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民主主義が浸透しているはずの日本でデモが正当化される理由

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先日来、日本で政策が選挙のコミュニケーションツールとして役に立っていないということを考えている。しばらく考えていて、日本でデモが起こるのは当然だよなと思った。しかし、しばらくの間はデモよりも手軽にできるTwitter抵抗運動がますます盛り上がるだろうと思う。そろそろ既存野党もあてにできないということが皆わかってきているからだ。

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日本ではどういうわけか政策が重要視されない。いろいろ考えていて「代わりにお金がツールになっているんだよな」という当たり前のことに気がついた。言葉よりゲンナマ。いわゆる分配である。金権政治批判は「政治家ばかりが儲けていてずるい」という批判なのだから、金権政治をやめるつもりがないなら有権者を合法的に買収すれば良かったのである。

これは二階幹事長も公言している日本型民主主義の特徴である。日本は恩典的性質の憲法を持ち戦後はGHQによる押し付け憲法だったので国民は民主主義を「恩恵がある限りは支持しよう」と考えているのだろう。中国人が共産党支配を経済的繁栄と結びつけているのと実はそれほど変わりがない。

ところが、実は政府が分配できる予算はそれほど多くないようだ。2019年度予算案は次のようになっていたという。改めて見てみると、国家予算が「主に高齢者と地方への分配」で占められていることがよくわかる。今回医療費は非分配に入れたが、2013年の朝日新聞の記事では医療費分配すら若者に不利になっていて若者の1%棄権は13万5千円の損出になっているという調査結果もある。

  • 国債費(23兆円)
  • 分配
    • 地方交付税交付金(地方への分配 – 16兆円)
    • 公共事業費(地方への分配 – 7兆円)
    • 社会保障費(年金 – 34兆円の1/3)
  • 非分配
    • 社会保障費(医療その他 – 34兆円の2/3)
    • 文教科学費(5.5兆円)
    • 防衛費(5.25兆円)
    • その他(10兆円)

地方と高齢者は黙っていても国家から分配されることになるので「このままの状態が維持できる」のであれば「現状維持したほうが良い」ことになる。また公共事業を通じて仕事が獲得できるという通路があるのなら現状維持のほうが好ましいということになるだろう。

もともとこの話を書くにあたって予想したのは、各種の利権団体がありその利権団体に金が流れているのであろうという話だった。しかし、予算の内訳をみると利益団体を使った集票は難しくなっているようだ。たまたまポストセブンの記事を読んだのだが、この少ない予算を公共事業やカジノに付けてもらおうとして争っているということのようだ。

二階さんは少ない餌で危機感を煽り地方での影響力を維持しようとしているのだろう。ただではやらない。恫喝しつつコントロールするのだ。そう考えるとなかなか頭の良い発言をされていることになる。恣意的な分配を増やせば、国自体は貧しくなっても自民党は安泰である。有権者は少なくなった分配をもとめて自民党に忠誠を誓うだろう。

いずにれにせよ、日本で選挙に行って楽しいのは高齢者を中心にした既得権益層と政府関連事業につながっている地方の建設関係者だけということになる。最近では吉本興業がNTTと組んで100億円の支援を国から受けるのだという。国家予算全体からみると微々たるものだが、文教科学費さえも公共事業化が進んでいて、本来必要な学術研究には回らなくなっているのである。

若年層は吉本のブラック体質に目をつぶり選挙にも行かないことで積極的に自民党を支援することになる。政治的な意識が低ければ低いほど暮らしは大変でもこの国ではのほほんと楽しく暮らして行ける。それが彼らの望みであるならばまったく合理的ではなくてもそれを否定することはできない。

無党派層と呼ばれる人たちには分配はほとんどない。文教科学費や子育てなどの費用は5.5兆円である。これに消費税の増税分の1.7兆円をつぎ込んだとしても7兆円くらいにしかならない。だから一旦おかしいなと思い始めると孤独な戦いが始まる。

価値観や政策という問題を通して個人が政党を応援しようとした場合、ほとんどコミュニケーションのツールがない。日本の政治が予算分配と現状維持欲求によって成り立っているからである。したがって予算分配を受け止める装置をもたない個人は日本の普通選挙からは排除されることになる。働きかけもできなければ分配もしてもらえない。

普通選挙から排除されているのだから、彼らが民主主義的な選挙に意味を感じないのは当たり前である。それがデモやTwitterのれいわ新選組祭りなどに参加する動機になるのだろう。そしてただたんに「選挙に行かない」ことだけを非難される。こうした見捨てられた野党支持者たちは最終的にれいわ新選組のようなポピュリストに流れ着き共通して「涙が出た」という。これまで集団に所属したことがない人が始めて政治に組み込まれたという感慨があるのだろう。これは彼らの承認欲求が政治的にではなく宗教的に満たされたことを意味している。

いずれにせよ日本は民主主義国であるからデモなど無意味だし仕組みを理解していないという発言はあまり意味がない。日本は政策ベースの民主主義国ではないからである。ある人にとっては既得権維持の装置であり別の人たちにとっては自己の存在承認をかけた宗教的な戦いなのである。

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Comments

“民主主義が浸透しているはずの日本でデモが正当化される理由” への1件のコメント

  1. […] ことを考える必要がなく、分配と数合わせに執着した。そして国民も政策にそれほど興味を持たず分配と現状維持を求めた。ここから脱却して政策型の政治家になれなかったのが小沢ら […]

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