護憲派の毎日新聞社が「首相、憲法改正「20年施行」を断念」と伝えている。護憲派・毎日新聞社の高笑いが聞こえてきそうである。いわゆる読者のメシウマ感情を刺激する記事だ。事実上断念ということなので総理の口からこれが語られる事はないだろうが、読者たちはニヤニヤしながら安倍首相を眺めることになる。今日のエントリーで言いたいのはこれだけである。つまり私も村特有の意地悪根性を持っていることになる。
だが、それで終わるとエントリーにならないのでいくつかのことを考えた。
第一に安倍首相の「官邸主導」は配下にいる人を恫喝する事はできても人を動かすことはできなかったという事だ。安倍首相は「一度裏切った人を忘れない」という性格で知られているそうである。このため、二回目の政権につくと官僚と役人の人事を握って取引しようとした。官僚側の人事は今や2014年にできた内閣人事局が握っている。また公認権も党中枢が握っている。これが彼らの考える力強いリーダーシップである。
人事恫喝があるので、政権中枢・政党中枢におもねらないとよいポストが得られない。議員は一国一城の主人なので「一議員に止まる」という選択肢もあるが、官僚は人事だけが重要だ。こうなると内閣の顔色を伺い、白を黒と言われたら「それは黒でございます」と言い続けなければならない。これによって失われたものは表に出てこない。
日本型の組織では実際の知識は末端が担っている。例えば文書管理の問題ではコンピュータを使った文書管理の実際と法体系に熟知した中間的な官僚が全ての知識を持っている。ゆえに恫喝型の組織はやがて機能不全に陥る。政府の説明がだんだん「崩壊してゆく」のは知識の循環がうまく行かないからである。簡単に言えば菅官房長官はコンピュータのことも文書管理のこともわからない。彼がわかるのはお花見の名簿が表に出ると首相がヤバいということだけである。つまり、力強いリーダーシップを発揮すると日本は組織が壊れてしまうのである。
次に安倍首相は状況を作れる政治家ではないなとも思った。強引なリーダーシップが効力を発揮するのは「チェンジマネージメント」を行うときだけである。変革型のリーダーは強権を発動することがある。そして自民党には派閥闘争を経て勝ち上がってきた「政局を作れる人たち」と参謀がいた。変革の意思を失い派閥闘争をしなくなった自民党ではこの政局力が消えているのだろう。
あるテレビの政治評論家が「菅官房長官は女房型のように見えて実は状況を仕掛けて作る人ができる人だ」と言っていた。自民党は派閥闘争の歴史なのだがにらみ合いでは膠着状況に陥ってしまう。そこで状況を作り出す人が必要とされるのである。最近顔を見なくなった田崎史郎さんも「政治には勝負が必要だ」などと言っている。
小泉純一郎首相は仕掛け型の政治家だった。郵政民営化に反対する人は悪だと決めつけて選挙をやり敵対派閥を殲滅させてしまった。ビジョンを語るというわけではなく対立構造を作って膠着を打開するのである。
安倍首相は憲法改正のビジョンを語るわけではなく単に願望をほのめかして「あとは国会でお決めいただく事ですから」と言って逃げてしまった。合理的に考えれば「内閣は憲法を遵守する義務がある」ので憲法改正は言い出せないのだが、状況が仕掛けられると合理性が吹き飛び「勢い」で物事が決まってしまう。短い期間であれば安倍首相が憲法改正を強引に指導しても良かったのだ。だが、安倍首相はビジョナリーでもなければ状況を仕掛ける型のリーダーでもなかった。単に自民党延命のために担がれたお神輿だったのである。
最後に憲法改正議論というのが実は虚像だったということも分かった。
今回の「事実上の延期」に関して「左翼が邪魔をするからだ」という人は大勢いる。だが「なぜ今変えなければならないのか」を言える人はいない。これは実践が伴っていないからである。
政治は実践で、実践にしたがって憲法も変わってゆくべきなのである。ところが平和主義にもいわゆる積極的平和主義にも実践がない。平和主義の人たちが平和主義を実践しているわけでもないし、改憲派が尊敬される日本のために何かしているという話も聞かない。私も含めてそれは議論のための議論であり、したがって別に変えなくてもいい程度の話なのである。日本がリーダーシップを発揮するのは国際社会(端的に言えばアメリカ)に阿り中国に対抗するためであって信念に伴った実践ではない。
だがよく考えてみると日本の政治は何かを決めて何か行動するためにあるのではない。その人たちが一番やりたいことをさせないように監視して縛りあうのが目的なのだろう。だから野党は絶対に政権は取れないし与党は憲法を自分たちの好きに変えて国家を私物化することが許されないのだ。
日本人は論理的に考えて決めることはできないのだが、意地悪に相手を縛り付けることはなぜか阿吽の呼吸でできてしまう。おそらくは村という狭い共同体で、そういう「意地悪文化」を育んできたのだろう。