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憲法9条改憲案 – 巻き込まれ不安と現状維持欲求

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選挙期間には政治論戦はお休みになってしまうという奇妙なマスコミ習慣がある。何も書くことがないなあと思いながらテレビを見ていたらテレビ朝日で憲法第9条についてやっていた。木村草太教授が「主眼は集団的自衛権の追認である」という論を出していた。

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これについて考えたのだが、集団的自衛権については大した考察は得られなかった。もともと日米安保は集団的自衛の枠組みであり、日本はそれに依存してしまっている。そこで憲法学者の人が「日本は個別自衛しかできない」と言っても「ああそうですか」としか思えない。ロジックとしては面白いが現実的な意味はおそらくない。

これについてつらつら考えていて、最終的には「日本人は政府も社会も信頼していないんだろうな」という跳躍した結論にたどり着いた。憲法第9条を改憲しても政府がしっかりやってくれれば良いし、裁判所が適切な歯止めを書けてくれればいい。しかし、多くの日本人はそんなことは信じていないのだと思う。

憲法第9条改憲について聞くと決めかねている人が多いという。(NHK/2018)なんとなく当たり前の結果なのだが、なぜ主権者が憲法を決めかねるのかを改めて考えてみるとよくわからない。

その直接的な理由は、憲法が文字通りに受け取られてこなかった歴史があるからだろう。最初から吉田政権は憲法を「アメリカが押し付けたルール」と考え、その精神をそれほど大切にしなかった。実に官僚的な面従腹背である。

最初の解釈改憲は解散に関するものだ。内閣がみだりに解散権を濫用しないように縛りがかかっていたのだが、吉田は形式的に内閣不信任案を可決してもらい解散に踏み切ったそうだ。これが1948年のことだった。

もともと憲法第9条はベトナム戦争に参加しないために自民党が持っていたお守りだった。これは岸政権でいったん対米協力路線に踏み切ったものを自民党内の反対勢力が制動したのだろう。それがいつしか護憲派の唯一の心の拠り所となったという歴史がある。国民の支持が得られなかった共産勢力にしてみれば安保反対運動で政権を打倒したというのが唯一の成功体験なのだ。

第9条の歯止めがなくなれば日本政府はどこまでも国民を不幸にするのではないかという漠然として不安があり、日本人はなかなか改正に踏み切れない。平和主義だけでなく「人権もいらない」という人たちが運営する政府が統計を隠したり事実と異なる説明をしているのは間違いがない。

護憲派も自分たちの市民運動がそれほど力を持っているわけではないということを知っている。司法もそれほどあてにならないので、唯一拠り所はアメリカが70年前にかけた歯止めだけという点にこの国の民主主義の危うさがある。

形式的にはアメリカと日本は主権国家同士なのだが、こと防衛になると日本はなぜか「アメリカに逆らえない」と思ってしまう。その意味では憲法第9条には利用価値があった。自分たちはアメリカに逆らっているわけではなく、アメリカの言うとおりにしているだけだからベトナムに行けないといえばよかったのだ。

憲法改正運動で目立つのは護憲派だが、実はそれほど数は多くない。「戦争はいけない」くらいのことを言える人は多いが、理論的に説明できる人はさらに少ない。多数の、決めかねている人たちは「軍隊が悪い」とは思っていないのだと思う。実際にQuoraで聞いてみたところ、ゴリゴリの護憲派は誰もいなかった。大多数は「変えなければならないほど困っていない」というばかりである。

ただ、憲法議論は一部の人に強烈な感情をもたらすようだ。最初に「わからない人が多い」と設問していたのだがこれに「捏造だ」と噛み付いてきた人がいた。実際には「わからない」ではなく「どちらともいえない」だというのである。ただ彼の言いたいことはそれだけだったようだ。憲法議論は不信感と自身のなさからいろいろな人のお守りになっている。つまりどちらかというと感情の問題になっているのだろうということがよくわかる。

変えたくない人と同時に変えたい人たちもいる。彼らは「自分たちは指導的立場に立つべきなのにそう扱われていない」という「失われた怒り」を持っている人たちである。中には憲法のような難しい問題は国民が参加すべきでないという意見を持つ人もいた。国民=衆愚であるという認識があるようだ。

彼らに共通するのは楽観的な見通しである。彼らは自分たちで戦争に行くつもりはないだろう。戦争に行くのは自衛隊であり基地の負担をするのは沖縄である。誰かの犠牲の上に自分たちの繁栄があるというのはずるいといえばずるいのだが、現実的な選択肢としてはまあ考えられなくもない。ただ、改憲動機の裏にあるのは「自分の意見を通したい」という欲求だろうが、その裏には「アメリカについていれば間違いがない」というさらに根拠のない見込みがある。

憲法第9条の議論は、憲法について議論しているわけてはない。憲法を通して相手に不信感をぶつけて叩いているのである。どちらもそれほど根拠がない見込みに基づいて相手を攻撃しているが、そんなことは構わない。

ここcd「改憲派の立場」で憲法議論を進めるにはどうしたらいいのかを考えてみた。すると最終的には「信頼の醸成」が大切なのではないかとういう結論になった。ただ数十年かけて積み重なってきた不信を一瞬で解くのはほぼ不可能に近いのだろう。

そこで、日本人はどれくらいシステムを信頼しているのかということが気になった。調べたのがタンス預金である。2017年の記事には30兆円のタンス預金があるらしいという記述がある。これは2008年の日銀の調査だそうだ。しかし2019年の記事ではこれが50兆円になっている。つまり10年ちょっとで20兆円増えたことになる。現金の供給量は50兆円ということなので半分は退蔵されていることになる。

これは日本人は政府を信頼しないというようなレベルの話ではない。日本人は金融機関も信頼していないし、将来頼りになるのは手元の現金だけだと考えているのだ。

こんな中で憲法議論をやるのはほぼ不可能だと思う。日本人はもともとシステムをそれほど信頼していなかった上にさらに信頼しなくなっているのだ。

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