2019年参議院選挙が終わった。自民・公明・維新の改憲三勢力が2/3を割り込み国民民主党からの造反者が出ない限り改憲ができなくなってしまった。立憲民主党はこれで却って落ち着いて改憲議論ができるというようなことを言っている。強行採決ができないので審議して欠陥をボコボコにあげつらって自民党憲法草案の欠陥と無知を世間に晒せるようになったのである。民意は憲法と関係なく動いたのだとは思うが、いい仕事をしたと思う。
しかし、今回の選挙の争点とは別に静かな地殻変動が起きている。それは既存勢力の停滞と新興勢力の勃興である。特に大きかったのはおたく54万票である。
まず自民党から見てゆく。自民党は比例で1271万票を獲得したのだが、その他に個人票がある。郵便局が一番集票力があり柘植芳文さんという方が60万票以上を獲得した。その他に、山田俊男・本田顕子・羽生田俊などが得票しているが、彼らは農協・薬剤師・医師会などの既得権利益団体の代表者である。同じように、立憲民主党・国民民主党は労働組合の代表者が比例で高位当選していた。立憲民主党の政党としての得票数は669万票で国民民主党の得票数は217万票であった。
ところがこれとは別の投票行動もあった。顕著なのは自民党に鞍替えした山田太郎候補の約54万票である。表現の自由維持を訴えて29万票を集めたものの落選した経験のある議員である。これが郵便局の得票の60万票に並び自民党はおたくを無視できなくなった。つまり、若者も政治的な意識を集めれば動員できることがわかったのである。彼らは自民党が反おたく的な政策を取れば立憲民主党などに流れるだろう。
彼らが山田太郎に票を入れた理由は「オタクは潜在的に差別されており政治的に意見表明しないと潰される」という危機感だろう。モデルに「素敵な政治」や「理想の世界」を語らせたViViなどは何も役に立たなかったことになるし、立憲民主党流の「多様で優しい世の中」も多分あまり響いていないはずである。そんな理想や他人の権利など有権者は対して期待していない。日本人が持っている社会に対するイメージは「渡る世間は鬼ばかり」である。利権は抱え込まないといつか潰されるという危機意識は長い間有権者の投票行動を支配する。
しかし、こうした現実の危機意識ではなく「社会から無視されている」という非差別意識を持っている人はもっと多かったようだ。れいわ新選組の山本太郎は99万票を獲得した。Twitterでは支持者たちが「候補者の演説を聞いて涙が出た」などと感情的なコメントを連発していた。
れいわ新選組の得票そのものは120万票だったので「山本は数字を持っている」ことが証明され彼らは議員を2名参議院に送り込むことになった。政党要件を満たせば政党助成金が受け取れる。山本プロデューサは院外にいて自由にいて議員と金を自由に使えるようになるわけで、これを敗北と言っているマスメディアの見識を疑ってしまう。
自民党に対する不満は立憲民主党などの「既得権益野党」ではなく、左派ポピュリズムに流れた。それは立憲民主党や国民民主党が結局労働組合頼みであるというのと表裏一体になっている。この不満層の数はまだ少ないが200万票くらいにはなることがわかった。N国を入れても300万票程度である。確かに少ない数字だが、かつての政権党だった社民党の75万票よりもはるかに大きい。社会主義はポピュリズムに飲まれたと言ってよいのかもしれないし、元々の社会党の商品価値が左派ポピュリズム的なものだったのかもしれない。その意味では共産党はおとなしすぎたのである。
一方で、障害者の機会拡大、保育士の待遇改善、働くママの支援などを唄う政策を掲げた人たちはのきなみ5万票以下の得票数しか取れなかった。日本人が他人の権利が拡大することを我が事のように応援することは決してない。「渡る世間の鬼」として他人の権利は決して認めたくないからである。その意味で日本はもともと自己責任社会で、それを優しい集団が覆い隠していたに過ぎないとも言える。
小選挙区制度で有権者を動かすのは「自分たちの権利が脅かされるかもしれない」という危機感と、政治家に一泡吹かせてやりたいという他罰意識だけのようだ。政権が動くことのない今回の選挙の投票率は24年ぶりに50%を割り込んだそうだ。
今回の選挙をみると日本人が何に動かされているのかがわかる。村落的な人間関係があり相手や社会を意識した投票行動を行っている。主なドライバーは被害者意識と既得権の抱え込みである。日本人は他人のための協力しあってより良い社会を作ろうなどとは決して考えない。それは共助的な国ではあり得るのかもしれないが、日本ではフィクションに過ぎないのである。