は終わっていた。民主党政権の失敗で語られることがない側面だが今の日本人はおそらく成長や変革には興味がない。つまり民主党のいう改革には需要がなかったのだ。
ところが安倍政権がこうした鬱屈を総括しないまま政権に返り咲いたことで政権への反発心に需要が生まれる。結局、矛盾や将来不安を民主党政権に転嫁しただけだったからだ。
安倍政権は改革の失敗の後に生まれた政権である。本質的には日本は何も変わらなかったのだが、民主党の改革を非難することで安倍政権に関する批判をかわした。
最初にデタラメが露呈したのはアベノミクスの三本の矢だったのだが、集団的自衛権に関する議論ではさらなるデタラメが横行した。これがだいたい2014年のことである。アメリカの要求に対して自国の立場を説明するのに疲れた安倍政権が勝手に憲法解釈を変えてしまったのである。
さらにアベノミクスも総括されないままでデタラメがエスカレートしてゆく。単に日銀に国債を引き受けさせることを経済政策と言っていたのだが成長戦略は不発なままだった。ところがそれを反省しないで新三本の矢と言いだした。これが2015年である。これは企業・消費戦略(という名のバラマキ)を医療・子育てなどの福祉に拡大させますよというものだった。のちにこれが消費税論議と結びつけられ高等教育の無償化につながってゆく。
2016年には森友学園問題が露呈した。首相夫人と親密な関係にあった学校法人が2013年頃から国有地の価格について法外な要求をしていたことが明るみに出たという事件だった。これが露見すると政府は野党側にまともな説明をしなくなった。2017年になると首相と親密な関係にあるお友達だけに戦略特区を使って新しい獣医学部を作ってあげようとしたということがわかり国会審議が滞った。
もともとデタラメな経済政策でバラマキの原資を増やし問題を先送りにし、デタラメな憲法解釈で国会を翻弄し、そのあと身内優遇が露呈すると今度はまともな説明をしなくなった。次第に官僚の資料や記憶がなくなったりすることが増えていった。だが国民は怒らなかった。
国民が民主党政権に期待したのは自分たちが変わらずとも官僚の悪事が暴きだされれば問題が解決すると民主党が約束したからだ。安倍政権が支持されたのは「民主党が言っていたことは全部嘘で問題などなかった」と言ってくれたからである。
この間、割と安倍政権について文句を言っていればそれなりにページビューを稼ぐことができた。人々の間に「かつて機能していた政治」という記憶がありそれがあからさまに否定されてきて腹を立てたのだろうと思っていた。だが、おそらくそれは違っていたのではないかと思う。厳しい言い方をすれば偽りの改革心を持っていたことも認めたくないし、それが破綻したことも認めたくなかったのだろう。だが心配することはない。誰も自分では動きたくない。その姿勢は一貫している。
安倍政権のデタラメぶりはますますひどくなっている。だが、それは有権者の期待に全力で答えているだけの話である。つまり誰も変わりたくないのだが衰退は現実なので、誰かがごまかさざるをえない。安倍政権とはつまりそういう現象である。
今回のIRの件などを見ているとさらに利権獲得のためにはなりふり構わぬ権力闘争が起こっているのだということがわかる。だが安倍政権に対する怒りは収まりつつあるようだ。つまり国民は「政治がこの程度にデタラメでも自分たちの暮らしに影響はない」と知ってしまったのだろう。
だが皮肉なことに安倍政権は内部から崩れつつある。選挙で負けるかもしれないという恐怖心だけが自民党を一つにしていた。その重しはないとなると政治家たちは好きなように権力闘争を始めるのだ。
ということで次のネタを探さなければならないのだが、おそらく鍵は「正解」にあるのだろう。安倍政権に7年間怒り続けてきた人たちは政治には正解がありそれが安倍政権によって乱されたことに怒っていた。だが次第に正解がないことはわかりつつある。つまりもともと政治というのはデタラメなものなのである。人々が自分たちの正解を模索しようということにはならないだろうからしばらくはこのデタラメな情報をどう読んで行くかという指針が求められるはずである。
おそらく人々が自身の正解を模索し始めるのはそのあとになるのではないかと考えられる。