ポピュリズムも内戦もなかったホンジュラスの不幸

トランプ大統領が中米からの移民をブロックしたという話を調べている。なぜ中米からの移民が多いのか疑問に思い各国の状況を調べ始めた。そこでわかったのは国が貧しすぎて国を捨てる人がたくさん出るという悲惨な現状だった。政治指導者が一つにまとまれず国は貧しいままだ。そこにアメリカが入り込んで状況を複雑化させている。

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中米の人たちはなぜ北を目指すのか

トランプ大統領はメキシコグアテマラと交渉してアメリカにくる移民を押し返すことに成功したようだ。グアテマラには関税で脅しをかけメキシコには国境封鎖も加えて脅しをかけたという。今後この二国はアメリカに変わって中米難民を吸収することになる。メキシコでは与党内から批判が出ているという。






しかし、なぜ中米の人たちは北を目指すのか。これは中米の歴史を調べないと理解ができそうにない。というよりそもそも中米にどんな国があるのかをほとんど知らないことに気がついた。600万人から400万人という小さな規模の国が多いのだ。

中米にはグアテマラ、ホンジュラス・エルサルバトル、ニカラグア、コスタリカという4つのレイヤーがある。ニカラグアは政府に対する抵抗運動が起きていて難民が南のコスタリカに流れているそうだ。コスタリカは軍隊をなくし内戦を回避した国である。軍隊の代わりに強い警察力がある。つまり独立した実力部隊を作らず政治が管理することにしたのだろう。

そしてホンジュラスも政情不安が続きこちらは北に移民が流れている。移民と言ってもほとんど難民に近いのだが明確な迫害が起きているわけではないので難民認定はされにくいのだそうだ。

この動きはSNSによって可視化されこぼれ落ちた人たちが集まってキャラバンを形成した。ただその規模はヨーロッパを目指した難民のような100万人という規模ではなく数千人である。つまり、単にトランプ大統領が可視化しただけなのである。

メキシコ政府は南部で仕事を割りあてると約束している。中米3カ国の人たちはメキシコであってもましな仕事が見つかるならばと喜んでいるらしいのだが、今後はメキシコの人たちとの間で軋轢が生まれることが予想される。メキシコにはインフォーマルという人が人口の半分もいるそうで、それに中米移民が加わることになるからである。

移民にメキシコ国内で十分な就職口を提供できてもいない。国際通貨基金(IMF)は同国の失業率を18年は3.5%と推定する。直近で最悪だった10年の5.3%から低下したが、実際の雇用環境は統計ほど良好でないといわれる。メキシコの就業人口の半数以上は税金を払わず社会保険もない「インフォーマル」と呼ばれる。最低賃金の保証もない。移民の一部はこの層と競合する形で職を探すことになる。

メキシコ、中米移民受け入れに転換 米に配慮

このように見て行くと、中米には政府の庇護が受けられない人たちが大勢いることがわかる。特にメキシコの南にある国々の人たちには多分「民主的な政府」とか「国」という概念はあまり理解されていないのではないかと思える。

そもそもこの地域はスペインから独立した後、メキシコ併合を経て分裂したという経緯があるそうだ。分裂してからも党派対立が絶えず相次いで内戦に突入した。そして、既得権が冒されることを恐れたアメリカが介入したために内戦が泥沼化する。コントラという反対勢力をアメリカが支援していたという歴史がある。

アメリカが求めた既得権は食料だ。地元の人たちは自分たちに必要な食料を作れずバナナなどの栽培をしなければならなかった。植民地時代のアイルランド人がイギリス向けの食料を作らされ自分たちはジャガイモしか食べられなかったのに似ている。つまり、実質的にアメリカの植民地といってもよい状態だった。アメリカはその既得権を守るために内政干渉も辞さなかったのだ。

労働力が農業に貼り付けられると興業も発展しない。こうした産業構造をモノカルチャーなどという。「暴力と貧困が渦巻く中米北部三角地帯」という文章を見つけたが植民地化され内戦が起きギャングに蹂躙され警察もあてにできないというその内情は悲惨極まりない。

ところがアメリカはこれに責任を取らなかった。これが差別感情の恐ろしいところだ。アメリカ人は自分たちは優れていて中米がうまく行かないのは彼らが怠けているからであるとみなすのだろう。さらに英語ができない人たちへの蔑視感情もあるのかもしれない。英語ができない=知性がないとみなす傾向が強い。アメリカが介入したことで地域情勢が混乱しているのだが、それをアメリカ人が反省することはなく「バナナ共和国」といって蔑んだ。

今回もアメリカ合衆国の混乱をグアテマラに押し付けようというような話なのだが、それが大統領の支持率をあげてしまう。差別意識を「これは国防の一貫なのである」と話題転換するというのはまさにポピュリズム的思考である。

アメリカの民主主義はポピュリズムで説明できる部分が多いようだ。アメリカ合衆国ではポピュリズムが政権を支え、南米では左派ポピュリズムが破綻し経済的に壊滅した国がいくつかある。ベネズエラからコロンビアに逃げ出した人も多いようだ。そして、中米はアメリカの介入によりポピュリズム運動さえ起こせず国民がついに国を逃げ出すという騒ぎになっている。

どうやら「ポピュリズム」にはある種の役割があるようだ。ポピュリズム運動のおかげで民衆を政治という話し合いのセクターに収めておくことができるともいえる。運営を間違えれば最後は悲惨だが、かといってなくなってしまえば内戦や棄民に発展する。単に「ポピュリズム」というレッテルを貼れば消えてなくなるという類のものではないのである。

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民主主義 – 形を変えた戦争

最近、Quoraでイギリスについて調べたことを書いている。その中でナイジェル・ファラージという名前が出てくる。この人がなかなか曲者でイギリスの無責任男という論評(登録しないと途中までしか読めない)や「また逃走」というような論評ばかりが検索にかかってくる。ポピュリストという表現がされることが多いが、ポピュリストというより愉快犯に近い。






ちょうど国政で山本太郎現象が起きていることもあり「ポピュリスト研究」が面白いテーマだと感じ始めている。ポピュリストは感情や感覚で大衆を扇動する政治家のことだが大衆との立ち位置でその中身は大きく違ってくる。ファラージさんは上流階級の出身ではないようだが、保守党のEU加盟路線に失望し「愉快犯的に」イギリス政治に関わるようになってしまったようだ。救済ではなく移民への差別感情を脱EUの動きに置き換えたという意味で「右派ポピュリスト」と言える。

保守党で主流になれなかった男が政党を立ち上げEUからの離脱を訴える。そこに票が流れそうになったのでキャメロン首相は2013年にEU離脱の是非を問う国民投票を約束した。しかし、2015年の選挙ギリギリまで連立相手が止めてくれるだろうという見込みがあったようだ。1997年から2007年までイギリスは労働党のブレア政権だったので、左派から右派ポピュリズムという流れができつつあったのかもしれない。キャメロンさんはこの流れをせき止めて保守党に人々を惹きつけておく必要があったのだ。

しかし2015年に100万人もの難民が流れ込み危機意識が高まる。党派対立に勝とうとしていたボリス・ジョンソンも「多額の援助をしているが見返りがない」と煽り(のちにこれは嘘だとわかった)結局住民投票では離脱派が勝ってしまう。つまり、キャメロンさんは右派ポピュリズムを飲み込もうとして逆に飲まれてしまった。

ここから国民投票の恐ろしさがよくわかる。有権者は長期的な視野に立って状況判断をすることはない。せいぜい数ヶ月の間の常識をもとに状況を判断しあとのことは考えない。そもそも有権者にそんな責任も権限もない。イギリス政治にはときどき「勢いと嘘」がつきまとう。労働党のブレア政権の時も「大量破壊兵器があった」といってイランを攻撃しのちに「あれは嘘だった」という報告書が作られた。

EU離脱が決まってしまうと今度は誰も責任を取らないと言いだした。ファラージは「自分の時間が欲しい」といって政界から逃げ出し、キャメロンも「これから自分が何をしなければならないか」を悟ってさっさと辞めてしまった。ボリス・ジョンソンも次期首相にはならないと行って責任を取ろうとはしなかった。

その後で首相になったのはテリーザ・メイだったが彼女は議会をまとめられず泣きながら辞任した。そのあと首相になったのは国民投票時に逃げたジョンソン首相である。が、この人も交渉がまとまらなければ逃げてしまえばいい。それが二大政党制とイギリス型民主主義のいいところなのかもしれない。イギリスにおいて政治はスポーツなのだ。

最初にこのは話を調べた時「イギリスの政治も劣化してきたのでは?」などと思ったのだがどうもそれは違うのではないかと思った。

別の話題を見つけようと中米の経済移民について調べたからである。メキシコから分離する形で独立した中米諸国は小さな国に分かれている。どの国も国内に貧困層を抱え少数のお金持ちが国の富を独占しているような状態である。

こうした国々の政治が一つにまとまることはなく、小規模国家が独立すると今度は内戦が始まった。中米の国にはいまでもこの時に戦闘に加わっていた人たちが残っておりギャング団を形成しているそうだ。中米に大衆の思いを汲み取るポピュリズムはないので人々は改革を諦めて北を目指す。政治が仮想化されないと今度は実際の戦争が起き人々は政治を諦めて国を捨てる。ポピュリズムには国民を政治に引き止めておくという効果もあるということになる。

お隣の韓国では血みどろの戦いは起こらないが、大統領になった人が軒並み不幸な結末を迎えている。イギリスのような「有限責任制」が徹底していないから起こるのだろう。韓国では政治・経済・司法が分けられていないために大統領が悲惨な目にあってしまうのだ。

そう考えると「イギリスの民主主義」というのは最も古い形の民主主義なのだなあと思う。つまり、第一に民主主義は人々を政治に惹きつけておく幻想であり、第二に血みどろの戦いを防ぐスポーツだ。これらはともに政治のいい加減さとして現れるが、同時に無駄な消耗を防いでくれているのである。

このことは日本の政治を見る上でも役に立ちそうだ。現在の与野党は既得権同士のじゃれあいであり憲法議論は単なるゲームに過ぎない。つまり憲法第9条論争は動かないからこそ政治的トロフィーとして意味がある。しかし、現実にこれを動かそうとするとじゃれあいではすまなくなるかもしれない。

またれいわ新選組のように「ガチのポピュリズム」の芽も出てきている。これは田中角栄に顕著に見られたように中選挙区制で行われていたマイルドなポピュリズムが崩壊したから起きている現象なのだろう。れいわ新選組はSNSがなければ生まれなかった政治的ムーブメントだがこれは中米の人たちがSNSで連絡を取り合い北を目指し始めたのに似ている。

いろいろな政治状況をつまみ食い的に観察すると「見えなかったもの」が見えてくる。単に韓国は政治途上国だとかイギリスはいい加減だなどというのは実はちょっともったいない政治の見方なのかもしれない。

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なぜ小沢一郎は嫌われ、玉木雄一郎は黙殺されるのか

政治ネタを扱ったブログには盛り上がるテーマと盛り上がらないテーマがある。選挙から一週間経ったのだが一番盛り上がった記事は「日本でオリーブの木構想が盛り上がらない理由」だった。小沢一郎批判である。そして、今週もっとも盛り上がらなかったのが国民民主党の記事だ。両方とも国民民主党関連の記事である。






一方で、局所的な現象とはいえTwitterではれいわ新選組が盛り上がっていた。山田太郎の得票も注目を集めた。ユーザーや解決課題が先にあってそれに政治家がアプローチするという姿勢が受けたのだろう。時代は数合わせから有権者ファーストに移りつつあり、その過程としてSNSを温床としたポピュリズムが台頭するかもしれない。

国民民主党は参議院だけでも維新と組むべきだという声があるそうだ。地方に利益を誘導するためには野党ではどうしようもないという状況になっているのかもしれない。維新のようにうまくやるべきだという意見が多いのはわかる。しかしこの自分ファーストな姿勢は攻撃対象になることはあっても共感を呼ぶことはないだろう。

それにしてもなぜ国民民主党はこれほどまでに嫌われているのか。それは小池百合子という無責任な政治家と組んだ政党が今度は場当たり的な小沢一郎と組んだからだろう。小池百合子も小沢一郎は金権政治時代の生き残りであり「自分ファースト」の数合わせ型政治家の代表格だとみなされているのではないか。

このため国民民主党の「政策」とやらは生き残りのための道具であり長期的に信頼できないということを誰もが知っている。山本太郎はそこから脱却し玉木雄一郎は小沢と同一視されてしまった。その刑罰はバッシングではなく黙殺である。

有権者は極めて残酷だと思う。離反する時に意見をいう人など誰もいない。呆れていなくなってしまうのである。Twitterで「玉木雄一郎は自分をもっとも安い時に売る才能の持ち主だ」というような論評を見た。危機感が強い時に動くからだろう。官僚として生き残ることはできるかもしれないが党首として好ましい行動ではない。

では小沢型数合わせはなぜそれほど嫌われるのか。

Quoraでは「投票したい政党がなくても選挙に行くべきなのか」という質問がなくならない。中には若者は選挙に行かないと悪者扱いされているという質問もある。選挙には行きたいが入れたい党はないのだという。

投票率のグラフを表示しつつ質問にいくつか答えた。グラフを見ると小選挙区が導入されてからわかりやすく下落しているのがわかる。選択肢が減ったから投票率が下がったのである。

二大政党制はプロ政治家が政策パッケージを作る選挙システムだ。つまり中選挙区・比例代表制などはオーダーメイドであり小選挙区はユニクロなのだ。日本の悲劇はユニクロ一社からしか洋服が買えなくなった点にある。ユニクロが一人勝ちしてしまい選択肢が事実上消滅してしまった。それも当然でどちらも商品の仕入れは霞ヶ関に依存していた。つまり、政策工場は日本には一つしかなかったのである。

それでも霞ヶ関の外に政策工場を作るという選択肢はあったはずだ。日本で政策マニフェスト型の選挙が定着しなかった理由についてはいろいろな人に聞いているが答えがない。答えはないもののなぜか日本人は政策に興味がない。

政策なき日本の与党では政策の収斂が起こらずなぜか思想的な収斂が始まった。野党は以前小口の仕入れが行われており商品ラインナップがバラバラのままの「雑貨店方式」が続いている。

小沢はこの「数合わせ型」の政治家の代表者と思われており玉木雄一郎も「今高く売れるから憲法改正議論に参加したのだろう」と思われているのではないかと思う。もともと信用がない上に憲法も玉木にとっては単なる道具なのだから、彼らの政策に期待が持てるはずもない。ただ旧世代型の人たちは政治家は政策を提供する小売業なのだという認識が持てない。彼らは多分政治は国にあるお金を好きに分配する装置だと思っているのだろう。開発途上国型の政治である。

たぶん中選挙区制度のもとで選挙に行く習慣がついた人たちはこのまま選挙に行き続けるだろう。だが、彼らも政治を信頼しているわけではなさそうだ。貯蓄総額は1859兆円だそうだが半分は貯金だそうだ。金融機関も信頼されておらず50兆円はタンス預金でこれも70兆円に増えることが予想されているそうである。テレビでは政府も信頼できないからスクワットをして健康を維持しようという番組をやっていた。頼りになるのは手元のお金と足腰だけなのである。

つまり、誰も政治にはたいして期待しておらず、選挙に行っていた人は行き続け、なぜ選挙に行く必要があるのだろうと深く考えてしまった人は選挙に行かなくなるのではないだろうか。そして、誰も政治に関心を持たなくなるとますます不信感と不安が強まる。

政府はデフレではないがデフレマインドが払拭できていないと言っている。デフレマインドとは要するに先行き不安のことなのだが、それを作っているのは実は政治家なのである。

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国民民主党はもう解党しては?

もう何度でも生まれ変わってくれと思った。玉木雄一郎代表が安倍改憲の議論に応じるというのだ。もちろん、議論してくれるのは構わないが、このフラフラ加減にはうんざりだ。






私は改憲派である。世界では集団自衛体制がデフォルトになっているので憲法を改正して「まず集団的自衛」を認めないと先に進めない状態になっていると考えている。と同時にアメリカに対する巻き込まれ不安がある。つまり、軍隊を持つなら親米でも構わないから抑止体制を構築すべきだ。これまで専守防衛だから他国の状況には完治しないと言ってきた日本が抑止体制に参加するのは極めて難しいだろうが、これは軍隊を持つならば必要なことである。

だが、憲法議論は両者の思い込みに彩られた心象藪を形成しているとも感じている。この心象藪を刷新するためには左派を説得できる信念を持った左派リーダーが出てくる必要がある。例えば急速に浮上しつつあるホルムズ海峡のタンカー護衛の問題を集団的自衛の議論なしで乗り切るのはおそらく不可能だろうが、議論をしようと説得できるのは左派に信頼があるリーダーだけだろう。

Twitterで伝わってくる限りの話だと玉木さんは市民団体との間に憲法第9条擁護の協定を結び(自動的に安倍改憲に協力しないという印象がつく)彼らの票を「食い逃げ」したようだ。もともと市民団体は安倍政権を敵視している上に今度は「裏切られた」ことになり、ますます強行さを増すだろう。すると集団的自衛を肯定していた党首を擁する立憲民主党がますます改憲議論に乗りにくくなる。

専守防衛論だけでは対処療法的にホルムズ海峡からのタンカーを守ることはできるだろうが、なし崩しに緊張状態がエスカレートする状態を内側から防ぐことはできない。

この難しいバランスを安倍首相は取ることはできないだろう。アメリカに対する見捨てられ不安とおじいさんの改憲論に二重に囚われた安倍首相はどちらの方向にも動けそうもない。

玉木雄一郎さんは大蔵・財務官僚をなさっていた方のようだ。混乱する民主党時代を生き抜いて党首になったまでは良かった。まず小池百合子と組んで共同代表になり、小沢一郎と組んで「残念な政党扱い」されてみたり、共産党とも組んだ野党共闘に参加したり、市民団体と協定を結んだりフラフラと政界をさまよっている。背景に共通するのは「国民の支持が読み切れない」という政治音痴ぶりだ。参議院選挙では「小沢切り」に成功したれいわ新選組が無党派の支持を集め、国民民主党への期待は集まらなかった。そして、動くたびに誰かを怒らせるという稀有な才能がある。

玉木さんは従来の見解を述べたと言っているようだが、今回の路線変更が突然のように見えるのも後ろ暗さの表れだろう。選挙では安倍政権に協力すると言えば埋もれてしまうし旧民主党からの支援が得られなくなるという気持ちがあったのではないか。れいわ新選組が徹底的な有権者ファーストだったのと比べると、希望の党時代から徹底的な自分ファーストが見られる。厳しい政界を生き抜くために自分ファーストを貫くのは構わない。この自分ファーストのせいで現状を都合よく解釈して周りを怒らせるのだろう。

与党も野党もこれ以上憲法第9条を面倒な問題として扱うのはやめたほうがいい。一部の憲法第9条原理主義者の人たちは確かに騒ぎ続けるかもしれないのだが、日本に入ってくる原油を守るために平和維持のスキームを作るという議論に反対する有権者は多くないはずである。

ただ、この議論をするためにはかなりの信頼構築が必要だ。つまり日本を無益な戦争に巻き込まないという強い決意を持った人だけが国民を説得すべきなのであり、その覚悟がないなら今のままの曖昧な状態のほうがまだマシである。自分ファーストな人たちが思惑がらみで改憲議論に参加すると話が余計複雑になるからだ。

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左派ポピュリスト山本太郎

れいわ新選組は左派ポピュリズムであるという評論に対して内部から批判があったそうだ。ポピュリズムは失敗のレッテルとして用いられることが多いのでそれを嫌ったのだとは思うだが、もうそれもどうでも良いことになってしまった。れいわ新選組は新しいフェイズにいるように思えるからだ。






全体の投票率が50%を割り込み投票にいかない人も多かった。その中で左派ポピュリズムでしか拾えない有権者が4.55%もいた。つまりこれは一種の悲鳴なのだろう。もちろん手放しでポピュリズムを肯定するわけにもいかないが、単に「どうせポピュリズムでしょ」ということもできないということになる。

「左派ポピュリズムではなく無縁者の集まり」と書いた人の文章を読んでみた。左派インテリ独特のにおいがあり最初の数行を読んでやめてしまった。これが既存左派政党の限界であり、今後政党の立ち位置は有権者が判断することになるという重要なことがよくわかっていないのだろう。

左派インテリの限界は立憲民主党にコンタクトをしてみるとわかる。そもそも労働組合重視なので浮動票の声は相手にしてもらえない。メールの返事は来ないし電話でも適当にあしらわれる。彼ら左派にとって浮動票は「テレビで踊っていればいい」だけの人々である。極めて自尊心が高い人たちが下から目線を偽装しているだけなのである。

一方、ポピュリズムは徹底的な有権者ファーストだ。有権者は体制の維持に責任を持たないのだから最後まで有権者ファーストを貫くと国が崩壊する。だが今の政治はあまりにも多くの課題やロジックを有権者に押し付けているので、このポピュリズムが新鮮に見えるのである。

山本太郎代表はテレビ朝日の番組に出演し「総理大臣を目指す」宣言をした。総理大臣を目指すので参議院ではなく衆議院に鞍替えしたいという意向をしめしたことになる。テレビで注目される選挙区に出たいという発言も見られた。

今回印象に残ったのは「山本太郎がインタビューに答えている」という当たり前の点だった。当たり前だが今の政界ではこれが貴重なのだ。党首討論会などや国会答弁で質問に答えられない人や話を変えなければならない人が多い。背景に多くのしがらみを抱えているからだろう。

消費税減税議論ではプレゼン資料まで持ち込んで自分でプレゼンを始めてしまった。その現状把握や方法が正しいかどうかはわからないが、現状が把握できていてそこから抜け出すためのビジョンも持っているようだ。「藪の中にいない」というだけでも稀有な政治家と言って良い。彼の独自のアイディアではないのかもしれないが、ちゃんと理解していなければここまでは話せないだろう。

ただ、これが彼の能力の高さだとは思わない。しがらみが少ないので脳の容量を受け答えにきちんと使えるのだろう。自民党も立憲民主党もコアになる支持者が複数セグメントあるうえに、内部になんらかの矛盾を抱えている。このため、迂闊に話せない話題というものが存在する。ところがれいわ新選組にはそのようなしがらみがあまりない。だから、彼らは自由に経済政策が組めるうえに受け答えもできるのだ。

障害者を国会に送り込んだことについては「生産性で人を計測するという現状を打破したかったからだ」と言っている。「生産性ばかりが重要視される状況に飽き飽きしている人がいるだろう」という現状把握があり、彼らがどうしたら喜ぶかを計算して動いたことになる。そのために自分のリソース(200万票くらいを読んでいたらしいので性格だったことになる)を割り当てたということだ。極めてシンプルな政治である。

理詰めでニッチ(まだ誰にも取られていない立ち位置)を探したときに見つかったのが「こぼれ落ちた人々」だったのだろう。だから選択肢が左派ポピュリズムということになる。だかられいわ新選組が左派ポピュリズムでも今の所は実は構わないのである。

短いテレビのプレゼンを見ていて、山本の特徴は理詰めの部分と感情的な部分を結合しているところにあるのだろうと思った。これが従来の左派と違っているところである。感情が扱えないインテリでもないし浮動票を利用したいだけの従来左派政党でもない。

気になったところは最後の「大企業優先の政治は打破されなければならない」という部分である。これが古い層の日本人には伝統左派として捉えられる。これに熱狂する人もいるだろうし極めてネガティブに反応する人もいる。体制打倒を訴える左派は大方の日本人には好まれない。日本人は自分は大多数の側にいると語りたがるのでマジョリティを遠ざけ自虐的な人たちを惹きつける。多分この古い左派のDNAは後々悪い方向に作用するだろう。つまり、れいわ新選組は今の所はポピュリストの遺伝子ではなく伝統過激左派の遺伝子で潰れる可能性の方が高い。

日本人は政治に大きなものを期待し「下から目線」を好まないところがある。理詰めで淡々と自分のロジックを説いたほうが「上から目線」の国民を引きつけるように思われる。いずれにせよれいわ新選組がネットの評判を元にレッテル貼りされる段階は通り過ぎた。今後は有権者たちが新しいラベルを見出すことになる。今の所、スーツにネクタイだがスニーカーといういでたちの山本太郎はそれがわかっているように思える。行動する実務家というイメージを上手に作っていたからである。

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おかもっちゃん(岡本昭彦)と憲法改正議論

吉本興業の闇営業問題がなぜか社内内紛に発展してしまった。後からニュースを見ると、なぜ芸人のスキャンダルが経営内紛に発展したのかを誰も思い出せないのではないかと思う。それくらいわけがわからない。






日本では問題が解決できないとムラが心情的に揺れる。ムラが心情的に揺れると様々な解決策が出てくるのだが焦点が結ばれない。そしてムラが崩壊するか別の問題が出るまで揺れ続ける。岡本社長の会見はなぜ日本人が問題を解決できないのかという問題をかなり端的に示している。日本人が持っている心象主義に原因がある。この心象が藪を作っていて我々を閉じ込めるのだ。

この一連の吉本騒ぎには、芸能事務所・テレビ局・弁護士・芸人などいろいろな人が関わっている。しかし、皆口々に心象を語るばかりで何かが決定的に足りない。このため「いったい何が問題なのか」がわからなくなる。

テレビのコメンテータたちはいくつかの問題(反社会勢力とのつながりと芸人の処遇の問題)を分離しようとしているようだが、その試みもうまく行かない。視聴者も心象藪に吸い込まれてしまって一緒に藪の中をさまよっているからだろう。

宮迫さんと田村亮さんの会見は演劇めいていた。これを観察してわかったのは「空気」が大切だということだ。つまり宮迫らは藪をデザインしようとした。これはテレビ芸人がよくやる手法だという話をQuoraで聞き「なるほどな」と思った。テレビでは笑い声やテロップを足して「ここは笑うところですよ」などと誘導するのだそうだ。その空気に慣れている記者たちは中断に対して「空気が壊れる」と言って猛反発した。テレビ記者たちも観客として空気を作るのに協力していたのである。つまりテレビは心象藪を作りたがるのだ。

岡本昭彦社長の会見を見ると、岡本側が空気作りに失敗したことがわかる。岡本さんは「テープを撮っていないのか」といったのは洒落(冗談)であり、全員の首をきるといったのは「身内の感覚だ」と言い放った。つまり、彼は5時間30分の会見で彼の演出プランを語ったがそれは受け入れられなかったのである。そもそも5時間30分も時間を使ったのは「テレビ的な心象藪」を作るのに失敗したからだろう。岡本社長はたいして面白くもなくシナリオライターとしても三流だったことになる。

ここで重要なのは日本人が問題に興味を持たないという点だ。日本人は「本質」を気にしない。日本人にとって重要なのは心象であり、心象こそが「本質」なのである。芸能マスコミは一貫した心象を作り、それが出来上がった時点で「問題が落ち着いた」と見なす。心象藪さえ完成すれば問題は解決しなくても構わない。これは経営ではなく演劇の手法である。

この一連の騒ぎが大きくなったのは、演出プランが複数あり本物の藪ができてしまったからなのだろう。それぞれの人たちがそれぞれの心象でなんとなく現状を都合よく解釈しておりそれを擦り合せるつもりはないらしい。ただ、彼らが作ろうとした心象藪はテレビサークルの外にいるマスコミによって次々と崩されてゆく。藪が崩れると今度は新しい藪を作ろうとし、納得がゆく藪が作られるまで「ごまかしている」とリテイクを食らうのである。

視聴者は問題が解決しないことに怒っているのではない。話の筋が分からないことに怒っている。何だか無茶苦茶な話なのだが、誰も問題解決を望んでいない以上これが今回の正しいものの見方なのではないかと思う。

これは芥川龍之介の「藪の中」を読んだときのモヤモヤ感に似ている。藪には周りに木がたくさん生えていることはわかるが、いったいその藪のどこにいるのか、あるいは同じところにいるのかがさっぱりわからない。そして関係者が増えるたびにその「藪度」が増してゆく。小説は藪を完成させる手法だが、藪の中では統一されたビジョンは提示されない。それが藪の中のモヤモヤ感の正体なのではないだろうか。

経営者は「ビジョンを示して」社員をそこに導くべきだ。そのためには現在位置を把握しなければならない。つまり藪を切り開いて(あるいは高いところに立って)現在地をしめさなければならない。しかし、日本の会社にはそうした「鳥瞰型の視点」はない。日本社会は一生を藪の中で暮らす人たちが作り出す藪社会なのだろう。

芸人も「不安になった」とか「悲しくなった」とは言っている。また松本人志さんも「松本興業を作って面倒を見てやりたい」と言っている。ところが、現状の問題点を指摘しそれを変えてゆくにはどうするべきだというステートメントを提示する人は誰もいない。これは藪社会では極めて当たり前のことであり、したがってマスコミからも「吉本興業のビジョンを示す経営者が出るべきである」などという話は聞かれない。

このマネージメントがグダグダな会社が官民ファンドの100億円を扱うことになる。仮に何らかの不正が起こった場合(お金の管理が甘そうなので必ず何か起こるだろう)今度は官民ファンドを巻き込んだ藪論争が起こるだろう。

この心象藪社会というモデルから、日本の政治が抱えている問題がわかったと思った。例えば日本の憲法改正議論が全く折り合わない理由も藪社会で説明できる。日本人は藪をちょっと改良することはできるが藪から抜け出すことは決してできない。憲法第9条の場合は今までの経緯の積み重ねが藪を作っているのだから、全てをご破算にして今の状況にあった条文を作ればいいだけの話である。

護憲派の人たちは「戦争はいけないよね」という心象を語るばかりだし、改憲派の人たちは「今の憲法はみっともない」という心象を語っている。彼らは藪から一歩も出ないままそれぞれの心象を語っており、両者を合わせてみるとより暗い藪ができる。面白いことに誰も「藪を取り払って俯瞰的な見方をしてみよう」と呼びかけるものはいない。日本人は誰も藪から出られないのだし、誰かが藪を抜け出そうとするとその足を引っ張るのだろう。

今回の参議院選挙の結果を見ても、安倍首相は自身の藪の中から「選挙の結果憲法改正を前に進めろという民意が得られた」と語っていた。実際には改憲勢力は2/3を割り込んでいる。安倍首相の藪には国民民主党が維新のような改憲勢力になる未来がしっかりと見えているのだろう。彼の心象を頼りに政治を前に進めようとしている。

藪は外からの障壁になっていて我々に安心を与えてくれる。安倍首相は藪の中に引きこもることで「自分は人気中には憲法改正はさせてもらえないし、大衆を説得する力量もなかった」ことに気がつかずにすむ。しかし有権者はいつまでも解決しない諸課題を前にして途方にくれることになるだろう。政治家の藪が国民を苦しめるのだ。

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おたくが利権団体に勝った日

2019年参議院選挙が終わった。自民・公明・維新の改憲三勢力が2/3を割り込み国民民主党からの造反者が出ない限り改憲ができなくなってしまった。立憲民主党はこれで却って落ち着いて改憲議論ができるというようなことを言っている。強行採決ができないので審議して欠陥をボコボコにあげつらって自民党憲法草案の欠陥と無知を世間に晒せるようになったのである。民意は憲法と関係なく動いたのだとは思うが、いい仕事をしたと思う。






しかし、今回の選挙の争点とは別に静かな地殻変動が起きている。それは既存勢力の停滞と新興勢力の勃興である。特に大きかったのはおたく54万票である。

まず自民党から見てゆく。自民党は比例で1271万票を獲得したのだが、その他に個人票がある。郵便局が一番集票力があり柘植芳文さんという方が60万票以上を獲得した。その他に、山田俊男・本田顕子・羽生田俊などが得票しているが、彼らは農協・薬剤師・医師会などの既得権利益団体の代表者である。同じように、立憲民主党・国民民主党は労働組合の代表者が比例で高位当選していた。立憲民主党の政党としての得票数は669万票で国民民主党の得票数は217万票であった。

ところがこれとは別の投票行動もあった。顕著なのは自民党に鞍替えした山田太郎候補の約54万票である。表現の自由維持を訴えて29万票を集めたものの落選した経験のある議員である。これが郵便局の得票の60万票に並び自民党はおたくを無視できなくなった。つまり、若者も政治的な意識を集めれば動員できることがわかったのである。彼らは自民党が反おたく的な政策を取れば立憲民主党などに流れるだろう。

彼らが山田太郎に票を入れた理由は「オタクは潜在的に差別されており政治的に意見表明しないと潰される」という危機感だろう。モデルに「素敵な政治」や「理想の世界」を語らせたViViなどは何も役に立たなかったことになるし、立憲民主党流の「多様で優しい世の中」も多分あまり響いていないはずである。そんな理想や他人の権利など有権者は対して期待していない。日本人が持っている社会に対するイメージは「渡る世間は鬼ばかり」である。利権は抱え込まないといつか潰されるという危機意識は長い間有権者の投票行動を支配する。

しかし、こうした現実の危機意識ではなく「社会から無視されている」という非差別意識を持っている人はもっと多かったようだ。れいわ新選組の山本太郎は99万票を獲得した。Twitterでは支持者たちが「候補者の演説を聞いて涙が出た」などと感情的なコメントを連発していた。

れいわ新選組の得票そのものは120万票だったので「山本は数字を持っている」ことが証明され彼らは議員を2名参議院に送り込むことになった。政党要件を満たせば政党助成金が受け取れる。山本プロデューサは院外にいて自由にいて議員と金を自由に使えるようになるわけで、これを敗北と言っているマスメディアの見識を疑ってしまう。

自民党に対する不満は立憲民主党などの「既得権益野党」ではなく、左派ポピュリズムに流れた。それは立憲民主党や国民民主党が結局労働組合頼みであるというのと表裏一体になっている。この不満層の数はまだ少ないが200万票くらいにはなることがわかった。N国を入れても300万票程度である。確かに少ない数字だが、かつての政権党だった社民党の75万票よりもはるかに大きい。社会主義はポピュリズムに飲まれたと言ってよいのかもしれないし、元々の社会党の商品価値が左派ポピュリズム的なものだったのかもしれない。その意味では共産党はおとなしすぎたのである。

一方で、障害者の機会拡大、保育士の待遇改善、働くママの支援などを唄う政策を掲げた人たちはのきなみ5万票以下の得票数しか取れなかった。日本人が他人の権利が拡大することを我が事のように応援することは決してない。「渡る世間の鬼」として他人の権利は決して認めたくないからである。その意味で日本はもともと自己責任社会で、それを優しい集団が覆い隠していたに過ぎないとも言える。

小選挙区制度で有権者を動かすのは「自分たちの権利が脅かされるかもしれない」という危機感と、政治家に一泡吹かせてやりたいという他罰意識だけのようだ。政権が動くことのない今回の選挙の投票率は24年ぶりに50%を割り込んだそうだ。

今回の選挙をみると日本人が何に動かされているのかがわかる。村落的な人間関係があり相手や社会を意識した投票行動を行っている。主なドライバーは被害者意識と既得権の抱え込みである。日本人は他人のための協力しあってより良い社会を作ろうなどとは決して考えない。それは共助的な国ではあり得るのかもしれないが、日本ではフィクションに過ぎないのである。

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松本人志式解決でうやむやにされるのは何か

吉本興業と宮迫博之さん・田村亮さんの事件が新しい展開を迎えた。地上波ではなくネット放送で会見をしたのだ。この結果一気に「吉本興業がテレビと組んで情報を隠蔽しようとした」という構図が生まれた。会見の時点で「テレビはどう解決するんだろう」という興味があった。






だが、この件の推移を見ていて「本質的な問題」は解決しないんだろうなと思った。ここでいう「本質的な問題」とは芸人と事務所の雇用問題や近代的なマネジメントである。また吉本興業が反社会勢力とどのように決別してゆくかというコンプライアンスの問題も「本質」である。ハフポストはその「本質」が改革されることを期待した記事を書いている。だが、日本ではこうしたドライな本質はフィクションでしかない。

代わりに日本人が本質だと考えているのは情緒的な村落のつながりである。人々は口々に昔のように丸く収めてほしいと主張した。全ての関係が丸く収まれば昔どおりにテレビを楽しめるのにと考えてしまうのだ。ビジネスインサイダーは大阪のテレビマンが昔を懐かしむ様子をウエットな「本質」を伝えている。

テレビ局はこのウエットな「本質」を捉えてコンテンツの保護を計画し、潜在的なリスクを抱えることになった。

当初は「ネットで会見をした!これは画期的だ」と興奮した。だが、よく考えるとAbemaTVはテレビ朝日との関係があり、テレビ朝日はアメトーークを抱えている。さらに現在(2019/7)の吉本興業の株主構成は次のようになっている。テレビ朝日も株主として「利益共同体」に入っている。

株式会社フジ・メディア・ホールディングス / 日本テレビ放送網株式会社 / 株式会社TBSテレビ /株式会社テレビ朝日ホールディングス / 大成土地株式会社 / 京楽産業.株式会社 / BM 総研株式会社(注)/株式会社テレビ東京 / 株式会社電通 / 株式会社フェイス / 株式会社ドワンゴ / 朝日放送株式会社 / 株式会社三井住友銀行 / ヤフー株式会社 / 大成建設株式会社 / 岩井コスモホールディングス株式会社 / 株式会社MBSメディアホールディングス / テクタイト株式会社 / 松竹株式会社 / KDDI 株式会社 /
三井住友信託銀行株式会社 / 株式会社みずほ銀行 / 関西テレビ放送株式会社 / 讀賣テレビ放送株式会社 / 東宝株式会社 / 株式会社KADOKAWA / 株式会社タカラトミー / 株式会社博報堂 / テレビ大阪株式会社 / 株式会社博報堂DY メディアパートナーズ / クオンタムリープ株式会社

今回、テレビ局は「かわいそうな芸人」と「隠蔽会社」という構図は作ろうとしているようだが、かといって吉本興業が抱える社会問題には触れない。それを解決するのは「社内の人間関係だ」というのだ。

今回伝えられているのは、岡本社長にも宮迫博之さんにも「人望のある」松本人志さんの介入だ。彼が、岡本社長から芸人を預かり新しい事業会社なりディビジョンを作ることで、社内のマネージメントシステムや意識を改革することなく「改革した」という雰囲気を作ろうとしている。社内の組織改革で人間関係を一新するのは行き詰まりつつある会社ではよくあることだ。AERAは次のようにまとめている。

松本は、吉本興業の中に「松本興業」のようなものを作って、宮迫や田村らを引き取りたいと提案したことも明かした。会社側も「受け入れてくれた」としている。明石家さんまも同じような提案をしていたという。

松本人志の爆弾発言で吉本社長会見へ「全部わかると、何だったかとなりかねない」(関係者)

吉本興業は芸人を「従業員ではない」として雇用主として保護していない。契約も口頭によるもので明確ではないから裁判で業者側(つまり芸人)が権利保護を訴えることもできないる。派遣される職場であるテレビ局と事務所は資本関係がある。派遣のもっと悲惨な形式であるわけだ。さらにグッズの権利を曖昧なまま吉本興業が独占的に扱える共同確認書という「よくわからない書類」へのサインも求められているという指摘もある。この記事の中では「地位の優越を利用した独禁法違反なのでは」という指摘までされているがテレビ局はこうした事情について触れることはない。

先月末の段階で、筆者はこの一件が吉本興業の体質からなる構造的問題だと指摘した(「吉本芸人の『闇営業』を生んだ構造的問題」2019年6月26日)。ギャラが低く、マネジメントは機能せず、契約書もなく、実質的に移籍の自由もない──この問題は現在もまだ解決の糸口が見えない。

【独自】吉本興業「共同確認書」の中身とは──コンプライアンスの問題を抱えているのは誰だ?

それでも、文書で契約は作らず、問題の総括もせず、人間関係でなんとかすると言っている。

日本の組織はこうして内向きになり現実への対応能力を失ってゆく。そしてそうした対応能力を失った会社に多額の税金が吸い込まれる。その意味ではこれは政治問題でもある。この件が「松本人志さんの尽力」で丸く収まってしまうと問題解決はさらに難しくなるだろう。

安倍政権は大阪で芸能事務所を味方につければ選挙対策になると考えたのだろう。安倍首相を新喜劇に登場させたりした。若者対策の一環だという観測も出ている。一方、吉本興業側はクールジャパンの一環として政府が100億円を出資する「ラフ&ピース マザー」へ参画する。もともと暴力団と関係があった企業が「日の当たる場所」に出ている。

今回の吉本興業の件は相撲協会内で暴力事件が多発しそれを防ぎきれなかった相撲協会に似ている。国やテレビ局との関係が強まると社内のガバナンスがおろそかになる。つまり本来の収益源を大切にしなくなるのである。それは明らかな衰退の印なのだが組織はそれを改善しない。そして変化は外から訪れる。次第に新しくて面白い競合が出てきて彼らは徐々に忘れられてゆくのである。

宮迫・田村会見で明かされたのは、吉本興業が「闇営業した」企業のスポンサーがかつて吉本興業のイベントにも出資していたという「好ましくない」つながりである。松本劇場でうやむやにされかねないのは実はこの反社会勢力との関係であり税金投入先として吉本興業がふさわしいのかという問題なのである。

テレビ局はジャーナリズムではなく利益共同体としてこの問題をなかったことにしようとしている。そしてそれを可能にするのが「いろいろあったけど雨降って地固まったね」という日本式解決法なのだ。

だが、視聴者や納税者たちがそれでいいやと感じるならそれでもいいのかなと思う。衰退を直視せず、変化を望まず、お笑いで視線をそらし続けるというのもそれはそれで選択肢だからである。ただ、相撲がそうだったように吉本興業は度々コンプライアンス上の問題を引き起こすことになるだろう。

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民主主義が浸透しているはずの日本でデモが正当化される理由

先日来、日本で政策が選挙のコミュニケーションツールとして役に立っていないということを考えている。しばらく考えていて、日本でデモが起こるのは当然だよなと思った。しかし、しばらくの間はデモよりも手軽にできるTwitter抵抗運動がますます盛り上がるだろうと思う。そろそろ既存野党もあてにできないということが皆わかってきているからだ。






日本ではどういうわけか政策が重要視されない。いろいろ考えていて「代わりにお金がツールになっているんだよな」という当たり前のことに気がついた。言葉よりゲンナマ。いわゆる分配である。金権政治批判は「政治家ばかりが儲けていてずるい」という批判なのだから、金権政治をやめるつもりがないなら有権者を合法的に買収すれば良かったのである。

これは二階幹事長も公言している日本型民主主義の特徴である。日本は恩典的性質の憲法を持ち戦後はGHQによる押し付け憲法だったので国民は民主主義を「恩恵がある限りは支持しよう」と考えているのだろう。中国人が共産党支配を経済的繁栄と結びつけているのと実はそれほど変わりがない。

ところが、実は政府が分配できる予算はそれほど多くないようだ。2019年度予算案は次のようになっていたという。改めて見てみると、国家予算が「主に高齢者と地方への分配」で占められていることがよくわかる。今回医療費は非分配に入れたが、2013年の朝日新聞の記事では医療費分配すら若者に不利になっていて若者の1%棄権は13万5千円の損出になっているという調査結果もある。

  • 国債費(23兆円)
  • 分配
    • 地方交付税交付金(地方への分配 – 16兆円)
    • 公共事業費(地方への分配 – 7兆円)
    • 社会保障費(年金 – 34兆円の1/3)
  • 非分配
    • 社会保障費(医療その他 – 34兆円の2/3)
    • 文教科学費(5.5兆円)
    • 防衛費(5.25兆円)
    • その他(10兆円)

地方と高齢者は黙っていても国家から分配されることになるので「このままの状態が維持できる」のであれば「現状維持したほうが良い」ことになる。また公共事業を通じて仕事が獲得できるという通路があるのなら現状維持のほうが好ましいということになるだろう。

もともとこの話を書くにあたって予想したのは、各種の利権団体がありその利権団体に金が流れているのであろうという話だった。しかし、予算の内訳をみると利益団体を使った集票は難しくなっているようだ。たまたまポストセブンの記事を読んだのだが、この少ない予算を公共事業やカジノに付けてもらおうとして争っているということのようだ。

二階さんは少ない餌で危機感を煽り地方での影響力を維持しようとしているのだろう。ただではやらない。恫喝しつつコントロールするのだ。そう考えるとなかなか頭の良い発言をされていることになる。恣意的な分配を増やせば、国自体は貧しくなっても自民党は安泰である。有権者は少なくなった分配をもとめて自民党に忠誠を誓うだろう。

いずにれにせよ、日本で選挙に行って楽しいのは高齢者を中心にした既得権益層と政府関連事業につながっている地方の建設関係者だけということになる。最近では吉本興業がNTTと組んで100億円の支援を国から受けるのだという。国家予算全体からみると微々たるものだが、文教科学費さえも公共事業化が進んでいて、本来必要な学術研究には回らなくなっているのである。

若年層は吉本のブラック体質に目をつぶり選挙にも行かないことで積極的に自民党を支援することになる。政治的な意識が低ければ低いほど暮らしは大変でもこの国ではのほほんと楽しく暮らして行ける。それが彼らの望みであるならばまったく合理的ではなくてもそれを否定することはできない。

無党派層と呼ばれる人たちには分配はほとんどない。文教科学費や子育てなどの費用は5.5兆円である。これに消費税の増税分の1.7兆円をつぎ込んだとしても7兆円くらいにしかならない。だから一旦おかしいなと思い始めると孤独な戦いが始まる。

価値観や政策という問題を通して個人が政党を応援しようとした場合、ほとんどコミュニケーションのツールがない。日本の政治が予算分配と現状維持欲求によって成り立っているからである。したがって予算分配を受け止める装置をもたない個人は日本の普通選挙からは排除されることになる。働きかけもできなければ分配もしてもらえない。

普通選挙から排除されているのだから、彼らが民主主義的な選挙に意味を感じないのは当たり前である。それがデモやTwitterのれいわ新選組祭りなどに参加する動機になるのだろう。そしてただたんに「選挙に行かない」ことだけを非難される。こうした見捨てられた野党支持者たちは最終的にれいわ新選組のようなポピュリストに流れ着き共通して「涙が出た」という。これまで集団に所属したことがない人が始めて政治に組み込まれたという感慨があるのだろう。これは彼らの承認欲求が政治的にではなく宗教的に満たされたことを意味している。

いずれにせよ日本は民主主義国であるからデモなど無意味だし仕組みを理解していないという発言はあまり意味がない。日本は政策ベースの民主主義国ではないからである。ある人にとっては既得権維持の装置であり別の人たちにとっては自己の存在承認をかけた宗教的な戦いなのである。

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